鼠穴館(北海渡居館)

鼠穴館(北海渡居館)([小岩嶽城  周辺城郭])

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鼠穴館(北海渡居館)の口コミ情報

2024年04月23日 内記かずりヾ(・ε・。)


鼠穴館(北海渡居館)は小岩嶽城の北方約4.3km、芦間川南岸(右岸)、中房川北岸(左岸)、標高約618mの平野部緩斜面上平場に立地した居館です。該地の鼠穴、北海渡集落は芦間川によって創造された神戸原扇状地の末端部に位置し、西方山塊に続く高台でもある。周辺地域は縄文時代から人の定住が認められ(桜沢遺跡)、古墳時代後期には首長の存在が推測されている(牛窪古墳、祖父が塚古墳)。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「酒器道祖神・大黒天」を目標に設定して下さい。該地はこの道祖神の南西側一帯となる。推測される敷地面積はそれなりに広く、居館跡てよりは一族等が居する屋敷割りとした方が正解である。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは茅野氏です。他に仁科氏の一族、土屋盛俊が、同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある鼠穴城の番士として居したとの伝承がある。盛俊は小岩嶽城攻めの際に武田氏がために滅ぼされ、その後に入ったのが小笠原貞慶に従った諏訪氏の一族とされる茅野氏である。同氏が鼠穴館に居した経緯は不明だが、小笠原氏の家紋、三階菱の旗印を預けられ、穂高神社の祭礼はこの旗が赴かないと始まらないて伝統があったらしい。史料を探し出せないので事の真偽は不明だが、少なくとも該地には今でも茅野さん一族がお住まい。一帯には数箇所に同家の墓所がある。茅野氏とは武田氏時代の他国衆、下諏方五十騎の一氏、千野氏の事なんだろうか。

居館は謂わゆる一般的な方形居館ではなく、前述のとおり複雑に堀形が巡る屋敷割りの体裁を採っている。該地には、「久保屋敷」、「下屋敷」、「新屋敷」、「中屋敷」、「上手(わで)屋敷」と呼ばれる場所があり、周辺には「城が峯(鼠穴城)」、「西垣外」と呼ばれる場所がある。

各屋敷間を区画する内堀の堀形が実によく残っている。自然地形に手を加えたものと推測され、その一部には沢水の導水も疑われる。現況は不整形な屋敷割りだが、どうやら道路整備等、後世の改変により外堀の殆どを失っているようだ。又、古墳を想起させるような土の高まりも見られ、不整形な屋敷割りを一層複雑にしている。ちなみにおいらはこの探索を滅茶苦茶楽しんでいる。

茅野氏は小笠原貞慶の移封に従わず帰農したて事になるが、一族は当地で今も存続している。往時の感覚によれば、武士で在り続けるよりは一所懸命の土地を守り伝える事の方が何よりの関心事であった訳だ。小笠原氏家臣団の殆どは数度に及ぶ主家の転封に従い信濃を離れる事を余儀無くされるが、何を正解とするかについてはむしろ現代に至って答えが出たような気がする。近世以降の武士道とは無縁の主従関係に本来の武士の在り方を見るのはおいらだけじゃない筈だ。

※スポット登録は「上手屋敷」の位置とした。

※写真①は「久保屋敷」を撮影したもの。

※写真③は「上手屋敷」を撮影したもの。

※「鼠」の地名は「不寝見」に通じ、物見の場所を示唆するが、該地には別に地名に纏わる伝説(鼠石伝説)が存在するのでこの口コミでは言及しない。

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