清水氏居館
清水氏居館([仁科城 周辺城郭])
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清水氏居館の口コミ情報
2025年08月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
清水氏居館は仁科城の南方約9.2km、乳川北岸(左岸)、和田川西岸(右岸)、標高約681mの段丘台地上平場に立地した居館です。該地とその周辺はフォッサマグナの西縁部、糸魚川静岡構造線の東側に当たる。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。付近に目標となるものがありまてん…車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは清水氏です。同氏は仁科氏の分流であるが詳細が殆ど伝わらない。「大町市散策マップ」に掲載された「清水氏居館跡」の記述には、「清水氏は集落内の各所に家臣たちの屋敷を配置し、ともども農業を営むとともに、大崎の山には山城を、西方のしんじょからの上にも小砦を構え、南方の西山城と呼応する仁科領の西部防衛線を形成していた。」とある。
「三宮穂高社御造宮定日記」中、明應十年(西暦1501年)辛酉二月十一日、穂高社の造宮に際して安曇郡の諸郷に諸役と負担を注した文書には、奉行人として清水石見守盛好と矢口備前守知光の名が見られ、同文書は両名の連署によって奉之されている。当時の穂高社の大檀那は細萱氏に替わって仁科氏となっていた。
昭和六十三年(西暦1988年)から三ヶ年を掛けて常盤西県営ほ場整備事業に伴う発掘調査が行われている。これによれば、内堀と外堀、これ等を繋ぐ堀、土塁が検出され、縄張は一見すると四郭であったらしい。主郭には礎石建物跡1棟(2〜3回の建て直しが推測されている。)、総じれば、建物跡17棟、柱穴列15(礎石列が1列、柱穴は750箇所余りを数える。)、列石3列等が検出され、別に古銭74枚が出土している。発掘調査は考古学的に見れば、居館跡としての全貌が殆ど解明された稀有な事例となったんだそう。
居館の現況は…田地、空地、一般住宅とその敷地等となっている。居館敷地範囲は東西に約124m、南北に約104m、田地境界線等によってある程度は明確だが、北側を東西に走る舗装農道は堀跡を踏襲していないので注意が必要だ。城郭遺構は埋め戻されているとはいえ北東隅には若干の堀形が確認出来る。ちなみに居館地から堰と舗装農道を挟んだ東側の空地には居館跡であった事を示す結構立派な石板が建っている。
該地の東北東約1.7kmに位置する屋敷林に囲まれた豪壮な邸宅は、近世の松本藩松川組の大庄屋等を務めた清水家の住宅である。同家と居館の主である清水氏との関係性は判らなかったが、他に帰農した仁科氏被官、等々力氏等と同じく庄屋として在地に留まった可能性が十分にあるだろう。江戸時代中期頃の再建と伝わる家屋は、下座敷、上座敷の順に、中の間、上段の間、槍の間へと続く間取りを備え、藩主や家老の来訪にも応える格式ある造り、庭園付きの住宅は事前電話予約すれば見学が可能である。庄屋マニアは是非…
※何故だか知らんけど「信濃の山城と館7、安曇・木曽編」に未掲載の物件である。発掘調査の時期からすると神が調査に入って当たり前なんだけど…
※仁科氏の分流であるが詳細が殆ど伝わらない〜古くからの名族である仁科氏は分流を多数輩出しているんだけど、伝えられている事跡はどれも皆無に等しくよく判らないものばっかしだ。宗家の仁科氏でさえ確かな史料が少ないのだから仕方の無い事だろう。
※写真⑥、背景の山稜が同じ仁科城のリア攻めマップにある大崎城っす。居館の主、清水氏の築城と伝わる。ちなみにこの写真に写る堰は堀跡を踏襲していない。