生仁館

生仁館([屋代城  周辺城郭])

屋代城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「生仁館」の地図・口コミがご覧頂けます。

「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。

生仁館の口コミ情報

2025年07月30日 内記かずりヾ(・ε・。)


生仁館(なまにやかた)は屋代城の北東約2.1km、三滝川西岸(左岸)、標高約355mの平野部平場に立地した居館です。該地は同じ屋代城のリア攻めマップにある唐崎山城の西麓に当たり、北北西約0.5kmの位置には千曲川の渡し場、雨宮の渡を控えている。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「湛水防除事業・五十里川排水機場」を目標に設定して下さい。この排水機場から市道を挟んだ南側、一般住宅地の一角が概ねの該地である。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは生仁氏です。「更級郡埴科郡人名辞書」に所収された雨宮系図によれば、村上氏の一族に雨宮摂津守義衡があり、義衡の子に孫五郎義正、その舎弟に生身(仁)大和守義長があったらしく、生仁氏は埴科郡生仁郷に雨宮氏から派生した分流の家柄であったようだ。該地は応永年間(西暦1394年〜1427年)にこの義長が居した館跡であると伝えられている。

「長野県町村誌」には「生身館跡」として、「本村(雨宮村)巳の方四町餘字生仁(即古生仁村の地)にあり。里人城跡と云へども、方正にして唯堀一重を廻らし、回字形をなし一門を開きたるのみ、形勢全く屋敷構なり。堀幅六間三尺(約12m)、東西六十四間三尺(約117m)、南北五十間(約91m)、外周延長二百四十五間(約445m)、今水田となる。之を字申の新田と云ふ。元禄十六(西暦1703年)甲申年(即寛永改元也)始て試作新田となるを以てなり。其内凡方三十餘間の畑あり、之を字堀内と稱す。先きに耕地と成り、此に菅神の小祠あり、生身氏の鎮守なりと云ふ。跡の存ずる者唯之のみ。蓋し応永中生身大和守(大塔物語)居館の跡なり。何の時廃たる乎不詳。」とある。

生仁氏は、応永七年(西暦1400年)七月から続いた「大塔合戦」の際には、村上満信麾下として雨宮孫五郎と共に生仁大和守が参陣している。又、永享十二年(西暦1440年)三月から続いた「結城合戦」における陣中警護の輪番を定めた「結城陣番帳」には、「二十六番 雨宮殿 清野殿 漆田殿 生仁殿」とあり、他の川中島地域一帯の村上氏の一族と共にその名を連ねている。但し、これ以上の事績を探る事は不可能、氏族としての生仁氏が史料に現れるのは上記二点のみであり、個人的にはかなり早い時期に断絶していたと推測する(大和守義長の一代で断絶していた可能性すら考えられる。)。

居館の現況は…耕作地、空地、一般住宅地等となっている。往時は周囲より一段高い微高地であったらしいが現在は殆ど平らげられてしまっており、城郭遺構は認められず町村誌が記すところの旧態は失われている。ちなみに過去には時代を限定しない部分的な発掘調査が数次に亘って行われており、中世のものと推測される溝址が検出された他、同時代の遺物も多数が出土している。

夏場にお山に入るのが嫌なのでこの時期になると平地の居館廻りに全振りしている訳なんだけど、日光を遮るものが無く暑い事には全く変わりがない。それなりに動くし、行ったり来たりで結局は汗だくだ。テンポの良さも裏目に出てしまうかな。涼む前に次の目的地には辿り着いてしまい3件位こなすとぼろぼろの状態にさせられる。以前なら地球温暖化を、暖ったかい事は良い事だとか考えてたんだけどねぇ…早く冬になんねーかなぁ…

※写真には撮影日時が異なる物が含まれている。

※写真⑥、背景の山稜が同じ屋代城のリア攻めマップにある唐崎山城っす。生仁氏の要害とされているけど…ちなみにこのお城、確実に2回はぶち落とされている。

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore