渋田見城(城山)

渋田見城(城山)([小岩嶽城  周辺城郭])

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渋田見城(城山)の口コミ情報

2025年04月18日 内記かずりヾ(・ε・。)


さて、嘉永年間(西暦1848年〜1855年)の「小倉藩士屋敷絵図」によれば、豊前小倉城城内の「代米御蔵」付近に渋田見舎人て人が屋敷を構えていたんだけど、今回紹介するお城はその舎人の祖先発祥の地、長野県北安曇郡池田町会染に存する渋田見氏に関係する物件だ。

渋田見城(城山)は小岩嶽城の北東約7.0km、標高802mの山稜山頂から南西へ伸びる尾根中段上、標高訳760mの通称、城山山頂部を中心に立地する要害です。西麓のあづみ野池田クラフトパーク(池田町創造館)からの比高は125m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きはあづみ野池田クラフトパークの最奥部からとなり、同じく位置登録がある「上原良司の碑」を目標にして登山口を探そう。重機で削りまくった無駄にしっかりとした登山道が付いている。車は公園内の巨大な駐車場に捨てればよい。

築城年代は不明、築城者は渋田見氏とされるがそうではないとも言える。同氏は安曇郡の名族、仁科氏の分流であるが文書上の初見は戦国時代であり、知行地内の既存の要害を単に利用しただけなのかもしれない。又、渋田見氏については別に居館跡が存在するのでその際にでも。

コンパクトな縄張だが、主郭は土塁付き、主郭東側山側背後に落差のある堀切を穿ち、堀切から土橋道を東行すれば最終郭に至る。但し、あくまで自然地形と断ずるが、一騎駆けの痩せ尾根は後背山稜まで長く続いており、城域は堡塁様の地形が支尾根にまで散見されるこの部分を含んでもよいのではないかと考える。ちなみに崩落により形成されたと思われるこの痩せ尾根が凄まじ過ぎる。一応は自然地形としたがそれが疑わしくもあったりする。今となっては歩行すら危険で困難な代物だ。

城山の南側斜面は崩落しているとの指摘がある他、縄張の部分においては重機による派手な損壊が見られる。お山を公園内の展望所として取り込み遊歩道でも設定しようとしたんだろうか。主郭からの眺望は流石に絶佳、常念岳の前衛、有明山(信濃富士とも。)を正面に捉え、北アルプスの山々がそれこそ一望出来る。

渋田見氏は最終的には小笠原氏に出仕し小倉藩藩士として存続するが、慶応二年(西暦1866年)、幕長戦争の際には、渋田見新が小倉藩三番手士大将、又、明治元年(西暦1868年)九月七日、会津出兵に伴い上京を命ぜられた小倉藩は、渋田見縫殿助(新)に藩士三百五十人を預けて一隊を編成させている。同氏は小笠原家中では仁科氏の本流として遇され、時代にもよるがその知行高は千七百石、武家として明治期に至るまで家名を存続させた数少ない信濃の国人の一氏だ。

※夏場の城山は藪に塗れる他、倒木等で結構荒れている。どこか荒涼とした雰囲気さえあるんだけどおいらは好き。ちなみに支尾根上には縄張図以上の段郭が確認出来る。

※主郭東側山側背後の堀切は竪堀としての落とし込みもある大堀切と言って差し支えないものだが、大木が主郭の土塁を崩して根倒れ、堀切内に積み重なっているのが凄く残念だ。

※開発の手は埋蔵文化財としてストップされたみたいだけど、中途半端な事していないでクラフトパーク内の遊歩道の一部、城山としてきちんと整備してくれたらよいのに…お城好きの我儘な独り言っすけどね。

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