桐原城(きりはらじょう)
桐原城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 長野県松本市入山辺桐原
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- 不明
築城主
- 桐原真智
築城年
- 寛正元年(1460)
主な改修者
- -
主な城主
- 桐原氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、石積、土塁、堀切、虎口
指定文化財
- 県史跡(小笠原氏城跡)
再建造物
- 碑、説明板
周辺の城
-
林城(長野県松本市)[2.0km]
山家城(長野県松本市)[2.8km]
松本城(長野県松本市)[5.2km]
埴原城(長野県松本市)[5.4km]
井川城(長野県松本市)[5.8km]
稲倉城(長野県松本市)[6.9km]
平瀬城(長野県松本市)[9.0km]
虚空蔵山城(長野県松本市)[14.6km]
山吹城(長野県諏訪郡)[17.2km]
武居城(長野県東筑摩郡)[18.6km]
桐原城の解説文
[引用元:Wikipedia「桐原城」の項目]
桐原城(きりはらじょう)は、長野県松本市にあった日本の城。県指定史跡「小笠原氏城跡」を構成する山城群(埴原城跡、山家城跡、桐原城跡、林小城跡)の一つ[1][2]。標高948メートル。
概要
信濃国の守護・小笠原氏の家臣桐原氏の主城であった。『信府統記』には「桐原大内蔵真智寛正元庚辰年此城ヲ築ケリ」とある。天文19年(1550年)、武田晴信の攻撃により林城とともに落城した。
『長野県町村誌』には本丸は東西16間、南北15間とあり、現在も石垣、土塁などが一部残る。
注釈
出典
- 信濃史学会編 『信州の山城 信濃史学会研究叢書2』 1988年
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桐原城の口コミ情報
2024年07月02日 尼崎城駿河守一口城主
桐原城
[前編:大手口〜主郭]
6月29日、国宝五城めぐりで松本を訪れた際に信州の武道家さん🥋に私好みの古城感を感じられる桐原城を案内して頂き登城。
※順番は前後しますが、下城後に海岸寺跡の登り口にあった看板🪧(写真①)を先に上げておきます。
大手口(写真②/写真①MAP左上の追倉道祖神社付近の登り口)から右奥のフェンスに向かい、登り口の案内板(写真③)を撮り、フェンス右側(写真④)から入城しピンクリボンがくくってある木の方に向かって進軍。
進んで行くと写真①の説明文の通り長大な竪堀(写真⑤)が見えてきました。武道家さんと腐葉土や倒木がなかったら往時はもっと深かったんだろうなと言いながら見上げていました。さらに進むと主郭への道標(写真⑥)があり、当日は雨上がりで霧がたちこめており、合戦の法螺貝の音色が聞こえてきそうな雰囲気でした🐚
主郭に向かって進むと二重堀切(写真⑦)や石積みされた郭(写真⑧)があり、主郭に辿り着く前に見所の多い山城でした⛰
2024年07月02日 尼崎城駿河守一口城主
桐原城
[後編:主郭及び周辺散策編]
大手口の登山道のフェンスから入城し、道中遺構を見学しながらのゆったりペースで進み約25分で主郭(写真①②)に到着。
石積みの多段郭を下から見学したり(写真③)、上から眺めたり(写真④)しました。
主郭の上から周りを見ると合戦が起きたら優位な立ち位置に居ることが分かる高低差が見られました(写真⑤)上からの写真ではなかなか高低差や堀の感じが伝わりづらいかもしれないので下からも撮影(写真⑥)
主郭周辺散策中、曲線的石垣(写真⑦)もあり、苔がいい感じの古城感を醸し出してくれていました。
縄張りの遺構を随所に見ることができ、ルート案内や縄張り名称の案内を多く設けて下さっていて見学しやすい山城でした。案内頂いた信州の武道家さんに感謝です🙇🏻♂️
下城後、桐原城と同じく小笠原氏関連の林城に向かい林城から桐原城の遠景(写真⑧)を眺めました。
2024年04月29日 信濃守学堂
桐原城
林城には何度も行ってましたが、こんなに近くに雰囲気たっぷりの桐原城があるとは知りませんでした!石垣でない苔むした石積が何とも時代を感じさせる情緒たっぷりの山城です。早朝に歩いていたら、雉は鳴いてるし、シマリスに歓迎されるし、終いにはお尻の真っ白な鹿まで見ることができました!行って良かったです。
2024年03月14日 BAMI
桐原城
桐原城に松本城とセットで行きました。数日前に降った雪がまだ残っていました。大手登城口から登ると、いきなり長大な竪堀が現れテンションアップ⤴️雪道をゆっくり進むと、また竪堀が出現。さらに進むと二重堀切や上から見下ろす長大な竪堀。息を切らせながらさらに進むと主郭群の石積みが現れます😃
主郭を取り巻く石積みを見ながら一休みです😊主郭群の石積みは圧巻でした。雪の行軍は大変でしたが、貴重な体験ができました🙂素晴らしい山城です✨是非、一度登って見てくださいね〜😊
①竪堀
②竪堀
③竪堀
④二重堀切の1条
⑤副郭虎口
⑥主郭石積み
⑦主郭
⑧主郭
2023年12月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
桐原御屋敷館[桐原城 周辺城郭]
桐原御屋敷館は桐原城の西南西約0.7km、薄川(すすきがわ)北岸(右岸)、標高約736mの河岸段丘台地緩斜面上平場に立地した居館です。該地はみんな大好き桐原城の南西麓である。ちなみにこの桐原城こそがおいらが信濃の山城にどっぶり浸かる始まりの地であったりする。
行き方はGoogleマップに位置登録されている西側の「柴宮社」を目標に設定して下さい。東側の果樹園と住宅地の一帯が概ねの該地となる。
築かれた年代は不明、お住まいになられていた方は桐原城城主にして桐原郷を知行地とした者であろう。
一般的に小笠原氏系の城郭として認知されている桐原城だが、その発生となると再考が必要な物件だと思う。一番の疑問は小笠原氏の拠点城、林城に近過ぎる事だ。同氏や被官衆の要害として新たに普請する必要が特に無い上に支城としての規模を逸脱しているように思う。桐原城に小笠原氏の手が入っている事はほぼ間違い無いが、既に要害としてその場所に存在していたからこそ二次利用に及んだものだと個人的には考えている。
山家城のリア攻めマップにある山家氏館の口コミでも書いたが、桐原郷に隣接する山家郷は諏訪氏系の山家氏が地頭職であり、守護家である小笠原氏とは文明年間(西暦1469年〜1487年)に度々衝突している。この山家氏が分家を桐原郷に輩出したとの説がある。
「長野県町村誌」には、犬甘大炊介政徳の舎弟、桐原源蔵真智が犬甘より分城し、寛正元年(西暦1460年)三月に桐原城を築城、小笠原清宗に属したとある。但し、調べてみると「諏訪御符禮之古書」、康正三年(西暦1457年)丁丑花會の条には、「桐原 符中 山家為家御符之禮一貫八百文」、寛正四年(西暦1464年)癸未花會の条には、「宮頭桐原 符中 山家和泉守為光御符之禮一貫八百文頭役十貫文 使興五郎」とある。康正三年の時点では桐原郷に諏訪氏系の山家為家があり、寛正四年の時点でも諏訪氏系の山家和泉守為光が同郷に依然健在であった事が判る。町村誌の記述は一次史料との明らかな錯誤が見られる。又、同書、文明十七年(西暦1485年)乙已花會明年頭役番事の条には、「一 流鏑馬符中桐原神田小笠原中務源光政御符之禮一貫三百桐原次郎三郎有知代初御符之禮一貫三百使二郎五郎」とあり、この頃には犬甘氏系の桐原次郎三郎有知(「知」は犬甘氏の通字である。)が諏訪氏系山家氏に取って代わり桐原郷にあった事が判る。
武田氏時代に入ると遠山長左衛門に桐原城が与えられたとする伝承がある。同名の事は不明だし疑わしくもあるのだが、周辺を彷徨いてたら偶然にも遠山さん一族の墓所を見付けた。あながち事実なのかもしれない。
居館の現況は…一面の果樹園、一般住宅とその敷地等となっている。敷地範囲が明確ではないが、今となっては特定したってしょうもない感じだ。どストライクで収穫時期のリア攻め、写真だけ撮って急いで退散した。
桐原には御牧(勅旨牧、官制の牧場である。)の存在が推測され、厩屋が置かれた桐原から王ヶ鼻直下の「駒越」を通って美ヶ原の高原地帯で放牧していたと考察される。山辺の谷筋、薄川北岸(右岸)地域、桐原郷と山家郷は、御牧が存在したとするならば往古は別当の下で(桐原牧として)一体であった筈だ。他に史料無く確証を得られないが、諏訪氏系山家氏とはその故地に入部した開発領主であったように思う。
※信濃十六牧、鎌倉時代における左馬寮領、信濃二十八牧の内に「桐原」の名は見られないが、国司によって置かれた国衙牧であった可能性は十分考えられる。
※写真①、②、背景の山稜が林城、位置関係から山辺の谷筋、薄川北岸(右岸)の一帯には諏訪氏系山家氏があった事を何時もおいらに想像させる。
※写真④、石垣は当然後世のもの。但し、桐原城の竪堀を利用して山石を下し、海岸寺沢の護岸石垣が築かれた例が発掘調査から確認されている。もしかしたらこの石垣の石も…等と妄想出来る。背景の山稜は桐原城、その後背地には武石峠に通じる山越えの古道が控える。小笠原長時はこの山道を通って小県郡塩田に逃れたと推測されている。兎に角、凄い山城なんで松本に来る事があれば是非にも〜
2022年07月16日 RED副将軍
桐原城
最も好きな山城のひとつ。
平石による石積みが多様され、大堀切に多重竪堀と見所多数の信州の名城中の名城✨
中世山城の最高傑作のひとつです。
オススメ度 ★★★★★
1460年、桐原真智により築城。信濃国守護の小笠原氏家臣である桐原氏の居城。
小笠原氏の本拠地である林城の支城として山辺谷の監視の機能をしました。
1550年、武田信玄の侵攻により林城とともに落城した様です。
見所
まず、平石を利用した石積が多様されており、低層ながらもその規模に圧倒されます。石積みは信州特有の牛蒡積みです。
主郭は鉢巻石垣が巡り、背後は大堀切で遮断されています。
また、もうひとつの特徴は大規模な多重竪堀群です。長大で深く、斜度もある竪堀が幾条も落ちており、凄まじい土木量です。
県指定史跡小笠原氏城跡のひとつ。山家城、林大城、林小城、埴原城、桐原城で構成されており、まさに山城界の銀河系軍団です。
2022年06月06日 よっこいしょーいち
桐原城
宮坂先生が上振城候補地として挙げられている場所の内、[34'']地点に遺構らしきものがあります(曲輪、土塁、堀切等)。「桐原城古図」には上振城水の手として堰や堤が描かれていますが、水路跡らしき道は確認出来るのですが堤(溜池)跡は確認出来ませんでした。
2020年01月09日 信濃守はとまめ
駐車場[桐原城 駐車場]
大手登城口より少し下。ビニールハウスより下の辺りに道の太くなっている所があり2台程路駐できます。防獣フェンスの前のポストに案内地図が入ってます。フェンス先の車道を上がっては絶対にいけません!入ったらすぐに右側、ポスト裏手の舗装されてない山道がルートです。
2019年06月05日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
桐原城
主郭下・小笠原氏の特徴的な石積み☆(左上)主郭☆石積みの切れ目は虎口☆甲斐の武田様を恐れていたのか南方向の防御が固い☆
2019年06月05日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
桐原城
主郭西を守る土塁☆主郭西側に搦め手口となる☆武田信玄様が信濃国守護・小笠原長時の本城である林大城を攻めた際に桐原城も落城☆
2019年06月05日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
桐原城
主郭北東の二重の竪堀☆小笠原氏の城郭群の中でも個人的には一番のオススメ☆
2019年05月10日 くらやみ志摩守☘️
桐原城
何本もある麓まで続く竪堀の一つ。石垣・堀・土塁が縦横無尽に配置されたスゴい山城 。小笠原氏の築城術が思う存分発揮されていると思われる。
2019年05月10日 くらやみ志摩守☘️
桐原城
何本もある麓まで続く竪堀の一つ。石垣・堀・土塁が縦横無尽に配置されたスゴい山城 。小笠原氏の築城術が思う存分発揮されていると思われる。
2019年05月09日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
桐原城
上部・石塁の切れ目は副郭への虎口☆副郭は勿論、主郭もガッチリ石塁で守られる☆「小笠原流」築城は凄い♪この城の縄張りは驚くべき防御に長けている☆
2019年04月28日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
桐原城
標高952mに築かれた戦国時代の山城☆小笠原氏の城跡群☆信濃国の守護・小笠原氏の家臣桐原氏の主城☆武田晴信の攻撃により搦め手口から退却・逃走☆林城とともに落城☆武田の侵略に恐れていた事が良く分かる城郭造り☆【見所】①高さは出せないまでも見事な石積み群☆②これでもか?と切りまくる空堀に竪堀☆③見た事無い位に防御網に長けた搦め手口☆
2016年12月18日 梅鉢近江守Silvine
桐原城
以前にも書かれていますが、獣除けフェンスを開けて入るのですが、正面に続く舗装路ではなく、すぐ右手に続く山道を入ります。フェンスの前に説明板があり、案内図も入っています。フェンスから10分ほどで竪堀が見え、さらに15分ほどで段郭を抜けて最初の石組が見えてきます。
松本にある小笠原氏の城はどれも石組がよく残っていますが、その中でも桐原城はその中でも石組が多用されており、上がるごとに現れる遺構に圧倒されます。この辺りの城に特徴的な何段も続く小さな段郭や堀切も見応え充分です。
2015年11月25日 カーネル
桐原城
山家城の登山口から県道67号を西へ歩いて桐原城の登山口へ。道は狭いので車に注意
途中の小学校前にある看板には、近隣のお城の分布図がありました。桐原バス停を越えたら山に向かって県道から北上します
桐原城の入り口は柵をあけて入ったら、すぐ右の斜面を登るのですが、知らずに林道を直進してしまい、地図を見ると本丸を越えていることに気付き戻りました
桐原城自体は、竪堀を見ながら登れたり、堀も土塁も石垣も満載で凄く楽しめました。本丸までの距離もそれほどでなく、気軽に行けます
山家城登山口から桐原城へ行き、桐原バス停に到着したのが2時間半弱後
山家城でも桐原城でも道に迷いタイムロスはありましたが全行程で4時間半ほどです
歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです
2013年10月09日 赤いRVR甲斐守@松本
桐原城
登城口もう1ヶ所は、新しい農道脇、海岸寺沢横からです。追倉口も両方とも、現在鹿柵ゲートがありますが、地区の愛護会が作った案内図も設置されています。
2010年06月20日 赤いRVR甲斐守@松本
桐原城
主な登城口は、里山辺薄町追倉(おっくら)地籍から。水道施設の近く。