旗鉾館
旗鉾館([岡城 周辺城郭])
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旗鉾館の口コミ情報
2024年07月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
旗鉾館は岡城の北東約2.0km、浦野川北岸(左岸)、標高約461mの河岸段丘台地上平場に立地した居館です。該地は北側に西ノ沢の流れがあり、同沢と南側直下を流れる浦野川に挟まれて周囲から孤立した狭小な長方形状の微高地を形成している。広く見れば、北方、標高933.1mの城山山頂から南方へ伸びる山尾根が浦野川に消える場所でもある。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所はそこら辺でよいだろう。リア攻め中に駐車場所から遠ざかる事は無いしね。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは小泉氏です。同氏については同じ岡城のリア攻めマップにある小泉氏館も別に参照して下さい。今回の口コミでは武田氏被官時代について文書を中心に据えて語ろうかなと思ってる。
村上氏に従っていた小泉氏は、村上義清の信濃退去後、天文二十二年(西暦1553年)四月頃に武田氏に出仕したと推測されている。「甲陽軍鑑」には、「小泉氏二十騎の将」とあり、永禄九年(西暦1566年)に提出されたと推測される、生島足島神社文書中の「小泉重永同宗貞起請文」によれば、小泉喜泉斎重永、小泉内匠助宗貞の両名が連署して起請文を差し出している。
元亀三年(西暦1572年)七月晦日、小県郡内の各国衆へ宛てた、春日弾正忠(虎綱)、内藤修理亮(昌豊)発給、武田信玄朱印状によれば、小泉宗(総)三郎(昌宗)等が、分国より闕落(欠落〜逃散を意味する。)した信濃各地の百姓等の徘徊するを召し捕り知らせるよう指図されている。ちなみにこの書状、びっくりする事に対象の百姓等の名が郷村名と事由を付されてずらりと並んでおり、当時の武田氏による郷村支配の実態を一部垣間見る事が出来る。
又、天正三年(西暦1575年)十二月十六日、小泉総三郎(昌宗)宛、武田勝頼條目案によれば、武田勝頼は、来歳中に、尾張、美濃、三河、遠江の間に至り、干戈を動かし、当家興亡の一戦を遂げる旨の決意を示し、小泉総三郎には、軍役等において様々な条目を定め、その支度を肝要にするよう求めている。
天正十年(西暦1582年)、武田氏の滅亡によって牢人したらしいが、旧川西村には小泉家があったらしく、上記書状は同家の所蔵であった。少なくとも時期不明なるも、一族の何某かが該地の周辺において帰農した事に間違いは無いんだろう。ちなみに真田氏に出仕したとの説もある事から、天正十年以降の真田氏家臣団を軽く探ってみたが小泉氏の名を見付ける事は出来なかった。
居館の現況は耕作地、空地、一般住宅とその敷地等となっている。該地は信濃のお城の神が現況から選び出した比定地ではあるが、神が言う、「旗鉾の地籍で居館をおくに適した所は、西ノ沢と浦野川との間の台地位しか考えられない。」には納得させられる。現在、台地は市道が東西に掘り割って通っており、これに大きく分断されてはいるものの往時の敷地範囲は想像し易い。城郭遺構は頑張っても見出せないが、浦野川と西ノ沢を自然の掘とする要害地であった事は十分に窺える。
該地の北方、上段の段丘台地上には、別に小泉氏の居館跡として小泉氏館が位置するが、居館地としての両者の位置付けと関係性は不明である。同時代の共存を可能とするならば、小泉氏館が宗家の居館、旗鉾館は一族の何某かが居したものであろうか。
旗鉾館、その上段の小泉氏館、更には北方の城山中腹と山頂付近にはそれぞれに同氏の要害、同じ岡城のリア攻めマップにある、小泉下の城と小泉上の城が立地する。在地土豪の居館と要害の関係性を知る上では適当な教材となるだろうし、広く見れば地域支配における枢地の典型を学ぶ事が出来る。
※天正十年、隣接する小県郡室賀郷に拠る室賀氏の家督相続に際して、室賀満正に従属する意志を示していた被官の滝沢八兵衛が、満正の急死、正武への相続後に小泉氏へ離反する騒動が発生している。文中にある「武田氏の滅亡によって牢人した…」は誤りだろう。
※写真には去年の同時期のものが2枚含まれている。判ったら凄いや。