唐崎山城(朝日山城・藤崎城)
唐崎山城(朝日山城・藤崎城)([屋代城 周辺城郭])
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唐崎山城(朝日山城・藤崎城)の口コミ情報
2022年12月31日 内記かずりヾ(・ε・。)
唐崎山城(朝日山城・藤崎城)は屋代城の北東約2.5km、三滝川東岸(右岸)、標高694.6mの手城山から西方へ延びる山塊尾根上、標高478.4mのピークの一つに主郭が存します。西麓の長野県道335号線、森篠ノ井線からの比高は125m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。西麓の招魂社から手城山に至る登山道が付き案内板も設置されています。
築城年代は不明、築城者は雨宮氏と伝わります。同氏は村上氏の一族で、修理亮義次の二男、摂津守義正が雨宮に住して雨宮氏を名乗ったとされる。村上氏一族で修理亮を名乗った人物は複数見られるが、手持ちの史料で義次の名は確認出来ない。雨宮氏は大塔物語に村上満信麾下として生仁大和守と共にその名が見える。又、永享十二年(西暦1440年)三月、結城合戦における結城陣番帳の二十六番には「雨宮殿 清野殿 漆田殿 生仁殿」とあり、川中島一帯の他の村上氏一族と共にその名を連ねる。戦国時代には雨宮昌秀が同族の清野清秀から三郎兵衛正利を養子として迎え、刑部を名乗った正利は村上氏に従い上田原の戦いにおいて討死、長野県上田市下之条には今も雨宮刑部正利の墓が残る。天文二十二年(西暦1553年)、正利の弟である景信が武田氏に出仕したが、以後雨宮氏の名は史料から見えなくなる。
2回目の訪問、前回は夏場で藪に塗れて通り過ぎるところだった…お城は戦国時代の改修を見ないとされるが、要害としては「頑張れる事は一応やってみたよ…」て感じじゃないでしょか。このお城に堀系を沢山増やしてもしょうもない気がする。お城の傷だらけの歴史については同じ屋代城のリア攻めマップにある生仁館を参照して下さい。ちなみに遺構は総じて薄め、主郭東側山側背後の大堀切は自然地形としか思えないのだが…
雨宮氏が後に甲斐に住して武田氏に代々仕え、江戸時代には旗本となったとするwikiの記述は誤りだろう。真面目に調べてないけど甲斐の雨宮氏は別氏族だと思われる。