岡城(おかじょう)

岡城の基本情報

通称・別名

古城、岡村城

所在地

長野県上田市岡1386-1

旧国名

信濃国

分類・構造

輪郭式平城

天守構造

築城主

武田信玄

築城年

天文22年(1553)

主な改修者

主な城主

武田氏

廃城年

遺構

曲輪、丸馬出、土塁、三日月堀、横堀(空堀)

指定文化財

市史跡(岡城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

塩田城(長野県上田市)[5.7km]
上田城(長野県上田市)[7.0km]
葛尾城(長野県埴科郡)[10.3km]
荒砥城(長野県千曲市)[11.4km]
戸石城(長野県上田市)[11.8km]
青柳城(長野県東筑摩郡)[13.5km]
横尾城(長野県上田市)[13.9km]
真田氏館(長野県上田市)[14.2km]
虚空蔵山城(長野県松本市)[14.5km]
麻績城(長野県東筑摩郡)[14.9km]

岡城の解説文



岡城(おかじょう)は、信濃国小県郡(長野県上田市大字岡)にあった日本の城。標高は478メートル。

概要 

岡城は武田氏の小県郡における重要拠点であった城である。築城年月は記録が現存しないことから不詳である。岡城の南東約5kmに武田氏が岡城建設前まで重要拠点として使用していた塩田城があるが、永禄年間初期から文献に登場しなくなり岡城の名が見えてくるので、築城時期はその頃と思われる。

岡城は輪郭式の平山城で台地上にあり、浦野川を背にして本曲輪の三方を外郭が囲う形である。南北200m・東西450m程の大きさである。東西及び北側に甲州流築城術の特徴である丸馬出しと三日月堀を備え、南側は断崖となっている。

参考文献 

  • 信濃史学会編 『信州の山城 信濃史学会研究叢書3』 1993年

岡城の口コミ情報

2025年03月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
飯縄山城[岡城  周辺城郭]



飯縄山城は岡城の北西約2.2km、阿鳥川北岸(左岸)、標高932.4mの飯縄山山頂部を中心に立地する要害です。南麓の阿鳥川からの比高は420m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている南麓の天台宗の寺院、一乗山「大法寺」を目標にして下さい。当然、車も捨てられる。寺院の裏手には「大法寺遊歩道」て呼ばれる山道が付いており、これをひたすらに登れば自然と城域に辿り着く筈…ちなみに遊歩道て言う名の荒れた登山道らしい。

てか、かずぽん、行き方を示しておいてアレなんだけど、前述したルートを使った事は一度も無い。再訪した今回も同じ岡城のリア攻めマップにある、小県郡のA5ランクの牛肉城、黒丸城の後背地を貫く林道から登っている。この林道はかなりの高所まで車が入るとはいえ、冬場なんかは霜柱が立ってスタックする程に道がぐちゃぐちゃに荒れる。ちなみにこのルートは東方へ向かってかなり巻いてから登っており、比高は稼ぐも距離的には前述のルートと大して変わりが無いと思う。何れにせよ、兎に角、だるいよ…

おいらはこの物件がどんなものだかを知っている。それでも再訪に踏み切ったのは懐かしさに駆られて…そう、センチメンタリズムみたいなもんさ。山城として飯縄山の山頂を目指す阿保は全国でも10人に満たないと思うけど、2回も訪ねた異常者はたぶんおいらだけの筈だ。

築城年代は不明、築城者は小県郡当郷に拠った朝倉但馬守とする伝承がある。事跡については限り無く不明だが同名は前述の黒丸城の築城者だ。朝倉で但馬で黒丸て言えば越前朝倉氏しか思い付かないが、入部した経緯は不明なるもその一族とする説がある。

お城は山頂が最上段、南側へ向けて三段、5郭の平場を持つ縄張だ。主郭は段付き、最上段は地山とはいえ何れの郭も削平は良好、城郭遺構なのかは判らないが最下段の郭には仕切り土塁様の地形も確認出来る。又、城域外を含むが山頂部は意外にも面積が広く、複数棟の小屋掛けも十分に可能だ。但し、水の手は付近に認められない。

…信濃のお城の神も疑問を呈しているが、縄張の全てにあるものを城郭遺構として判断してもよいのだろうか。先人の方達も指摘しているようにどうにも神社跡といった趣きがある。個人的には何某かの奥の院、奥宮を想像したが、廃されたにしてもその痕跡すら認められないのは不審である。飯縄山はかなりの高所まで人が入るお山、植林場の跡であろうか。兎に角、謎なお城だ。

全体的に見れば不安定な縄張だが、逃げ込み城としては有効だろう。少なくとも「長野県町村誌」、「小県郡誌」では城跡としての認識である。山城の体裁を成していないとも酷評されるが、逃げ込み城の基本的な概念が此処に適用されないのでは公平を欠く。根本的に足弱等が隠れ住まう場所であればよかった筈じゃないのか。

薄い山城だけど、流石に2回も訪ねると愛着が湧くわ。故にお城に礼を尽くし自分なりに頑張って考察してみた。但し、強く肯定もしないし否定も受け付けない。永遠に答えが出ない事なんだから正解も無い筈だ。

ノーマルな方には訪ねる必要性が微塵も無いが、登城路入口となる前述の大法寺を見逃す事は出来ないだろう。境内に建つ、正慶二年(西暦1333年)の創建と伝わる三重塔、通称、「見返りの塔」は国宝に指定されてもいる。和様の建築様式が正確に守られた塔は周囲の風景とも調和し誰もが振り返る程の美しさだ。又、鯱ファンにも見逃せない逸品が…国指定の重要文化財、観音堂内厨子の屋根に飾られる鯱は現存する日本最古の鯱、天守の金ピカもよいかもしれないが、寺院の厨子の大棟に飾られた事に鯱本来の意味がある。兎に角、寺内はそのまま文化財の宝庫、飯縄山城とかはどうでもよいと思う。

※調べてないが、中世には飯縄山自体が、大法寺、もしくはその上段に位置する曹洞宗の寺院、萬年山東昌寺(祢津氏の分流、浦野氏の菩提寺である。)の寺領であった可能性があるように思う。

※大法寺〜同じ岡城のリア攻めマップにスポット登録だけしておく。

※ 兎に角、だるい〜そう感じたなら諦めて帰るのもよいだろう。リア攻めしても皆さんの城廻りLIFEには何の影響も及ぼさない。

※写真は4枚でええやろ…展望も良くない。

2025年01月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
寺山の砦(西城の出砦)[岡城  周辺城郭]



寺山の砦(西城の出砦)は岡城の西方約4.5km、田沢川北岸(左岸)、標高812mの湯坂山から南東へ伸びる尾根中段上、標高約720mの小ピークを中心に立地する砦です。南東麓の青木村役場からの比高は160m位でしょか。ちなみに該地の南方、田沢は小県郡と筑摩郡とを結ぶ、中世の地蔵峠道と保福寺峠道の追分の地であり、交通の要衝であった。

行き方はGoogleマップに位置登録されている該当尾根末端部上の「招魂社」を目標に設定して下さい。舗装道路脇の空地に車も捨てられる。面倒(意外にも距離がある。)だったら東麓の村松集落最上段から登るのもよいが取り付きが判り難いと思う。該当尾根筋は標高1223.2mの子檀嶺岳山頂に至る登山道の一つでもある。

築城年代、築城者は不明です。寺山の砦は別称にもあるとおり、同一尾根上段上に位置する、同じ岡城のリア攻めマップにある西城の支砦、前哨であり、築城主体も同一だと考えられている。

該地の小県郡青木村田沢、村松(大字の境界線に位置している。)は、滋野三家、祢津氏の分流、浦野氏の知行地であった。天文二十二年(西暦1553年)、同氏は村上氏を離反して武田氏に出仕するが、浦野、夫神、田沢、中狭、村松等の諸郷は依然として浦野氏とその一族等の知行地であった事から同氏に関係する砦であろうか。一族の田沢氏は有力な候補として挙げられるだろう。又、村松に残る、貞治四年(西暦1365年)十二月造立の「村松の宝篋印塔」の東塔基壇正面に刻まれた銘文から、浦野庄内村松には村松滕次郎入道なる武士の存在があった事が判っている。但し、村松の姓は文書等に見られず、この銘文以外には確認する事が出来ない。

北条氏の滅亡後、天正十八年(西暦1590年)以降、村松郷を知行地とした者に真田氏に出仕した小山田壱岐守茂誠がいる。同名は真田昌幸の長女である於国を娶っており(於国が村松殿と尊称されたのは茂誠の知行地に住していたからだ。)、後には真田姓をも許されている。但し、武田氏時代には放棄されていたであろう寺山の砦や西城を茂誠が要害として利用する事は無かったろう(喫緊時における茂誠の役目は当然ながら上田城に出仕する事だ。)。

砦としながらもそれなりに立派な縄張を持っている。主郭の南東側谷側前面に二重堀切+竪堀、北側山側背後に堀切+竪堀、更に主郭からの南西尾根には三段の段郭を連ねる。但し、堀切等は総じて埋まり気味、延長の竪堀部分の方が判り易い。又、段郭の二段目には土留めの石積みの残滓、主郭周りにも石列等が見られるが何れも城郭遺構なのかは不明だ。ちなみに二重堀切の南側斜面、竪堀部分に並走する形で更に竪堀が1条、主郭側に+されているように思う。つまりは三連続竪掘て事になる。

実は2回目の訪問、前回は子檀嶺岳山頂部に立地する同じ岡城のリア攻めマップにある子檀嶺城リア攻めがメインだったのでさらっと流してしまっていた。今回の訪問でようやく個人的納得が得られる探索が出来たように思う。ちなみに青木村はお気に入りの市町村の一つ、沓掛温泉や田沢温泉もあるし道の駅もあるんでおいらが生活するにはこれで十分だ。又、タチアカネ蕎麦は此処でしか食べられない特産品、上田に来たら青木村にも是非とも寄ってて下さいな。

※小県郡青木村〜「義民の里」として知られる。江戸時代から明治時代の初頭にかけて通算で5回の一揆が発生、旧上田藩では、「夕立と騒動は青木から来る。」とまで言い伝えられてきた程であり、かつては血の気の多いやんちゃな土地柄だった事が知れる。最近でも上田市との合併を拒否、総人口は四千人にも満たないが、大企業誘致に成功する等、独自の路線を突き進む(村長がかなりのやり手みたい。)。応援してるぜ青木村!是非とも市町村行政における新たなモデルケース、成功例となって欲しい。

※写真⑧は南西麓、同じ岡城のリア攻めマップにある飯島後館付近から撮影した近景っす。

2024年12月29日 内記かずりヾ(・ε・。)
古城(城山)[岡城  周辺城郭]



さて、長野県上田市には女神岳ていう比較的に名の知れたお山があるんだけど、上田市の西方、青木村にはこれと対を成す夫神岳てお山がある。女神岳の山頂部には塩田城のリア攻めマップにある女神山城て称する堀切を阿保みたいに掘った山城が立地していてこちらは名が知れているんだけど、夫神岳の方にも西方支尾根中段上に山城が存在する。

はっきり言って無名、紹介例もネットでは1件に留まっている。山城好きにも余り知られていない理由は、その立地と検索し難い平凡な名称が災いしているんだと思う。

古城(城山)は岡城の南西約5.9km、沓掛川東岸(右岸)、標高1250.3mの夫神岳の西方支尾根中段上、標高約897mの小ピーク上平場を中心に立地する要害です。西麓の沓掛温泉小倉乃湯からの比高は235m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている西麓の「沓掛温泉薬師堂」を目標に設定して下さい。車は同じく位置登録がある「沓掛温泉駐車場」に捨てればよい。取り付きは薬師堂の裏手、石灯籠が建ち、石祠が鎮座する岩場からとなり、後は右手に見える山尾根をただひたすらに登る。平均斜度は40°位、標高約835m地点の尾根のたるみまでは尾根幅も広くただの山の斜面を登っているのと感覚的には同様、景色も見えないに等しいので一つも楽しくない。道は踏み跡程度を辿るが付いていないとも言える。即ち、殆ど直登を覚悟すべし…おいらは面倒になったんでガチに真っ直ぐに登っている。

築城年代、築城者は不明です。推測される範囲は広大だが、周辺地域は「延喜式」に載る勅使牧、信濃十六牧の一つ、塩原牧の比定地であり、律令制下における東山道が保福寺峠を越えて筑摩郡へ抜ける小県郡側の関門の地でもある。西麓の沓掛温泉は平安時代の開湯が伝えられ、前述の薬師堂は湯治した滋野親王の眼病が完治した事から湯神を崇めて建立されたんだそう。

特に中世においてはっきりしない地域ではあるが、沓掛川の対岸、奈良本には滋野三家、祢津氏の分流、浦野氏の一族、奈良本氏があった。天文十年(西暦1541年)五月の「海野平の戦い」以降、惣領の浦野氏は村上氏に服属しているが、天文二十二年(西暦1553年)には武田氏に出仕、浦野、夫神、田沢、中狭、村松等の諸郷は依然として浦野氏とその一族等の知行地であった事から同氏に関係する要害であろうか。

お城は細尾根上に主郭と副郭の二段で構成されている。縄張図における通称2郭西側谷側前面に二重堀切(何層にも突き固められていたのか土塁の硬さにはびっくり!)、主郭東側山側背後に堀切、一騎駈けの細尾根を介してその先には二重堀切、この堀切を越えると城域は小高い小郭でフェードアウトする。更に勢い余ってずんずん進むと、尾根筋を南北に横断する山道が付き、此処には乗り越しの切り通し、城郭遺構ではないが、道は北方に位置する、夫神、田沢から通じ、最終的には南方の釜房へ抜けるものだと思う。辿る気持ちは毛頭無いが…

一般的には狼煙台や物見台の類いと認識されている。但し、コンパクトな縄張ではあるがしっかりとした丁寧な普請が見られ好印象、お気に入りの山城の一つだ。堀切等は埋まり気味だと思うが、主郭と副郭の削平具合や切岸のエッジの立ち方には感心させられる。山側から主郭を目指せば、眼前に立ちはだかるのは主郭のぽこりん、登る事さえ難しい。

再訪になるんだけど、びっくりしたのは沓掛温泉内の叶屋旅館で御城印が販売されていた事…「古城」ていう全国何処にでもある名称も別称に落ち着いて、新たに「荒屋城」の名称が付与されている。ちなみに他には、「石川陣場」、「平城」、「平城館」があるが、この内の一つでも訪ねた事があるよて人がいたら、その人は取り返しのつかない相当な異常者だ。御城印ブーム恐るべし、そして勇者、青木村をリスペクト…

※「古城」は「こじょう」ではなく「ふるじょう」と読ませる。

※◯◯シーズンは留山の筈…

※お城の存する夫神岳の西方尾根に登山道は付いていない。此処から山頂を目指すのだけは止めといた方がよい。

※縄張図を見ると一騎駈けの細尾根上には片落としの連続した3条の小堀切が付いているが、跨げる様な堀切をわざわざ設ける事に疑問を抱く。自然地形だろう。

※塩原牧の比定地〜奈良本の北方には「牧寄」の大字が残っている。

※「荒屋城」の名称〜南西麓に「荒屋」の大字がある。沓掛城じゃダメなのかな。

2024年12月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
小泉上の城[岡城  周辺城郭]



さて、山城に限っての話なんすけど、再訪する事て殆ど無いっすよね。余程の物件じゃなければ辛い思い出ばかりが蘇ってしまいどうしても敬遠してしまう。以前なら我武者羅に件数こなしていたおいらだけど、最近ではこれに気付いて1日に2城までて勝手に決めている。本人が納得のいく形でリア攻めを終わらせたい事がその理由だ。

今回紹介するお城も二度と行かないだろうてずっと思ってた。正攻法で登ると非常に辛いんすわ…比高は平均的な信濃の山城の2倍はあるし、奥もそれなりに深い。何だか登っても登っても辿り着かない感ぢ?…登山に全く興味が持てないおいらにとっては正に地獄のモーメント、登城中は気持ちを維持する事すら難しいんす。それでも再訪しようと決意したのは以前に撮影した写真を誤って全部削除してしまったから。やっぱし写真が無いとね〜

小泉上の城は岡城の北北東約2.8km、浦野川北岸(左岸)、標高933.1mの城山山頂から南方へ伸びる尾根上段上、標高約915mの小ピーク上平場を中心に立地する要害です。南東麓の新義真言宗智山派の寺院、驚覚山高仙寺の駐車場からの比高は415m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている前述の「高仙寺」を目標に設定して下さい。同じくGoogleマップに位置登録されている「大日堂」の南西側に位置する墓地の裏手から該当尾根に取り付く。が、非常に判り難い。別の登り方もある。西方の室賀集落から軽四駆で林道を進んで登り詰め、終点から徒歩で送電線の鉄塔用保安道を辿るものだ。但し、林道がもはや軽四駆でも走行が厳しい状況になっているんだそう。

築城年代は不明、築城者は小泉氏とされるが個人的には疑問を持っている。同氏については同じ岡城のリア攻めマップにある、小泉氏館や旗鉾館を参照して下さい。小泉上の城は小泉氏の詰めの城と推測されているが、縄張から推測するに単なるイカちぃ狼煙台や物見台の類いであったと考えている。

なんせ単調な尾根登山が大嫌い。しかも該当尾根は急峻な岩尾根なので普通に登れない箇所も多かったりする。前回と同じ道筋を辿る事を嫌ったおいらは、該当尾根東側直下に付く沢筋の林道を登り詰める事を考えた。が、最初は順調だったけど、途中で道は沢を渡って隣りの山尾根に続いてしまう…理論上はお城の後背地に当たる城山山頂に至る事が出来るとはいえ、凄まじく不安を感じたので…結局はこの場所から平均斜度50°以上の荒れた斜面を木々に掴まりながら四足歩行で該当尾根上までよじ登る事にした。標高約599m地点から直登開始、約40分をかけて該当尾根中段上の標高約718m地点に到達、時間は無駄にしたけど一心不乱になる事が出来たので逆に気が紛れて良かったのかもしれない。ちなみに直登中に結構な竪堀様地形にぶつかったんだけどこれはたぶん木下ろしの溝なんだろう。

お城は郭の総面積より堀系の総面積の方が遥かに大きいぱ〜ぷりんな縄張、城域には二重堀切2条を含む総計7条の堀切が設けられている。普請奉行は堀しか掘る事が出来ない阿保だったようだ。但し、送電線の鉄塔が堀切内に建っているので、二重堀切の1条は落とし込みの部分から推測される推定堀となっている。埋まり気味のものもあるとはいえ、主郭背後の堀切なんかは切れ味を十分保っていて嬉しい限りだ。又、主郭は二段とされているが上段の方は土塁と判断してもよいだろう。切岸には土留めの石積みが残滓として残る。

展望の良さは抜群だ。上田原、塩田平を眼下に収め、西方に目を向ければ特異な山容で知られる子檀嶺岳が眺望出来る。びっくりしたのは北方に埴科郡坂城町上平に存する岩井堂山が眺望出来る事…このお山の山頂部には荒砥城のリア攻めマップにある出浦城(別称は自在山烽火台だ。)が立地する。おいらが小泉上の城を村上氏の直轄普請も疑われる狼煙台や物見台の類いであったと考えるのはそれが理由だ。

※小泉上の城と呼ばれている訳だが、当然、下の城も存在する。口コミは気が向いたら。

※城山山頂部は地山であり城域外である。

※小泉上の城と小泉下の城は同一尾根上に立地しているが、個人的にはそれぞれが別の築城主体による普請であったと考えている。上の城の縄張は村上氏の城砦群のそれに酷似しているのだ。同氏による小県郡支配がどのようなものだったのかは知る由も無いが、被官化した小泉氏の知行地の内に繋ぎの狼煙台を築く事ぐらいは十分に可能であったろう。下の城とは切り離して捉えるべきではないだろうか。

※写真⑧、中央に見えるぽこりんが標高1223.2mの子檀嶺岳、青木(村)三山の一つであり、山頂部には同じ岡城のリア攻めマップにある子壇嶺城が立地する。比高は650m位…当然、小泉上の城より遥かに辛い…そして写真が今は無い…

2024年08月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
岡城



さて、岡城て言えば豊後国の国指定史跡が有名だけど、ちょ、ちょと待ってくれ、信濃国にも立派な岡城がちゃんとあるのれすっ!しかもみんな大好き武田ブランドすわ… 知らない方は己れの不明を詫びるがいいさ。…何でも豊後の岡城は総石垣の山城らしいけど、こっちの岡城は三日月堀に丸馬出(殆ど消滅…)を持つ平城なんすよっ!豊後の岡城にはこんな立派な土の遺構がありますかねっ!無いでしょっ!へへん、唇を噛んで悔しがるのも無理もないかな。他にも…

…書いてて虚しくなってきたんでこれくらいで勘弁しといたるわ…命拾いしたの…

岡城(古城・岡村城)は浦野川北岸(左岸)、標高約480mの河岸段丘台地上平場を中心に立地する要害です。平城だが崖地を介して浦野川を自然の水堀としており、川床からの比高は10m位ある。該地は近世の北国街道開通以前の主要道である室賀峠道の塩田平側の関門の地、該地から南行した後、西行して保福寺峠を越えれば筑摩郡とも連絡する。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は北側の岡公民館に捨てられる。

築城年代は不明だが、天文二十二年(西暦1553年)八月の塩田城自落の後である事に疑いは無いだろう。築城者は武田氏である。三日月堀と丸馬出の存在から馬場民部少輔信房の縄張とする説があるが何の確証も無い。

里老の口碑には、元は在地土豪、岡村権ノ左衛門平清氏の居館城であったとするものがある。その旧地を取り立て新た大規模な普請を行なったのが武田氏だ。

岡城は明確な目的を持って築かれた武田氏の要害である。前述の室賀峠道を扼す位置にあり、後の北信経略の重要拠点と成り得る、塩田城に代わる小県郡の拠点城として鍬立てされた。純粋に武田氏によって普請された要害は意外にも少ないが、要衝を選ぶ占地眼は流石の御屋形様、目の付け所が違う。

信玄は他国に討ち入ると地域支配の拠点城を築いて在地勢力をその城代の寄子とし、更なる支配領域の拡大に寄与させていた訳だが、この時代にあっては合理的な経営だったと考える。信濃に限って言えば、謙信はこれに倣って飯山城の普請を進めた節があるし、その養嗣子、景勝はこれを踏襲したばかりでなく、拠点城すら二次利用に及んでいる。即ち、天正年間(西暦1573年〜1592年)に景勝が城代を置いた、海津城、長沼城、牧之島城は全て武田氏の直轄普請である。

実は3回目の訪問、城域は広大でリア攻めが面倒、前2回の探索は炎天下であった事から中途半端な結果に終わっている。今回は全縄張を辿る事を目標にしてレンタサイクルを車に積み込んで臨んでみた。お城の現況は市営住宅団地の造成に伴い見る影もないが、そこかしこに遺構の断片が見て取れる。東西北に3箇所の三日月堀を持つ丸馬出を設けていたらしいが、残滓が残るのは東辺と北辺の2箇所のみ。プリミティブなそれを現地で感じ取るのも一興だ。アプリの登録城である事を理由に他の遺構にあっては語らないが、長沼城の占地や縄張との類似性を強く感じるのはおいらだけじゃない筈…

守りの面で不安を感じさせるて言われる戦国時代の平城だが、そんな訳があろう筈も無い。中世とは違い、諸勢力の再編成を進めた国持ち大名の軍役人数を推して量るべし。既に籠城人数が限定される山地の要害では事足りなくなっている。天正十年(西暦1582年)四月、川中島四郡を差配する森長可に対して人数約八千を以て一揆を起こした芋川親正が当初の籠城先に選んだのは平城の長沼城だ。手狭に過ぎ、籠城側の鉄砲運用も考慮されない信濃の中世山城は急速に陳腐化してしまった。おいらがこれ等に付き纏う大勢力による改修説に対して裏付けが無ければ否定するスタンスを取り続けるのも単純にそれが理由である。はっきり言えば改修する必要性が希薄なのだ。更に言えば、如何に主家筋とはいえ在地土豪等の知行地内の要害を勝手に選んで普請する事も出来ないだろう。牧之島城の例を挙げるならば、信玄は牧城(牧之島城の前身である。)を武田氏の要害として取り立てるために領主である香坂氏に対して先に所領替えを行っている。

武田氏の取り立てた拠点城を地域間を結ぶ線や面で捉えて考えるのは実に楽しい作業だ。お城として遺構や縄張を楽しむよりも遥かに有意義な事だと考える。

※写真見て、「比べ物にならないじゃん…」とか思った豊後の岡城推しの方…狂信的武田氏ファンを中心に結成された闇の実行部隊、「風林火山a.k.a.御旗楯無」の再教育プログラム、「湧き出るまで隠し湯掘り」を強制的に受講させられる事になるので自宅の戸締まりには十分注意しておくように…支部は安芸や若狭等、全国数箇所に及ぶので逃げ切る事は難しい。ちなみに湧き出たら隠してしまうので楽しむ事は出来ない。

2024年08月11日 _ClaD雅楽頭リアの季節
伊勢崎城(竹把城・三頭城)[岡城  周辺城郭]



尾根続きの三水城、狐落城とともに、武田信玄の侵攻に備えて村上義清が築いたと考えられます。村上氏の退去後は真田氏が利用したとの伝承もあります。

郭面積は小さく、城というより砦レベルですが、何重にも掘り下げられた竪堀が複雑に交錯していて(分かりにくいですが写真2枚目は堀の交差点)、そのアンバランスさに驚かされます。主郭直下の堀切は岩盤を掘削しており(写真1枚目)、そのまま竪堀となって落ちていきます。

城址としての整備はされていませんが、夏場でもそれほど藪にはならず、ほとんどの遺構を支障なく見ることができます。

室賀峠から三水城へのハイキングコースを進み、1キロほどのところで「擂鉢山」に登るとそこが城址です。そのまま三水城、狐落城へも歩けますが、帰ってくるのが大変なのでおすすめはしません。

2024年08月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
築地の堀の内館[岡城  周辺城郭]



さて、今回の口コミも堀の内…もう夏場はこの手の物件しか訪ねる気がしないんで勘弁してくれ。大体にして山に入る気ゼロのTシャツに短パン、VANSでアイスを食いながらリア攻めしている。ちなみに気温35℃の炎天下でアイスが辛うじて固形を保てる時間は約3分だ。カメラは常にべたべた状態、撮った写真もみんなべたべたしていると思う。

築地の堀の内館は岡城の東北東約3.8km、産川西岸(左岸)、標高約437mの河岸台地上平場に立地した居館です。該地は産川の蛇行点に向けて半島状に張り出す一帯であり、現在も「築地」、「東築地」の地名が大字として残っている。かつての築地屏で囲われた居館の存在がその由来だと考えられる。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。

築かれた年代は不明、お住まいになられていた方には泉氏が推測されている。泉氏といえば、大河ドラマ、鎌倉殿の13人でインパクトを残した鎌倉幕府御家人、泉小次郎親衡で有名、この親衡が地頭職だったのが該地を含む小泉庄である。ドラマ中でも謎な人物だったが、史実も謎であり、建暦三年(西暦1213年)の「泉親衡の乱」において捕縛を斬り抜け逐電し行方知れずとなった。小泉庄はこの際に後の三代執権、北条泰時に没収されている。

更に言えば、泉氏は出自もはっきりしておらず、清和源氏満快流、信濃守為公の後裔とも伝わるが確証は無い。小泉庄の地頭職だったとされるのも同様である。登場から没落までの期間が短く、残された一族等も鎌倉時代には閉塞を余儀無くされていたと考えられ、特に公に語られる事も無かったのではないだろうか。

実は2回目の訪問、前回は地区の清掃の日にぶち当たってしまいリア攻めは諦めてしまった。住宅地の中での探索は当人の精神衛生上の問題をクリアーする事が何よりも大事だ。

信濃のお城の神は「堀之内」の地名が残る場所から概ねの居館敷地範囲を特定しており、別に「上田小県誌」に添付された図から、半島状の河岸台地を南北に断ち切る横堀の存在も推測している。例によって城郭遺構は見出せないが、舗装道路の一部に堀跡を求める事は可能かもしれない。

嘉歴四年(西暦1329年)三月、諏訪社上社の神事に勤仕する武士等の結番を定めた鎌倉幕府下知状案、四番五月會分の条には、「左頭、小泉庄半分内上田原、津井地(築地)、穂屋(保野)薩摩守知行分、」とあり、該地の津井地(築地)は工藤薩摩守(薩摩氏)の知行地であった。既にこの時代には地名として「築地」と呼ばれていた事に注意されたい。

※「泉親衡の乱」〜親衡は、建暦元年(西暦1211年)から源頼家の遺児、千寿丸を征夷大将軍に擁立して、時の執権、北条義時を打倒しようと図り、郎党の青栗七郎の舎弟、僧籍にあった阿静坊安念を北条氏に批判的な御家人へ遣わし同心を求めていたが、建暦三年(西暦1213年)二月、千葉成胤によって安念が捕縛され、その自白により謀議は露見、親衡に与した御家人二十五人(「吾妻鏡」)が捕縛された。親衡は鎌倉の違橋(たがえばし)に隠れていたが、同年三月二日、遣わされた捕吏と斬り合いに及び、その混乱に乗じて逐電、行方知れずとなった。大河ドラマ、鎌倉殿の13人では突拍子も無い展開で視聴者を唸らせたが、それを可能とさせたのは出自も含めて親衡の生涯が謎に包まれていた事が何と言っても大きい。

※飯山を中心とする一帯に拠った、後の上杉氏の外様衆、泉八家はこの泉親衡の後裔を自称している。寛延元年(西暦1748年)に寄進された「和光明神像」の願主は、泉氏の嫡流家とされる尾崎氏の歳就と福秀、由来を示す厨子内部の銘によれば、寄進先の祭所は、源義平、泉親衡、泉重望の三名を祀っている。

※写真⑦は居館地を取り巻いて流れる産川を撮影したもの。

※写真⑧は信濃のお城の神が付近一帯から居館地として纏まりのある場所だとして提起した七社宮を撮影したもの。周囲を土塁が巡っているがどうなんだろう。

2024年07月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
岡の古城館[岡城  周辺城郭]



岡の古城館は岡城の北西約0.3km、浦野川北岸(左岸)、標高約490mの河岸段丘台地上平場に立地したと推測される居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「宗安寺」を目標に設定して下さい。この寺院とその周辺一帯が該地と推測されている。車を斜めに捨てても誰も困らない程の駐車場も付いている。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。該地の南側は保福寺街道に接しているが、周辺地域における同街道の道筋は、律令制下における東山道の道筋と殆ど同じくしている。西方には同道の駅家、「浦野の駅」が置かれており、往古には信濃国分寺へ通じる交通の要衝であった。

まず、色物物件である。「信濃の山城と館3、上田・小県編」に掲載がある。信濃のお城の神は、「長野県町村誌」、「岡村清氏之城址略図」から、西方、同じ岡城のリア攻めマップにある物見松砦を「古城山」と捉え、該地に残る「古城」の地名を、この「古城山」の根小屋のあった場所ではないかとの推測を提起している。「古城」の地名を直近に位置した岡城の跡とはしない考察だ。

該地に建つ浄土宗の寺院、長廣山光明院宗安寺の寺伝によると、寺の起こりは寛仁年間(西暦1017年〜1021年)、二代の僧が惠信作の阿弥陀如来像を祀ったのが始まり。当初は帰命山正善寺と号したらしい。後に足利義澄の臣、藤木刑部長廣が、永正七年(西暦1507年)、上杉顕定に反乱した長尾為景に同心する高梨康行(?)の討伐に加わり、恩賞として当地を拝領、同名は享禄四年(西暦1529年)六月十三日、当地で没し、天文元年(西暦1532年)、その菩提を弔うために一院を建立、長廣山光明院遍照寺と号した。天文十六年(西暦1550年)、「上田原の合戦」の際に兵火により焼失…

…慶長十年(西暦1606年)、上田藩真田家の家臣、当地を給地とする日置五右衛門尉尹俊が同寺の堂宇無きを憂い、藩主(信之)に願い出て寺域を「古城」と称して再建、寺号を宗安寺と改める。

宗安寺の旧地は岡城の南西方、浦野川沿いの寺軒町にあったとされるが、寺地の移動時期にあっては寺伝でも不明である。実際に該地が居館地として存在したと仮定すれば、享禄四年以前の事であろうか。もしくは宗安寺の境内から外れた場所だったとも考えられる。又、町村誌の略図から、在地土豪、岡村権ノ左衛門平清氏(寺宝に「信濃守権左衛門 平清氏の系図」が伝えられている。)の居館地だと単純に考えていたが、寺伝を見ると、藤木刑部長廣がその主だった可能性の方が高いと思われる。

…まぁ、そもそも論で信濃のお城の神が提起する推測地なんで…リア攻めはお寺さんをお参りに来た…ぐらいに考えて軽く流そう。宗安寺は上田藩藩主(松平伊賀守)からの庇護を代々受けていたようで、寺宝には三点の寄進物が伝えられているんだそう。ちなみに裏山には「姫君墓地」と呼ばれる、二代藩主、松平伊賀守忠愛の息女、りき姫の墓所がある。姫は同寺で療養していたが、快復叶わず齢七歳で病没、夭折した。数年前に物見松砦からの下山時に目の前を通り過ぎただけだったんで改めて再訪しよかなとか思ってたんだんけど、面倒になったのでパス…滅茶苦茶立派な墓碑だったとだけ書いておく。

※写真⑥は寺域に残る信濃じゃ珍しい築地屏で囲われたミニ桝形、目的としては下馬を強要するものなんだろう。現在は周囲との連続性が皆無である。

※写真⑦は該地から門前町の「寺家町」を撮影したもの。

※写真⑧、背景の山稜が標高1250.3mの夫神岳、沓掛温泉の裏山に当たる。登山道とは重複しないが、中腹には岡城のリア攻めマップにある古城が立地する。

2024年07月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
旗鉾館[岡城  周辺城郭]



旗鉾館は岡城の北東約2.0km、浦野川北岸(左岸)、標高約461mの河岸段丘台地上平場に立地した居館です。該地は北側に西ノ沢の流れがあり、同沢と南側直下を流れる浦野川に挟まれて周囲から孤立した狭小な長方形状の微高地を形成している。広く見れば、北方、標高933.1mの城山山頂から南方へ伸びる山尾根が浦野川に消える場所でもある。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所はそこら辺でよいだろう。リア攻め中に駐車場所から遠ざかる事は無いしね。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは小泉氏です。同氏については同じ岡城のリア攻めマップにある小泉氏館も別に参照して下さい。今回の口コミでは武田氏被官時代について文書を中心に据えて語ろうかなと思ってる。

村上氏に従っていた小泉氏は、村上義清の信濃退去後、天文二十二年(西暦1553年)四月頃に武田氏に出仕したと推測されている。「甲陽軍鑑」には、「小泉氏二十騎の将」とあり、永禄九年(西暦1566年)に提出されたと推測される、生島足島神社文書中の「小泉重永同宗貞起請文」によれば、小泉喜泉斎重永、小泉内匠助宗貞の両名が連署して起請文を差し出している。

元亀三年(西暦1572年)七月晦日、小県郡内の各国衆へ宛てた、春日弾正忠(虎綱)、内藤修理亮(昌豊)発給、武田信玄朱印状によれば、小泉宗(総)三郎(昌宗)等が、分国より闕落(欠落〜逃散を意味する。)した信濃各地の百姓等の徘徊するを召し捕り知らせるよう指図されている。ちなみにこの書状、びっくりする事に対象の百姓等の名が郷村名と事由を付されてずらりと並んでおり、当時の武田氏による郷村支配の実態を一部垣間見る事が出来る。

又、天正三年(西暦1575年)十二月十六日、小泉総三郎(昌宗)宛、武田勝頼條目案によれば、武田勝頼は、来歳中に、尾張、美濃、三河、遠江の間に至り、干戈を動かし、当家興亡の一戦を遂げる旨の決意を示し、小泉総三郎には、軍役等において様々な条目を定め、その支度を肝要にするよう求めている。

天正十年(西暦1582年)、武田氏の滅亡によって牢人したらしいが、旧川西村には小泉家があったらしく、上記書状は同家の所蔵であった。少なくとも時期不明なるも、一族の何某かが該地の周辺において帰農した事に間違いは無いんだろう。ちなみに真田氏に出仕したとの説もある事から、天正十年以降の真田氏家臣団を軽く探ってみたが小泉氏の名を見付ける事は出来なかった。

居館の現況は耕作地、空地、一般住宅とその敷地等となっている。該地は信濃のお城の神が現況から選び出した比定地ではあるが、神が言う、「旗鉾の地籍で居館をおくに適した所は、西ノ沢と浦野川との間の台地位しか考えられない。」には納得させられる。現在、台地は市道が東西に掘り割って通っており、これに大きく分断されてはいるものの往時の敷地範囲は想像し易い。城郭遺構は頑張っても見出せないが、浦野川と西ノ沢を自然の掘とする要害地であった事は十分に窺える。

該地の北方、上段の段丘台地上には、別に小泉氏の居館跡として小泉氏館が位置するが、居館地としての両者の位置付けと関係性は不明である。同時代の共存を可能とするならば、小泉氏館が宗家の居館、旗鉾館は一族の何某かが居したものであろうか。

旗鉾館、その上段の小泉氏館、更には北方の城山中腹と山頂付近にはそれぞれに同氏の要害、同じ岡城のリア攻めマップにある、小泉下の城と小泉上の城が立地する。在地土豪の居館と要害の関係性を知る上では適当な教材となるだろうし、広く見れば地域支配における枢地の典型を学ぶ事が出来る。

※天正十年、隣接する小県郡室賀郷に拠る室賀氏の家督相続に際して、室賀満正に従属する意志を示していた被官の滝沢八兵衛が、満正の急死、正武への相続後に小泉氏へ離反する騒動が発生している。文中にある「武田氏の滅亡によって牢人した…」は誤りだろう。

※写真には去年の同時期のものが2枚含まれている。判ったら凄いや。

2024年07月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
小泉氏館[岡城  周辺城郭]



小泉氏館は岡城の北東約2.1km、浦野川北岸(左岸)、標高約480mの山間鞍部、河岸段丘台地上平場に立地した居館です。該地の東西は何れも北方、標高933.1mの城山中腹から流れ出る沢によって深く削られ、城山南東尾根から続く台地は舌状台地を形成している。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は思い切って上段に位置する真言宗智山派の寺院、驚覚山高仙寺の駐車場に捨てるのがよい。同寺内の大日堂は必見だし、同じ岡城のリア攻めマップにある小泉上の城、下の城の登城路入口もこの寺院の墓地の中にある。基礎体力と元気があったらそのまま上の城まで登るがいいさ。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは小泉氏です。同氏については同じ岡城のリア攻めマップにある旗鉾館も別に参照して下さい。該地は小泉庄に属し、嘉歴四年(西暦1329年)三月、諏訪社上社の神事に勤仕する武士等の結番を定めた鎌倉幕府下知状案、十番五月會分の条には、「…間郷地頭等、小泉庄内前田、岡村泉小二郎知行分、」とある。当時の小泉庄は各氏による分割知行地となっていたが、少なくとも前田、岡村は泉小二郎の知行地であった事が判る。

泉氏といえば、大河ドラマ、鎌倉殿の13人でインパクトを残した鎌倉幕府御家人、泉小次郎親衡で有名、この親衡が地頭職だったのが小泉庄である。ドラマ中でも謎な人物だったが、史実も謎であり、建暦三年(西暦1213年)の「泉親衡の乱」において捕縛を斬り抜け逐電し行方知れずとなった。小泉庄はこの際に後の三代執権、北条泰時に没収されている。

…小泉氏をこの親衡の実父、公衡の後裔とする説が定説のようになっている訳だが、伝承以外に何かしらの根拠はあるのだろうか。嘉暦四年の泉氏と親衡を結び付けるものがあるとしたら、「小次(二)郎」の通称のみであり、果たして同一氏族として扱ってよいものなのか非常に悩むところだ。例えば、残された泉氏の一族に復権があり(公衡の子、公信は、直後の「和田合戦」において幕府方として討死している。当初から「泉親衡の乱」に加担していなかったとも考えられる。)、小泉庄内で改めて知行地等を安堵された…等の推測は出来るのかもしれない。但し、全く別の氏族が、同庄内の泉、小泉を知行地とし、単にそれぞれの在名を名乗ったものだとも考えられる。この辺りの事情をはっきりとさせる史料は無く、後世の研究も敢えてスルーしているように思える。村上氏の一族とする説もあるようだが、結局は永遠に答えの出ない謎、どうやら考えるだけ無駄なようだ。

武田氏による信濃経略以前の小泉氏は村上氏に従っており、千曲川の対岸、常田庄内にも足跡を残している。上田市の虚空蔵山の南西麓には上塩尻、下塩尻の大字が残るが、時代不明なるも塩尻五郎左衛門なる人物があり、その出自は小泉氏であったとする伝承が残っているらしい。又、真田氏が築城した上田城に今も残る小泉曲輪の位置は同氏の城館跡とも伝えられており、千曲川沿いの常田庄房山を中心とする一帯がその知行地の一つであった可能性も探れる。

居館の現況は耕作地、一般住宅とその敷地等となっている。舌状台地の先端部を活用、ある程度の要害性を伴い、武士の住まう居館地としては適地だろう。但し、城郭遺構は頑張っても見出せず、北辺が何処になるのかの判定も難しい。ちなみに無人となった一般住宅の入口には付近から出土した五輪塔が積み直されて?崖端にひっそりと佇んでいる。

…前述の大日堂は室町時代後期の建立と推測され、長野県内に残る中世の大規模仏堂の遺構としては唯一のもの。虹梁などの部材には皮つきの粗末な物も使われている事から、戦乱を理由とするのか、当初から未完成であったとも推測されている。寺社については浅学で語れないんでスポット登録だけしておく。

※写真⑤は居館地西側に隣接する十王堂っす。

※写真⑧は上段、高仙寺の駐車場から塩田平を眺望したもの。背景の特異な稜線は独鈷山系山塊、最も高い頂上が標高1266.4mの独鈷山、山頂には塩田城のリア攻めマップにある峯小屋城が立地する。比高は650m位、滑落して人が死ぬよな岩山、阿保だけ登るがいいさ。

2024年05月22日 内記かずりヾ(・ε・。)
尾曽野兵庫亮勝長屋敷(小曽野屋敷)[岡城  周辺城郭]



尾曽野兵庫亮勝長屋敷(小曽野屋敷)は岡城の北東約1.1km、浦野川西岸(左岸)、室賀川南岸(左岸)、標高約467mの河岸段丘台地上平場に立地した屋敷です。該地は地図を見れば一目瞭然、室賀峠口を押さえる関門の地に当たる。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車はそこら辺に捨てられるレベルだ。台地上には西方から該地に至る農道が長く伸びている。が、おいらはそんな道が付いている事も露知らず、南側の台地直下から激竹藪の急な斜面を直登した。台地上に上がって農道を見付けた時には凄くブルーな気持ちになったよ…

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは尾曽野兵庫亮勝長です。同名は「長野県町村誌」によると、「…勝長は清氏の重臣にして、主の戦死を聞き自害すと、古老の口碑なり。」とある。すっ飛ばし過ぎてよく解らない記述だが、清氏は該地周辺の在地土豪、岡村権ノ左衛門平清氏の事であり、勝長はその被官の一人、時期としては、建武二年(西暦1335年)の「中先代の乱」後が推測され、北条氏に近い立場だった岡村氏は乱の終息に伴い近隣の浦野氏の征討を受けたものと考えられる。更に想像を逞しくすれば、乱に際して埴科郡坂木に城砦を築いて周辺諸氏を集めた坂木の南条と北条の地頭職、薩摩氏一族に同心した清氏が村上信貞の征討を受けて同地で討死、これを聞いた在地に留まる勝長が自害に及んだものとも考えられる。

浦野川と室賀川による侵食だろうか、台地は該地の部分で舌状台地を形成しており結構な要害地形である。屋敷の現況は竹林、耕作地等となっており、縄張図における通称1郭には送電線の鉄塔が建っている。遺構としては通称1郭と通称2郭を隔てる堀形の残滓が北側斜面に残るとされるがよく判らん。又、信濃のお城の神は一言も触れないが、縄張図外に台地を分断する堀形が綺麗に残ってる。後世の台地へ上がる道なんだろうけど、堀形を通したものだとは言えないのだろうか。

地図を見てたら該地の西方に「兵庫」の地名を見付けた。律令制下における兵庫は「つわものぐら」、「へいこ」であり、簡単に言えば武器庫の事である。地名はその名残りなんだろうか。尾曽野兵庫亮勝長の受領名から取られたものとも考えられるが、そもそも論で尾曽野氏とは兵庫に関わり土着した古い歴史を持つ氏族なのかもしれない。

※南方の保福寺峠を越えた東山道は該地の南東方に位置する浦野駅を通って千曲川を渡り信濃国分寺に至る。駅家に関わる兵庫が存在しても何ら不思議な事ではないように思う。

※写真①は要るのか知らんけど南側下段から撮影した近景っす。ちなみに写真に見える青い倉庫の裏手から直登する阿保っぷり。リア攻め前に周囲の状況確認を怠った結果だ…戒めとしよう。

※写真②、⑥、⑦に見られる背景のぽこりんとしたお山の山頂付近が同じ岡城のリア攻めマップにある小泉上の城、比高は何処から登っても400m以上だが、気合いを入れて林道を車で進めば苦労しない。

※写真⑧は竹林と化した通称1郭に建つ送電線の鉄塔、マニアだけに贈りやす。

2024年05月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
安保氏館(御屋敷)[岡城  周辺城郭]



安保氏館(御屋敷)は岡城の北北西約2.4km、室賀川北岸(左岸)、標高約520mの河岸段丘台地緩斜面上平場に立地した居館です。居館地の後背には中世の室賀峠道が通り、北西側の山稜尾根下段上には同じ岡城のリア攻めマップにある跡部城が立地する。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車も居館敷地南側の上手組集会場に捨てられる。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは安保氏です。同氏は武蔵七党の一党、丹党の一氏、武蔵国賀美郡安保を本貫地とし、謂わゆる信濃の在地土豪ではなく歴とした鎌倉幕府の御家人、得宗家の御内人である。北条氏との結び付きの強い惣領家は鎌倉幕府の滅亡と共に衰亡し、建武二年(西暦1335年)の「中先代の乱」において滅亡するが、分家の安保光泰は足利尊氏に従っており、後には建武政権により旧跡を安堵され惣領家を継いでいる。

元弘三年(西暦1333年)十二月廿九日、足利尊氏下文には、「下 安保新兵衛尉(光泰) 信濃國小泉庄内室賀郷地頭職事 右以人、為勲功之賞所補彼職也、早任先例可領掌之状如件、」とあり、安保新兵衛尉光泰が勲功の賞として信濃国小県郡小泉庄室賀郷の地頭職に補任されている。又、建武三年(西暦1336年)十二月十一日、足利直義下文によれば、丹後権守と受領名を変えた光泰が室賀郷を含む各地の地頭職(安保氏旧跡)を安堵されている。名実共に安保氏の惣領家を継いだのはこの時だろう。ちなみに光泰の室賀郷地頭職補任が「中先代の乱」以前の出来事である事に注意されたし、一族は二分して乱に臨んでいる。

暦応三年(西暦1340年)八月廿二日、安保光阿(光泰)譲状案によれば、室賀郷の地頭職は光泰の子、惣領である中務丞泰規に譲られている。但し、庶子分も含む細かな分割相続であり、旧室賀村に残っていた、「そしだ(庶子田)」、「そしいり(庶子田入)」の地名はそれを表していたと考察されている。

居館の現況は耕作地、耕作放棄地、一般住宅とその敷地等となっている。例によって改変著しいと思われるが、直感的に武士の住まう場所としては適地だと誰もが思う筈…遺構がどうかは知らんけど、居館の敷地内には井戸跡が確認出来たりもする。中段に鎮座する小祠は付近にお住まいの土屋さんの氏神だが、祭祀はここ最近で途絶えたんだそう。又、堀形や土塁様地形も見られるが往時のものとは考え難いように思う。

該地には「御屋敷」の地名が残り、居館地南側のバス停の名称も此処から取られている。リア攻め当日に畑の水やりしていたお爺ちゃんの話すところによると、付近にはかつて「関塚」と呼ばれる土盛りが残っていたそうで、一帯は室賀峠道の関所の様な場所だったのかもしれないとの事、又、峠道は周辺において中世、近世、近代で道筋を変えているとも言っていた。聞き込みはやっぱり大切だなぁ…その内に語る人は物理的にいなくなる。此処に記録して留めておこう。

※安保氏は全国の各地に地頭職等を得ている。出羽の松山城のリア攻めマップにある田尻館は分流の居館跡の一つだ。ちなみに「あほ」とは読まず「あぼう」が正解っす。

※写真①、後背の送電線の鉄塔が建つ山稜が跡部城っす。

※写真④は井戸跡を撮影したもの。最近まで現役だったらしい。

※他人から見たら本当に楽しいの?とか言われそうだけど、おいらは今回のリア攻めを心底楽しんでいる。

2024年05月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
跡部城(御屋敷城)[岡城  周辺城郭]



跡部城(御屋敷城)は岡城の北北西約2.7km、室賀川北岸(左岸)、標高922mの三ツ頭山から南方へ伸びる尾根下段上、標高約633m地点の平場に立地する要害です。南麓の上手組集会場からの比高は120m位でしょか。該地の山稜は室賀峠道を直接扼すが、中世の道筋は現在と異なり山際を通る。

行き方はGoogleマップに位置登録されている前述の「上手組集会場」を目標に設定して下さい。此処から同じ岡城のリア攻めマップにある安保氏館を右手に見ながら舗装道路を山に入って行く感じで進む。最後の民家の南側に切通しが見えるのでこれに入って該当尾根に取り付く。尾根道はそのまま送電線の鉄塔用保安道だ。が、事前情報を確認しないと非常に判り難い。おいらは現地で見付ける事が出来なかったので急な斜面を適当直登する羽目に…

築城年代は不明、築城者は室賀氏になるんだろうか。大河ドラマ、真田丸で一躍全国区の有名氏族へと成長したけど、西村雅彦さん演じる正武が当主だったのは僅かな期間でしかない。ちなみに大身の旗本、幕臣として存続した同氏は、十五代将軍、慶喜の代には甲斐守正容が御側御用取次となり、文字通りの側近となっている。同名は写真が残されているが、これを見る限りすっきりとしたなかなかの男前だ。

お城は細尾根に2郭で構成される蓮根みたいな縄張、堀切が3条付くが、何れも埋まり気味で素人には1条しか判らん。そもそも論で城域内は松枯れの倒木が折り重なり鑑賞するには非常に厳しい現況となっている。眺望すれば塩田平の前山が見通せるのがせめてもの救い。室賀峠道を押さえる砦てよりは峠口の狼煙台や物見台の印象だ。

武田信玄は、永禄九年(西暦1566年)からその翌年にかけて家臣団と被官衆に起請文の提出をそれぞれに求め、差し出された物を小県郡の大社、塩田城のリア攻めマップにある生島足島神社に納めている。室賀氏当主、山城守信俊も単独での提出が認められるが、村上氏分流である同名は武田氏に警戒されていたようで、当主とは別にその一族等にも起請文の提出が求められている。即ち、生島足島神社文書中の「室賀経秀等連署起請文」がそれであり、文中には特に次の一条が書かれている。

「一 山城守(信俊)所へ自敵地、計儀之使書中罷越候をかくし被申候ハ、直様可申上候、御一戦之砌、山城守ニ未練之意見申間敷候、況自分ニ未練致間敷侯事」

…大意としては、「山城守の所へ敵方から謀事の使書が届き、山城守がこれを隠し立てすれば直ぐに申し上げます。一戦の折には未練がましく山城守に意見は致しません。ましてや自分が未練する事も致しません。」となる…小さな惣領制の枠組みを越えて一族等に当主の監視を求めると同時に場合によっては当主と一戦する覚悟さえも神仏に誓わせている。同時期に提出された他の起請文と見比べても特異な例だが、当主、信俊には、上杉氏からの調略を受けて隠し立てしていたて過去があるのかもしれない。

※「室賀経秀等連署起請文」〜連署したのは、治部少輔経秀、常陸守正吉、甚七郎吉久、堀田豊後守之吉である。豊後守之吉は親族衆麾下の人であるが、他の三名は何れも当主、山城守信俊の舎弟である。

※写真①、②は尾根末端部に建つ虚空蔵堂っす。たぶん野生動物の棲み家と化している。

2023年10月30日 尼崎城山城守一口城主
岡城



8月18日、信州の武道家さんに案内して頂き登城。まず案内板(写真①)と岡城跡の標柱(写真②)を撮影。城跡の住所の<岡字城(おかあざしろ)>の部分は分かりやすく覚えてしまいました‼️
案内板の図から本丸は団地の居住地になっていたので岡城公園を散策(写真③④⑤⑥)
岡城公園奥の一段高くなっている所に<岡村城の由来>(写真⑦)があり読んでみると、戦国期に武田方の馬場美濃守信房が築城するかなり前の弘仁二年岡村権之左衛門尉平清氏が当地に築城したとのことが書かれていました。写真①の案内板より、永禄三年(1560)松代に海津城を築くまでの六年間、武田勢の川中島進出の貴重な前線基地であったこと、そして現在は旧形をたどることができる貴重な遺構であることが書かれていました。
最後に岡城公園を下の堀の方から撮って下城(写真⑧)
※当日はもう少し城跡外周を周れる範囲で散策して奥の三日月濠目指してみたら良かったかなとやや後悔しています😅リア攻めされる予定の方はじっくりと写真①の案内板🪧を読んで散策をお勧めです。

2021年04月06日 eiki
子壇嶺城[岡城  周辺城郭]



上田市の塩田平に聳える標高1223メートルの岩山、子檀嶺岳の山頂に築かれた城、登山口駐車場から約2時間の登りで到着します。山頂には神社が祭られ、平坦な郭になっています。徳川氏と真田氏による上田合戦が繰り広げられた時に真田幸村の家臣で鎌倉北条氏の末裔である塩田衆が謀反を起こし籠城した城で、見るからに難攻不落な岩山です。長野県東信地方はそこいらに山城が点在し、山城好きには行き先に事に事欠かないでしょう。写真は右前の丸い山は
女神岳城が築かれていた女神岳、その左背後の山頂部が鋸状の山は塩田城が築かれていた独鈷山

2021年03月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
西城[岡城  周辺城郭]



HIGHLY RECOMMENDED!!!

西城は岡城の西方約4.7km、標高1223.2mの子壇嶺山から南方へ延びる尾根の一つ、標高796mのピークの一つに主郭が存します。南麓の長野県道143号線からの比高は220m位でしょか。

築城年代、築城者は不明ですが、お城の存する青木村付近一帯は奈良本氏や田沢氏といった土豪が南北朝時代には在地していたようなので両氏の何れかに関係するものなんでしょか。まぁ昔の事なんでよく判らねぃよて感じですかね。ただ真田氏の利用は確実なところで、関ヶ原の戦いの際にこの子壇嶺山周辺のお城は余波を受けたらしく、ちょっと眉唾物の合戦記録なんかもあったりします。

お城の西麓には保福寺街道が走り、四賀を通過して松本へ抜ける事が出来ます。街道は途中で青木峠道に分岐し、こちらは麻績の方へ抜ける事が出来ますが名高い心霊スポット明通トンネルがある等、夜間のソロ運転は止めときましょう。

行き方は同じ岡城のリア攻めマップにある寺山の砦を参照して下さい。お城はこの砦から直ぐの場所に存します。山麓から寺山の砦を経て西城までは比較的楽に訪ねる事が出来ます。

お城は素晴らしいです。前哨である寺山の砦で膨らんだ期待感を遥かに上回る遺構の存在に大興奮する事間違い無し!冷静に考えてみても小県郡のお城の中ではトップクラスです。つまんない事は語らないので是非現地で確認してみて下さいまし。特に主郭北側山側背後の大堀切は麻績古城以来の巨大さでした。

このお城の城域北端部を過ぎると標高812mの湯坂山山頂に至ります。これから向かう東城へ行く為に適当に歩いていた(迷っていた…)んですが、この山頂の西側斜面に5条の畝状竪堀を発見しました。特に埋もれてた訳でもないこの遺構(ただ登山道からは外れる。又、お城目的だと湯坂山まで登らない。)、調べてみても縄張図はおろか何処にも記載が無い…自分的にも何でこれがスルーされているのかが不思議なところなんですが、明日物好きな城友さんがこれを確かめに行くそうなのでその結果を待ちましょう。

※お城のある青木村は大好きなんですが、青木村は村内に多くの宝物を持ちながら山城にはあまり積極的ではない…標柱や案内板が立っているのは眉唾物の石川軍陣地跡と黒丸城だけだったと思う。教育委員会さん…勿体無いです。

2021年03月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
子壇嶺城[岡城  周辺城郭]



子壇嶺城(こまゆみじょう)は岡城の西北約5.0km、標高1223.2mの子壇嶺山山頂に主郭が存します。南麓の長野県道143号線からの比高は650m位でしょか。子壇嶺岳城、冠者岳城、火車ヶ岳城、烏帽子形城とも呼ばれるらしいですが、他城(子壇嶺山山塊には他に砦が一つ、お城が四つあります。)との混同も入ってるかもしれません。

行き方は子壇嶺山で検索して下さい。腐る程情報が溢れてます。子壇嶺山は青木三山の一つに数えられる古来から信仰の対象であった低登山で人気のお山でして、未知との遭遇に出てきそうな特異な山頂部の形状は一度見たら忘れられない山容となっています。山頂へはトレッキングコースが複数整備されていますが、普通に登って80分…山容から想像出来るとおり最後は急坂が待ち受けてます。ちなみに山頂で出会ったジモティーの方は別ルートから20分で登った剛の者でした…

お城は山の両肩に物見台を持つ単郭のお城です。この標高と比高で山頂にあるお城なんて眉唾物に感じると思いますが、明確な遺構が残されている上に実戦記録もあるらしく、真田信幸に攻められ落城したとされています。築城年代、築城者は不明ですが、この山から南方へ延びる尾根の一つに存する西城の詰城、物見砦と考えるのが自然でしょう。お城には他に帯郭、堀切なんかが確認出来ますね。

山頂部からのロケーション(天気が良ければ八ヶ岳も見える。)は流石に感動もの!このお山は突拍子もなく周囲の山塊から頭一つ抜け出してますので下手な高山より眺めがよいです。登ってる最中はもの凄く遠く高く感じて諦めそうになるんですが、その苦労も一気に吹き飛びますよ!

お城目的で単独訪問すると登下城時間が98%です。山塊に存する周辺諸城と併せて訪ねましょう。その際は単純に尾根筋を進めばよい訳では無く綿密な計画を立てる事が必要になると思います。縦走途中で城友さんにLINEで尋ねるなんて事は避けたいものですね。



2021年03月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
二場城[岡城  周辺城郭]



さてさて城友さんが作成してくれた二場城の口コミに相乗り〜

二場城(せいばじょう)は岡城の西方約2.3km、標高932.4mの飯縄山(いいずなやま)から南西へ延びる支尾根上、標高624mのピークの一つに主郭が存します。西麓からの比高は60m位でしょか。お城の東方には見返りの塔として有名な国宝大宝寺三重塔があったりします。ちなみに飯縄山山頂にも飯縄城と言う現況非常に怪しい遺構のお城があったりもします。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。城友さん口コミのとおり、お城付近一帯は重機が入り丸裸になってますので近くに来れば直ぐに判ります。

お城は北方に存する素晴らし過ぎる黒丸城の支城とされています。黒丸城が少し引っ込んだ場所にあるので街道筋を監視する物見砦だったと推測出来ます。現況はほぼ単郭の縄張なんですが、尾根筋を介して南にある祠のある削平地にも郭があったかもしれません。主郭には腰郭が付き、削れてはいますが土塁が、主郭背後には浅くなってはいますが連続堀切が確認出来ます。

本城とされる黒丸城は朝倉氏の手によるものです。この朝倉氏は越前朝倉氏の流れと考えられており、戦国時代の当主は朝倉氏発祥の地である但馬守を名乗っています。二場城の南麓付近には朝倉家の墓碑銘を持つ墓が多数存しており、越前朝倉氏の流れを正しいものとするならば、遠い信濃の地で脈々とその血を繋いで来たと言えるでしょう。国宝大宝寺三重塔に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。



2021年03月14日 赤かぶ【】
二場城[岡城  周辺城郭]



青木村押出地区にある二場城は北の尾根にある黒丸城の出城だったとも言われてるお城です!

准胝観音堂の裏手の墓地の間を抜け登城しました。
このお城のある山は最近里山再生事業で木々が伐採の為重機が入ったんですが、その痕跡がある意味凄いんです……

作業道を横切り上へ登って行くと曲輪が見えてきます。
二の曲輪は南斜面を中心に主郭の周囲3分の1くらいを囲んでいました。
主郭背後(北側)には二条の堀切を見る事が出来ますよ♬︎

お時間ある方は黒丸城とセットで巡ってみて下さいませ☀︎
① 准胝観音堂
② 二の曲輪
③ 主郭
④ 主郭背後の切岸
⑤ 主郭直後の堀切
⑥ 主郭北側の堀切

2020年12月16日 赤かぶ【】
黒丸城[岡城  周辺城郭]



今回は主郭背後を通る林道から登城してみました。
青木村当郷地区から上田市上室賀へ抜ける細い山道を車で進みます、山火事用心の赤い看板をしばらく行くと進行方向右側に路肩が広くなった所があり、そこに車を停めます。
この先車では行けません飯綱山林道を歩いて行きます。
他のネットの情報で城域まで15分とありましたが30分かかりました!足が短いからかもしれません(笑)
進行方向右側にカーブミラーとすぐ後ろに土塁が見えるのですぐ分かると思います。
主郭背後の3連続堀切が直ぐに見る事が出来ます!
高低差の切岸も必見です!!
ちなみに上室賀に抜けると「黙れ小童!!」で有名な室賀正武氏の城 笹洞城のすぐ近くに出る事が出来ます!
日帰り温泉施設もありますので併せて訪れてみてはいかがでしょうか。。。

2020年02月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
黒丸城[岡城  周辺城郭]



黒丸城は岡城の西北約2.6km、標高932.4mの飯縄山の南西中腹、西南へ延びる支尾根上、標高738mのピークの一つに主郭が存します。南西麓からの比高は140m位でしょか。

築城年代は不明ですが、築城者は朝倉氏で、戦国時代の当主は朝倉但馬守と伝えられています。朝倉但馬守は当初村上氏に従っていたようですが、後に武田氏に降ったとされています。

行き方はGoogleマップに位置登録されている西南麓の阿鳥川神社を目標に設定して下さい。車を捨てたら神社から北方へ延びる道を200m位徒歩で進みます。すると左手に道祖神が見えると思いますので、この道祖神脇の道からお城のある尾根に取り付く事が出来ます。

朝倉但馬守で黒丸城?と疑問に思われた方がいらっしゃいましたら、立派な朝倉氏ファンですね!越前朝倉氏の本流は但馬朝倉氏、但馬の朝倉城はこのアプリにも登録されてます。越前朝倉氏が一乗谷に移る前に本拠としていたのが福井県福井市黒丸町にある黒丸城(小黒丸城)…この長野県小県郡青木村にある黒丸城と越前朝倉氏に何らかの関係があると考えるのが自然ですよね!

お城は素晴らしいです。比高はそんなに無いし、道?も緩やかなのでリア攻めに集中出来ます。お城のある尾根上は傾斜が緩い為か段郭を連ねて守り主郭までそれが続きます(主郭も土塁を含めて3段、帯郭付き。)。通称ニ郭周辺からこのお城は濃くなってきて、通称ニ郭南側の堀切と高い切岸、そして通称ニ郭の細長い削平具合は思わずシートを広げておにぎりを食べたくなるほど。又、主郭のぽこりん感と整備具合には思わず「ありがとう!」と呟くことでしょう。主郭北東側山側背後の三連続堀切+竪堀はこのお城のハイライト!主郭から1条目の堀切には絶句すること間違い無し!主郭の土塁に登る→堀切を見下ろす→降りれない事に気付く…こんな感ぢ♪他の2条も長い竪堀の方が明瞭で萌えまくり。主郭西側斜面には連続竪堀も付いていて現地ならばはっきり確認出来ます。

縄張図の城域外の部分に、考えてみると楽しい謎も多いんですが、攻城後に軽やかな爽快感(夏場は知らん。)を覚えるお城ですので、国宝大宝寺三重塔に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2017年06月10日 左衛門佐 だのつく人
岡城

岡城公園の近くにある、岡団地という団地がありそこが本丸だと思います。その周辺に、堀や土塁があります。

2014年12月11日 志能便左京大夫
岡城

本丸南側にある住宅地に、岡城跡 二の丸井戸があります。

2012年02月17日 赤いRVR甲斐守@松本
岡城

一帯は住宅団地になっていますので、怪しまれないようにして下さい。駐車場はありません。

岡城の周辺スポット情報

 黒丸城(周辺城郭)

 二場城(周辺城郭)

 子壇嶺城(周辺城郭)

 西城(周辺城郭)

 小泉城(周辺城郭)

 小泉上の城(周辺城郭)

 小泉下の城(雷城)(周辺城郭)

 小泉氏館(周辺城郭)

 旗鉾館(周辺城郭)

 嶽ノ組三峰社(周辺城郭)

 安保氏館(御屋敷)(周辺城郭)

 跡部城(御屋敷城)(周辺城郭)

 浦野館(内堀)(周辺城郭)

 岡の古城館(周辺城郭)

 仁古田の殿田(周辺城郭)

 仁古田の愛宕山(周辺城郭)

 飯縄山城(周辺城郭)

 室賀城(室賀氏居館・原畑城)(周辺城郭)

 笹洞城(周辺城郭)

 伊勢崎城(竹把城・三頭城)(周辺城郭)

 浦野城(出城)(周辺城郭)

 物見松砦(周辺城郭)

 寺山の砦(西城の出砦)(周辺城郭)

 東城(周辺城郭)

 飯島後館(古宅)(周辺城郭)

 村松殿館(周辺城郭)

 平城(城の山)(周辺城郭)

 平城(城の家)(周辺城郭)

 古城(城山)(周辺城郭)

 尾曽野兵庫亮勝長屋敷(小曽野屋敷)(周辺城郭)

 築地の堀の内館(周辺城郭)

 室賀氏墓所(寺社・史跡)

 室賀峠史跡公園(寺社・史跡)

 大日堂(寺社・史跡)

 東昌寺(寺社・史跡)

 大法寺(寺社・史跡)

 室賀峠(その他)

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