屋代氏居館
屋代氏居館([屋代城 周辺城郭])
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屋代氏居館の口コミ情報
2025年05月10日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、山梨県立博物館で開催されていた企画展、「武田勝頼 日本に隠れなき弓取」を見学したアプリユーザーは果たしてどれぐらいいるのかな?
おいら、企画展で展示されていた「長篠合戦戦装束経帷子」に涙がちょちょ切れるぐらい感動してしまいやしたよ。博物館で泣いたのは久しぶりの事っすわ。物は同合戦で討死した信濃先方衆、屋代正長(清綱)が着用していた帷子なんだけど、表面には、法蓮華経、「観世音菩薩普門品第二十五」、「陀羅尼品第二十六」の経文が全面にびっしりと書写されており、併せて背面中央には、「南無大慈悲観世音菩薩」と大書されている。華々しい戦の陰にあって自らの陣中加護を観世音菩薩に頼ろうとする武士の健気な覚悟とその心底にはすっかりやられちまいやした。そんな訳でこの正長が家督を継ぐ筈だった屋代氏の居館跡を再訪してみた。
屋代氏居館は屋代城の南南西約0.2km、千曲川東岸(右岸)、標高約363mの平野部平場に立地した居館です。該地は屋代城の立地する一重山山頂部の南麓直下に当たるが、居館地の正確な位置は現在も不明であり、あくまでも周辺から選び出された比定地の一つに過ぎない。但し、この場所以外には考え難いと思われる。
行き方はGoogleマップに位置登録されている曹洞宗の寺院、明月山「満照寺」を目標に設定して下さい。居館地はこの寺院の境内が推測されており車も捨てられる。
前述した事を否定する事にもなるのだが、その場所に問題が無い訳ではない。満照寺は、大永二年(西暦1522年)、屋代越中守正国(正長の養父である。)を開基(生年を考えるとあり得ないだろう。)とし、上州桂昌寺第三世夫山総田を迎えて開山、創建されており(寺伝による。)、寺地に後の移動が無ければ位置が重複してしまう事になる。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは前述したとおり屋代氏です。同氏は清和源氏頼清流村上氏の分流、村上為国の子、経業(明国)に始まり、経業の孫、家盛が屋代二郎を、仲基が屋代大夫を、仲継が屋代五郎を、経仲と景仲が屋代六郎を称している。
「吾妻鏡」、承久三年(西暦1221年)六月十八日の条、「六月十三日十四日宇治橋合戦手負人々」の内に、屋代兵衛尉の名が見えるのが文書上の初見、建治元年(西暦1275年)五月の「六条八幡宮造営注文」には、他の村上氏一族と共に屋代蔵人跡(この場合の「跡」は屋代蔵人の後裔を示している。名が伝わらなかったので便宜上そう呼んでいる。)の名が見え、同名は五貫文を負担している。又、未見だが、正応三年(西暦1290年)の鎌倉幕府下知状によれば、埴科郡屋代郷に隣接する同郡倉科庄の内、東条の内にも知行地を有していた。
建武元年(西暦1334年)、倉科庄雑掌が申すところから、城興寺領(倉科庄)において、屋代下条一分地頭彦四郎以下輩は、下地を押領し年貢を責取ったと雑訴決断所に訴えられ、訴状を受けた同所が、信濃守護所に対して、訴件糾明のため彦四郎以下の輩を召し進ずべきとの同年六月十六日付けの牒が「市河文書」中に残っている。
観応二年(西暦1351年)六月二日、市河十郎左衛門尉(経助)宛、足利直義御教書には、「毛見彦次郎実綱申信濃國毛見郷本栖、平澤両村地頭職事 重申状具書如此、度々触遣之処、無音伝々、太無謂、所詮、今月中企参洛可明申之旨、屋代越中守権守相共、相触木島五郎二郎、戴起請詞、可被注申之状、依仰執達如件、」とあり、高井郡毛見郷内、本栖、平澤、両村の地頭職を木島五郎二郎と毛見彦次郎実綱が争っている事が判るが、市河経助は、足利直義から、音沙汰の無い木島五郎二郎の上洛を、屋代越中守権主と相談して促すよう求められている。
屋代氏は、南北朝時代の貞和二年(西暦1363年)以降、寛正六年(西暦1465年)までの間、幕府的始の射手を頻繁に勤めており、この点においては宗家の村上氏の回数を遥かに超えている。
居館の現況は…比定地である上に立派なお寺さんだ。問題提起したように居館地の跡に寺地が移ったのでもなければ比定地として破綻してしまう。但し、要害である屋代城への登路を考えれば、現在の墓地の辺りにそれを求める事は十分に可能、墓地の一角は屋代城にかつて穿たれていた六重堀切の直下に当たっている(墓地から掘り下げ部分の竪堀の残滓が確認出来る。)。
前述した正長の養育地と思われるけど、その居館地となると所領替えされた更級郡新砥(荒砥)の内であったろう。そちらの方も今回再訪したので次の機会にでも紹介するかな。たまにはこんな純粋な動機で城廻りするのもよいものだなぁ…
※「満照寺」〜満照は正国の祖父の名である。ちなみにお寺さんには、加賀藩前田家が絡む「満照寺の赤椀」て逸話と、佐久間象山に纏わる伝承が残っている。