小泉氏館
小泉氏館([岡城 周辺城郭])
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小泉氏館の口コミ情報
2024年07月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
小泉氏館は岡城の北東約2.1km、浦野川北岸(左岸)、標高約480mの山間鞍部、河岸段丘台地上平場に立地した居館です。該地の東西は何れも北方、標高933.1mの城山中腹から流れ出る沢によって深く削られ、城山南東尾根から続く台地は舌状台地を形成している。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は思い切って上段に位置する真言宗智山派の寺院、驚覚山高仙寺の駐車場に捨てるのがよい。同寺内の大日堂は必見だし、同じ岡城のリア攻めマップにある小泉上の城、下の城の登城路入口もこの寺院の墓地の中にある。基礎体力と元気があったらそのまま上の城まで登るがいいさ。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは小泉氏です。同氏については同じ岡城のリア攻めマップにある旗鉾館も別に参照して下さい。該地は小泉庄に属し、嘉歴四年(西暦1329年)三月、諏訪社上社の神事に勤仕する武士等の結番を定めた鎌倉幕府下知状案、十番五月會分の条には、「…間郷地頭等、小泉庄内前田、岡村泉小二郎知行分、」とある。当時の小泉庄は各氏による分割知行地となっていたが、少なくとも前田、岡村は泉小二郎の知行地であった事が判る。
泉氏といえば、大河ドラマ、鎌倉殿の13人でインパクトを残した鎌倉幕府御家人、泉小次郎親衡で有名、この親衡が地頭職だったのが小泉庄である。ドラマ中でも謎な人物だったが、史実も謎であり、建暦三年(西暦1213年)の「泉親衡の乱」において捕縛を斬り抜け逐電し行方知れずとなった。小泉庄はこの際に後の三代執権、北条泰時に没収されている。
…小泉氏をこの親衡の実父、公衡の後裔とする説が定説のようになっている訳だが、伝承以外に何かしらの根拠はあるのだろうか。嘉暦四年の泉氏と親衡を結び付けるものがあるとしたら、「小次(二)郎」の通称のみであり、果たして同一氏族として扱ってよいものなのか非常に悩むところだ。例えば、残された泉氏の一族に復権があり(公衡の子、公信は、直後の「和田合戦」において幕府方として討死している。当初から「泉親衡の乱」に加担していなかったとも考えられる。)、小泉庄内で改めて知行地等を安堵された…等の推測は出来るのかもしれない。但し、全く別の氏族が、同庄内の泉、小泉を知行地とし、単にそれぞれの在名を名乗ったものだとも考えられる。この辺りの事情をはっきりとさせる史料は無く、後世の研究も敢えてスルーしているように思える。村上氏の一族とする説もあるようだが、結局は永遠に答えの出ない謎、どうやら考えるだけ無駄なようだ。
武田氏による信濃経略以前の小泉氏は村上氏に従っており、千曲川の対岸、常田庄内にも足跡を残している。上田市の虚空蔵山の南西麓には上塩尻、下塩尻の大字が残るが、時代不明なるも塩尻五郎左衛門なる人物があり、その出自は小泉氏であったとする伝承が残っているらしい。又、真田氏が築城した上田城に今も残る小泉曲輪の位置は同氏の城館跡とも伝えられており、千曲川沿いの常田庄房山を中心とする一帯がその知行地の一つであった可能性も探れる。
居館の現況は耕作地、一般住宅とその敷地等となっている。舌状台地の先端部を活用、ある程度の要害性を伴い、武士の住まう居館地としては適地だろう。但し、城郭遺構は頑張っても見出せず、北辺が何処になるのかの判定も難しい。ちなみに無人となった一般住宅の入口には付近から出土した五輪塔が積み直されて?崖端にひっそりと佇んでいる。
…前述の大日堂は室町時代後期の建立と推測され、長野県内に残る中世の大規模仏堂の遺構としては唯一のもの。虹梁などの部材には皮つきの粗末な物も使われている事から、戦乱を理由とするのか、当初から未完成であったとも推測されている。寺社については浅学で語れないんでスポット登録だけしておく。
※写真⑤は居館地西側に隣接する十王堂っす。
※写真⑧は上段、高仙寺の駐車場から塩田平を眺望したもの。背景の特異な稜線は独鈷山系山塊、最も高い頂上が標高1266.4mの独鈷山、山頂には塩田城のリア攻めマップにある峯小屋城が立地する。比高は650m位、滑落して人が死ぬよな岩山、阿保だけ登るがいいさ。