内後館(小田切氏上屋敷・殿屋敷)

内後館(小田切氏上屋敷・殿屋敷)([吉窪城  周辺城郭])

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内後館(小田切氏上屋敷・殿屋敷)の口コミ情報

2024年11月06日 内記かずりヾ(・ε・。)


内後館(小田切氏上屋敷・殿屋敷)は吉窪城の南東約2.3km、犀川南岸(右岸)、標高約364mの平野部平場に立地した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている東方の「浄土宗 円光寺」を目標に設定して下さい。此処に車を捨てたら後はリア攻めマップを参照しててくてく歩いて行こう。ちなみに円光寺には居館の主とその妻の墓塔が建っている。

築かれた年代は天文年間(西暦1532年〜1555年)、お住まいになられていたのは小田切氏です。同氏については同じ吉窪城のリア攻めマップにある小田切氏館を参照して下さい。アプリの登録城、葛山城に籠城して討死した小田切駿河守幸長で知られている。

小田切氏は犀川北岸(左岸)の小市郷を本貫地としていたが、後には村上氏に従い、天文年中には犀川を渡って更級郡北部へその勢力を伸長させ、今里内後には上屋敷を、今井於下には下屋敷を構えた。その上屋敷がこの口コミの内後館である。律令制下における東山道支道が犀川を渡る道筋上に当たると推測されるが、渡し場の両岸に居館を占地出来た事は村上氏の信頼が厚かった事を意味するんだろうか。明応年間(西暦1492年〜1501年)の前後、村上氏が善光寺平において勢力を大きく伸長させた背景には、小田切氏の存在が大きな役割を果たしていたと個人的には考えている。

弘治二年(西暦1556年)十二月廿四日、西条治部少輔宛、武田晴信朱印状には、「就原、今里之儀、自香坂入道様々承旨候条、当分相違覚悟之外候、何時ニ候共、小田切方川北之本領、一両ヶ所致安堵者、任先判之旨、原、今里可相渡候、此趣雖染先書、若可有疑心之由令校量候間、重而書出所也、仍如件、」とあり、武田晴信は、西条治部少輔に、小田切氏の旧跡の内、原、今里の両所を改めて安堵している。

永禄七年(西暦1564年)十二月十九日、西条美作守宛、武田信玄宛行状案には、「為原、今里之替地、高梨領之内新保四百貫、小中田(小田中)三百貫、原、今里所務之分出置候、若有申掠旨者、重而可聞合者也、仍如件、」とあり、武田信玄は、西条美作守に、原、今里の替地として高梨氏の旧跡の内、高井郡の新保、小田中の両所を宛行っている。武田氏に出仕した小田切民部少輔に配慮した仕置だろうか。

居館の現況は耕作放棄地、空地、一般住宅地等となっている。昭和の初頭までは堀形が残っていたらしいが遺構は完全消滅している。居館地の央部に建つ一般住宅の敷地内には、主の一人、小田切駿河守幸長を祀る小田切神社が鎮座、舗装道路に面して説明板も立っており該地の特定だけは容易だ。

金蓮山来迎院円光寺の中興開山、正庭(しょうてい)は、小田切駿河守幸長の子、民部少輔の次男であり、実名は正賢と伝わる。民部少輔は、文禄元年(西暦1592)、朝鮮出兵の際、村上(山浦)国清に従って渡鮮し討死、正賢は駿河守幸長と民部少輔の菩提を弔うため仏門に入り出家した。後に正庭は円光寺の住職となり駿河守幸長夫妻の墓塔を建立、同寺には小田切氏守護と伝わる弁才天が奉納されている。

※アプリの登録城、吉窪城は小田切氏の要害だ。

※円光寺〜リア攻めマップにスポット登録して写真だけ置いておく。

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