小池城(大池城)
小池城(大池城)([青柳城 周辺城郭])
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小池城(大池城)の口コミ情報
2025年12月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、各自治体における、文化遺産や歴史遺産に対する情熱みたいなものはそれぞれで温度差があると思ってるんだけど、この点に関して、おいらが個人的に日本で最も熱い市町村だと考えているのが東筑摩郡生坂村だ。村の教育委員会さんの姿勢みたいなものが兎に角、凄まじくて、どんな場所であろうが、どんな小さな物件であろうがお構い無しに説明板を立てまくる…そこに辿り着くまでの道が無いとか関係無し。訪問出来る環境を整えるよりも、あくまでも説明板の方が先なのだ。道無き道を進んでようやく拝めた山城に平然と立つ一枚の説明板…どんな猛者でも複雑な気持ちに襲われるだろう…
小池城(大池城)は青柳城の西南西約9.2km、犀川東岸(右岸)、標高782.0mの山稜山頂から南東へ伸びる尾根上段上、標高約782mの小ピークを中心に立地する要害です。西麓の犀川からの比高は285m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…なんだけど、そのままじゃ行けないのでリア攻めマップを参照して城地を目指そう。決して手を抜く訳じゃなくてそれ以外に説明する手立てが無い。南方を流れ下る天神沢沿いの林道を車で登り、この林道から城地の南東麓、「古屋敷」地籍へと通じる小沢沿いの山道(かつての生活道でもある。)を登るのだが、距離を稼ぐまではこの山道が殆ど崩落している。道形は既に為しておらず、歩みを進めれば簡単に斜面が崩れていく。ちなみに国土地理院地図には城地の周辺に幾つかの家屋が点在しているように描かれているが、現在は全て無住、座屈しているか廃墟となっている。前述した「古屋敷」地籍には、かつての城番衆の末裔(大田さん)が居住していたようだが、高度成長期ともなれば流石に生活を諦めたのであろう。ごく初期型の冷蔵庫を家電製品の最後として退転している。
どうしても訪ねたい方は自分で何とかする筈だ。裏を返せば自己責任でそうしてもらわないと困るのだ。故に詳細は省くが、老婆心ながら登城中は周囲を見通せず、方向感覚を失うと思うので登山系アプリを準備しておくように。そして現地で進む目標を定めたなら、崖地であっても無理矢理にでも登ってしまおう。はっきり言って楽な行き方は無いし、結局は何処かしこの崖地を登らない事には尾根上に上がる事が難しいように思う。
築城年代は不明、築城者には丸山氏が推測されている。「東筑摩郡誌」には、「丸山氏の持城にして、天文年間(西暦1532年〜1555年)、櫛木紀伊守政盛之を守れり。」とあるが、櫛木紀伊守政盛は、寛正年間(西暦1460年〜1466年)を中心に活動が見られる人物であり、明らかに時代が合わない。櫛木氏は小笠原氏の有力な被官衆の一氏であり、小笠原貞慶時代にも活動が見られる氏族であった事から、天文年間は天正年間(西暦1573年〜1592年)の誤り、紀伊守政盛は何らかの誤伝ではないだろうか。
縄張は殆ど小郭の7郭で構成されるコンパクトなものだが、細か過ぎるので4郭程度に集約してもよいように思う。城郭遺構としては、郭間を断ち切る2条の堀切、主郭と縄張図における通称7郭(屋敷跡)には明瞭な土塁が確認出来る。堀切の内1条は埋まり気味だが、通称4郭南側谷側前面の1条の切れ具合には感動すら覚えるだろう。又、お山の急峻な地形そのものも見所であり、主郭北側谷側背後の岩盤層の露出するナイフエッジ痩せ尾根…やその先に見られる岩盤土橋…等に萌える方も多いと思う。ちなみにこのお城の素晴らしい所は、要害としての形状が俯瞰的に確認出来る事、縄張図を追わなくても全体像が容易に把握出来る。各パーツばかりが主張しがちな山城が多い中で希少な存在だと思う
信濃のお城の神は著書の中で、山城探訪とは僻村探訪だとも言っているが、周辺地域には多くの廃集落が点在している事でその手のマニアには知られている。小池城の東方、約0.3kmの位置にかつて存在した白牧集落もその一つであり、やはり同城の城番衆の末裔であった平野さんが昭和の半ば頃まで居住を続けていた。城番の役目はとっくの昔に終わったが、その子孫等は時代の移り変わりを見ながらも約四百年間に亘って城の側にあった事になる。
※登城はアドベンチャーてよりは危険な部類に入る。登山系アプリの設定が無ければ辿り着くのは無理だと思う。
※丸山氏〜仁科氏の分流であり、城主には丸山筑前守政友の名が伝えられている。同名は天文十八年(西暦1549年)、小俣(現在の松本市笹賀地区である。)の筑前屋敷周辺に張陣して武田勢と戦い、小幡孫次郎が為に討取られたとされるが、少なくとも年次については誤りがありそうだ。ちなみにその子等は後に日岐氏を称している。









