須沼氏居館
須沼氏居館([仁科城 周辺城郭])
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須沼氏居館の口コミ情報
2025年08月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
須沼氏館(堀木戸・堀屋敷)は仁科城の南南東約9.8km、高瀬川西岸(右岸)、和田川東岸(左岸)、標高約685mの平野部平場に立地した居館です。該地は謂わゆる高瀬川の氾濫原に当たる。
行き方はGoogleマップに「須沼城跡」として位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。
該地の須沼は、「三宮穂高社御造宮定日記」中、文明十五年(西暦1483年)癸卯二月三日、穂高社の造宮に際して安曇郡の諸郷に諸役と負担を注した文書に、「御荒垣一方半 菅治(須沼)郷所役十五日祝奉⬜︎(行)」とあるのが文書上の初見とされている。又、文禄年間(西暦1592年〜1596年)の成立と推測される「筑摩安曇両郡郷村御朱印御高附」には、「弐百五拾八石八斗弐升 須沼村 此内壱石大明神領」とあり、村高は弐百五拾八石八斗弐升、その内の大明神領壱石とは、神明社の黒印地、社領であった事を意味しているようだ。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは須沼主税之助と伝わる。須沼氏は仁科氏の分流であるが詳細が殆ど伝わらない。
伊勢内宮御師、宇治久家が、天正九年(西暦1581年)に記した「信濃国道者之御祓くばり日記」の「にしなの分」には、「すぬま殿御しそく のし五十本 茶十袋」とあり、武田氏時代にも須沼氏が「にしな」の内にあった事が判る。
「信府統記」には、「須沼村堀屋鋪跡(村ヨリ子ノ方)東西二十二間(約40m)、南北十六間(約29.1m)須沼主税之助ト云フ者居住」とあり、別に同書には、「同村堀屋鋪跡(須沼村ヨリ丑寅之方)構十四間(約25.5m)四方、須沼摂津守ト云フ者住ス。」ともあり、二箇所の堀屋敷跡がかつての須沼村にはあった事になる。
居館の現況は…畑地、空地、一般住宅とその敷地等となっている。該地は四辺を舗装道路に囲まれた一般住宅地の中の一角だが「信府統記」の記述を正しいものとするならば、舗装道路は少なくとも三辺で堀跡を踏襲していない事になる。城郭遺構としては一般住宅の敷地内に土塁様の土の高まり、この部分は居館地の南西隅に近い場所であろうか。推測するに一角の内の北側半分が敷地範囲であろう。ちなみに居館地の東側には「堀木戸」の小名が残っている。
「信濃の山城と館」をバイブルにしているおいらだけど、今回の探索ではこれを無視して「信府統記」の記述を頼りにしてみた。信濃のお城の神が描いた縄張図を見ると、居館敷地範囲をかなり広めに捉えており、これに従うと統記の記述との矛盾が発生してしまう。又、神は須沼摂津守の居館地を該地の南南東約0.4kmの位置に鎮座する須沼神社の境内に求めているんだけど、同社の創建が鎌倉時代の初期にまで遡る事から、社地に後の移動でもなければ居館地と位置が重複していた事になってしまう。敢えて神に逆らってみたんだけど信者としては失格だろう。