安保氏館(御屋敷)
安保氏館(御屋敷)([岡城 周辺城郭])
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安保氏館(御屋敷)の口コミ情報
2024年05月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
安保氏館(御屋敷)は岡城の北北西約2.4km、室賀川北岸(左岸)、標高約520mの河岸段丘台地緩斜面上平場に立地した居館です。居館地の後背には中世の室賀峠道が通り、北西側の山稜尾根下段上には同じ岡城のリア攻めマップにある跡部城が立地する。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車も居館敷地南側の上手組集会場に捨てられる。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは安保氏です。同氏は武蔵七党の一党、丹党の一氏、武蔵国賀美郡安保を本貫地とし、謂わゆる信濃の在地土豪ではなく歴とした鎌倉幕府の御家人、得宗家の御内人である。北条氏との結び付きの強い惣領家は鎌倉幕府の滅亡と共に衰亡し、建武二年(西暦1335年)の「中先代の乱」において滅亡するが、分家の安保光泰は足利尊氏に従っており、後には建武政権により旧跡を安堵され惣領家を継いでいる。
元弘三年(西暦1333年)十二月廿九日、足利尊氏下文には、「下 安保新兵衛尉(光泰) 信濃國小泉庄内室賀郷地頭職事 右以人、為勲功之賞所補彼職也、早任先例可領掌之状如件、」とあり、安保新兵衛尉光泰が勲功の賞として信濃国小県郡小泉庄室賀郷の地頭職に補任されている。又、建武三年(西暦1336年)十二月十一日、足利直義下文によれば、丹後権守と受領名を変えた光泰が室賀郷を含む各地の地頭職(安保氏旧跡)を安堵されている。名実共に安保氏の惣領家を継いだのはこの時だろう。ちなみに光泰の室賀郷地頭職補任が「中先代の乱」以前の出来事である事に注意されたし、一族は二分して乱に臨んでいる。
暦応三年(西暦1340年)八月廿二日、安保光阿(光泰)譲状案によれば、室賀郷の地頭職は光泰の子、惣領である中務丞泰規に譲られている。但し、庶子分も含む細かな分割相続であり、旧室賀村に残っていた、「そしだ(庶子田)」、「そしいり(庶子田入)」の地名はそれを表していたと考察されている。
居館の現況は耕作地、耕作放棄地、一般住宅とその敷地等となっている。例によって改変著しいと思われるが、直感的に武士の住まう場所としては適地だと誰もが思う筈…遺構がどうかは知らんけど、居館の敷地内には井戸跡が確認出来たりもする。中段に鎮座する小祠は付近にお住まいの土屋さんの氏神だが、祭祀はここ最近で途絶えたんだそう。又、堀形や土塁様地形も見られるが往時のものとは考え難いように思う。
該地には「御屋敷」の地名が残り、居館地南側のバス停の名称も此処から取られている。リア攻め当日に畑の水やりしていたお爺ちゃんの話すところによると、付近にはかつて「関塚」と呼ばれる土盛りが残っていたそうで、一帯は室賀峠道の関所の様な場所だったのかもしれないとの事、又、峠道は周辺において中世、近世、近代で道筋を変えているとも言っていた。聞き込みはやっぱり大切だなぁ…その内に語る人は物理的にいなくなる。此処に記録して留めておこう。
※安保氏は全国の各地に地頭職等を得ている。出羽の松山城のリア攻めマップにある田尻館は分流の居館跡の一つだ。ちなみに「あほ」とは読まず「あぼう」が正解っす。
※写真①、後背の送電線の鉄塔が建つ山稜が跡部城っす。
※写真④は井戸跡を撮影したもの。最近まで現役だったらしい。
※他人から見たら本当に楽しいの?とか言われそうだけど、おいらは今回のリア攻めを心底楽しんでいる。