岡の古城館

岡の古城館([岡城  周辺城郭])

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岡の古城館の口コミ情報

2024年07月03日 内記かずりヾ(・ε・。)


岡の古城館は岡城の北西約0.3km、浦野川北岸(左岸)、標高約490mの河岸段丘台地上平場に立地したと推測される居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「宗安寺」を目標に設定して下さい。この寺院とその周辺一帯が該地と推測されている。車を斜めに捨てても誰も困らない程の駐車場も付いている。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。該地の南側は保福寺街道に接しているが、周辺地域における同街道の道筋は、律令制下における東山道の道筋と殆ど同じくしている。西方には同道の駅家、「浦野の駅」が置かれており、往古には信濃国分寺へ通じる交通の要衝であった。

まず、色物物件である。「信濃の山城と館3、上田・小県編」に掲載がある。信濃のお城の神は、「長野県町村誌」、「岡村清氏之城址略図」から、西方、同じ岡城のリア攻めマップにある物見松砦を「古城山」と捉え、該地に残る「古城」の地名を、この「古城山」の根小屋のあった場所ではないかとの推測を提起している。「古城」の地名を直近に位置した岡城の跡とはしない考察だ。

該地に建つ浄土宗の寺院、長廣山光明院宗安寺の寺伝によると、寺の起こりは寛仁年間(西暦1017年〜1021年)、二代の僧が惠信作の阿弥陀如来像を祀ったのが始まり。当初は帰命山正善寺と号したらしい。後に足利義澄の臣、藤木刑部長廣が、永正七年(西暦1507年)、上杉顕定に反乱した長尾為景に同心する高梨康行(?)の討伐に加わり、恩賞として当地を拝領、同名は享禄四年(西暦1529年)六月十三日、当地で没し、天文元年(西暦1532年)、その菩提を弔うために一院を建立、長廣山光明院遍照寺と号した。天文十六年(西暦1550年)、「上田原の合戦」の際に兵火により焼失…

…慶長十年(西暦1606年)、上田藩真田家の家臣、当地を給地とする日置五右衛門尉尹俊が同寺の堂宇無きを憂い、藩主(信之)に願い出て寺域を「古城」と称して再建、寺号を宗安寺と改める。

宗安寺の旧地は岡城の南西方、浦野川沿いの寺軒町にあったとされるが、寺地の移動時期にあっては寺伝でも不明である。実際に該地が居館地として存在したと仮定すれば、享禄四年以前の事であろうか。もしくは宗安寺の境内から外れた場所だったとも考えられる。又、町村誌の略図から、在地土豪、岡村権ノ左衛門平清氏(寺宝に「信濃守権左衛門 平清氏の系図」が伝えられている。)の居館地だと単純に考えていたが、寺伝を見ると、藤木刑部長廣がその主だった可能性の方が高いと思われる。

…まぁ、そもそも論で信濃のお城の神が提起する推測地なんで…リア攻めはお寺さんをお参りに来た…ぐらいに考えて軽く流そう。宗安寺は上田藩藩主(松平伊賀守)からの庇護を代々受けていたようで、寺宝には三点の寄進物が伝えられているんだそう。ちなみに裏山には「姫君墓地」と呼ばれる、二代藩主、松平伊賀守忠愛の息女、りき姫の墓所がある。姫は同寺で療養していたが、快復叶わず齢七歳で病没、夭折した。数年前に物見松砦からの下山時に目の前を通り過ぎただけだったんで改めて再訪しよかなとか思ってたんだんけど、面倒になったのでパス…滅茶苦茶立派な墓碑だったとだけ書いておく。

※写真⑥は寺域に残る信濃じゃ珍しい築地屏で囲われたミニ桝形、目的としては下馬を強要するものなんだろう。現在は周囲との連続性が皆無である。

※写真⑦は該地から門前町の「寺家町」を撮影したもの。

※写真⑧、背景の山稜が標高1250.3mの夫神岳、沓掛温泉の裏山に当たる。登山道とは重複しないが、中腹には岡城のリア攻めマップにある古城が立地する。

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