青柳城(あおやぎじょう)

青柳城の基本情報

通称・別名

青柳館

所在地

長野県東筑摩郡筑北村青柳字東山

旧国名

信濃国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

青柳氏

築城年

戦国時代

主な改修者

武田信玄、小笠原貞慶

主な城主

青柳氏、松林氏(小笠原氏家臣)

廃城年

慶長元年(1596)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)、堀切、竪堀、石積

指定文化財

県史跡(青柳氏城館跡)

再建造物

模擬櫓門、模擬冠木門、石碑、説明板

周辺の城

麻績城(長野県東筑摩郡)[4.2km]
虚空蔵山城(長野県松本市)[7.4km]
荒砥城(長野県千曲市)[10.7km]
松田家館(長野県千曲市)[11.5km]
葛尾城(長野県埴科郡)[13.4km]
岡城(長野県上田市)[13.5km]
屋代城(長野県千曲市)[14.3km]
牧之島城(長野県長野市)[14.9km]
稲倉城(長野県松本市)[15.4km]
平瀬城(長野県松本市)[17.8km]

青柳城の解説文



青柳城(あおやぎじょう)は、長野県東筑摩郡筑北村坂北にあった日本の城(山城)。「青柳氏城館跡」として長野県指定史跡[1]

概要 

青柳城はこの地の豪族で、麻績氏の一族である青柳氏の城であった。

信濃守護の小笠原長時が武田晴信に敗れた後、小笠原氏に臣従していた青柳清長は武田氏に従った。

天文22年(1553年)の第一次川中島の戦いでは、晴信が一時青柳城を居城とした。また、この合戦では長尾景虎(上杉謙信)は更級郡から筑摩郡へ進出し、青柳城に放火した。

武田氏滅亡後、青柳頼長は上杉景勝に従い、信濃府中を回復した小笠原貞慶と青柳城・麻績城を争い、後に和議を結んだが、天正15年(1587年)には深志城(松本城)で誅殺される。その後は小笠原氏の家臣の松林氏が在番したが、慶長年間には廃城になった。

現在は青柳城址公園として整備され、模擬城門などが復元されている。曲輪、堀切など遺構もよく残っており、一の曲輪には小笠原貞慶時代の布目積みの石垣を見ることができる。

頼長の息子・青柳清庵はのちに真田家臣となる。慶長5年(1600年)の真田昌幸の九度山行きに随行した16名のうち、真田信繁(幸村)と大坂入城した数少ないひとりである。昌幸死後、他の家臣が上田に戻っていったのに対して、高梨内記と青柳清庵の2人は信繁と共に九度山にとどまり大坂の陣に出陣。 最後は大坂夏の陣にて信繁と共に討死したとみられている。

館跡 

現在の清長寺付近が館跡である。清長寺は、天正元年(1573年)、青柳城主・青柳頼長が父・清長の菩提を弔うために創建した。小笠原氏が青柳氏を滅亡させた後、居館跡の現在地に寺を移して整備した。

切通し 

天正8年(1580年)青柳頼長が切り開き、麻績宿から青柳宿への通行を容易にした。江戸時代には享保元年(1716年)、明和6年(1769年)、文化6年(1809年)の3回にわたって切り下げた記録が切通しの岩に刻まれている。周辺には百体観音が安置された。『善光寺道名所図会』には「是によりて旅人ともに牛馬の往来いささかも煩はしき事なく野を越え山を越して麻績宿に到る」とある。

最も大きい切通しで高さ6メートル、幅3メートル、長さ27メートルで史跡に指定されている。

参考文献 

  • 南原公平 著『信州の城と古戦場』 しなのき書房 2009年

青柳城の口コミ情報

2026年03月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
高松薬師城(横谷城)[青柳城  周辺城郭]



高松薬師城(横谷城)は青柳城の西南西約7.9km、犀川東岸(右岸)、潮沢川北岸(右岸)、安曇野市と東筑摩郡筑北村に跨る小山脈中の一山、標高906mの通称、岩州山山頂から南西へ伸びる尾根稜線上、標高約871mの小ピークを中心に立地する砦です。南麓の国道403号からの比高は290m位でしょか。

行き方は…Googleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…なんだけど、そのままじゃ行けないんで登山系アプリ等で「岩州公園」の登山記録等を参照して下さいな。安曇野市の同公園は皆が想像するような一般的な公園ではないんだけど、公園を縦断する山道はお手軽なトレッキングコースとして知られており、このコースから分岐する登城路が付いている。分岐には「横谷城入口」て書かれた案内板が寝ているので迷う事は無いだろう。

補足しておくんだけど、車が「岩州公園→、六地蔵→」て書かれた緑の案内板の立つ場所まで入る。此処に車を捨てて残りの道程を徒歩で登れば楽が出来るだろう。普通車でも頑張れるしこの場所での転回も十分に可能だ。

2回目の訪問だ。前回の訪問は小山脈を縦走一周して6物件を片付ける急ぎ足のリア攻めとなってしまい見落とした部分もかなり多かった。今回の訪問は3物件に限定して探索に後悔無きよう心掛けた。

築城年代は不明、築城者は丸山氏です。同氏は仁科氏の分流だが、語る場所が腐る程あるので詳細については別の機会に譲りたい。ちなみに当該小山脈は、青柳氏と丸山氏との境目に当たり丸山氏の持分、戦国時代の両氏は同族だが、支配領域には当然ながら譲れないものがあったのであろう、高松薬師城は一般的に言われているような武田氏への備え等ではなく、両勢力間を明確に区分するための砦であったと考える。又、「安筑古城開基」には、「天文年間(西暦1532年〜1555年)丸山丹波の伯父、丸山筑前政友ここにいる」とあるが、事実ならば同名が城番衆等を置いて管轄していたに過ぎないと思う。ちなみに応仁の頃(西暦1467年〜1469年)、横谷和泉守なる者が築城したとの伝承もある。

車を捨ててからの登城は楽だ。距離にしたら0.9km位だろうか。最終局面を除けば殆ど横移動に終始するので体力の消耗も殆ど無いと思う。途中にはGoogleマップに位置登録されている「山の神 神楽殿」なる物件もあるのでこの小社にお参りしてから登ろう。ちなみに神楽殿の方は相当に立派な建築物であり、この険しい山中にある事が全く意味不明な代物だ。

堀切跡とも見て取れる窪地形に架かる木橋を渡り、痺れるような細土橋様地形を進んで城地を目指す。何処から城域が始まるのかは判断に迷うところだが、個人的には前述した窪地形の背後、痩せ尾根から急に斜面が立ち上がる部分がそうだと考える。

風化によって郭の形状が不明瞭であり、ファジーな部分も見受けられるが、縄張自体は完結しており纏まりはよい方かと思われる。城郭遺構としては埋まり気味の堀切と明瞭な土塁、他に主郭部の北側下段に「馬やくぼ」と呼ばれる馬隠しの窪地がある。三方を断崖とした占地は人工の跡を殆ど必要としないものではあるが、出来る限りの普請が行われたと思われて好感が持てる。

周辺地域は国道の開通によって様変わりしたが、モータリゼーションが発達する以前は、東西南北、様々な山中の生活道が村落間を縦横無尽に結んでおり、中世〜戦国時代にかけては数多くの城館が要所を選んで築かれていた。これ等が道押さえの番所としての役目を果たしていたのは勿論だが、勢力間の境目を示すと同時に狼煙台や物見台としての備えを有していた事は想像に難くない。

岩州公園や潮沢谷の周辺一帯は廃集落の宝庫であり、その道の変態達にはよく知られている。かつては村とも呼べない戸数3件程度の小集落が至る所に点在し、その主な発生をそれぞれの付近城砦に勤仕した番士等の根小屋に求める事も出来る。つまりはその子孫等がそのままその土地に根差した訳だ。各集落は昭和の三十年代を最後に退転を終えたようだが、今でも管理が続けられている所は多い。先祖が大切にしてきた土地に拘るその想いには頭が下がるばかりだ。

2026年03月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
猿が城砦[青柳城  周辺城郭]



さるるるるー⊂((о∂⊥∂о))⊃

さて、今回は城名に「猿」が付く物件の口コミっす。兎に角、「鬼」とか「猿」はヤバいのら。名称だけでも察しが付くだろう。そんな感じの険しい場所に立地している事が殆どなのら。人里から隔絶した山中の一点、その占地を理解する必要なんて全く無い。選んだ当人にしか解らない拠の無い事情てやつだ。そう、考えるよりも感じよう。城跡に辿り着いてから文句を言うなよな、基本的にリア攻めに成果を求める必要が全く無い。この手の物件は訪ねる事自体に意義があるのら。

猿が城砦は青柳城の西南西約7.3km、犀川東岸(右岸)、潮沢川北岸(右岸)、安曇野市と東筑摩郡筑北村に跨る小山脈中の一山、標高906mの通称、岩州山山頂から南西へ伸びる尾根稜線上、標高約848m地点の岩場に立地する砦です。奥山中の奥山なので基準点を選ぶのに難しいが、南麓の国道403号からの比高は245m位でしょか。

行き方は…説明すんのが面倒なんで登山系アプリ等で「岩州公園」の登山記録等を参照して下さいな。安曇野市の同公園は皆が想像するような一般的な公園ではないんだけど、公園を縦断する山道はお手軽なトレッキングコースとして知られており、砦はこのコース上に位置している。ちなみに同コースの案内板には「猿ヶ城跡」として記載があり、公園の「みどころ」の一つにも選ばれている。

補足しておくんだけど、車が「岩州公園→、六地蔵→」て書かれた緑の案内板の立つ場所まで入る。此処に車を捨てて残りの道程を徒歩で登れば楽が出来るだろう。普通車でも頑張れるしこの場所での転回も十分に可能だ。

2回目の訪問だ。今回はかなり楽をさしてもらったんだけどそりでもだるいよ。高度は十分に稼いでいるとはいえ、徒歩で進む距離は2.2km位だろうか。道は基本的に細尾根の岩場に設けられ、崩落箇所なんかもあったりするんだけど難しくはないと思う。ちなみにコースの途中には同じ青柳城のリア攻めマップにある高松薬師城が立地、こちらの方は案内板に記載が無いんだけどそれなりに普請された割とまともな物件だ。

築城年代は不明、築城者は丸山氏です。同氏は仁科氏の分流だが、語る場所が腐る程あるので詳細については別の機会に譲りたい。

登城はだるいんだけど、岩州公園はその名称のとおり山中の岩場に設定さりた公園だ。コース上には、「蛇岩」、「白州岩」、「投越岩」、「烏帽子岩(猿が城砦)」、「三か月岩」、「不動岩」等の奇岩を見る事が出来て説明板も豊富、景色も含めて割と飽きない山道だと思うさ。

砦は…もう何て言ったらよいんだろう。たぶん殆ど普請されていないと思う。三方を登頂不能の絶壁とした険し過ぎる岩場の上の逃げ込み城であろうか。さもなければ単なる狼煙台や物見台の類いだ。不定形、不安定、狭小な平坦地が唯一箇所、他に城跡を想起させるものは何も無い。信濃のお城の神は縄張をかなり大きく捉えており、岩場の北側下段には土塁付きの2つの郭を想定していたりもするが、個人的には単なる地すべりの痕だと思っている。最も城郭遺構らしく見えるものは岩場の南側下段に見られる切通し…贔屓目に考えて虎口と言えなくもないが、やはり地形ありきのこじ付けに過ぎないんだろう。ちなみに城域内からは京ヶ倉、同じ青柳城のリア攻めマップにある丸山(日岐)氏の要害、日岐大城がよく見える。

信じられないかもしれないが、砦まで登って来た道は善光寺道の一つである。南麓の潮沢川沿いの善光寺街道に合流する間道が蛇抜け等により不通となる事が度々であり、その際に行人等はこの小山脈を縦断して本街道へと合流した。道筋は、潮沢谷から山中に入り、猿が城砦の脇を抜けて北行し、標高1007.5mの修験道の行場、岩殿山の東側に位置する萱野峠を越え、更に山中を進んで寺沢に沿って山を下り、岩殿寺へ抜けて麻績川に沿って東行、竹場(越道)を経た後に善光寺街道の宿場、麻績宿へと辿り着く。航空写真等で見るのが手っ取り早いが、想像を絶するような険しい山道が善光寺街道の裏道の一つとして利用されていた訳だ。ちなみに今年の夏場にこの古道を歩くつもりなんだけど、一人じゃ怖いし寂しいんで同行者を募ってやす…

※萱野峠〜幕末期に薩摩藩や長州藩との交渉等に活躍したイギリス人通訳にして後の駐日大使、アーネスト・サトウが越えた事でも知られる。親日家で趣味が登山だったらしい。

※前回訪問時の写真も供養しとこう…ちなみに西側に落ちたら死にやす。

※写真④、中央の影が落ちてる山稜が日岐大城っす。

2025年12月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
川ばさま砦[青柳城  周辺城郭]



川ばさま砦は青柳城の西南西約9.5km、犀川東岸(右岸)、標高816mの山稜山頂に立地する砦です。西麓の犀川からの比高は315m位でしょか。月並みな言い方になるが、該地は周囲を全く見渡す事が出来ない文字通りの山中だ。

行き方は…リア攻めマップを参照して該地を特定しよう。付近どころか周辺にも目標がありまてん…同じ青柳城のリア攻めマップにある高峯物見から尾根筋を東行すれば辿り着くが、該地はお山の中の一点に等しいので通り過ぎてしまわないように…ちなみにネットを検索してみたが紹介例を探し出す事が出来なかった。

築城年代、築城者は不明だが、たぶん築城されていない。該地の南東麓の明賀集落は、殿様(仁科)が沖氏の先祖に与えた所であると云い、同氏は「明賀侍」として見張りの役目に携わっていたとの伝承がある。沖氏は在地土豪て呼ぶのも憚かれる地侍クラスの武士だと推測するが、砦の方もそれと呼ぶのが憚かれる単なる山尾根上の極小ピーク(小突起…とも言う…)に過ぎない。

正徳四年(西暦1714年)の「萬覚書帳」には、古城「川はさま」とあり、周辺の小名には、「明賀」、「川はざま」、「狐穴」、「高峯」、「遠見」、「又ェ門」等があるそうだが、該地がどれに該当するのかが判らない。「はさま」は「狭間」であろう。又、「長野県の中世城館跡 : 分布調査報告書」には、規模として30m×30mとあるそうだが、これはどうやら高峯物見の事を言っているようだと信濃のお城の神は仰られている。

敢えて砦と言わずに該地とさせてもらうが、前述したとおりの山尾根上の極小ピーク、城郭遺構は見出せないし、はっきり言って不寝見の場所だと考えてみても無理があり過ぎる。人の常駐がとてもじゃないが不可能だ。該当尾根筋はこの場所で天神沢沿いの横道へと通じる北尾根と、潮沢(地名である。)へと通じる南東尾根に分岐する事から、間道の結節点を選んで設けられた番所の類いではないだろうか。狼煙や物見の場等としては不適当だし、それ以外にこの場所に占地する理由が特に見当たらない。

非常に悩ましい物件だが、極小ピーク上にはかつて御嶽社が鎮座していたようで、その基壇の石と、明治二十六年(西暦1893年)三月建立の何らかの石碑、同年五月建立の「百川大神碑」が今も建っている。古老の話によれば、御嶽講の人達が勧進して遥拝所として祀っていたようだが、周辺の集落には御嶽講が組織されていたのであろうか。ちなみに百川大神は主に修験道の霊山の行場に祀られる神様なんだそう。

※失神するよな物件かもしれないんだけど、この手の物件だからこそ考察を加えて記録する必要があるんじゃないかなて思ってる。さもなければ誰も気付かない場所として人々の記憶から失われてしまうだろう。おいらの口コミやインスタをAIはしっかりと見ている(早いよ〜)。

※撮った写真は11枚だが4枚でも多過ぎるwまぁ、二度と行かねぃ物件だからよしとしよう。

2025年12月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
高峯物見[青柳城  周辺城郭]



さて、鎌倉へ通じる道は全て鎌倉道だけど、善光寺へ通じる全ての道は善光寺道だ。それぞれの地域、地方から善光寺を最短距離で目指す道が幾筋もあった訳だけど、主要街道とは違い、宿場も置かれず人家すら疎らな山道も多く、旅人は野宿を覚悟で先を急いだ事に間違いは無い。

松本から通じる善光寺道は、虚空蔵山麓の会田宿から北行して山越えする、北国脇往還がメインルートとなっていたんだけど、これとは別に、犀川右岸地域から横道を選んで岩殿山を中心とする小山脈に入り、南北に伸びる山道を進んで善光寺を詣でるルートもかつては需要が高かった。但し、現代人からしてみれば想像を絶するような道筋であり、岩場や急峻な痩せ尾根等のアップダウンを繰り返す命懸けのルートでもある。おいらは2年前…い、いや3年前だったかな、岩州公園(皆が想像する公園では全くない。)から北行するこの善光寺道をほんの少しだけ歩いた事があるんだけど、岩場に+してトラバースしなければならない崩落箇所もあり、善光寺さまを詣でる道としては厳し過ぎるな…等と感じたものだ。

今回、紹介する物件は、そんな犀川右岸地域の小立野から山塊山中の善光寺道へと通じる横道上に設けられた物見台、今じゃ誰も通らない尾根道だけど、90年程前には本城村に草競馬を観に行く人達で結構な賑わいを見せていたんだそう。

高峯物見は青柳城の西南西約10.1km、犀川東岸(右岸)、標高816mの山稜山頂から西方へ伸びる尾根上段上、標高約750m地点の平場を中心に立地する物見台です。西麓の犀川からの比高は250m位でしょか。

行き方は…リア攻めマップを参照して該地を特定しよう。付近どころか周辺にも目標がありまてん…一応、取り付きとなる北麓の清水集落(廃集落)まで舗装林道が伸びており、此処からだと徒歩で登る比高は45m位だ。車は集落内に自由に捨てられる。ちなみに西麓から畑地を抜けて登ると矢竹の密集を突破する必要があるので止めておこう。

築城年代、築城者は不明だが、たぶん築城されていない。該地の南麓の明賀集落は、殿様(仁科)が沖氏の先祖に与えた所であると云い、同氏は「明賀侍」として物見の役目に携わっていたとの伝承がある。沖氏は在地土豪て呼ぶのも憚かれる地侍クラスの武士だと推測するが、物見台自体は見通しの良い場所を選んで活用された単なる山尾根の部分であったろう。

物見台の現況は…南側から見ると結構、険しい山尾根上に占地されており、斜面崩落の痕も見受けられる。城郭遺構を見出せない地山の小ピークだが、西側へ一段下がった所には明らかに削平された屋敷跡のような場所があり、枡形虎口様地形と石組みの堀り抜き井戸跡が確認出来る。が、この削平地、信濃のお城の神の聞き込みによると、びっくりする事に近代の酒屋の跡だそうで、番士等の屋敷跡だった可能性は残すものの、井戸はともかく、枡形虎口様地形は単なる酒屋の入り口、店先だったと考えた方がよいのかもしれない。

高峯物見から尾根筋を東行すれば、同じ青柳城のリア攻めマップにある川ばさま砦に辿り着き、更に東行した後、北行すれば、丸木集落の丸木七社の脇を通って、山の神、神楽殿へと至る事が出来る。丸木集落は戸数3〜4戸の小さな集落であったが、明治十八年(西暦1885年)に大規模な地滑りが発生した後も存続し、無住となったのは高度成長期を迎えた昭和の半ば以降の話である。山中の集落間を結ぶこうした間道は当然ながら生活道でもあった訳だが、娯楽がある時等は、周辺地域の多くの村民等も利用しそれなりの賑わいを見せていた事は前述したとおり。

※写真③、④がかつての酒屋の跡…びっくりするわ…

※写真⑦は善光寺道へと通じる横道を撮影した物っす。集落間を結ぶ間道でもあり、かつての生活道でもあった。

※写真⑧は酒屋跡から撮影した京ヶ倉っす。即ち、青柳城のリア攻めマップにある日岐大城だ。ちなみに高峯物見からの展望が良いとはお世辞にも言えない。おいらは物見台てよりは番所だったて考えている。

2025年12月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
小池城(大池城)[青柳城  周辺城郭]



さて、各自治体における、文化遺産や歴史遺産に対する情熱みたいなもんはそれぞれで温度差があるて思ってるんだけど、この点に関して、おいらが個人的に日本で最も熱い市町村だて考えているのが東筑摩郡生坂村だ。村の教育委員会さんの姿勢が兎に角、凄まじくて、どんな場所だろうが、どんな小さな物件だろうがお構い無しに説明板を立てまくる…そこに辿り着くまでの道が無いとか関係無し。訪問出来る環境を整えるよりも、あくまでも説明板の方が先なのだ。道無き道を進んでようやく拝めた山城に平然と立つ一枚の説明板…どんな猛者でも複雑な気持ちに襲われるだろう…

小池城(大池城)は青柳城の西南西約9.2km、犀川東岸(右岸)、標高782.0mの山稜山頂から南東へ伸びる尾根上段上、標高約782mの小ピークを中心に立地する要害です。西麓の犀川からの比高は285m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…なんだけど、そのままじゃ行けないんでリア攻めマップを参照して城地を目指そう。決して手を抜く訳じゃなくてそれ以外に説明する手立てが無い。南方を流れ下る天神沢沿いの林道を車で登り、この林道から城地の南東麓、「古屋敷」地籍へと通じる小沢沿いの山道(かつての生活道でもある。)を登るんだけど、距離を稼ぐまではこの山道が殆ど崩落している。道形は既に為しておらず、歩みを進めれば簡単に斜面が崩れていく。ちなみに国土地理院地図には城地の周辺に幾つかの家屋が点在しているように描かれているんだけど、現在は全て無住、座屈しているか廃墟となっている。前述した「古屋敷」地籍には、かつての城番衆の末裔(大田さん)が居住していたようだけど、高度成長期ともなれば流石に生活を諦めたのだろう、ごく初期型の冷蔵庫を家電製品の最後として退転している。

どうしても訪ねたい方は自分で何とかする筈だ。裏を返せば自己責任でそうしてもらわないと困るのだ。故に詳細は省くが、老婆心ながら登城中は周囲を見通せず、方向感覚を失うと思うので登山系アプリを準備しておくように。そして現地で進む目標を定めたなら、崖地であっても無理矢理にでもよじ登ってしまおう。はっきり言って楽な行き方は無いし、結局は何処かしこの崖地を登らない事には尾根上に上がる事が難しいように思う。

築城年代は不明、築城者には丸山氏が推測されている。「東筑摩郡誌」には、「丸山氏の持城にして、天文年間(西暦1532年〜1555年)、櫛木紀伊守政盛之を守れり。」とあるが、櫛木紀伊守政盛は、寛正年間(西暦1460年〜1466年)を中心に活動が見られる人物であり、明らかに時代が合わない。櫛木氏は小笠原氏の有力な被官衆の一氏であり、小笠原貞慶時代にも活動が見られる氏族であった事から、天文年間は天正年間(西暦1573年〜1592年)の誤り、紀伊守政盛は何らかの誤伝ではないだろうか。

縄張は殆ど小郭の7郭で構成されるコンパクトなものだが、細か過ぎるので4郭程度に集約してもよいように思う。城郭遺構としては、郭間を断ち切る2条の堀切、主郭と縄張図における通称7郭(屋敷跡)には明瞭な土塁が確認出来る。堀切の内1条は埋まり気味だが、通称4郭南側谷側前面の1条の切れ具合には感動すら覚えるだろう。又、お山の急峻な地形そのものも見所であり、主郭北側谷側背後の岩盤層の露出するナイフエッジ痩せ尾根…やその先に見られる岩盤土橋…等に萌える方も多いと思う。ちなみにこのお城の素晴らしい所は、要害としての形状が俯瞰的に確認出来る事、縄張図を追わなくても全体像が容易に把握出来る。各パーツばかりが主張しがちな山城が多い中で希少な存在だと思う

信濃のお城の神は著書の中で、山城探訪とは僻村探訪だとも言っているが、周辺地域には多くの廃集落が点在している事でその手のマニアには知られている。小池城の東方、約0.3kmの位置にかつて存在した白牧集落もその一つであり、やはり同城の城番衆の末裔であった平野さんが昭和の半ば頃まで居住を続けていた。城番の役目はとっくの昔に終わったが、その子孫等は時代の移り変わりを見ながらも約四百年間に亘って城の側にあった事になる。

※登城はアドベンチャーてよりは危険な部類に入る。登山系アプリの設定が無ければ辿り着くのは無理だと思う。

※丸山氏〜仁科氏の分流であり、城主には丸山筑前守政友の名が伝えられている。同名は天文十八年(西暦1549年)、小俣(現在の松本市笹賀地区である。)の筑前屋敷付近に張陣して武田勢と戦い、小幡孫次郎が為に討取られたとされるが、少なくとも年次については誤りがありそうだ。ちなみにその子等は後に日岐氏を称している。

2025年09月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
鬼熊氏館(枇杷平)[青柳城  周辺城郭]



鬼熊氏館(枇杷平)は青柳城の南西約4.3km、小仁熊川西岸(左岸)、標高約651mの山間部丘陵地緩斜面上平場に立地した居館です。

行き方は…こんなんマップコード以外でよう説明出来んわ…付近に目標となるものがありまてん…リア攻めマップを参照して該地を特定しよう。車はそこら辺に捨てられる。

該地の仁熊は中世には筑摩郡青柳郷を構成していた一村であり、江戸時代には西條村(JR篠ノ井線の駅名にその名を残す。)に属する地域である。古くは青柳郷の西条であったのかもしれない。中世〜戦国時代には麻績氏の一族と推測される青柳氏の差配が及ぶ地域であった。

近代に至るまで、松本と青柳とを結んでいたのは善光寺道である。即ち、松本から会田へ進み、アプリの登録城、虚空蔵山城の南西裾野を通って山中に入り、立峠を越えて乱橋へ抜けた後に中ノ峠を越えて仁熊へと至る。近世の善光寺街道では、会田、青柳には宿場が、乱橋には間の宿が設けられ、立峠には茶屋が存在していた事が知られている。同峠は山越えの難所の一つであり、現在も物見遊山の気分で訪ねる事が憚かれる。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは鬼熊氏です。同氏は青柳氏の被官が推測されるが出自等が不明だ。

「長野県町村誌」、本條村の項にある、「西條山古城跡」には、「…應仁年間(西暦1467年〜1469年)鬼熊左衛門の城く所にして元文(天正の誤り。)年間(西暦1573年〜1592年)青柳氏を援けて、小笠原氏の襲兵を立峠に禦ぎ、戦敗れて兵を退けんとす。帰路敵の遮る所となり、山中に近侍と供に自盡して死す、依之妻妾等、城を火して遁ると云こと口碑に傳ふ。」とあり、應仁年間に鬼熊左衛門があった事、鬼熊氏が天正年間に立峠において小笠原氏を防ぐも敗れ、その帰路を塞がれて近侍と共に自害、滅亡した事等が伝わっている。

居館の現況は…畑地、一般住宅とその敷地等となっている。居館敷地範囲は舗装道路等で分断され明確ではないが、該地に残る「枇杷平」の小名を中心にして探索すればよいだろう。例によって城郭遺構は完全消滅しているが、北辺の部分は自然地形と思しき深い窪地形となっており要害性も兼ね備えている。

居館地の西側、墓地の前には「伝琵琶姫墓」と書かれた標柱が立っている。こり、何のアナウンスも無いし、調べてみても何もヒットしないんだけど、町村誌の言う、「…依之妻妾等、城を火して遁る…」の妻妾等に当たる鬼熊氏の姫の墓なんだろうか。が、どれがその墓なのかも判らないし、その由緒さえ不明、もやもやしか湧いて来ない。せめて説明書きぐらいは併記して欲しかったなぁ…

※同じ青柳城のリア攻めマップにある仁熊城は鬼熊氏の持分と伝わるけど、登山系アプリの活用が必須となる登城困難城の一つだ。二度と行かねぃお城なんで口コミは写真が探し出せたら。

※立峠〜虚空蔵山城のリア攻めマップにスポット登録されており写真を置いてある。

※「伝琵琶姫墓」〜口コミはしないのでスポット登録し写真だけ置いておく。

※写真⑦の畑地が文中にある「枇杷平」っす。

※写真⑧は要るのか知らんけど東方から撮影した遠景っす。背景の山稜が同じ青柳城のリア攻めマップにある西条城だけど何処のピークになるのか判らん。

2025年05月14日 織田上総介晃司
青柳城

青柳城址公園を目指して進み、防獣ゲートを越えてすぐ右折すると駐車場があります。15分もあれば主郭にたどり着けます。

見事な石垣や堀切があり、松本市からもほど遠くないので、松本城に行った際は少し足を伸ばしてみては…

2022年05月22日 ᴿᴱᴰ副将軍
青柳城



みんな大好き青柳城の石積み❤️こんなに素晴らしい遺構でも信濃の山城では自身のトップ5には入ってません。7番目くらいかな🥳

オススメ度 ★★★★★

地域の有力豪族であった麻績氏の一族、青柳氏の居城。信濃守護の小笠原長時に従っていましたが、小笠原氏が武田晴信に敗れると、武田氏に従います。武田氏滅亡後、青柳頼長は上杉景勝に従い、徳川家康の援助により復帰した小笠原貞慶と争った末に謀殺されました。その後、小笠原氏の家臣の松林氏が在城しましたが、慶長年間に廃城となりました。

見所
主郭北側の布積みの石塁。小笠原氏城郭の特徴。高さ2m、幅8mと山家城と並び見応え充分。復元された楼門を越えると長大な二重堀切が阻む。早朝の撮影は雲海に包まれ幻想的でした。

2022年01月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
竹場城(鍋山城)[青柳城  周辺城郭]



竹場城(鍋山城)は青柳城の西方約2.9km、麻績川南岸(左岸)、東条川西岸(左岸)、別所川東岸(右岸)、標高734mの鍋山山頂に主郭が存します。北麓の長野県道55号線、大町麻績インター千曲線からの比高は160m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。登城路は3ルートあるのですが、北麓の竹場秋葉社からのルートが最も楽だし早いでしょう。此処に至る令和元年の台風19号で流出した麻績川に掛かる小さな橋梁も現在復旧しています。

築城年代は不明ですが、築城者は青柳(麻績)氏で青柳城の支城の一つとして整備されたようです。城主として竹場源之丞定友の名が伝えられていますが、当主の青柳伊勢守頼長(子の清庵は真田昌幸、後に信繁に仕えて大坂夏の陣で討死…)が天正壬午の乱の際に松本城において小笠原貞慶に誘殺(頼長は従属しながらも貞慶を快く思わず、諏訪大社上社副祝に依頼して貞慶を呪詛していた。)されると本城と共に落城、廃城となったようです。山麓には松本と善光寺平を結ぶ北国西脇往還が走り、江戸時代に入ると青柳の地には宿場が設けられていました。青柳宿はすっかり廃れましたが、現在は道の駅さかきたが整備されていたりしますね。

お城の現況は見る人によって評価の分かれるところなんですが、誰が何と言おうと自分は高評価です。主郭から三方へ尾根が延び、合間に郭を挟みながら堀切や竪堀で尾根筋をぶった斬っています(縄張図は実に期待させてくれる…)が、堀切が浅めでファジーな印象を受けるのが評価の分かれ目なんでしょう。又、縄張図外の箇所(登城路も含めて。)に自然地形とはとても考えられない削平地やぽこぽこが残ってたり(虎口っぽい岩場まである。)して大変悩ましい…沢跡か地滑り跡とは思うんですが、畝状集合竪堀にしか見えない地形なんかも確認出来ます。

お山は留山です。山主は知らなかったとは言わせないとばかりに守りを密にしています(罰金は平均的な三十万円、鈴が付いてたよ…)のでシーズン中は無理(藪も多いです。)でしょう。が、城友さんが言うように山城好きには発見が多いお城です。素晴らし過ぎる青柳城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2021年04月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
日岐城[青柳城  周辺城郭]



日岐城は青柳城の西方約8.5km、犀川に向けて大きく張り出した西方山塊から延びる標高約627mの尾根上端部に主郭が存します。東麓からの比高は100m位でしょか。

お城の立地は北東南で犀川の流れを天然の水堀とする要害の地です。地図等で確認すれば此処にお城を築くのは必然と感じる事でしょう。

行き方は同じ青柳城のリア攻めマップにある日岐殿屋敷を参照して下さい。この居館の事実上の詰城となっています。登城路は遊歩道がきちんと整備され大変散策し易いです。ただ遊歩道から外れた部分にも遺構が残っていますので気になったら道を外して下さい。又、獣の気配が微塵も感じられない信濃では稀有なお城でして安心して登城出来ます。

実戦経験のあるお城でもあります。天正壬午の乱に際して上杉方であった城主の日岐氏は小笠原氏の侵攻を受けて日岐盛武は降り、その後兄盛直の説得を受けて上杉氏に再び従属、これにより日岐城は小笠原氏の再侵攻を招きます。小笠原勢は攻めあぐねたらしく落城まで約1ヶ月の期間を要しましたが、日岐城の捉え方自体が北東にある日岐大城(あるいは周辺諸城も。)も含んでいると考えられてるので、日岐城の単独落城はもう少し早いかもしれません。ちなみにこの頃の日岐氏には鉄砲の存在があったようで、小笠原勢の馬の口取り人足が被弾した旨の記録があるそうです。

お城は複雑な縄張ではありませんが、要害地形を十分に生かした造りです。搦手側は意外な程あっさりしてますが、主郭の切岸はとてもじゃないけど登れなかったことでしょう。又、しっかりした虎口や片側土塁の段郭にセンスを感じたりもします。

戦い敗れた日岐氏は二つに別れ、日岐盛直は上杉氏に逃れて武水別神社神官家松田家の名跡を継ぎ稲荷山城主に、弟の日岐盛武は兄の所領も安堵され小笠原氏に帰参(内通していたとも。)しました。そういえば城めぐにも登録されている松田家館はこの神官家の居館ですね。残念ながら最近全焼しましたが…

歴史は色んな繋がりが理解出来ると途端に面白さが倍増しますね!こういうのって現地に赴かないと中々調べないものですが、幸いにもこのアプリの住人は城めぐら〜その機会は無限にあるのさ〜

※日岐大城にも行こうとしましたが、登城?(登山かな。)が面倒な事で有名です。自分も当日になって面倒になり未見…次回にしときます。



2019年06月03日 龍馬備中守【】
青柳城



石積みは布目積み☆小笠原氏時代の拡張時に築かれる☆右側は急斜面☆力強い石積みが印象的な素敵な城郭☆

2019年06月03日 龍馬備中守【】
青柳城



善光寺街道の名所の一つ☆切通し☆青柳伊勢守頼長により切り開かれた☆その後も時と共に3回にわたり切り下げられた☆ずっと見てたくって寝転びながら撮影w

2019年06月03日 龍馬備中守【】
青柳城



二重堀切の一本☆両側は深く鋭い竪堀に繋がる☆主郭に向かうまでの尾根を連続で掘り切る☆

2019年05月29日 龍馬備中守【】
青柳城



一の曲輪・小笠原貞慶時代の布目積みの石積み☆信濃守護の小笠原長時が武田信玄様に敗れた後、小笠原氏に臣従していた城主・青柳清長は武田氏に従う☆

2019年05月26日 龍馬備中守【】
青柳城



城郭に入った瞬間が分かる二重堀切☆巨大な土塁を中央に置き敵兵の足を止める☆両側は深い二重竪堀となる☆麻績一族の青木氏が築城☆第1次川中島合戦では武田信玄様が一時ここに居城☆

2019年05月25日 信州左衛門佐克幸
青柳城



ここは標高900m以上ですぞ(´Д`|||)二重の堀切がいくつもあったり、石積みも正面から撮影できないくらいの断崖…これぞ、山城!!を堪能できますした(* ̄∇ ̄*)

2019年05月25日 信州左衛門佐克幸
青柳城



大切通し 内部をよく見ると確かに人間の力で石を削る跡がハッキリと確認できます。天正8年

2019年05月08日 くらやみ近江守☘️
青柳城



一の郭北側の石垣。松本平の小笠原氏がお得意の布目積み。

2019年04月30日 大隅守
駐車場[青柳城  駐車場]

搦め手側駐車場

2019年04月26日 笑門来猫
青柳城



青柳城の主郭から麻績城と麻績川を眺める。長野の桜は今日時点でも、まだ咲いてるとこ結構ありました。

2018年12月30日 カーネル
青柳城

篠ノ井線坂北駅から、真東に進めば、ほぼ直線で本丸まで行けます

駅を背に進むと、道が緩やかに右に曲がります。当初目的地に設定してた硯水寺が右。左が青柳城。とある。悩んだ末に左に進むと青柳宿の町並みで、石垣積みの水路等が見られます

先に進んで、道が左に曲がるところに右斜めに入る路地に青柳城→の看板があるので、狭い舗装路の坂を登る

この先は案内が途絶えますが左上に見える丸い謎の構造物に向かって進むと、国土地理院地図で、お城の南南西にある沼の、ところにでて、ここにお城の案内図があります。ここまで車でもこれます。路駐になりますが、交通量も少ないので、多分大丈夫です

階段の山道を登る。途中からつづらをきって登るのですが、雪があったため、右側にある竪堀がキレイに見えます

いくつかの帯曲輪を経て冠木門にでると、左が山頂で本丸。冠木門に戻り、南西に青柳公園への道を進んで堀を堪能してから、来た道を戻りました

往復して90分でした


2018年09月12日 昌幸近江守更に吉
青柳城

車でしたら青柳城址公園の看板を目安に登って来て下さい。畑の中に時計が見えてきたら近くです。公園入り口は獣除けゲートで塞がれてますので、開けて車ごと入り駐車場に止めて下さい。
駐車場からは15分ほどで本郭に到着です。
本郭ではこの城一番の見所、石積みを楽しめます。平場がないためある意味間近で石積みを堪能できます(笑)足元にはご注意ください。
なお三ノ郭で大手道と繋がっており、少し下ってみましたが、道が分かりづらくなってました。居館跡である清長寺から続いているらしいのですが、清長寺へ行く道が軽自動車でも狭い道のため、あまりこちらから登る方がいなくなってしまったのが原因かと思います。
この城は石積みが一番の見所ではありますが、途中の竪堀や堀切も深くかなり見応えがあります。特に駐車場から程なくある二重竪堀はおすすめです。藪のない時期にもう一度来訪したい城でした。

2015年06月08日 蔵人頭まぁちゃん
青柳城

碩水寺の前を過ぎて少し走ると高台のキャベツ畑が。そのキャベツ畑を上に向かって進むと、小さな青柳城の方向示す看板が出てくるので、それに従って!!草が生い茂っていて、危ないので服装注意。あまり中も道案内がないので天気の良い明るい時間がオススメです。

2013年06月07日 赤いRVR甲斐守@松本
青柳城

もう一つ、青柳宿東の清長寺が館跡、その裏手から登城できます。ただし、寺までの道は狭い!

2013年06月06日 赤いRVR甲斐守@松本
青柳城

坂北小学校東のけん(石ヘんに頁)水寺というお寺を目指し、その前を過ぎて少し走ると高台、城の裏手に出ます。広い駐車場完備。模擬城門をくぐると、堀切を経て主郭へ。

青柳城の周辺スポット情報

 五の郭(遺構・復元物)

 二の郭(遺構・復元物)

 石垣(遺構・復元物)

 一の郭(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 石積(遺構・復元物)

 二重堀切(遺構・復元物)

 日岐城(周辺城郭)

 竹場城(鍋山城)(周辺城郭)

 上生野の西堀(周辺城郭)

 小池城(大池城)(周辺城郭)

 高峯物見(周辺城郭)

 川ばさま砦(周辺城郭)

 金戸山城(周辺城郭)

 不寝見屋敷(鼠屋敷)(周辺城郭)

 不寝見屋敷(大持)(周辺城郭)

 猿が城砦(周辺城郭)

 高松薬師城(横谷城)(周辺城郭)

 古峯社物見(周辺城郭)

 小立野の中海道館(周辺城郭)

 殿村の館(周辺城郭)

 万平の館(周辺城郭)

 高登屋物見(周辺城郭)

 孫三屋敷(周辺城郭)

 内城(大日向城)(周辺城郭)

 城坂屋敷(周辺城郭)

 高見の館(茶原城)(周辺城郭)

 彦左衛門屋敷(大日向彦左エ門屋敷)(周辺城郭)

 城が原・こやしき(周辺城郭)

 猿が城物見(周辺城郭)

 込路の大たて(周辺城郭)

 高津屋物見(周辺城郭)

 城平物見(周辺城郭)

 宇留賀城(古谷城)(周辺城郭)

 中山城(城の峰)(周辺城郭)

 小屋城(小屋ノ山)(周辺城郭)

 日岐大城(周辺城郭)

 仁熊城(隠城・細田砦)(周辺城郭)

 東条城居館(周辺城郭)

 東条城家老屋敷(周辺城郭)

 鬼熊氏館(枇杷平)(周辺城郭)

 柳沢氏館(御屋敷)(周辺城郭)

 宮沢氏屋敷(御屋敷)(周辺城郭)

 清長寺青柳氏館(周辺城郭)

 越道(周辺城郭)

 桃の木山城(周辺城郭)

 高照山城(周辺城郭)

 鍛冶屋日影陣屋敷(周辺城郭)

 北山城(周辺城郭)

 池の平虚空蔵山城(鷹山)(周辺城郭)

 地志原 西山物見(周辺城郭)

 日岐殿屋敷(周辺城郭)

 正福寺屋敷(周辺城郭)

 西条城(小仁熊城)(周辺城郭)

 東条城(周辺城郭)

 たかうちば物見(周辺城郭)

 山中殿屋敷(殿田)(周辺城郭)

 小芹の殿畑(周辺城郭)

 梨子峯物見(じょう)(周辺城郭)

 下生野の中海道館(周辺城郭)

 中野山城(城)(周辺城郭)

 新ノ城の物見台(周辺城郭)

 伝琵琶姫墓(寺社・史跡)

 駐車場(駐車場)

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