尾曽野兵庫亮勝長屋敷(小曽野屋敷)
尾曽野兵庫亮勝長屋敷(小曽野屋敷)([岡城 周辺城郭])
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尾曽野兵庫亮勝長屋敷(小曽野屋敷)の口コミ情報
2024年05月22日 内記かずりヾ(・ε・。)
尾曽野兵庫亮勝長屋敷(小曽野屋敷)は岡城の北東約1.1km、浦野川西岸(左岸)、室賀川南岸(左岸)、標高約467mの河岸段丘台地上平場に立地した屋敷です。該地は地図を見れば一目瞭然、室賀峠口を押さえる関門の地に当たる。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車はそこら辺に捨てられるレベルだ。台地上には西方から該地に至る農道が長く伸びている。が、おいらはそんな道が付いている事も露知らず、南側の台地直下から激竹藪の急な斜面を直登した。台地上に上がって農道を見付けた時には凄くブルーな気持ちになったよ…
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは尾曽野兵庫亮勝長です。同名は「長野県町村誌」によると、「…勝長は清氏の重臣にして、主の戦死を聞き自害すと、古老の口碑なり。」とある。すっ飛ばし過ぎてよく解らない記述だが、清氏は該地周辺の在地土豪、岡村権ノ左衛門平清氏の事であり、勝長はその被官の一人、時期としては、建武二年(西暦1335年)の「中先代の乱」後が推測され、北条氏に近い立場だった岡村氏は乱の終息に伴い近隣の浦野氏の征討を受けたものと考えられる。更に想像を逞しくすれば、乱に際して埴科郡坂木に城砦を築いて周辺諸氏を集めた坂木の南条と北条の地頭職、薩摩氏一族に同心した清氏が村上信貞の征討を受けて同地で討死、これを聞いた在地に留まる勝長が自害に及んだものとも考えられる。
浦野川と室賀川による侵食だろうか、台地は該地の部分で舌状台地を形成しており結構な要害地形である。屋敷の現況は竹林、耕作地等となっており、縄張図における通称1郭には送電線の鉄塔が建っている。遺構としては通称1郭と通称2郭を隔てる堀形の残滓が北側斜面に残るとされるがよく判らん。又、信濃のお城の神は一言も触れないが、縄張図外に台地を分断する堀形が綺麗に残ってる。後世の台地へ上がる道なんだろうけど、堀形を通したものだとは言えないのだろうか。
地図を見てたら該地の西方に「兵庫」の地名を見付けた。律令制下における兵庫は「つわものぐら」、「へいこ」であり、簡単に言えば武器庫の事である。地名はその名残りなんだろうか。尾曽野兵庫亮勝長の受領名から取られたものとも考えられるが、そもそも論で尾曽野氏とは兵庫に関わり土着した古い歴史を持つ氏族なのかもしれない。
※南方の保福寺峠を越えた東山道は該地の南東方に位置する浦野駅を通って千曲川を渡り信濃国分寺に至る。駅家に関わる兵庫が存在しても何ら不思議な事ではないように思う。
※写真①は要るのか知らんけど南側下段から撮影した近景っす。ちなみに写真に見える青い倉庫の裏手から直登する阿保っぷり。リア攻め前に周囲の状況確認を怠った結果だ…戒めとしよう。
※写真②、⑥、⑦に見られる背景のぽこりんとしたお山の山頂付近が同じ岡城のリア攻めマップにある小泉上の城、比高は何処から登っても400m以上だが、気合いを入れて林道を車で進めば苦労しない。
※写真⑧は竹林と化した通称1郭に建つ送電線の鉄塔、マニアだけに贈りやす。