矢原東村の堀ノ内
矢原東村の堀ノ内([小岩嶽城 周辺城郭])
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矢原東村の堀ノ内の口コミ情報
2024年07月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
さて、おいらは余程の物件じゃない限り口コミでコピペはしないんだけど、今回ばかりは同一地域の似たような別物件から使いまくり、理由は単純、色々な事を調べても結局は同じ内容に落ち着いてしまうし、それ以上を書く事も殆ど出来ないから。
矢原東村の堀ノ内は小岩嶽城の東南東約7.1km、万水川西岸(左岸)、標高約530mの平野部平場に立地した居館です。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…車の捨て場所が付近に無いので少し歩く事も視野に入れよう。
築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。該地は平安時代中期の「和名類聚抄」にその名が見られる矢原郷に属し、同郷は後に荘園化して矢原庄となっている。領家は一定しないが伊勢神宮の御厨だった時期も度々であり、鎌倉時代には千七百町を数える比較的に大規模な荘園であった。又、時代不明なるも在地荘官に大伴氏流の細萱氏が推測されている。
中世には細萱氏を被官化させた仁科氏の支配を受けている。天正六年(西暦1578年)二月十日の「下諏訪秋宮造宮帳」には、「造宮仁科之領矢原之庄之内古厩、耳塚、細野、池田、正科、細萱、柏原…」とあり、矢原庄が武田氏時代においても「仁科之領」の内だった事が判る。
天正七年(西暦1579年)正月廿日、「下宮春宮造宮帳」、春宮御諸事の条には、秋宮拝殿三間を負担する、細かや、矢原、柏原、しろかね分の代官に、細萱源助、矢原孫右衛門、柏原道中、しろかね中嶋の名が見え、矢原東村の堀ノ内は、こうした代官等にして在地土豪層の「堀ノ内」ではないかと推測されている。
居館の現況は耕作地、一般住宅とその敷地等となっている。謂わゆる単郭の方形居館であるが、改変があるとはいえ、該地は玉垣で囲われた立派なお宅を中心とするので比較的に往時が想像し易い。遺構としては、西辺の一部に堀形、土塁の残滓が確認出来る。又、西方から伸びて西辺に直角でぶつかる舗装道路は、居館の敷地を避ける形(鉤の手)で曲げられて向きを変えており、この道筋に堀跡を見る事も十分に可能だろう。ちなみに航空写真等で見ると、西方を除けば周囲から隔絶された一区画の西側部分であり、むしろ居館の敷地範囲はこの区画の全域に及んでいたと考えた方がよいのかもしれない。
該地は、矢原庄の本郷と推測される矢原郷に含まれるが、承久三年(西暦1221年)の「承久の乱」を記した「承久記」には、矢原太郎なる者が幕府方として参陣している事が見える。古くから在名を名乗る武士が住していた事に間違いは無いんだろう。又、同庄の荘園政所の所在は不明だが、実際に現地を訪ねた結果、該地がこれに相当したとしても何ら不思議な事ではないような気がする。
※別物件〜同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある矢原北村の堀ノ内っす。