飯縄山城
飯縄山城([岡城 周辺城郭])
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飯縄山城の口コミ情報
2025年03月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
飯縄山城は岡城の北西約2.2km、阿鳥川北岸(左岸)、標高932.4mの飯縄山山頂部を中心に立地する要害です。南麓の阿鳥川からの比高は420m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている南麓の天台宗の寺院、一乗山「大法寺」を目標にして下さい。当然、車も捨てられる。寺院の裏手には「大法寺遊歩道」て呼ばれる山道が付いており、これをひたすらに登れば自然と城域に辿り着く筈…ちなみに遊歩道て言う名の荒れた登山道らしい。
てか、かずぽん、行き方を示しておいてアレなんだけど、前述したルートを使った事は一度も無い。再訪した今回も同じ岡城のリア攻めマップにある、小県郡のA5ランクの牛肉城、黒丸城の後背地を貫く林道から登っている。この林道はかなりの高所まで車が入るとはいえ、冬場なんかは霜柱が立ってスタックする程に道がぐちゃぐちゃに荒れる。ちなみにこのルートは東方へ向かってかなり巻いてから登っており、比高は稼ぐも距離的には前述のルートと大して変わりが無いと思う。何れにせよ、兎に角、だるいよ…
おいらはこの物件がどんなものだかを知っている。それでも再訪に踏み切ったのは懐かしさに駆られて…そう、センチメンタリズムみたいなもんさ。山城として飯縄山の山頂を目指す阿保は全国でも10人に満たないと思うけど、2回も訪ねた異常者はたぶんおいらだけの筈だ。
築城年代は不明、築城者は小県郡当郷に拠った朝倉但馬守とする伝承がある。事跡については限り無く不明だが同名は前述の黒丸城の築城者だ。朝倉で但馬で黒丸て言えば越前朝倉氏しか思い付かないが、入部した経緯は不明なるもその一族とする説がある。
お城は山頂が最上段、南側へ向けて三段、5郭の平場を持つ縄張だ。主郭は段付き、最上段は地山とはいえ何れの郭も削平は良好、城郭遺構なのかは判らないが最下段の郭には仕切り土塁様の地形も確認出来る。又、城域外を含むが山頂部は意外にも面積が広く、複数棟の小屋掛けも十分に可能だ。但し、水の手は付近に認められない。
…信濃のお城の神も疑問を呈しているが、縄張の全てにあるものを城郭遺構として判断してもよいのだろうか。先人の方達も指摘しているようにどうにも神社跡といった趣きがある。個人的には何某かの奥の院、奥宮を想像したが、廃されたにしてもその痕跡すら認められないのは不審である。飯縄山はかなりの高所まで人が入るお山、植林場の跡であろうか。兎に角、謎なお城だ。
全体的に見れば不安定な縄張だが、逃げ込み城としては有効だろう。少なくとも「長野県町村誌」、「小県郡誌」では城跡としての認識である。山城の体裁を成していないとも酷評されるが、逃げ込み城の基本的な概念が此処に適用されないのでは公平を欠く。根本的に足弱等が隠れ住まう場所であればよかった筈じゃないのか。
薄い山城だけど、流石に2回も訪ねると愛着が湧くわ。故にお城に礼を尽くし自分なりに頑張って考察してみた。但し、強く肯定もしないし否定も受け付けない。永遠に答えが出ない事なんだから正解も無い筈だ。
ノーマルな方には訪ねる必要性が微塵も無いが、登城路入口となる前述の大法寺を見逃す事は出来ないだろう。境内に建つ、正慶二年(西暦1333年)の創建と伝わる三重塔、通称、「見返りの塔」は国宝に指定されてもいる。和様の建築様式が正確に守られた塔は周囲の風景とも調和し誰もが振り返る程の美しさだ。又、鯱ファンにも見逃せない逸品が…国指定の重要文化財、観音堂内厨子の屋根に飾られる鯱は現存する日本最古の鯱、天守の金ピカもよいかもしれないが、寺院の厨子の大棟に飾られた事に鯱本来の意味がある。兎に角、寺内はそのまま文化財の宝庫、飯縄山城とかはどうでもよいと思う。
※調べてないが、中世には飯縄山自体が、大法寺、もしくはその上段に位置する曹洞宗の寺院、萬年山東昌寺(祢津氏の分流、浦野氏の菩提寺である。)の寺領であった可能性があるように思う。
※大法寺〜同じ岡城のリア攻めマップにスポット登録だけしておく。
※ 兎に角、だるい〜そう感じたなら諦めて帰るのもよいだろう。リア攻めしても皆さんの城廻りLIFEには何の影響も及ぼさない。
※写真は4枚でええやろ…展望も良くない。