岡城(おかじょう)

岡城の基本情報

通称・別名

古城、岡村城

所在地

長野県上田市岡1386-1

旧国名

信濃国

分類・構造

輪郭式平城

天守構造

築城主

武田信玄

築城年

天文22年(1553)

主な改修者

主な城主

武田氏

廃城年

遺構

曲輪、丸馬出、土塁、三日月堀、横堀(空堀)

指定文化財

市史跡(岡城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

塩田城(長野県上田市)[5.7km]
上田城(長野県上田市)[7.0km]
葛尾城(長野県埴科郡)[10.3km]
荒砥城(長野県千曲市)[11.4km]
戸石城(長野県上田市)[11.8km]
青柳城(長野県東筑摩郡)[13.5km]
横尾城(長野県上田市)[13.9km]
真田氏館(長野県上田市)[14.2km]
虚空蔵山城(長野県松本市)[14.5km]
麻績城(長野県東筑摩郡)[14.9km]

岡城の解説文



岡城(おかじょう)は、信濃国小県郡(長野県上田市大字岡)にあった日本の城。標高は478メートル。

概要 

岡城は武田氏の小県郡における重要拠点であった城である。築城年月は記録が現存しないことから不詳である。岡城の南東約5kmに武田氏が岡城建設前まで重要拠点として使用していた塩田城があるが、永禄年間初期から文献に登場しなくなり岡城の名が見えてくるので、築城時期はその頃と思われる。

岡城は輪郭式の平山城で台地上にあり、浦野川を背にして本曲輪の三方を外郭が囲う形である。南北200m・東西450m程の大きさである。東西及び北側に甲州流築城術の特徴である丸馬出しと三日月堀を備え、南側は断崖となっている。

参考文献 

  • 信濃史学会編 『信州の山城 信濃史学会研究叢書3』 1993年

岡城の口コミ情報

2024年05月22日 内記かずりヾ(・ε・。)
尾曽野兵庫亮勝長屋敷(小曽野屋敷)[岡城  周辺城郭]



尾曽野兵庫亮勝長屋敷(小曽野屋敷)は岡城の北東約1.1km、浦野川西岸(左岸)、室賀川南岸(左岸)、標高約467mの河岸段丘台地上平場に立地した屋敷です。該地は地図を見れば一目瞭然、室賀峠口を押さえる関門の地に当たる。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車はそこら辺に捨てられるレベルだ。台地上には西方から該地に至る農道が長く伸びている。が、おいらはそんな道が付いている事も露知らず、南側の台地直下から激竹藪の急な斜面を直登した。台地上に上がって農道を見付けた時には凄くブルーな気持ちになったよ…

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは尾曽野兵庫亮勝長です。同名は「長野県町村誌」によると、「…勝長は清氏の重臣にして、主の戦死を聞き自害すと、古老の口碑なり。」とある。すっ飛ばし過ぎてよく解らない記述だが、清氏は該地周辺の在地土豪、岡村権ノ左衛門平清氏の事であり、勝長はその被官の一人、時期としては、建武二年(西暦1335年)の「中先代の乱」後が推測され、北条氏に近い立場だった岡村氏は乱の終息に伴い近隣の浦野氏の征討を受けたものと考えられる。更に想像を逞しくすれば、乱に際して埴科郡坂木に城砦を築いて周辺諸氏を集めた坂木の南条と北条の地頭職、薩摩氏一族に同心した清氏が村上信貞の征討を受けて同地で討死、これを聞いた在地に留まる勝長が自害に及んだものとも考えられる。

浦野川と室賀川による侵食だろうか、台地は該地の部分で舌状台地を形成しており結構な要害地形である。屋敷の現況は竹林、耕作地等となっており、縄張図における通称1郭には送電線の鉄塔が建っている。遺構としては通称1郭と通称2郭を隔てる堀形の残滓が北側斜面に残るとされるがよく判らん。又、信濃のお城の神は一言も触れないが、縄張図外に台地を分断する堀形が綺麗に残ってる。後世の台地へ上がる道なんだろうけど、堀形を通したものだとは言えないのだろうか。

地図を見てたら該地の西方に「兵庫」の地名を見付けた。律令制下における兵庫は「つわものぐら」、「へいこ」であり、簡単に言えば武器庫の事である。地名はその名残りなんだろうか。尾曽野兵庫亮勝長の受領名から取られたものとも考えられるが、そもそも論で尾曽野氏とは兵庫に関わり土着した古い歴史を持つ氏族なのかもしれない。

※南方の保福寺峠を越えた東山道は該地の南東方に位置する浦野駅を通って千曲川を渡り信濃国分寺に至る。駅家に関わる兵庫が存在しても何ら不思議な事ではないように思う。

※写真①は要るのか知らんけど南側下段から撮影した近景っす。ちなみに写真に見える青い倉庫の裏手から直登する阿保っぷり。リア攻め前に周囲の状況確認を怠った結果だ…戒めとしよう。

※写真②、⑥、⑦に見られる背景のぽこりんとしたお山の山頂付近が同じ岡城のリア攻めマップにある小泉上の城、比高は何処から登っても400m以上だが、気合いを入れて林道を車で進めば苦労しない。

※写真⑧は竹林と化した通称1郭に建つ送電線の鉄塔、マニアだけに贈りやす。

2024年05月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
安保氏館(御屋敷)[岡城  周辺城郭]



安保氏館(御屋敷)は岡城の北北西約2.4km、室賀川北岸(左岸)、標高約520mの河岸段丘台地緩斜面上平場に立地した居館です。居館地の後背には中世の室賀峠道が通り、北西側の山稜尾根下段上には同じ岡城のリア攻めマップにある跡部城が立地する。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車も居館敷地南側の上手組集会場に捨てられる。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは安保氏です。同氏は武蔵七党の一党、丹党の一氏、武蔵国賀美郡安保を本貫地とし、謂わゆる信濃の在地土豪ではなく歴とした鎌倉幕府の御家人、得宗家の御内人である。北条氏との結び付きの強い惣領家は鎌倉幕府の滅亡と共に衰亡し、建武二年(西暦1335年)の「中先代の乱」において滅亡するが、分家の安保光泰は足利尊氏に従っており、後には建武政権により旧跡を安堵され惣領家を継いでいる。

元弘三年(西暦1333年)十二月廿九日、足利尊氏下文には、「下 安保新兵衛尉(光泰) 信濃國小泉庄内室賀郷地頭職事 右以人、為勲功之賞所補彼職也、早任先例可領掌之状如件、」とあり、安保新兵衛尉光泰が勲功の賞として信濃国小県郡小泉庄室賀郷の地頭職に補任されている。又、建武三年(西暦1336年)十二月十一日、足利直義下文によれば、丹後権守と受領名を変えた光泰が室賀郷を含む各地の地頭職(安保氏旧跡)を安堵されている。名実共に安保氏の惣領家を継いだのはこの時だろう。ちなみに光泰の室賀郷地頭職補任が「中先代の乱」以前の出来事である事に注意されたし、一族は二分して乱に臨んでいる。

暦応三年(西暦1340年)八月廿二日、安保光阿(光泰)譲状案によれば、室賀郷の地頭職は光泰の子、惣領である中務丞泰規に譲られている。但し、庶子分も含む細かな分割相続であり、旧室賀村に残っていた、「そしだ(庶子田)」、「そしいり(庶子田入)」の地名はそれを表していたと考察されている。

居館の現況は耕作地、耕作放棄地、一般住宅とその敷地等となっている。例によって改変著しいと思われるが、直感的に武士の住まう場所としては適地だと誰もが思う筈…遺構がどうかは知らんけど、居館の敷地内には井戸跡が確認出来たりもする。中段に鎮座する小祠は付近にお住まいの土屋さんの氏神だが、祭祀はここ最近で途絶えたんだそう。又、堀形や土塁様地形も見られるが往時のものとは考え難いように思う。

該地には「御屋敷」の地名が残り、居館地南側のバス停の名称も此処から取られている。リア攻め当日に畑の水やりしていたお爺ちゃんの話すところによると、付近にはかつて「関塚」と呼ばれる土盛りが残っていたそうで、一帯は室賀峠道の関所の様な場所だったのかもしれないとの事、又、峠道は周辺において中世、近世、近代で道筋を変えているとも言っていた。聞き込みはやっぱり大切だなぁ…その内に語る人は物理的にいなくなる。此処に記録して留めておこう。

※安保氏は全国の各地に地頭職等を得ている。出羽の松山城のリア攻めマップにある田尻館は分流の居館跡の一つだ。ちなみに「あほ」とは読まず「あぼう」が正解っす。

※写真①、後背の送電線の鉄塔が建つ山稜が跡部城っす。

※写真④は井戸跡を撮影したもの。最近まで現役だったらしい。

※他人から見たら本当に楽しいの?とか言われそうだけど、おいらは今回のリア攻めを心底楽しんでいる。

2024年05月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
跡部城(御屋敷城)[岡城  周辺城郭]



跡部城(御屋敷城)は岡城の北北西約2.7km、室賀川北岸(左岸)、標高922mの三ツ頭山から南方へ伸びる尾根下段上、標高約633m地点の平場に立地する要害です。南麓の上手組集会場からの比高は120m位でしょか。該地の山稜は室賀峠道を直接扼すが、中世の道筋は現在と異なり山際を通る。

行き方はGoogleマップに位置登録されている前述の「上手組集会場」を目標に設定して下さい。此処から同じ岡城のリア攻めマップにある安保氏館を右手に見ながら舗装道路を山に入って行く感じで進む。最後の民家の南側に切通しが見えるのでこれに入って該当尾根に取り付く。尾根道はそのまま送電線の鉄塔用保安道だ。が、事前情報を確認しないと非常に判り難い。おいらは現地で見付ける事が出来なかったので急な斜面を適当直登する羽目に…

築城年代は不明、築城者は室賀氏になるんだろうか。大河ドラマ、真田丸で一躍全国区の有名氏族へと成長したけど、西村雅彦さん演じる正武が当主だったのは僅かな期間でしかない。ちなみに大身の旗本、幕臣として存続した同氏は、十五代将軍、慶喜の代には甲斐守正容が御側御用取次となり、文字通りの側近となっている。同名は写真が残されているが、これを見る限りすっきりとしたなかなかの男前だ。

お城は細尾根に2郭で構成される蓮根みたいな縄張、堀切が3条付くが、何れも埋まり気味で素人には1条しか判らん。そもそも論で城域内は松枯れの倒木が折り重なり鑑賞するには非常に厳しい現況となっている。眺望すれば塩田平の前山が見通せるのがせめてもの救い。室賀峠道を押さえる砦てよりは峠口の狼煙台や物見台の印象だ。

武田信玄は、永禄九年(西暦1566年)からその翌年にかけて家臣団と被官衆に起請文の提出をそれぞれに求め、差し出された物を小県郡の大社、塩田城のリア攻めマップにある生島足島神社に納めている。室賀氏当主、山城守信俊も単独での提出が認められるが、村上氏分流である同名は武田氏に警戒されていたようで、当主とは別にその一族等にも起請文の提出が求められている。即ち、生島足島神社文書中の「室賀経秀等連署起請文」がそれであり、文中には特に次の一条が書かれている。

「一 山城守(信俊)所へ自敵地、計儀之使書中罷越候をかくし被申候ハ、直様可申上候、御一戦之砌、山城守ニ未練之意見申間敷候、況自分ニ未練致間敷侯事」

…大意としては、「山城守の所へ敵方から謀事の使書が届き、山城守がこれを隠し立てすれば直ぐに申し上げます。一戦の折には未練がましく山城守に意見は致しません。ましてや自分が未練する事も致しません。」となる…小さな惣領制の枠組みを越えて一族等に当主の監視を求めると同時に場合によっては当主と一戦する覚悟さえも神仏に誓わせている。同時期に提出された他の起請文と見比べても特異な例だが、当主、信俊には、上杉氏からの調略を受けて隠し立てしていたて過去があるのかもしれない。

※「室賀経秀等連署起請文」〜連署したのは、治部少輔経秀、常陸守正吉、甚七郎吉久、堀田豊後守之吉である。豊後守之吉は親族衆麾下の人であるが、他の三名は何れも当主、山城守信俊の舎弟である。

※写真①、②は尾根末端部に建つ虚空蔵堂っす。たぶん野生動物の棲み家と化している。

2023年10月30日 尼崎城讃岐守一口城主
岡城



8月18日、信州の武道家さんに案内して頂き登城。まず案内板(写真①)と岡城跡の標柱(写真②)を撮影。城跡の住所の<岡字城(おかあざしろ)>の部分は分かりやすく覚えてしまいました‼️
案内板の図から本丸は団地の居住地になっていたので岡城公園を散策(写真③④⑤⑥)
岡城公園奥の一段高くなっている所に<岡村城の由来>(写真⑦)があり読んでみると、戦国期に武田方の馬場美濃守信房が築城するかなり前の弘仁二年岡村権之左衛門尉平清氏が当地に築城したとのことが書かれていました。写真①の案内板より、永禄三年(1560)松代に海津城を築くまでの六年間、武田勢の川中島進出の貴重な前線基地であったこと、そして現在は旧形をたどることができる貴重な遺構であることが書かれていました。
最後に岡城公園を下の堀の方から撮って下城(写真⑧)
※当日はもう少し城跡外周を周れる範囲で散策して奥の三日月濠目指してみたら良かったかなとやや後悔しています😅リア攻めされる予定の方はじっくりと写真①の案内板🪧を読んで散策をお勧めです。

2021年04月06日 eiki
子壇嶺城[岡城  周辺城郭]



上田市の塩田平に聳える標高1223メートルの岩山、子檀嶺岳の山頂に築かれた城、登山口駐車場から約2時間の登りで到着します。山頂には神社が祭られ、平坦な郭になっています。徳川氏と真田氏による上田合戦が繰り広げられた時に真田幸村の家臣で鎌倉北条氏の末裔である塩田衆が謀反を起こし籠城した城で、見るからに難攻不落な岩山です。長野県東信地方はそこいらに山城が点在し、山城好きには行き先に事に事欠かないでしょう。写真は右前の丸い山は
女神岳城が築かれていた女神岳、その左背後の山頂部が鋸状の山は塩田城が築かれていた独鈷山

2021年03月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
西城[岡城  周辺城郭]



HIGHLY RECOMMENDED!!!

西城は岡城の西方約4.7km、標高1223.2mの子壇嶺山から南方へ延びる尾根の一つ、標高796mのピークの一つに主郭が存します。南麓の長野県道143号線からの比高は220m位でしょか。

築城年代、築城者は不明ですが、お城の存する青木村付近一帯は奈良本氏や田沢氏といった土豪が南北朝時代には在地していたようなので両氏の何れかに関係するものなんでしょか。まぁ昔の事なんでよく判らねぃよて感じですかね。ただ真田氏の利用は確実なところで、関ヶ原の戦いの際にこの子壇嶺山周辺のお城は余波を受けたらしく、ちょっと眉唾物の合戦記録なんかもあったりします。

お城の西麓には保福寺街道が走り、四賀を通過して松本へ抜ける事が出来ます。街道は途中で青木峠道に分岐し、こちらは麻績の方へ抜ける事が出来ますが名高い心霊スポット明通トンネルがある等、夜間のソロ運転は止めときましょう。

行き方は同じ岡城のリア攻めマップにある寺山の砦を参照して下さい。お城はこの砦から直ぐの場所に存します。山麓から寺山の砦を経て西城までは比較的楽に訪ねる事が出来ます。

お城は素晴らしいです。前哨である寺山の砦で膨らんだ期待感を遥かに上回る遺構の存在に大興奮する事間違い無し!冷静に考えてみても小県郡のお城の中ではトップクラスです。つまんない事は語らないので是非現地で確認してみて下さいまし。特に主郭北側山側背後の大堀切は麻績古城以来の巨大さでした。

このお城の城域北端部を過ぎると標高812mの湯坂山山頂に至ります。これから向かう東城へ行く為に適当に歩いていた(迷っていた…)んですが、この山頂の西側斜面に5条の畝状竪堀を発見しました。特に埋もれてた訳でもないこの遺構(ただ登山道からは外れる。又、お城目的だと湯坂山まで登らない。)、調べてみても縄張図はおろか何処にも記載が無い…自分的にも何でこれがスルーされているのかが不思議なところなんですが、明日物好きな城友さんがこれを確かめに行くそうなのでその結果を待ちましょう。

※お城のある青木村は大好きなんですが、青木村は村内に多くの宝物を持ちながら山城にはあまり積極的ではない…標柱や案内板が立っているのは眉唾物の石川軍陣地跡と黒丸城だけだったと思う。教育委員会さん…勿体無いです。

2021年03月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
子壇嶺城[岡城  周辺城郭]



子壇嶺城(こまゆみじょう)は岡城の西北約5.0km、標高1223.2mの子壇嶺山山頂に主郭が存します。南麓の長野県道143号線からの比高は650m位でしょか。子壇嶺岳城、冠者岳城、火車ヶ岳城、烏帽子形城とも呼ばれるらしいですが、他城(子壇嶺山山塊には他に砦が一つ、お城が四つあります。)との混同も入ってるかもしれません。

行き方は子壇嶺山で検索して下さい。腐る程情報が溢れてます。子壇嶺山は青木三山の一つに数えられる古来から信仰の対象であった低登山で人気のお山でして、未知との遭遇に出てきそうな特異な山頂部の形状は一度見たら忘れられない山容となっています。山頂へはトレッキングコースが複数整備されていますが、普通に登って80分…山容から想像出来るとおり最後は急坂が待ち受けてます。ちなみに山頂で出会ったジモティーの方は別ルートから20分で登った剛の者でした…

お城は山の両肩に物見台を持つ単郭のお城です。この標高と比高で山頂にあるお城なんて眉唾物に感じると思いますが、明確な遺構が残されている上に実戦記録もあるらしく、真田信幸に攻められ落城したとされています。築城年代、築城者は不明ですが、この山から南方へ延びる尾根の一つに存する西城の詰城、物見砦と考えるのが自然でしょう。お城には他に帯郭、堀切なんかが確認出来ますね。

山頂部からのロケーション(天気が良ければ八ヶ岳も見える。)は流石に感動もの!このお山は突拍子もなく周囲の山塊から頭一つ抜け出してますので下手な高山より眺めがよいです。登ってる最中はもの凄く遠く高く感じて諦めそうになるんですが、その苦労も一気に吹き飛びますよ!

お城目的で単独訪問すると登下城時間が98%です。山塊に存する周辺諸城と併せて訪ねましょう。その際は単純に尾根筋を進めばよい訳では無く綿密な計画を立てる事が必要になると思います。縦走途中で城友さんにLINEで尋ねるなんて事は避けたいものですね。



2021年03月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
二場城[岡城  周辺城郭]



さてさて城友さんが作成してくれた二場城の口コミに相乗り〜

二場城(せいばじょう)は岡城の西方約2.3km、標高932.4mの飯縄山(いいずなやま)から南西へ延びる支尾根上、標高624mのピークの一つに主郭が存します。西麓からの比高は60m位でしょか。お城の東方には見返りの塔として有名な国宝大宝寺三重塔があったりします。ちなみに飯縄山山頂にも飯縄城と言う現況非常に怪しい遺構のお城があったりもします。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。城友さん口コミのとおり、お城付近一帯は重機が入り丸裸になってますので近くに来れば直ぐに判ります。

お城は北方に存する素晴らし過ぎる黒丸城の支城とされています。黒丸城が少し引っ込んだ場所にあるので街道筋を監視する物見砦だったと推測出来ます。現況はほぼ単郭の縄張なんですが、尾根筋を介して南にある祠のある削平地にも郭があったかもしれません。主郭には腰郭が付き、削れてはいますが土塁が、主郭背後には浅くなってはいますが連続堀切が確認出来ます。

本城とされる黒丸城は朝倉氏の手によるものです。この朝倉氏は越前朝倉氏の流れと考えられており、戦国時代の当主は朝倉氏発祥の地である但馬守を名乗っています。二場城の南麓付近には朝倉家の墓碑銘を持つ墓が多数存しており、越前朝倉氏の流れを正しいものとするならば、遠い信濃の地で脈々とその血を繋いで来たと言えるでしょう。国宝大宝寺三重塔に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。



2021年03月14日 赤かぶ【】
二場城[岡城  周辺城郭]



青木村押出地区にある二場城は北の尾根にある黒丸城の出城だったとも言われてるお城です!

准胝観音堂の裏手の墓地の間を抜け登城しました。
このお城のある山は最近里山再生事業で木々が伐採の為重機が入ったんですが、その痕跡がある意味凄いんです……

作業道を横切り上へ登って行くと曲輪が見えてきます。
二の曲輪は南斜面を中心に主郭の周囲3分の1くらいを囲んでいました。
主郭背後(北側)には二条の堀切を見る事が出来ますよ♬︎

お時間ある方は黒丸城とセットで巡ってみて下さいませ☀︎
① 准胝観音堂
② 二の曲輪
③ 主郭
④ 主郭背後の切岸
⑤ 主郭直後の堀切
⑥ 主郭北側の堀切

2020年12月16日 赤かぶ【】
黒丸城[岡城  周辺城郭]



今回は主郭背後を通る林道から登城してみました。
青木村当郷地区から上田市上室賀へ抜ける細い山道を車で進みます、山火事用心の赤い看板をしばらく行くと進行方向右側に路肩が広くなった所があり、そこに車を停めます。
この先車では行けません飯綱山林道を歩いて行きます。
他のネットの情報で城域まで15分とありましたが30分かかりました!足が短いからかもしれません(笑)
進行方向右側にカーブミラーとすぐ後ろに土塁が見えるのですぐ分かると思います。
主郭背後の3連続堀切が直ぐに見る事が出来ます!
高低差の切岸も必見です!!
ちなみに上室賀に抜けると「黙れ小童!!」で有名な室賀正武氏の城 笹洞城のすぐ近くに出る事が出来ます!
日帰り温泉施設もありますので併せて訪れてみてはいかがでしょうか。。。

2020年02月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
黒丸城[岡城  周辺城郭]



黒丸城は岡城の西北約2.6km、標高932.4mの飯縄山の南西中腹、西南へ延びる支尾根上、標高738mのピークの一つに主郭が存します。南西麓からの比高は140m位でしょか。

築城年代は不明ですが、築城者は朝倉氏で、戦国時代の当主は朝倉但馬守と伝えられています。朝倉但馬守は当初村上氏に従っていたようですが、後に武田氏に降ったとされています。

行き方はGoogleマップに位置登録されている西南麓の阿鳥川神社を目標に設定して下さい。車を捨てたら神社から北方へ延びる道を200m位徒歩で進みます。すると左手に道祖神が見えると思いますので、この道祖神脇の道からお城のある尾根に取り付く事が出来ます。

朝倉但馬守で黒丸城?と疑問に思われた方がいらっしゃいましたら、立派な朝倉氏ファンですね!越前朝倉氏の本流は但馬朝倉氏、但馬の朝倉城はこのアプリにも登録されてます。越前朝倉氏が一乗谷に移る前に本拠としていたのが福井県福井市黒丸町にある黒丸城(小黒丸城)…この長野県小県郡青木村にある黒丸城と越前朝倉氏に何らかの関係があると考えるのが自然ですよね!

お城は素晴らしいです。比高はそんなに無いし、道?も緩やかなのでリア攻めに集中出来ます。お城のある尾根上は傾斜が緩い為か段郭を連ねて守り主郭までそれが続きます(主郭も土塁を含めて3段、帯郭付き。)。通称ニ郭周辺からこのお城は濃くなってきて、通称ニ郭南側の堀切と高い切岸、そして通称ニ郭の細長い削平具合は思わずシートを広げておにぎりを食べたくなるほど。又、主郭のぽこりん感と整備具合には思わず「ありがとう!」と呟くことでしょう。主郭北東側山側背後の三連続堀切+竪堀はこのお城のハイライト!主郭から1条目の堀切には絶句すること間違い無し!主郭の土塁に登る→堀切を見下ろす→降りれない事に気付く…こんな感ぢ♪他の2条も長い竪堀の方が明瞭で萌えまくり。主郭西側斜面には連続竪堀も付いていて現地ならばはっきり確認出来ます。

縄張図の城域外の部分に、考えてみると楽しい謎も多いんですが、攻城後に軽やかな爽快感(夏場は知らん。)を覚えるお城ですので、国宝大宝寺三重塔に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2017年06月10日 左衛門佐 だのつく人
岡城

岡城公園の近くにある、岡団地という団地がありそこが本丸だと思います。その周辺に、堀や土塁があります。

2014年12月11日 志能便右京大夫
岡城

本丸南側にある住宅地に、岡城跡 二の丸井戸があります。

2012年02月17日 赤いRVR甲斐守@松本
岡城

一帯は住宅団地になっていますので、怪しまれないようにして下さい。駐車場はありません。

岡城の周辺スポット情報

 黒丸城(周辺城郭)

 二場城(周辺城郭)

 子壇嶺城(周辺城郭)

 西城(周辺城郭)

 小泉城(周辺城郭)

 小泉上の城(周辺城郭)

 小泉下の城(雷城)(周辺城郭)

 小泉氏館(周辺城郭)

 旗鉾館(周辺城郭)

 嶽ノ組三峰社(周辺城郭)

 安保氏館(御屋敷)(周辺城郭)

 跡部城(御屋敷城)(周辺城郭)

 浦野館(内堀)(周辺城郭)

 岡の古城館(周辺城郭)

 仁古田の殿田(周辺城郭)

 仁古田の愛宕山(周辺城郭)

 飯縄山城(周辺城郭)

 築地の堀の内館(周辺城郭)

 室賀城(室賀氏居館・原畑城)(周辺城郭)

 笹洞城(周辺城郭)

 伊勢崎城(竹把城・三頭城)(周辺城郭)

 浦野城(出城)(周辺城郭)

 物見松砦(周辺城郭)

 寺山の砦(西城の出砦)(周辺城郭)

 東城(周辺城郭)

 飯島後館(古宅)(周辺城郭)

 村松殿館(周辺城郭)

 平城(城の山)(周辺城郭)

 平城(城の家)(周辺城郭)

 古城(城山)(周辺城郭)

 尾曽野兵庫亮勝長屋敷(小曽野屋敷)(周辺城郭)

 室賀氏墓所(寺社・史跡)

 室賀峠史跡公園(寺社・史跡)

 室賀峠(その他)

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