横尾城(よこおじょう)
横尾城の基本情報
通称・別名
- 尾引城、尾引古城、三日月城、三日城
所在地
- 長野県上田市真田町横尾字城
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 横尾采女正
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 横尾氏、真田氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、帯曲輪、土塁、堀切
指定文化財
- 市史跡(横尾城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
真田本城(長野県上田市)[1.9km]
真田氏館(長野県上田市)[2.2km]
戸石城(長野県上田市)[2.8km]
松尾古城(長野県上田市)[3.8km]
上田城(長野県上田市)[7.1km]
葛尾城(長野県埴科郡)[11.9km]
岡城(長野県上田市)[13.9km]
荒砥城(長野県千曲市)[15.3km]
富士見城(長野県小諸市)[15.4km]
尼厳城(長野県長野市)[15.6km]
横尾城の解説文
横尾城の口コミ情報
2026年06月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
根古屋城(千古屋城・高い城)[横尾城 周辺城郭]
根古屋城(千古屋城・高い城)は横尾城の西方約1.0km、標高1300.7mの東太郎山山頂から北東へ伸びる尾根末端部上、標高約772m地点の平場を中心に立地する要害です。東麓の神川からの比高は105m位でしょか。該当山尾根は東方から見れば全くの独立山稜、南面は深い沢筋が峰を断ち切り、北面は米山の城山から連なる小山脈が殆ど崖地となって終わる所である。
行き方はGoogleマップに「根古屋城跡登城口」が位置登録されているので目標に設定しよう。車は未舗装林道の端に寄せて捨てられる。但し、現在のところ登城路は崩落のために立入禁止…大人だったら解るだろう、入ってはいけない場所に立ち入ってはいけないのだ。軽く虎ロープが張られている事だし、諦めて山道に1mmも被らんようにフル直しよう。ちなみにこの登城路、前回登った時と殆ど様子が変わっとらん…て、登ってないんで知らんがな。
築城年代、築城者は不明だが、後述するように個人的には村上氏の普請だと考えている。
「長野県町村誌」には、村(傍陽村)の南部字若宮の北に在り。北は峻厳壁立数十仞天険の地なり。其峯頭平坦にして方廿間(約36.4m)又東南二面に、人工なる小平地数十所あり。里老の云ふ、此砦は天文中(西暦1532年〜1555年)村上氏砥石合戰の際、敵の掩撃を拒がん爲め、将校を置し所にして、即小屋若干を作り戌卒を置く、故に又千小屋の城とも稱すと云ふ、未詳。此砦より南の方十町(約1091m)を隔て山嶺に陣場の畝の稱あり。又其南方数町の地に武士水の稱ありて、皆砥石城への通路に係る。一に曰、其後大熊備前守朝秀居城す。又松代藩名士小傅に、朝秀は越後國春日山の城主、上杉景虎の幕下に属し、同国箕冠山の城主にして三萬石を領し、士大将たりしに、故有て浪人し甲州に来走し武田晴信に属し、三郎兵衛山縣昌景が組下となり、屢武功を顕し、受領の上旗本足軽大将となり、騎士三十人、足軽七十五人を預け、𡑭地を興へられ、當城(千小屋城とあり。)の城主となり、天正十年(西暦1582年)三月十九日卒す。甲州妙遠寺に葬る。徳恩院と云ふ。嫡子五郎左衛門常光、十年三月甲州滅後、眞田昌幸に属し、武功あり、次男勘左衛門(一に六蔵)共に昌幸に属す。」とあり、村上氏が天文年間に砥石城の支砦として築き、将校、戌卒を置いたと書いた所とし、武田氏時代には山県三郎兵衛昌景の組下、後の足軽大将、大熊備前守朝秀が居城したと書いている。但し、山県昌景の組下が小県郡に知行地を有していたとは到底考え難く、真田氏に出仕したその子、五郎左衛門常光、その子、勘左衛門の事跡等と混同があるように思われる。
縄張は2郭で構成されている。縄張図における通称2郭は主郭から一段下がった北西尾根に造成され、その前後には1条の堀切と1条の二重堀切がそれぞれに穿たれているが、矢竹の群生に加えてしっかりとした木橋が設けられており(現在は損壊している。)鑑賞に耐えない。主郭には明瞭な土塁が付き、削平も見事、確かに町村誌の言うとおり小屋掛けされていたのかもしれない。この要害のハイライトは主郭の北東側斜面に付く、遮蔽土塁から始まる雛壇状の腰郭だ。各小郭の削平や切岸の角度、高さも良く保たれており、誰でもこの部分には感動させられる事だろう。又、城地の北側斜面が絶壁に近い事にも驚かせられる。ちなみに土留めの石積みが随所に見られるのだが、主郭は後世に何らかの社跡であったとも見て取れる事からその時代にあっては不明、確実に往時のものだと言い切れる箇所もある…とだけ言っておく。
埴科郡赤柴へと抜ける地蔵峠道は、城山の東麓を南北に通り、神川と傍陽川の合流点を右に見ながら西方へ向きを変え入軽井沢の大庭へと入るが、城地はこれを直接眼下に収める道押さえの要害でもある。道筋は戸石城を構成する枡形城の後背地に位置する金剛峠を通ってから伸びており、町村誌の記述にある「敵の掩撃を拒がん爲め、」とはこの事を言っている。
※別称にある「高い城」だけど「低い城」も当然あるよ。
※探索に危険を伴う箇所もある。
※大熊備前守朝秀〜長尾氏を離反し武田氏に出仕し活躍したが、老齢ながら天目山において武田勝頼に殉じて討死した。後世の評価は芳しくないがおいらは大好きだ。町村誌の記述にあるとおり、越後国頚城郡内のアプリの登録城、箕冠城の城主でもあった。
※金剛峠〜今も城地から山道が付いている。戸石城まで縦走可能だけど眺めも悪く特に見所も無いんで凄まじくだるいよ。
2026年06月22日 内記かずりヾ(・ε・。)
横道の館(堀の内)[横尾城 周辺城郭]
横道の館(堀の内)は横尾城の北北西約2.3km、洗馬川西岸(右岸)、半田入谷川西岸(右岸)、両川の合流点を東方に控える標高約745mの段丘台地緩斜面平場に立地した居館です。
行き方は…リア攻めマップを参照して居館地を特定しよう。車は付近に建つ下横道公民館の敷地に捨てられる。
居館地は、小県郡放火(傍陽)郷を構成した一村、洗馬村の横道にある。「長野県町村誌」によれば、洗馬村は、赤石、穴沢、田中、横道等の小集落によって構成されていたように思われるが、近世以前の管轄沿革等にあっては全くの不明だと言わざるを得ない。又、横道にはかつて菅平へと至る山道が通っていたともされているが、今となってはその道筋を窺い知る事は難しい。
築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。該地の横道の東方の穴沢には、応永十年(西暦1403年)十月十八日の刻銘の入った「弾正塚宝篋印塔」があり、伝承から当地を治めていた半田弾正信久の墓塔と云われているが、同名と居館地との関係性等は知る由も無い。
居館の現況は…畑地、空地、一般住宅地等となっており、信濃のお城の神が該地から選び出した推定地となっているようだ。洗馬川に沿って徐々に低くなる南下りの段丘台地にあり、三段程度の低い段が認められるが往時もそうであったとは言い難いだろう。城郭遺構は確認出来ず、居館敷地範囲を判定するに必要な明確な基準は東辺のみに限られている。
…こりだけじゃ口コミが寂しいのでこの地域に関係するお話しをして締め括ろう…
真田氏は滋野姓海野氏の後裔を自称したりしているが確実だと言える系図は一切存在しない。同氏の系譜がはっきりとするのは、戦国時代に武田氏に出仕して活躍した真田幸綱以降の話である。
その一方で本来の真田氏の実系を大伴氏だとする説がある。古代に国牧等の牧官として牧経営に携わった大伴姓の一つが、神川、洗馬川流域に土着し次第に武士団化したのを真田氏の発祥とするものだ。
後に真田郷、放火郷等と呼ばれる地域に御牧の存在は確認されていないが、これ等とその周辺地域には牧に関係する地名が数多く残されている。即ち、洗馬川の右岸地域、大良の北方には「牧の平」が、同川の左岸地域、抗原にも宮原神社の北側に「牧の平」があり、地蔵峠の南方にも「牧の平」がある。又、神川の西方、傍陽川に流れ込む堤入谷川の右岸には「馬健(馬立)」、傍陽川の右岸から少し奥に入った所には「野馬除」と呼ばれる場所がある。更に言えば、アプリの登録城、真田氏館の後背地に当たる、烏帽子岳、湯ノ丸山へと連なる峰の中には「鞍掛」の地名が残り、菅平口の北方、大明神沢と中之沢に挟まれた所にも「鞍掛」がある。
寺社関係で見れば、真田氏が居館したと伝わる山家の山家神社には駒形稲荷社が、同氏が篤く信奉した山家神社の奥社が鎮座する四阿山の南方にもかつて駒形社が鎮座していた。又、横道の館の近く、天台宗の古刹、金縄山実相院の御本尊は馬頭観音である。
これ等の事実によって想像されるのは、謂わゆる真田之郷で大規模な牧が経営されていたという漠然とした当地の姿だ。多くの大小河川が集まる場所にして、標高が高く四方を山に囲まれた草原地帯である菅平を後背地に控えており、馬の飼育にこれ程適した環境はないと思われる。事実、菅平では今も牧場(菅平牧場)が経営されている。
突拍子も無く滋野姓海野氏の嫡流とするよりは、大伴姓の牧官を祖に持つ在地土豪の一氏であったとする方が遥かに現実的だと考える。海野氏や祢津氏との繋がり(縁戚、猶子、主従関係等)を求めるとすればそれからの話であろう。小県郡の武家の名族との関係性を強調し、当地の領主たるべくを正当化するが故に後世、真田氏の出自は捻じ曲げられたとさえ思えて来る。
※リア攻めしてたら集落のお婆ちゃん達、7、8人が集まって来る謎現象に…「あら、ちょっとこの辺りじゃ見ない良い男だよ〜」とか褒められてもそり常に言われてる当たり前の事なんで…
※洗馬村〜「洗馬」の地名自体は「土地が狭まる」から来ている筈…
※真田郷、放火郷等と呼ばれる地域〜住人には牧内さんが多く見られるんだそう。
※「牧の平」〜知らんかったけど、本来「平」とは緩斜面の事を言うらしい。ちなみに現在の菅平ではラグビー選手も育てている。
2026年06月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
洗馬城[横尾城 周辺城郭]
洗馬城(古城・堀の内城・城の山)は横尾城の北西約1.7km、標高約800mの山稜山頂部を中心に立地する要害です。南麓の長野県道35号、長野真田線からの比高は110m位でしょか。
行き方はGoogleマップに「洗馬城跡登城口」が位置登録されているので目標に設定しよう。車は同じく位置登録がある「誉田足玉神社」の社前に捨てられる。取り付きからは一本尾根なので迷う事も無いし、誰にとっても気持ちの良い登城になるだろう。
築城年代、築城者には曲尾氏が推測出来る。同氏については同じ横尾城のリア攻めマップにある萩の館を参照して下さい。詳細については殆ど伝わらないが、曲尾氏の発祥を解く事は、近隣の真田氏の発祥を解く鍵にも繋がる…とだけ言っておこう。
城山は、小県郡放火(傍陽)郷を構成した一村、曲尾村の萩にある。「長野県町村誌」によれば、洗馬村は、此処よりやや北方、赤石、穴沢、田中、横道等の字地が残る場所にあり、何故に当城が洗馬城と呼ばれるのかについては少々疑問だ。元より両村は横尾村と共に同一郷内にある事から各村域には時代による変遷等があるのかもしれない。
町村誌には「古城」として、「村(傍陽村)の中央字宮ノ前と表との境に在り。其山上平坦にして面積一反一畝歩、又東面削平せし小平地数箇あり。里傅に、土豪某の築城して據れる所なりと云。未詳。」とあり、肝心の築城者、城主の名が伝わらない。
「諏訪御符禮之古書」、應仁二年(西暦1468年)戌子花會の条には、「一 御堂坂木村上兵部少輔政清御符禮五貫六百文使孫二次郎海野千葉城のつめ口を取被座候自陣中返事候頭役五十貫御教書禮五貫六百」とあり、村上兵部少輔政清が「海野千葉城のつめ口」を取ったと書いているが、海野氏の差配する所に千葉の地名が無い事から、当時は境目であった洗馬が誤り伝えられたものだと推測されている。即ち、此処で言う千葉城とは洗馬城の事である可能性が非常に高い。ちなみに周辺地域にはこれ以降、村上氏の勢力が及んだとも云われている。
縄張は4郭で構成され、大手となる城山の南尾根には段郭を連ね、主郭部の東側斜面には幾つかの腰郭を設けている。山道の造成によって特に尾根筋の遺構に毀損があり、各郭等のエッジが失われている部分も多いとはいえ、適度な間伐等が行われ、毎年のように整備が入っている事もあり、特に山頂部を中心にして要害としての形状がはっきりと見て取れる。城郭遺構としては総計で6条の堀切、主郭には削れているが西辺のみに一直線の土塁の残滓が確認出来る。但し、堀切は総じて埋まり気味、主郭からの北西尾根には規模の小さな三連続堀切が穿たれていたりもするが、既に堀形が不明瞭、藪に塗れてもおり鑑賞には厳しいものとなっている。又、主郭の西側に見られる自然地形とされる大堀切様地形を誰でも問題にすると思うが、個人的には堀切と判断しても構わないと思っている。意識しない訳にはいかない山尾根を断ち切っているのは事実だし、少なくとも急な主郭側の斜面には切岸加工が施されているように思う。ちなみに主郭の東面下段、虎口へ通じる部分には、登路を形成していたと思しき石積みが確認出来る。
甲越が争った時期にも該地とその周辺地域は忙しかった筈だ。南方を東西に通る地蔵峠道は、埴科郡内のアプリの登録城、雨巌城に攻め寄せる真田勢等が利用した道と推測され、洗馬城は同城が落城する弘治二年(西暦1556年)までの間、境目を見張る武田方の一城であり続けた事だろう。
※登城路に連なる要害としての段々感が素敵な山城だ。ちなみに石積みの残滓が主郭の切岸等にも確認出来る。
※雨巌城〜小山田勢の助勢を得た真田勢等によって落城した。同城の落城によって海津城の築城が可能となり、謂わゆる川中島の戦いは新局面を迎える事になる。
2026年06月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
萩の館(堀の内)[横尾城 周辺城郭]
萩の館(堀の内)は横尾城の北西約1.5km、神川西岸(右岸)、傍陽川北岸(左岸)、標高約700mの段丘台地上平場に立地した居館です。簡単に言えば、同じ横尾城のリア攻めマップにある洗馬城の東麓に当たる。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「上田市立傍陽小学校」を目標に設定して下さい。この小学校の北側の一帯が居館地と推定されている。車は休校日だったので小学校の駐車場に捨てたが特に誰からも文句は言われなかった。
居館地の東側には菅平へと抜ける洗馬道が南北に通り、南方には埴科郡赤柴へと抜ける地蔵峠道が東西に通っている。その占地は洗馬城と共に両道の追分を直接扼しており、特に小県郡から川中島へと直接至る後者の重要性は近代に入るまで変わる事が無かった。ごく狭い範囲に三つの要害が近接している事もそれを裏付けているように思う。
築かれた年代、お住まいになられていた方は不明だが、「長野県町村誌」によれば、該地の萩は小県郡放火(傍陽)郷曲尾村の村域内にあり、在名を称する土豪、曲尾氏に関係する居館跡と推測されている。従って前述した洗馬城の城主にも同氏が有力視されるだろう。
応永七年(西暦1400年)七月から続いた「大塔合戦」の際には、大文字一揆衆を構成する祢津越後守遠光に従って、近隣の実田(真田)、横尾等と共に曲尾が参陣している。この事から曲尾氏を祢津氏の分流と捉える向きもあるがこれを裏付ける史料等は皆無だ。室町時代の初期には祢津氏、もしくは海野氏の下で、真田氏、横尾氏等と立ち位置が同じであったとしか判らない。
曲尾氏は、応仁二年(西暦1468年)、村上氏が「千葉城(洗馬城とされる。)」を囲むとこれに従ったようだ。その後はアプリの登録城、戸石城の「眞田乗取」の際に軍忠があり、武田氏から塩田平に替地を宛行われたと伝わるが史料等には見られない。但し、曲尾を名乗る一家が塩田平の上田市下之郷に今もお住まいらしいのであながち事実なのかもしれない。
居館の現況は…耕作地、耕作放棄地、空地、一般住宅とその敷地等となっており、傍陽小学校のプールと推定居館地の南辺が重複している。城郭遺構は完全消滅しているが、信濃のお城の神は現行の用水路と舗装道路に往時の堀形を求めているようで、これに従えば比較的に正方形に近い単郭方形居館の縄張であったと思われる。ちなみに洗馬城の城山との間には「くらやしき」の小名が残っており、同城と居館が一体の関係にあった事を窺わせている。
天正十三年(西暦1585年)八月廿九日、矢澤三十郎(頼幸)御宿所宛、須田相模守満親書状には、「尚々、其元昼夜御苦労察入候、御稼之段并ニ御証人被差越候、則貴府(上杉景勝)申達候、以上、雖未申通候、一翰啓せしめ候、今度爲御証人御幼若(真田信繁)之方越御申、痛入存候、於于其口御稼之由、無是非次第ニ候、先日曲尾筋江助勢申候喜、重而今日人数指遣候、御用等無御隔心可被仰談候、洪水路次不自由故、吾等遅参所存之外ニ候、何様以面談可申承候、恐々謹言、」とあり、当時、海津城城代であった須田満親は、矢澤頼幸に、真田昌幸が証人(人質)としてその子、信繁を差し越した事に謝意を伝え、併せて先日、「曲尾筋」に助勢を出した事に続き、今日、重ねて人数を差し遣わした事を報せている。海津城から真田方への後詰の人数は、小県郡と川中島を最短距離で結ぶ地蔵峠道を通って曲尾に向かったのであろう。同年八月二日に発生した「第一次上田合戦」の前後には、上杉氏と真田氏との連絡を図る上で特に「曲尾筋」が重要な役目を果たしていた事が判る。
※真田氏の発祥がどの時代にまで遡れるのかは知らんけど、同氏の中世以前の居館跡とも推測されている。少し希望が過ぎるような説なんだけどねぇ…但し、真田氏の実系の祖が居した…等と考えればあり得ない話ではない。詳細は別の口コミでしたい…
※矢澤三十郎(頼幸)〜頼康の名で知られていると思うが、矢沢頼綱の嫡男であり真田昌幸とは従兄弟の間柄でもある。この頃には父に代わって実質的な当主であったようだ。大河ドラマ、真田丸では俳優の迫田孝也さんが演じ、まるで真田信繁の腹心の様な扱いだったが、実際には家中においてそんな暇な立場にはない。
※須田相模守満親〜山浦景国(村上義清の子である。)に代わって海津城の城代に補せられた。上杉氏に重用された信濃の国人の一人だ。
※写真②、背景に写る山稜が洗馬の城山だ。道は緩やかで気持ち良く登れる。
2026年05月13日 カズ讃岐守
横尾城
リア攻めマップの駐車場からは少し歩きます。登城口からは5分ほど山道を上がれば着きます。
2026年05月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
長尾城[横尾城 周辺城郭]
長尾城は横尾城の北東約0.9km、神川北岸(右岸)、標高1010mの山稜山頂から南方へ伸びる尾根上段上、標高約940m地点の平場を中心に立地する詰城です。南西麓の尾引城跡登城口からの比高は250m位でしょか。
行き方は…横尾城の口コミ等を参照してとりま横尾城まで登ろう。後は後背尾根筋を我慢しながら登るだけ、一応、道が付いてるし分岐には下りてしまわないように案内板が立っているので迷う事は無いだろう。但し、登山道を軸に考えれば奥山に当たるので誰でも不安は抱く筈…気持ちを和らげてくりる展望も開けてはいない。
現時点での情報となるんだけど、同じ横尾城のリア攻めマップにある大柏山信綱禅寺付近に鎮座する金毘羅大権現の裏手から作業用の林道が伸びている。伐採と植林が併せて現在進行形で行われているんだけど、麓からかなりの高所までお山の斜面が文字通りの丸裸になっており、この重機が削った林道を登り切れば城地は殆ど目と鼻の先だ。但し、帰りに下りてみたんだけど、九十九折りの一辺が長過ぎる…傾斜も緩く時間ばかりを浪費する。おいらは途中でイラついてしまい、結局は道を無視して斜面を直下した。利点はお山に入る不安が軽減さりる事ぐらい…
築城年代、築城者は不明です。「長享日記」には、「同年(長享二年、西暦1488年)、戸石城ノ要害ヲ兼ネ横尾ニ三ヵ所城ヲ築ク 打越城 長尾城 此二ヶ所ハ番城トメ 水内高井埴科更科佐久小県諸士交代デ之ヲ守ル 本城ハ横尾丹波守吉信ノ居城也…後略、」とあるそうで、日記の信憑性については疑問符が付くものの、村上氏による小県郡進出の時期と符号する事もあり、無下にこれを否定する事も出来ないだろう。その記述には、戸石城の支城として築かれた横尾城の番城、二箇所の内の一つ、水内、高井、埴科、更級、佐久、小県の各郡の諸士が交代でこれを守っていたとあるが、この事を鑑みれば、横尾城の詰城等ではなく村上氏が直接差配した砦という事になる。
2回目の訪問だが今回は時間に余裕を持って探索してみた。縄張は細尾根に2郭で構成される。主郭は段付き、縄張図における通称2郭には北側山側端部に土塁が付く。堀切は要所に3条が確認出来るが総じて埋まり気味…状況によっては目を凝らす必要があるだろう。全体的に見ると人によっては薄い印象を受けるかもしれないが、仔細に見て往時を想像すれば非常に丁寧な造作だと気付く筈…細尾根を一つとして形状を捉えれば要害感にも長じており個人的には大好きだ。
…真田郷や該地の横尾、その周辺地域の一部を総称して「真田の庄」等と呼ぶ事が散見されるが、これは武田氏時代に真田氏の知行地であった事、明治時代に、大日向村、真田村、横尾村、横沢村が長村に一括された事、長村が後には真田町へと発展解消された事等を理由とすると思われる。但し、真田村(郷)と横尾村は、江戸時代まではあくまでも別の行政主体である。
長享二年(西暦1488年)戌申七月吉日、諏訪社下社が注した「春秋之宮造宮之次第」には、「御瑞籬四拾三間之内」、一拾間を負担する、「ほうひ之郷洗馬、曲尾、横尾、」が見え、洗馬、曲尾、横尾の三村によってほうひ(放火)郷が構成されていた。
天正六年(西暦1578年)戌寅二月七日の「下諏訪春宮造宮帳」には、「一 春宮瑞籬拾間造宮 真田之内芳比之郷」として、「古令 合四貫八百文 横尾 代官 北澤大蔵 同 合四貫九百文 曲尾 代官 石見守 同 合三貫文 洗馬 代官 虎澤大蔵 同合六百文 右之郷之 右本帳之 都合拾弍貫七百文 此外六百文…後略、」とあり、同帳には「真田之内」として「芳比之郷」が見える。
武田氏時代に「芳比之郷」が「真田之内」とされたのは真田氏の知行地の内であった事がその理由であろう。故に後世、真田郷と放火郷とを合わせて「真田の庄」等と呼ばれる事が一部の間で定着した訳だ。但し、両郷が平安時代から中世に至るまで、荘園を構成していた時期は一度たりとて無かった筈…「庄」と呼ぶには過分に過ぎると思うのだが…
※ほっこりするよな横尾城の後背地に当たるんだけど、登城中に熊さんの痕跡を何箇所かに発見した。その意味では登城難度は格段に上がる。ちなみにこりはおいらの経験から話をするんだけど、奴等の痕跡が登山道等、人目に付き易い場所に残っているのは何故なんやろ…藪の中で見掛けた事が一度も無い。
2026年05月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
横尾城
横尾城(尾引城・三日城)は神川北岸(右岸)、標高約754mの通称、尾引山山頂部を中心に立地する要害です。南東麓の尾引城跡登城口からの比高は60m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは同じく位置登録がある、前述した「尾引城跡登城口」からとなり、明確な駐車場は無いが車はこの登城口に乗り入れて捨てる事が出来る。ちなみに信濃の山城としては登城が極めて容易だ。後世、主郭に秋葉社が勧進された事もあり、歩き易い参拝道が登城路を兼ねている。又、下手な事は言いたくないが熊さんも此処までは下りて来ないだろう、万が一にでも遭遇したら己れの不運を呪い、無事に生還したら厄払いを受ける事を推奨する。
築城年代は不明、築城者は横尾氏です。「長享日記」には、「同年(長享二年、西暦1488年)、戸石城ノ要害ヲ兼ネ横尾ニ三ヵ所城ヲ築ク 打越城 長尾城 此二ヶ所ハ番城トメ 水内高井埴科更科佐久小県諸士交代デ之ヲ守ル 本城ハ横尾丹波守吉信ノ居城也…後略、」とあるそうで、日記の信憑性については疑問符が付くものの、村上氏による小県郡進出の時期と符号する事もあり、無下にこれを否定する事も出来ないだろう。又、その記述には戸石城の支城として普請に及んだように書かれているが、同じ横尾城のリア攻めマップにある、洗馬城、根古屋城と共に、埴科郡赤柴へと至る地蔵峠道(近世以降の北国街道の裏道、松代道だ。)を三つ巴(トライアングルを形成している。)で扼している。
「長野県町村誌」には「尾引古城」として、「高さ二十間(約36.4m)、周囲六町十四間(約680m)、村(長村)の酉(西)の方字城にあり。頂上一平地をなし、東西九間一尺(約16.7m)、南北十七間(約30.9m)、面積一反歩(約991.7㎡)、東西南に聳立し、西に堀切、南に追手あり。口碑に云ふ横尾采女正築く所なりと、残礎稀に存せり。村上義清攻陥する所となり、後敗壊すと云ふ。然れ共前後の事跡不詳。」とあり、横尾采女正が築いたと伝わっている。ちなみに宝永年間(西暦1704年〜1710年)に描かれた「信濃國郡絵図」には「横尾采女正の城跡」と書き込まれているんだそう。
数年来の宿題をこなしに再訪した。夏場と冬場では遺構の見え方に雲泥の差がある。特に主郭北側山側背後の三重堀切からは草が完全に消えるので冬場に訪ねよう。今冬の課題を思い出したおいらは春先に急いで登城したんだけど、5月ともなれば素敵な遺構が絶望的な藪へと変わるだろう。
アプリの登録城なんで多くは語らないんだけど、谷側前面に段郭を設け、山側背後に多重堀切を穿つ、信濃の山城の典型を簡単に見る事が出来る。お手軽に息も切らさずこりが拝めるんだから非常に有難い物件だ。ちなみに上田市のホームページからダウンロード出来る「横尾」のガイドマップには、「※正面の急斜面に折れ道と腰郭を15段程組み合わせ、背後は二重の堀り切りとなっており、中世の山城の特徴をそのまま残しています。…後略、」てあるんだけど、15段程ではなく雛壇状に15箇所程、二重の堀切ではなく三重になってるんで悪しからず…
前述した「横尾」のガイドマップが秀逸、アプリの登録城、上田城、真田氏館、真田本城や、曹洞宗の寺院、真田山長谷寺等が真田氏関連の史跡の表とするならば、このガイドマップが紹介するのは正にその裏…表より裏が好きな人は是非…
※まともな写真が撮れるまではアップすんのを止めておいた物件だ。リア攻めも付けたし数年来の宿題を終える事がようやく出来た訳だ。
※横尾氏〜史料は無いに等しいが、上野国吾妻郡にも伝承が残る等、出自等には諸説があって定まらない。別系統のものが一纏めに考察(横尾の地名、姓は全国各地に見られる。)されている感もあり、はっきりとさせる事が非常に難しい。何れ別の機会で…
※「長享日記」〜青木家所蔵の横尾丹波守吉信の書?を近世に入ってから纏めて書写した物らしいんだけど覚え書きに近いんだろうか、純粋な日記とは違うようだ。
※戸石城の支城として普請〜そもそも論で同一山系にない。
※写真①は南東麓の長野県道35号線、長野真田線から撮影した近景っす。
2024年10月20日 鈴木剛
長尾城[横尾城 周辺城郭]
看板にあったようにまっすぐ進むと広場に出ました。案内板はあったのに現地には看板がありませんでしたが、ここが長尾城だと思います。
2021年03月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
猿ヶ城[横尾城 周辺城郭]
猿ヶ城は横尾城の西北約5.7km、南方へ延びる標高約940mの山塊尾根上に主郭が存します。南西麓の長野県道35号線からの比高は150m位でしょか。
行き方は同じ横尾城のリア攻めマップにある弥六城を参照して下さい。お城は県道を挟んで対になってます。車を捨てるまでは一緒ですが、猿ヶ城へはこのチェーン脱着場から300m程松代方面に進み、県道から右手に見える水素水の工場脇の北方へ延びる林道を進みます。距離にして300m位でしょか、目標が無くて説明に困りますが、2箇所目のガードレールを過ぎた辺りのガレ場の斜面で直登を開始して下さい。
お城は県道からその突飛な姿を見る事が出来ますが、三方はほぼ絶壁の為、北側に巻いてから斜面を直登する必要があります。平均斜度は40°位ですが、場所によっては遥かにそれを超えますので二足歩行はとても無理な感じ…おまけに草木があまり生えておらず、表土は柔らかく崩れ易いので大変難儀します。自分は表土に手刀で手首までをぶっ刺し、それからその下にある比較的固めの土をぐりぐりと指で掴む感じで支点を取りました。誰も行かないとは思いますが、登れても同じルートで帰れない場合が人によってはありますので、行くか行かないかは登る途中で判断して下さい!ちなみにお城は諦めても全然後悔しないレベルです。
このお城は完全単郭+αで、ハイライトは尾根端部に位置する物見台と考えられる絶壁の岩場です。堀切があるとされていますが、自然地形でなければ物見台には二重堀切+1条の堀切がある事になりますね。ただここに加工しても誰も攻めて来ないと思うので本当にそうなのかは謎にしときましょう。主郭は意外にも広い削平地、小さな一般住宅なら建てられるかもしれません。それ以外には頑張っても何かを見付ける事は出来ないでしょう。
猿とか鬼が名前に付くお城はそんなんしか寄り付かない事を意味します(最近「鳥」も怪しいと思い始めた。)。比高はそんなに無いのですが難城と言えるでしょう。物見台に登ると落ちたら死ぬし、戻る時は後ろ向きで下りる事になるので此処でも自分と相談して家に帰る事を考えて下さい。
終わりに…最近手放せなくなったのが完全防水作業用手袋です。全く濡れないし、強度はあるし、暖かいしで極めてコスパ高し!皆様の直登LIFEを劇的に変える代物ですので使っていない方は是非お試しあれ!
2021年03月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
弥六城[横尾城 周辺城郭]
弥六城は横尾城の西北約5.8km、標高約970mの山塊中腹に主郭が存します。西麓の長野県道35号線からの比高は180m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。お城の西麓、登城路入口付近には広めのチェーン脱着場があるので此処に車を捨てましょう。県道を挟んで反対側に登り石垣の様な構造物がありますのでこれが登城路入口となります。
お城までは一応道らしきものが付いてます。登り始めて3分位すると土留めの石積みの付いた段郭状の平段にぶち当たります。この上に道が続いていて登って行きたくなりますが此処からは北へ進路を変えて下さい。こちら側にも薄っすらと道が付いてますので、竪堀に到着するまでは斜面を登って行かないようにしましょう。竪堀からは城域に入りますので後は上を目指すだけとなります。が、このお城は山塊中腹の斜面に5段の郭を設けた縄張で、城域に入ってからも結構登り続けるので面倒っすね。
お城は謎に満ち溢れています。尾根上に築かれる事が殆どな信濃の山城ですが見事に尾根を外してます。5段の郭があると先に述べましたが、現況は朔平が甘くて4段目までは正直よく判らん♪郭としての独立性が保たれていない感じなんでしょかね、普通に追っていけないです。
謎なのは石積みが結構残っている事です。信濃のお城の神はこの石積みに懐疑的ですが、確かに登城路入口付近のものは後世の桑畑の土留めっぽい(ただ現地に赴くとそうとも言い切れないのさ〜狭く密集してたり登ってたりする。)のですが、城域内のものは結局誰も答えを見出せないと思います。ただ4段目の郭のものは石塁状に石積みが付いてたりもしますので往時のものなのかなと思いました。主郭には薄っすら土塁、背後にはたぶん自然地形に手を加えたと思われる横堀が、斜めに高低差を持って重なる様に2条付いていて山側を遮断しています。又、主郭から更に登るともう一段削平地があって土塁らしきものが確認出来ますが縄張図から外れますので参考まで…
お城の西麓の県道は地蔵峠(新と旧がある。)に至り、上田と松代を最短距離で結ぶ峠道です。真田信之の松代移封の際にも使われ、このお城付近が境目だったと思われます。西麓は江戸時代においても番所ぐらいあっても全然不思議じゃない場所ですが、まぁお城も含めて謎にしときましょう。
2020年05月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
洗馬城[横尾城 周辺城郭]
洗馬城は横尾城(尾引城)の西北約1.7km、洗馬川と傍陽(そえひ)川の合流点の北側にある南方へ張り出す山塊支尾根上、標高約799mのピークの一つに主郭が存します。南麓からの比高は100m位でしょか。立地は松代道と洗馬道を眼下に見下ろす重要な場所でもあります。
築城時期、築城者とも不明ですが、応仁二年(西暦1468年)に村上氏に攻められた記録(千葉城と書かれる。)が残っているそうで、その後はたぶん位置関係から横尾氏の持分でしょうか。そして横尾氏の没落後は、真田郷の領有を武田氏から認められた真田氏の属城の一つとして整備されていたようです。
行き方はGoogleマップに位置登録されている東信森林管理署真田森林事務所を目標に設定して下さい。この事務所の西側に登城路入口があり、付近にある響田足玉神社には駐車する事も出来ます。
お城は比較的緩やかに、段郭の合間を縫って行く感じで何とも素敵な気分に浸れます。主郭に至るまでには2条の堀切も確認され、登城路は本来の大手道を踏襲してるものと考えて間違いは無いと思います。又、途中実に素晴らしい長大な竪堀も残されていますのでここは見落とさないようにしたいものです。主郭は削平具合も見事で土塁付き、切岸には石積みもあったように思われます。主郭からは北側と北西側に堀切が切られ、特に北西側のものは自然地形に手を加えたと思われる大きなものとなっています。これを沢跡と解する方もいらっしゃいますが、沢は山の頂部付近からは流れないので堀切として加工されたと判断してよいと思います。
真田ブランドの素敵なお城の一つです。主郭まではよく整備されており気軽に楽しめるのも魅力です。距離も近いし、横尾城(尾引城)をリア攻めの際は是非訪ねてみて下さいまし。
2020年05月13日 内記かずりヾ(・ε・。)
大柏山信綱禅寺[横尾城 寺社・史跡]
大柏山信綱禅寺〜通称信綱寺は横尾(尾引)城の東方約0.4km、標高約737mの山間部斜面上平場に存する曹洞宗の寺院です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。駐車場所に困る事は無いでしょう。
お寺さんには真田信綱夫妻、弟の昌輝、白川勘解由兄弟(信綱の首級を着用していた陣羽織に包んで甲斐に持ち帰ったと伝わり、後に殉死する。)のお墓(昌輝の墓は近世のものらしいっす。)があり、宝物館には信綱の血染の陣羽織の他、古文書、白川勘解由の旗指物等が収められているようです。
信綱寺は元は梅ノ木にあった横尾氏の菩提寺、好雪斎大柏寺だったらしく、横尾氏の滅亡後、信綱によって打越の地に移され大柏山打越寺となりました。その後、昌幸が信綱の菩提寺として寺堂を改築した際に現在の大柏山信綱寺に寺名が改められたそうです。
このお寺さん、びっくりするのは現在ある信綱の墓所なんですけど、まるで山城のような場所にあります。寺背後の山塊から延びた細尾根に位置し、左右を自然地形の沢跡かなんかなんだろうけど竪堀様地形で仕切られています。しかも正面は段郭の様な造りで、山側に土塁と堀切でもあればまさしく山城の完成ですwお寺にしては珍しい地形だし、色々想像すんのは勝手だと思うので、未見の方や六文銭ファンの方は是非一度訪ねてみて下さいまし。
2019年05月05日 わる爺陸前守
古城緑地公園駐車場[横尾城 駐車場]
専用の駐車場がありません、公園駐車場借用
2019年05月05日 わる爺陸前守
段郭[横尾城 遺構・復元物]
登り始めて直ぐもそれらしき郭が連続。但し碑が建っているのはココ。
2015年11月04日 アマビエ土佐守
横尾城
上田市真田町★★★
大河ドラマ真田丸に向け周辺の道路整備が行われている、道路拡張工事は出来ず途中に待避所を設ける方式の道路工事が行われている。
真田町周遊バス運行★★★★
既に周遊バスの運行が開始されており麓のゆきむら夢工房を起点~真田氏歴史館~真田氏本城~長谷寺~山家神社~黒門~ゆきむら夢工房の運行が行われている。※月別で運行形態が変わるのでパンフレットによる確認要。
2013年07月15日 赤いRVR甲斐守@松本
横尾城
駐車場は歴史公園に止めて、数分で南側登城口に行かれます。主郭裏手の堀切は、夏場は藪化が激しいので要注意。なお、副郭を経て裏手からは、信綱寺裏山の長尾城へも行かれるようです。
2010年08月23日 ️…
横尾城
段郭、石積、虎口等が残されていますが、如何せん城の規模と比例して迫力には欠けてしまいます
しかしながら、小さな丘程度の城でも真田の庄の支城群には画像のような木製解説板が設置されており、キャッスルハンター魂が揺さぶられます
これからの季節、1日で支城群を制覇して、別所温泉で&マツタケなんて最高の日帰りプランです
横尾城の周辺スポット情報
段郭(遺構・復元物)
石積(遺構・復元物)
本郭(遺構・復元物)
虎口(遺構・復元物)
二重堀切(遺構・復元物)
堀切(遺構・復元物)
副郭(遺構・復元物)
土塁(遺構・復元物)
洗馬城(周辺城郭)
猿ヶ城(周辺城郭)
弥六城(周辺城郭)
内小屋館(周辺城郭)
萩の館(堀の内)(周辺城郭)
根古屋城(千古屋城・高い城)(周辺城郭)
根古屋城(千古屋城・低い城)(周辺城郭)
長尾城(周辺城郭)
打越城(古城)(周辺城郭)
横道の館(堀の内)(周辺城郭)
大柏山信綱禅寺(寺社・史跡)
古城緑地公園駐車場(駐車場)
横尾城、内小屋城案内板&駐車場(駐車場)
北回りコース入口(その他)
正面コース入口(その他)










その名称のように、尾のような長い尾根を利用した山城で、土塁やわずかに石積なども残る。
概要
真田から善光寺平への直通路をおさえた交通の要地にあり、真田幸隆は村上方に属していた横尾氏が上州に落ちたのを機に、この一帯を手に入れた。宝永年間(1704~1710)の「信濃國郡絵図」(上田市博物館所蔵)には、横尾采女正の城跡と記載されている。
構造
折れ道と腰郭を急斜面に組み合わせた、芝居の見物席のような十数段の郭は、交互に段差を設けて構築され、本郭を含め中世的な山城の面影を残している。本郭には、秋葉社の鳥居と社殿があり、本郭部は秋葉社がある部分(8×6m)と、その前面の平地の部分(20×14m)に分かれている。
秋葉社裏は二重の堀切となっていて、本郭の背後を固めている。西側斜面の林地内の空堀には、堅土居を付している部分がある。
参考文献
・「信州上田真田氏ゆかりの山城案内」パンフレット。・『真田町誌歴史編(上)』真田町誌編纂委員会、真田町誌刊行会、1998年。