高峯物見
高峯物見([青柳城 周辺城郭])
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高峯物見の口コミ情報
2025年12月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、鎌倉へ通じる道は全て鎌倉道だけど、善光寺へ通じる全ての道は善光寺道だ。それぞれの地域、地方から善光寺を最短距離で目指す道が幾筋もあった訳だけど、主要街道とは違い、宿場も置かれず人家すら疎らな山道も多く、旅人は野宿を覚悟で先を急いだ事に間違いは無い。
松本から通じる善光寺道は、虚空蔵山麓の会田宿から北行して山越えする、北国脇往還がメインルートとなっていたんだけど、これとは別に、犀川右岸地域から横道を選んで岩殿山を中心とする小山脈に入り、南北に伸びる山道を進んで善光寺を詣でるルートもかつては需要が高かった。但し、現代人からしてみれば想像を絶するような道筋であり、岩場や急峻な痩せ尾根等のアップダウンを繰り返す命懸けのルートでもある。おいらは2年前…い、いや3年前だったかな、岩州公園(皆が想像する公園では全くない。)から北行するこの善光寺道をほんの少しだけ歩いた事があるんだけど、岩場に+してトラバースしなければならない崩落箇所もあり、善光寺さまを詣でる道としては厳し過ぎるな…等と感じたものだ。
今回、紹介する物件は、そんな犀川右岸地域の小立野から山塊山中の善光寺道へと通じる横道上に設けられた物見台、今じゃ誰も通らない尾根道だけど、90年程前には本城村に草競馬を観に行く人達で結構な賑わいを見せていたんだそう。
高峯物見は青柳城の西南西約10.1km、犀川東岸(右岸)、標高816mの山稜山頂から西方へ伸びる尾根上段上、標高約750m地点の平場を中心に立地する物見台です。西麓の犀川からの比高は250m位でしょか。
行き方は…リア攻めマップを参照して該地を特定しよう。付近どころか周辺にも目標がありまてん…一応、取り付きとなる北麓の清水集落(廃集落)まで舗装林道が伸びており、此処からだと徒歩で登る比高は45m位だ。車は集落内に自由に捨てられる。ちなみに西麓から畑地を抜けて登ると矢竹の密集を突破する必要があるので止めておこう。
築城年代、築城者は不明だが、たぶん築城されていない。該地の南麓の明賀集落は、殿様(仁科)が沖氏の先祖に与えた所であると云い、同氏は「明賀侍」として物見の役目に携わっていたとの伝承がある。沖氏は在地土豪て呼ぶのも憚かれる地侍クラスの武士だと推測するが、物見台自体は見通しの良い場所を選んで活用された単なる山尾根の部分であったろう。
物見台の現況は…南側から見ると結構、険しい山尾根上に占地されており、斜面崩落の痕も見受けられる。城郭遺構を見出せない地山の小ピークだが、西側へ一段下がった所には明らかに削平された屋敷跡のような場所があり、枡形虎口様地形と石組みの堀り抜き井戸跡が確認出来る。が、この削平地、信濃のお城の神の聞き込みによると、びっくりする事に近代の酒屋の跡だそうで、番士等の屋敷跡だった可能性は残すものの、井戸はともかく、枡形虎口様地形は単なる酒屋の入り口、店先だったと考えた方がよいのかもしれない。
高峯物見から尾根筋を東行すれば、同じ青柳城のリア攻めマップにある川ばさま砦に辿り着き、更に東行した後、北行すれば、丸木集落の丸木七社の脇を通って、山の神、神楽殿へと至る事が出来る。丸木集落は戸数3〜4戸の小さな集落であったが、明治十八年(西暦1885年)に大規模な地滑りが発生した後も存続し、無住となったのは高度成長期を迎えた昭和の半ば以降の話である。山中の集落間を結ぶこうした間道は当然ながら生活道でもあった訳だが、娯楽がある時等は、周辺地域の多くの村民等も利用しそれなりの賑わいを見せていた事は前述したとおり。
※写真③、④がかつての酒屋の跡…びっくりするわ…
※写真⑦は善光寺道へと通じる横道を撮影した物っす。集落間を結ぶ間道でもあり、かつての生活道でもあった。
※写真⑧は酒屋跡から撮影した京ヶ倉っす。即ち、青柳城のリア攻めマップにある日岐大城だ。ちなみに高峯物見からの展望が良いとはお世辞にも言えない。おいらは物見台てよりは番所だったて考えている。









