寺山の砦(西城の出砦)
寺山の砦(西城の出砦)([岡城 周辺城郭])
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寺山の砦(西城の出砦)の口コミ情報
2025年01月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
寺山の砦(西城の出砦)は岡城の西方約4.5km、田沢川北岸(左岸)、標高812mの湯坂山から南東へ伸びる尾根中段上、標高約720mの小ピークを中心に立地する砦です。南東麓の青木村役場からの比高は160m位でしょか。ちなみに該地の南方、田沢は小県郡と筑摩郡とを結ぶ、中世の地蔵峠道と保福寺峠道の追分の地であり、交通の要衝であった。
行き方はGoogleマップに位置登録されている該当尾根末端部上の「招魂社」を目標に設定して下さい。舗装道路脇の空地に車も捨てられる。面倒(意外にも距離がある。)だったら東麓の村松集落最上段から登るのもよいが取り付きが判り難いと思う。該当尾根筋は標高1223.2mの子檀嶺岳山頂に至る登山道の一つでもある。
築城年代、築城者は不明です。寺山の砦は別称にもあるとおり、同一尾根上段上に位置する、同じ岡城のリア攻めマップにある西城の支砦、前哨であり、築城主体も同一だと考えられている。
該地の小県郡青木村田沢、村松(大字の境界線に位置している。)は、滋野三家、祢津氏の分流、浦野氏の知行地であった。天文二十二年(西暦1553年)、同氏は村上氏を離反して武田氏に出仕するが、浦野、夫神、田沢、中狭、村松等の諸郷は依然として浦野氏とその一族等の知行地であった事から同氏に関係する砦であろうか。一族の田沢氏は有力な候補として挙げられるだろう。又、村松に残る、貞治四年(西暦1365年)十二月造立の「村松の宝篋印塔」の東塔基壇正面に刻まれた銘文から、浦野庄内村松には村松滕次郎入道なる武士の存在があった事が判っている。但し、村松の姓は文書等に見られず、この銘文以外には確認する事が出来ない。
北条氏の滅亡後、天正十八年(西暦1590年)以降、村松郷を知行地とした者に真田氏に出仕した小山田壱岐守茂誠がいる。同名は真田昌幸の長女である於国を娶っており(於国が村松殿と尊称されたのは茂誠の知行地に住していたからだ。)、後には真田姓をも許されている。但し、武田氏時代には放棄されていたであろう寺山の砦や西城を茂誠が要害として利用する事は無かったろう(喫緊時における茂誠の役目は当然ながら上田城に出仕する事だ。)。
砦としながらもそれなりに立派な縄張を持っている。主郭の南東側谷側前面に二重堀切+竪堀、北側山側背後に堀切+竪堀、更に主郭からの南西尾根には三段の段郭を連ねる。但し、堀切等は総じて埋まり気味、延長の竪堀部分の方が判り易い。又、段郭の二段目には土留めの石積みの残滓、主郭周りにも石列等が見られるが何れも城郭遺構なのかは不明だ。ちなみに二重堀切の南側斜面、竪堀部分に並走する形で更に竪堀が1条、主郭側に+されているように思う。つまりは三連続竪掘て事になる。
実は2回目の訪問、前回は子檀嶺岳山頂部に立地する同じ岡城のリア攻めマップにある子檀嶺城リア攻めがメインだったのでさらっと流してしまっていた。今回の訪問でようやく個人的納得が得られる探索が出来たように思う。ちなみに青木村はお気に入りの市町村の一つ、沓掛温泉や田沢温泉もあるし道の駅もあるんでおいらが生活するにはこれで十分だ。又、タチアカネ蕎麦は此処でしか食べられない特産品、上田に来たら青木村にも是非とも寄ってて下さいな。
※小県郡青木村〜「義民の里」として知られる。江戸時代から明治時代の初頭にかけて通算で5回の一揆が発生、旧上田藩では、「夕立と騒動は青木から来る。」とまで言い伝えられてきた程であり、かつては血の気の多いやんちゃな土地柄だった事が知れる。最近でも上田市との合併を拒否、総人口は四千人にも満たないが、大企業誘致に成功する等、独自の路線を突き進む(村長がかなりのやり手みたい。)。応援してるぜ青木村!是非とも市町村行政における新たなモデルケース、成功例となって欲しい。
※写真⑧は南西麓、同じ岡城のリア攻めマップにある飯島後館付近から撮影した近景っす。