雨宮の渡
雨宮の渡([屋代城 寺社・史跡])
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雨宮の渡の口コミ情報
2025年07月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
雨宮の渡は屋代城の北東約2.4km、千曲川南岸(右岸)、標高約354mの平野部平場に立地した渡し場の跡です。現在は一般住宅地の中の公園となっているが、千曲川の川筋は該地の周辺において往古よりも北方へ約0.8km移動している。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。探索に手間取らないので車は路駐で大丈夫、邪魔なようであれば動かしてね。
第四次川中島の戦い、通称、「八幡原の戦い」において、妻女山を駆け下りた上杉勢が渡渉したのが雨宮の渡とされている。治承五年(西暦1181年)六月の「横田河原の戦い」、応永七年(西暦1400年)七月から続いた「大塔合戦」、何れも戦いはこの渡し場の対岸で繰り広げられている。
応永十一年(西暦1404年)十二月、細川慈忠證判には、「市河美濃守入道性幸之代子息三郎氏貞申軍忠事 右當國守護代御下向時者、老父美濃入道性幸、於都鄙致軍忠伝々、就中當大将(細川慈忠)國御入部刻、氏貞冣前符中(筑摩郡、府中〜後の松本である。)馳参、於在々所々致宿直警固処、去應永十年(西暦1403年)七月廿四日、村上(満信)、大井(光矩)、友(伴)野、井上(光頼)、須田為御敵馳向間、壇原(更級郡)御合戦時、於御前、氏貞散々太刀打仕、蒙自身疵、次生仁城攻時、為前懸合戦仕、重蒙疵畢、〜中略、同十月三日塩崎新城致没落期、抽忠勤畢、」とあり、信濃国代官、細川慈忠は、同名に従い代として馳せ参じた市河美濃守入道性幸の子息、市河三郎氏貞の軍忠を証している。文中にある「生仁城」は雨宮の渡を眼下に収める要害であり、代官に抗する村上満信等以下輩が、壇原で打ち負けた後に立て籠り、これに攻め寄せた氏貞が重い疵を蒙ったと言っている。
渡し場の現況は…前述のとおり一般住宅地の中の小さな史跡公園となっている。現在は北面に用水路が巡っているが、当然ながら往時は千曲川の河川敷であった訳だ。公園内には頼山陽の有名な漢詩、「鞭聲肅肅夜過河 曉見千兵擁大牙 遺恨十年磨一劍 流星光底逸長蛇」を刻んだ石碑が建ち、傍らには「史跡雨宮渡案内図」が立っている。ちなみに古老の証言によって位置が確定されたそうだが現在は渡し場感が全く無い。
一般的に交通の要衝であったとの認識があるが疑問に思ってしまう事が一つある。それは雨宮の渡へと通じる主要道が、近世の北国脇往還、北国街道以外に見当が付かない事だ。律令制下における東山道支道の道筋は千曲川の左岸地域を選んて進み雨宮で同川を渡らないし、更級郡稲荷山を起点とする松代道、広義の谷街道は千曲川の右岸地域を選んで進みこちらも雨宮で同川を渡らない。日本で最も有名な渡し場の一つとはいえ、その役割は限定的、旅人の注目を引いた事も殆ど無い。ぶっ飛ばされるかもしれないんだけど、個人的には千曲川に数多く存在する渡渉可能な浅瀬の一つに過ぎなかったんじゃないかとさえ思っている。
※武田勢が善光寺平に入る際の経路だが、小県郡、筑摩郡の何れかを経由したとしても基本的には千曲川を渡る必要が無い。
※「甲陽軍鑑」には「八幡原の戦い」において、武田勢が最初に張陣したのは雨宮の渡だったとの記述がある。信玄程の人物が上杉勢が張陣した妻女山から逆落としを喰らうような場所に人数を留めるような愚かな真似はしないだろう…大体にして近過ぎる。
※生仁城〜同じ屋代城のリア攻めマップにある唐崎山城の事である。
※その役割は限定的〜千曲川、これに流れ込む大小河川の川筋の変化や流量の増減も影響していると思われるが、個人的には周辺地域の時代的変遷によって室町時代〜戦国時代に重要度が低下したものだと考えている。南北朝時代の一時期には雨宮の渡の南方に位置する埴科郡船山郷には守護所が置かれていた。
※写真④、背景中央の山稜が文中にある生仁城(唐崎山城)、その役割が知れるだろう。ちなみに遺構はファジーだがそれなりに楽しめる。