小田切氏館
小田切氏館([吉窪城 周辺城郭])
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小田切氏館の口コミ情報
2024年01月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
小田切館は吉窪城の東方約1.8km、犀川北岸(左岸)、標高約418mの河岸段丘台地緩斜面上平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「長野市立松ヶ丘小学校」を目標に設定して下さい。この小学校の敷地を含む西側の一帯が概ねの該地となる。車はそこら辺に捨てられるけど休日に訪ねるのがよいと思う。
該地の「小市」は古代からの交通の要衝、律令制下における東山道支道が犀川を渡る場所であり、同道の駅家、「亘理の駅」が設けられた地として有力視されている。小市の犀川対岸、四ッ屋の古道が「古舟渡大道」と記されるのはその証左になるんだろうか。更級郡から犀川を渡って小市へ抜けた道筋は、山際を通って窪寺、小柴見を経て「多湖の駅」へ抜け、吉から髻山の東麓を通って野尻湖西岸の「沼辺の駅」に至る。小柴見には「大道東」、「大道西」の字名が残る。
築かれた年代は不明、お住まいになられていた方は小田切氏です。同氏は滋野性海野氏の一族、鎌倉時代に佐久郡小田切から当地に入部したと推測されている。嘉歴四年(西暦1329年)三月、諏訪社上社の神事に勤仕する武士等の結番を定めた鎌倉幕府下知状案が文書上の初見、十二番五月會分の条には、「左頭、長池一方和田石見前司女子跡、付原宗三郎入道、小田切女子跡彦三郎左衛門尉知行分、」とあり、「小田切女子」の遺跡が小市から距離のある長池にあった事が判る。応永七年(西暦1400年)の「大塔合戦」の際には、「大文字一揆衆」を構成する十二氏の内の一氏となり、永享十二年(西暦1440年)の「結城合戦」における陣中警護の輪番を定めた「結城陣番帳」には、「十五番 小田切殿 窪寺殿」とある。
「諏訪御符禮之古書」には花會と御射山の頭役等に勤仕する小田切氏の名が度々見られ、窪寺郷には小田切安芸守清遠が、小市郷には小田切安芸守高遠、代官に徳永道頓、宮尾太郎兵衛遠重、宮尾太郎兵衛高重等の名が確認出来る。同書、寛正七年(西暦1466年)丙戌花會の条には、「一 御堂窪寺小田切安芸守高遠始而當勤仕候御符之禮合五貫六百文使曾次二郎御教書之禮同前御頭初之祈祷代二貫文此時は代官宮尾太郎兵衛遠重使曾次二郎頭役五十貫」とあり、窪寺氏の本貫地であった窪寺郷に小田切氏への領主の交代が見られる。寛正四年(西暦1463年)の時点では窪寺郷に窪寺氏が健在であった事から、この間において小田切氏の勢力の伸長があった事は疑いが無い。ちなみに同氏の諏訪社上社の神事への負担は他の頭役等と比べてみてもかなりの高額である。
室町時代後期には川中島一帯に勢力を伸長させた村上氏に従っていたらしく、「上田原の戦い」にも参陣したんだそう。村上氏の信濃退去後には共に長尾氏を頼り、弘治三年(西暦1557年)二月十五日、葛山城の落合備中守に合力して籠城した当主、小田切駿河守幸長は、室賀兵部太輔〔経俊)の被官、清兵衛が為に打ち取られた。同城落城の際に山中に隠れた駿河守幸長の子、民部少輔は後に武田氏に出仕、天正四年(西暦1576年)二月七日、武田勝頼から軍役を定められている。
居館の現況は…耕作地、耕作放棄地、空地、遊砂地、一般住宅とその敷地、小学校等となっている。何処までを館域とするかの判断が付かないが、一帯は大きく改変されており判ろう筈も無い。信濃のお城の神は山際の最上段を当主の居館地、下段を一族ないし被官衆の屋敷地と推測している。見晴らし良く武士の住まう場所としては周辺では最上だろう。一見すると遺構は何も残っていないように思えるが、西辺を形成する結構な堀形と土塁の残滓が確認出来る。東辺は小学校建設の際に消滅した権現沢の流れが推測されている。
小田切民部少輔は武田氏滅亡後に上杉氏へ出仕、ところが小田切氏は会津移封には従わず高井郡へ移り住み商家として存続、後には須坂藩堀家の御用商人となったんだそう。十二代小田切辰之助の代になると製糸業で財を成し須坂の発展に尽力(辰之助が創始した高井銀行は現在の長野県のメインバンク、八十二銀行に繋がる。)する。…やっぱし人は恥を偲んでも生きていてなんぼのもの、単純に武士の死に際に感動を覚える事もあるけど、家名を存続させて次代へ繋ぐ事にはそれ以上の価値がある。同氏が厳しい時代を歩んだ末に至った見事な選択なんじゃないでしょか。