西山城
西山城([小岩嶽城 周辺城郭])
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西山城の口コミ情報
2025年02月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
西山城は小岩嶽城の北方約10.1km、標高1093mの大洞山山頂から東方へ向かって伸びる尾根中段上、東流した後に南流する乳川の蛇行点へ向けて張り出す標高870.4mの城山山頂部を中心に立地する要害です。東麓の乳川の比高は215m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている東麓の西山城跡駐車場を目標に設定して下さい。西山城址保存会さんの努力により不定期ながらも整備が行われており、しっかりとした登城路が駐車場から付いている。比較的に登り易い山城だと思うさ。
お城は一城別郭の様相を呈しており、城山山頂部と山尾根中段上の標高約782mの小ピーク部に大別出来る。前者は西山城全体の主郭、後者は縄張図における通称2郭に当たるが、前者と後者の間、約0.5kmの尾根上に城郭遺構は見当たらず、むしろ別城一郭と言った方がよいかもしれない。普請が行われた時期には明らかな相違が見られるのだ。又、主郭部を後の拡張とする見方が多勢を占めているように思うが、主郭部の縄張に周辺城郭、同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある観勝院山城との類似性が指摘出来る事からむしろ逆であったと提言したい。この部分は武田氏による改修説さえ飛び出すが、比較的スムーズに安曇郡の一円支配を完成させた同氏が山上の小さな要害に手を加えるような事は無かったろう(基本的に拠点城以外の要害自体を武田氏は必要としていない。同氏による地域支配のあり方を理解しないと永遠に同じ過ちを繰り返す事になる。)。
築城年代は不明、築城者を安曇郡西山に地頭職を得た滋野氏流西山氏とするものがあり、「信府統記」には城主として仁科氏の被官、矢口筑前守の名が見える。何れにせよ、今に残る縄張は、中世〜戦国時代初頭にかけての仁科氏、もしくはその一族、被官衆の普請であった事に間違いは無いだろう。西山城の北東麓には同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある矢口氏居館が立地し、筑前屋敷の別称を持っている。
お城は安曇野の良城、信濃の山城好きならきっと満足する筈…仁科氏関連の要害は尾根筋に設けられた郭の連続感や段郭が際立っている印象があるが、それは此処でも遺憾無く発揮されている。城域は長大とはいえ、お城は前述したとおり二段構え、それぞれが完全に独立しているので探索にも苦労しない。遺構については多くを語らないが、通称2郭西側山側背後の二重堀切(大堀切1条を含む。)や主郭部に付く腰郭を貫く2条の堀切+竪堀には誰でも唸らされる事だろう。又、主郭部を仔細に見ていけば世間一般に流布している各種縄張図との相違に気付くかもしれない。仁科氏関連の要害は腰郭等の段の付き方に繊細なものを感じる。
城主とされる矢口氏については別の機会に譲るが、同氏は本姓、大伴氏であり、中世には安曇郡に割拠した他の同姓氏族(細萱氏、穂高氏等)と共に穂高神社の神職を世襲していたようだ。大町市平の野口地区に残る伝承によれば、矢口氏は本来、野口氏であり、同市内、若一王子社の流鏑馬の的を奉納していた事から姓を矢口に改めたとも。又、現在、穂高神社の御船会館(穂高神社資料館)で常設展示されている「三宮穂高社御造宮定日記」の一部は、清水石見守盛好と矢口備前守知光の連署によって奉之されたものだ。
※仁科氏〜安曇郡に拠った名家にして大族だが、残された史料は極めて断片的であり、体系的に語る事が難しい一族だ。
※穂高神社〜信濃国三宮、海無し県なのに海神、宇都志日金拆命(穂高見命)を主祭神とする。なんでなんかを知りたければ各自奮闘努力してくらさい。調べた結果は古代安曇野の成り立ちそのものだ。同社で毎年九月二十六日と二十七日に行われる「御船祭り」もそうだけど、何かと海と縁の深い神社だなぁ…
※「三宮穂高社御造宮定日記」の一部は、清水石見守盛好と矢口備前守知光の連署によって奉之された〜明應十年(西暦1501年)辛酉二月十一日、穂高社の造営に際して安曇郡の諸郷に諸役と負担を注したもの。ちなみに往時から変遷する事無く三宮だった訳だ。