正科館A
正科館A([小岩嶽城 周辺城郭])
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正科館Aの口コミ情報
2025年08月14日 内記かずりヾ(・ε・。)
正科館(A・B)は小岩嶽城の北北東約10.0km、高瀬川東岸(左岸)、町川東岸(左岸)、標高約635m(A)、標高約636m(B)の段丘台地上平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「正科集落センター」を目標に設定して下さい。後はリア攻めマップを参照して該地を特定しよう。車は路駐で大丈夫やろ。
該地の正科は、明鷹十年(西暦1501年)辛酉二月十一日、「三宮穂高社御造宮定日記」の大宮分に、「池田庄科 籾八石三斗二升、御幣紙八十二枚半、白米八斗三升二合、手束麻八十三把半、釘八十三半、鎰太夫奉行」とあるのが文書上の初見、安曇郡矢原庄内池田郷に属する村であったか、同一の郷として認識されていたのかの何れかて事になる。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは正科氏です。同氏の詳細は殆ど不明だが仁科氏の分流が推測出来るだろう。応永七年(西暦1400年)七月から続いた「大塔合戦」の際には、仁科弾正少弼盛房麾下として「庄科」が参陣しているが、その後については全く史料を欠いている。
該地には、「啌の口」、「大庭」、「大門」、「高見」、「堀」、「前田」、「元屋敷」等の小名が揃っており、中世に居館地が存在した事に間違いは無い。但し、その正確な位置にあっては特定されておらず、「元屋敷」のA(信濃のお城の神)、「啌の口」のB(「池田町の遺跡」)の2箇所が比定されている。
居館の現況は…まず、Aが畑地、墓地、何らかの事業所とその敷地等となっており、Bの方は完全無欠の田地となっている。Bについてはこれ以上を語る事は出来ないが、Aは西辺が段丘崖に面しており、確かに神が言うように武士が居する場所としてはBよりも遥かに適地だろう。又、東辺に面する墓地は周囲よりも一段高い長方形であり、見方によっては土塁上の墓所とも言えそうだ。
近代には、圃場整備事業によってそれまでの農道や用水路が直線化されてしまい、小名の範囲を現地で確認する事が非常に難しくなっている。そして何よりも往時を想像する事が殆ど許されない。
※安曇郡矢原庄内池田郷〜矢原庄(矢原御厨)は仁科御厨に北接していた。正科は神明沢を以て仁科御厨との境目であったと推測する。
※写真は全てAを撮影した物、Bについては同じ小岩嶽城のリア攻めマップにスポット登録してあるのでそちらをどうぞ…今となってはただの水田だけど…