跡部城(御屋敷城)
跡部城(御屋敷城)([岡城 周辺城郭])
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跡部城(御屋敷城)の口コミ情報
2024年05月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
跡部城(御屋敷城)は岡城の北北西約2.7km、室賀川北岸(左岸)、標高922mの三ツ頭山から南方へ伸びる尾根下段上、標高約633m地点の平場に立地する要害です。南麓の上手組集会場からの比高は120m位でしょか。該地の山稜は室賀峠道を直接扼すが、中世の道筋は現在と異なり山際を通る。
行き方はGoogleマップに位置登録されている前述の「上手組集会場」を目標に設定して下さい。此処から同じ岡城のリア攻めマップにある安保氏館を右手に見ながら舗装道路を山に入って行く感じで進む。最後の民家の南側に切通しが見えるのでこれに入って該当尾根に取り付く。尾根道はそのまま送電線の鉄塔用保安道だ。が、事前情報を確認しないと非常に判り難い。おいらは現地で見付ける事が出来なかったので急な斜面を適当直登する羽目に…
築城年代は不明、築城者は室賀氏になるんだろうか。大河ドラマ、真田丸で一躍全国区の有名氏族へと成長したけど、西村雅彦さん演じる正武が当主だったのは僅かな期間でしかない。ちなみに大身の旗本、幕臣として存続した同氏は、十五代将軍、慶喜の代には甲斐守正容が御側御用取次となり、文字通りの側近となっている。同名は写真が残されているが、これを見る限りすっきりとしたなかなかの男前だ。
お城は細尾根に2郭で構成される蓮根みたいな縄張、堀切が3条付くが、何れも埋まり気味で素人には1条しか判らん。そもそも論で城域内は松枯れの倒木が折り重なり鑑賞するには非常に厳しい現況となっている。眺望すれば塩田平の前山が見通せるのがせめてもの救い。室賀峠道を押さえる砦てよりは峠口の狼煙台や物見台の印象だ。
武田信玄は、永禄九年(西暦1566年)からその翌年にかけて家臣団と被官衆に起請文の提出をそれぞれに求め、差し出された物を小県郡の大社、塩田城のリア攻めマップにある生島足島神社に納めている。室賀氏当主、山城守信俊も単独での提出が認められるが、村上氏分流である同名は武田氏に警戒されていたようで、当主とは別にその一族等にも起請文の提出が求められている。即ち、生島足島神社文書中の「室賀経秀等連署起請文」がそれであり、文中には特に次の一条が書かれている。
「一 山城守(信俊)所へ自敵地、計儀之使書中罷越候をかくし被申候ハ、直様可申上候、御一戦之砌、山城守ニ未練之意見申間敷候、況自分ニ未練致間敷侯事」
…大意としては、「山城守の所へ敵方から謀事の使書が届き、山城守がこれを隠し立てすれば直ぐに申し上げます。一戦の折には未練がましく山城守に意見は致しません。ましてや自分が未練する事も致しません。」となる…小さな惣領制の枠組みを越えて一族等に当主の監視を求めると同時に場合によっては当主と一戦する覚悟さえも神仏に誓わせている。同時期に提出された他の起請文と見比べても特異な例だが、当主、信俊には、上杉氏からの調略を受けて隠し立てしていたて過去があるのかもしれない。
※「室賀経秀等連署起請文」〜連署したのは、治部少輔経秀、常陸守正吉、甚七郎吉久、堀田豊後守之吉である。豊後守之吉は親族衆麾下の人であるが、他の三名は何れも当主、山城守信俊の舎弟である。
※写真①、②は尾根末端部に建つ虚空蔵堂っす。たぶん野生動物の棲み家と化している。