埴原城(はいばらじょう)

埴原城の基本情報

通称・別名

所在地

長野県松本市中山

旧国名

信濃国

分類・構造

山城

天守構造

不明

築城主

村井(埴原)氏?

築城年

鎌倉時代?

主な改修者

主な城主

村井氏

廃城年

遺構

曲輪、石積、土塁、堀切、竪堀、井戸跡

指定文化財

県史跡(小笠原氏城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

林城(長野県松本市)[4.0km]
山家城(長野県松本市)[4.9km]
桐原城(長野県松本市)[5.4km]
井川城(長野県松本市)[5.9km]
松本城(長野県松本市)[7.0km]
稲倉城(長野県松本市)[11.9km]
平瀬城(長野県松本市)[12.5km]
山吹城(長野県諏訪郡)[12.8km]
武居城(長野県東筑摩郡)[14.5km]
花岡城(長野県岡谷市)[15.5km]

埴原城の解説文



埴原城(はいばらじょう)は、長野県松本市にあった日本の城。県指定史跡「小笠原氏城跡」を構成する山城群(埴原城跡、山家城跡、桐原城跡、林小城跡)の一つ[1][2]

概要 

信濃国の守護・小笠原氏の家臣埴原氏(村井氏)の城であった。

天文19年(1550年)、武田晴信により真っ先に攻撃され落城した。この後、林城など小笠原氏の諸城は続々と落城し、信濃守護小笠原氏はこの地を追われることになった。

武田氏滅亡後、松本盆地を奪還した小笠原貞慶が改修し、現在の城跡はその時のものと推定されている。石垣、土塁などが一部残る。

埴原城の口コミ情報

2024年10月17日 よっこいしょーいち
百瀬の堀屋敷[埴原城  周辺城郭]



ここに百瀬某の堀屋敷があったとされるも、遺構は確認できない。すぐ近くを長野県道288号新茶屋塩尻線が通るが、この道は江戸時代の五千石街道だったのではないかといわれている。また、この道沿いに耳塚古墳(首塚跡)があり、武田方に討ち取られた小笠原方の武将の首が弔われたともいわれる。

2024年10月17日 よっこいしょーいち
旗塚[埴原城  周辺城郭]



旗塚は領地の境界を表すため、或いは誰の領地か表すためのものともいわれます。宮坂武男氏によれば11基の塚が確認できた、とありますが、自分には5基ほどしか分かりませんでした。この旗塚のある尾根を下ると3基の中山北尾根古墳があり、もしかしたら小型の古墳を旗塚に転用していた可能性もあるのかもしれない。

2024年10月17日 よっこいしょーいち
中山砦[埴原城  周辺城郭]



「長野県の中世城館跡-分布調査報告書-」には鍬形原烽火台の別称として瀬黒山城とあり、中山砦も鍬形原烽火台も瀬黒山城も同一の城址だと思われる。遺構はほとんど確認できませんが、過去に発掘調査が行なわれ、マレットゴルフ場から堀跡が見つかっております。また、中山は昔、法螺貝山とも呼ばれていたらしい。

2024年10月17日 よっこいしょーいち
町村[埴原城  周辺城郭]



町村は北熊井城の侍町と考えられます。町村集落の真ん中に東西に延びる道があり、この道の左右に侍屋敷が並んでいたと思われる。また、道の東詰に北熊井城の城主の館があったと思われ、この館地の裏にある畑の隅に城主の墓ではないかといわれる五輪塔があります。

町村集落の周りは田んぼが広がっておりますが、集落がある場所は田んぼよりもわずかに高い地形で、北と南に沢が流れており、往時はもしかしたら堀で囲まれていたのかもしれない。

集落の南西に「古堂」という地字の直径30mほどの台地があり南東部に土塁が設けられているので、町村集落、そして北熊井城の物見台と思われる。

2024年10月17日 よっこいしょーいち
権現館(立小路館)・たけ原[埴原城  周辺城郭]



権現館は館地の北東隅にわずかな堀跡が確認できますが、館地内は個人宅、私有地となっていますので御注意下さい。

この館は北熊井城から北西に約800m離れた位置にあり、何らかの関連がありそうですが、例のごとく史料、伝承ともなく詳細は不明です。

南に権現沢川が流れており、天然の水堀としていたと考えられる。西に下った所に「たけ原」という地字があり、そのすぐ近くに長野県道63号線が通っていますが、この県道が沢を渡るところにお地蔵様があって、このお地蔵様には「昔、馬の輿に乗ったお嫁さんが、このお地蔵さんの前を通る時は、お地蔵さんに手拭いで目隠しをして橋を渡らないと落馬するといわれた。これは昔、このお地蔵さんの東に殿様がおり、たとえお嫁さんでも殿様の前を馬上のまま通るのはけしからんと、このお地蔵さんの前を通る時は下馬するよう命じた、という故事にちなむ」といった伝承が伝わっているようです。

2024年10月17日 よっこいしょーいち
弁当原城(無量庵城)[埴原城  周辺城郭]



弁当原城は史料、伝承、遺構、ともに無く、全くもって謎の城です。北にある大宮八幡館と何らかの関連がありそうですが、それもまた不明です。現地には「城」の地字があるものの、それ以外に城の存在を示唆するものがない。

それと、北にある大宮八幡宮には「武田信玄旗立て一位の樹」というイチイの樹がありますが、弁当原城の近くには「武田信玄旗立て檜の樹」がある某氏の祝殿もありました。

2024年10月17日 よっこいしょーいち
大宮八幡館[埴原城  周辺城郭]



大宮八幡館は別名、山の神館とも呼ばれ、八間長者城を築いた波多腰氏の館跡ではないかとされる。

館地より北にある大宮八幡宮には波多腰清勝が大永2年(1522)正月、鉢伏権現に法華経を寄進した際の石造供養塔や銅製棟札が所蔵されているらしく、この波多腰清勝か、もしくは波多腰一族の館だったのではないかと推測されています。

鎌倉時代には波多腰重久、信盛、清勝がいたようですが、ここもまた詳しい史料が少なく、よく分かっていない。

現地には「館」の地字があるものの、畑や民家になっており、明確な遺構は確認できませんでした。

2024年10月17日 よっこいしょーいち
三郎城(雨堀)[埴原城  周辺城郭]



三郎城は八間長者城の西側に位置してますが、明確な遺構はありません。宮坂武男氏はホテルクラウンの跡地を推定地にしておりますが、「塩尻市地名地図」には、ホテルクラウン跡地よりも、さらに少し北西に「三郎城」の地字が載っています。

八間長者城に関連した、あるいは浅田城に関連した城址かと推測されますが、史料も遺構もないため、よく分かっておりません。

2024年10月12日 鈴木剛
チラシボックス[埴原城  碑・説明板]

駐車場の近くにポストがあり城の縄張り図が、ふだんは入っているようですが、行った時は空でした。

2024年10月12日 鈴木剛
横山城[埴原城  周辺城郭]



堀などの地名が残っているそうですが遺構は残っていないようです。夏は草木が凄く何もわかりませんでした。標柱下の方には弥生時代と書いてあります。

2024年04月02日 よっこいしょーいち
尾池砦(塩田山)[埴原城  周辺城郭]



尾池砦には石積みを伴った幾つかの曲輪がありますが畑跡のようにも見え、史料、伝承等も無いため疑問符が付けられることもあります。
しかし、地形図で見ると中山から尾池砦がある塩田山、中山団地(棚峯)、大久保山まで南北に丘陵が伸び、これは東にある埴原城を守る天然の土塁のようにも見えるので、砦があった可能性は高い気がします。
現在、砦があったとされる場所のすぐ下には長野県道287号線が通っていますが、昔は寿地区から中山地区へと続く旧道もあり、この旧道を挟んで南側の中山台団地(棚峯)にも砦があったと云われているので、埴原城へと至る道を監視するための砦があったのではないかと思いました。

2024年04月02日 よっこいしょーいち
仙石雅楽助館[埴原城  周辺城郭]



千石雅楽助(せんごく うたのすけ)は仙石帯刀左衛門雅楽助、別名 政国といい天文17年8月20日(塩尻峠の戦いの1ヶ月後)に亡くなったらしい。
しかし、天文17年10月13日に武田晴信(信玄)から帯刀左衛門宛に中山埴原の胡桃沢に50貫文の土地を与える宛行状が出される。翌14日には同じく晴信より千石帯刀左衛門尉宛に20貫文の土地をそのまま所領してよい、という安堵状が出されている。(息子が父の名をそのまま継いだのだろうか?)
武田統治下の永禄7年(1564)6月には信玄より筑摩郡の百瀬某を佐渡守に任ず、という文書も出されていて、どうやら千石氏は武田統治時代に千石(仙石)姓から百瀬姓に改姓したのかもしれない。
武田氏滅亡後に府中、松本を回復した小笠原貞慶からは天正10年(1582)9月24日に百瀬雅楽助等に所領 筑摩郡埴原等の地を宛がう、という宛行状が出されている。
千石氏はその後、この地に帰農する者、諏訪藩に出仕する者などに分かれ、安堵状や宛行状は、この諏訪に移った千石家に残っているらしい。
館跡とされるこの場所も千石姓の家が何軒もあるみたいです。

2024年04月02日 よっこいしょーいち
御城山(音渡山・音声山)[埴原城  周辺城郭]



御城山と呼ばれる小さな尾根の先端に砦(物見?)があったとされるが土砂採取により消滅しています。
松本市誌によれば10×14mほどの曲輪が二段あり南側に地山を残したと思われる土塁状のものがあったが平成5年に土砂採取により消滅した、とあります。
すぐ近くには千石雅楽助(せんごく うたのすけ)館があり、さらに北側に埴原城があります。ここにあったとされる砦は埴原城の南側を警戒する物見か狼煙台と考えられますが、南側は古屋敷繋飼場跡がある台地により視界が遮られている。ただ北から西にかけては見晴らしが良い。
ここより南東に400m離れた所にも10m四方の曲輪状のものがありますが関連は不明です。

2024年04月01日 よっこいしょーいち
八間長者城(八間欠城・八間城)[埴原城  周辺城郭]



八間長者城は波多氏(波多腰氏)が築いたと云われています。
しかし波多氏については史料が少なく出自等はよく分かっておりません。一説には古代氏族の巨勢氏(こせし)の流れが松本市波田(旧 波田町)に移り住み、波田の巨勢から波多腰を名乗った、という説もあるらしい。
松本市波田と八間長者城がある松本市内田は松本平を挟んで反対側となる位置となり、どのように領地を所有していたか不明ですが、波田には勅旨牧である大野牧があったといわれ、また、松本市内田の北側にも勅旨牧の埴原牧があったので朝廷に納める軍馬の生産に携わっていたのだろうと考えられます。麓の大宮八幡宮には波多腰氏の名が書かれた棟札があり、付近に波多腰の館があったとされる。
宮坂先生の縄張図を見ると主郭が異様に小さいことが見て取れますが、国土地理院の傾斜量図で確認すると主郭の南側に崩落地形が確認でき、これは恐らく地滑りにより主郭の大部分が崩落したと思われます。
この城にまつわる伝承として、室町時代にこの城の水の手として作られた塩ノ池が大雨と地震により決壊し山津波(土砂崩れ)が起きた、という話があり、この土砂崩れの後に湧いた冷泉が八間長者城のすぐ隣にある崖ノ湯温泉の始まりらしい。
城の搦め手(城域の奥の奥)にはその塩ノ池と思われる土手が残っています。

2024年03月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
埴原城



いきなり始まるけど埴原城の口コミの続きっす。文章を分けての掲載なんで訳解らんかったら前回分を流し読みでもして下さいまし。

…当時は府中小笠原氏が東山の再編、地固めを推し進めている時期だったと個人的には考えている。優れた小笠原氏系城郭の存する桐原、山家の両郷もほぼ同時期に同氏の被官衆の進出が認められる他、西山の波田では小笠原氏の有力被官、櫛木市正一俊により中塔城のリア攻めマップにある櫛木城と波田山城が築かれている(櫛木氏が波田を知行地としたかは知らんけど、同氏とその被官衆はこれ以降、約六十年間に亘って上波田の西光寺を菩提寺としている。)。この時期の小笠原氏は一族が三家に分裂し外勢も巻き込んで同族相争い衰退する事態となっているが、小笠原氏系城郭の発達とは後の武田氏による信濃経略に備えたものではなく(時間的余裕も無く遅きに過ぎた事はその結果からも明白だ。)、これ等に伴う結果、特に諏訪氏に対する備えではなかったかと推測する。

小笠原氏と武田氏の一連の戦いは殆ど野戦で決着が付いている。守護家である小笠原氏にとっては、後詰も期待出来ず、そもそも論で不安を抱えていた守護権力すら根本から否定される籠城(要害にとっては最たる目的の一つだが、苦渋の選択である。)に至る考えは到底持ち合わせていなかったろう(信望を失い後の経営が破綻する。又、籠城人数すらままならなくなる。事実、桐原、林、山家の各城は自落している。)。概ねで山地の要害は既に戦術的な意義しか持たず、個別に抵抗の場を提供する以外に価値は無くなる。小笠原氏系城郭がいかな堅固な要害とはいえ戦いの場所にさえ成り得なかったのは当然の結果だと考えている。

…あ、埴原城ね、おいらが最も好きな小笠原氏系城郭なんだけど、全縄張を確認するには覚悟が必要、今回の探索は6時間30分以上に及んでいる。主郭から派生する尾根筋は小さなものも含めて6方向に及ぶしアップダウンも激しい、比高100m位を登り返すなんて事も当たり前、ぼろぼろにされる。今回のお目当ては以前に探し出す事が出来なかった主郭からの南尾根に付くとされる畝状竪堀、無事に目標は達成出来たけど、こり、急峻過ぎて尾根上からだと確認不可能だわ…主郭から110m位を下ってようやく見付ける事が出来た。他の遺構については投げっぱなしで悪いけどネットで縄張図を探してみて下さいまし…イカれた数の堀切と竪堀に呆れ返る事間違い無し。

勝手知ったるお城の再訪ておいらにとっては覚悟が要る事なんす。どうしてもハードルを高く設定してしまうから。でもねぇ…見たい欲求の方が常に上回るんだな。体力的にはまだまだ全然イケるけど、いつの日か見れなくなる時が必ず訪れる。躊躇してたら一生拝めない景色がそこにはあるのさ。家の中で縄張図や写真を見てたって何も始まらない。

※リア攻めもそうだけど、好きなお城ともなれば歴史の勉強もハードルを上げざるを得ない。埴原城は信濃では名の知れた山城、今回口コミで述べた個人的推測は一般的な常識、認識とは随分とかけ離れている。そうではないよて御指摘があれば遠慮無く伝えて下さいまし。有り難く拝聴するつもり。但し、論拠は示して欲しい。

※小笠原氏の内訌は府中小笠原氏で言えば持長から長棟の治世に及ぶ。びっくりするけど約90年間の長きに亘る。

※小笠原氏系城郭ではあるが、桐原城、埴原城、山家城の何れも在地被官衆の要害である。あり得ない事ではないが、指図はあれど改修主体を守護家にだけ求めるのは少々無理があるように思う。

※積雪が思ってたより酷かった…斜面では30cmを超える。お山の事は難しいなぁ…

2024年03月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
埴原城



さて、今回はアプリの登録城、埴原城っす。おいらのお城ベストが確定する事は一生無いけど、死ぬ間際のベスト5には必ず入るであろう山城、兎に角、好きー、意外にも詳細が伝わらないお城なんだけど、調べた事纏めて口コミ書いてたら二千文字じゃとても無理だったんで2回に分けて紹介しようと思う。毎度の事で読み難いけど区切れないんで勘弁してね。

埴原城は宮入川北岸(右岸)、標高1530.8mの宮入山に隣り合う標高1501mの山塊山頂から西方へ伸びる尾根下段上、標高1004m地点の平場を中心に立地する要害です。西麓の長野県道63号、松本塩尻線からの比高は260m位でしょか。該地の埴原は古代から開発が始まった地域、律令制下における官制の牧場、埴原牧がかつて存在した。同牧には牧監庁が置かれ信濃十六牧を統括していたと推測される。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。登城路入口の標柱もしっかりと立っている。他に山尾根末端部の墓地裏からも登城路に合流する道が付いていたけど、今は矢竹が群生してしまい消滅したに等しい。此処から登ると酷く苦労させられるので止めといた方が無難、おいらは頸部に擦過傷を負ってしまった。数年前に卒業した学習院初等科でもわんぱくとして恩師を困らせたけど、最近のおいらはそれを上回るわんぱくぶり…ちなみにJr.アイドルなのに現在丁度10枚の絆創膏を貼り付けて生活している。何れも大した怪我じゃないけど、毎日の入浴、繊細且つ入念なセルフフェイシャルエステ等に微妙に影響する。

築城年代は不明、築城者は村井氏と推測されている。同氏は信濃守護、小笠原氏の有力被官、犬甘氏の一族であり、室町時代後期には中内田、和泉の両郷を知行地としていた。

承久三年(西暦1221年)の「承久の乱」後の埴原は波多氏が地頭職であり、嘉歴四年(西暦1329年)三月、諏訪社上社の神事に勤仕する武士等の結番を定めた鎌倉幕府下知状案、三番五月會分の条には、「右頭 内田牧、埴原地頭波田判官代跡」とある。埴原は牧としての機能を失い郷名として登場し、替わって内田牧の名が現れる。同牧は左馬寮領である南内牧、北内牧を指すものと推測され、両牧の「内」は埴原牧の内を意味すると読める事から埴原牧が発展解消したものだと考察されている。波多氏は渡来人とされる秦氏の後裔、古代には西山の大野牧を開き、この頃には波田を本拠とし新補地頭として東山にも勢力を拡大していった訳だ(但し、平安時代には信濃村上源氏から判官代盛国を後嗣に迎えて武士への転身を図り源姓となっている。)。南北朝時代までの同氏は極めて裕福、水沢一山の五院を建立した他、牛伏寺(現在は真言宗智山派の寺院だが、往時は天台宗の寺院だった可能性が指摘される。ちなみにおいらは善光寺よりも牛伏寺の方が断然好き。)にも寄進等している。同寺は当時から仏像十二体を本尊とする巨刹だが、それを可能とする背景には波多氏の経済力があったからこそだと推測されている。

一般的には小笠原氏系城郭を代表するものの一つだが文献等には一切登場しない。城域は広大で一朝一夕に普請が完了したとも思えず、要害としての発生はこの波多氏によるものだと個人的には考えている。

「諏訪御符禮之古書」には該地の埴原と南接する内田を巡る複雑な関係が浮き彫りにされる。即ち、寛正三年(西暦1463年)壬午花會の条には、「前宮内田埴原は三十丁御符之内書付には内田埴原と書小札には波多判官太夫跡と書御符をは波多入申候波多政盛御符之禮一貫八百文波多制状には内外波多判官太夫の跡と書候中内田村井伴政知制状斗之禮一貫八百文同埴原をも此村井政知制状之禮一貫三百文南内田苻中和田筑前守雅基制状禮一貫三百被出候北内田平瀬民部大輔國知副状禮一貫三百代官大蔵実親」とある。

…何言ってんのか知らんけど偉い先生の解釈によると、御符には波多判官太夫跡と書き、波多政盛が礼銭の一貫八百文を納め、副状には副状のお祝いとして御符の礼銭を中内田と埴原の地頭、村井政知がそれぞれ一貫八百文と一貫三百文、南内田の地頭、和田筑前守雅基が一貫三百文、北内田の地頭、平瀬民部大輔國知が一貫三百文を出し、在地しない民部大輔國知は代官の大蔵実親が北内田分を納めているよて事になるらしい…上社も不審に思って特に書き留めたのだろう。少なくともこの頃には波多氏が地頭職であった埴原に村井氏が、内田が中内田、南内田、北内田の各郷に分かれ、村井氏、和田氏、平瀬氏(三氏は何れも小笠原氏の有力な被官である。)がそれぞれ地頭職となっている。波多氏は既に対外的に必要な名目上の存在に過ぎなかったて事を意味しているのかもしれない。

続く…

2023年09月04日 RED副将軍
南熊井城[埴原城  周辺城郭]



三方に空堀が巡る北熊井城の出城🏯

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

築城年代等の詳細不詳。小笠原氏の南方を押さえる拠点であった北熊井城の出城と考えられています。
1546年に武田氏の侵攻により北熊井城とともに落城したと云われます。
その後は武田氏の支配となり、1552年の府中攻めに際して拠点となり改修された様です。

見所
松林寺背後の台地先端部に築かれた単郭方形の出城です。周囲は農作地となっており副郭が存在していた可能性もあります。
西側を除く三方に空堀が巡ります。北側は土塁付きの空堀であり、東から南側にかけては幅15mの空堀がよく残っています。
主郭内部は耕作地となっていました。

2023年06月14日 おかっぴき
埴原城



蓮華寺の駐車場にポストがあり、埴原城跡の地図があります。それを参考に登城すると良いでしょう。良い遺構が残り満足のいく城跡でした。

2023年05月08日 RED副将軍
北熊井城[埴原城  周辺城郭]



武田氏改修の周辺では珍しい台地城郭🏯

オススメ度 ★★★★⭐︎

築城年代は不詳。松本平の南方を押さえる為に小笠原氏により築かれたとか、犬甘氏の一族である村井氏により築かれたとか諸説あります。 1546年、武田氏の侵攻により自落し武田氏の支配となります。1552年、高白斎記には「熊野井ノ城鍬立」とあり、武田氏が改修し深志城の小笠原長時を攻略する拠点とした様です。1582年に武田氏が滅亡すると、徳川家康の配下となっていた小笠原貞慶が松本城に復帰。北熊井城は溝口美作守の所領となりました。

見所
東西に伸びた台地上に築かれた連郭式。中央に本城を配し、西から「西三」「西二」「西一」「本城」「東一」「東二」「竹の花」と郭が連なります。それぞれの郭は空堀と土塁で区切られ南側にも土塁付の空堀が伸びています。本城の東側は三重、南側は二重の空堀で厳重に固められており見所です。

この辺りでは珍しい台地上なので比高はほとんどありません。高コスパ城です。

2023年04月05日 ほりーないと
北熊井城[埴原城  周辺城郭]



比高は20m、城跡だと認識する前は畑がたくさんあるだけだと思っていました。近づくと美しい堀が出迎えてくれます。本城の東側には三重堀があります。眺めがとても良いです。塩尻ICから塩尻市道東山山麓線を走行して松本市へ向かう道中にあります。松本市の山城攻めの前後などにふらりと寄れるお城です。

今回の訪城は城友さん達との待ち合わせを兼ねました。ちょうど桜が見頃でした。遺構と桜のバランスが良く、お城も花も楽しむ事ができます。北熊井城の桜は知られていないようで訪れる人はほとんどいませんでした。

2023年02月25日 よっこいしょーいち
瀬黒山城[埴原城  碑・説明板]



ここに瀬黒山城があったらしい。現地説明板には瀬黒 金平が築城し居館は麓の上瀬黒集落の内堀にあったとある。確かに現地には石垣があるが過去に桑畑として開墾されていたらしく畑跡のようにも見える。すぐ側に竜王の池があり湧水を溜めた池のようだ。中山西側山麓の並柳や瀬黒からは中山を瀬黒山と呼んでいたようなので中山砦と瀬黒山城は同じ城址で呼び名が違うだけかもしれない。あるいはここは中山砦の水の手郭だった可能性もある。

2022年09月23日 よっこいしょーいち
白河十郎有忠の館跡[埴原城  碑・説明板]



白河惟家の孫、白河十郎有忠の館跡。惟家の館同様、遺構はありません。

2022年09月23日 よっこいしょーいち
藤原(白河)惟家の館跡[埴原城  寺社・史跡]



白川諏訪神社が館跡らしいです。
白河氏は「桓武平氏流秩父氏の一族で、平武基の孫の秩父忠兼が信濃国筑摩郡白河郷(現・長野県松本市大字寿豊丘字白川)に移住して白河氏を称した。その二男・親忠が隣接する赤木郷(現・同市大字寿小赤字赤木)に分家して赤木氏を称したとされる。鎌倉時代の承久3年(1221年)親忠の子・忠長が承久の乱の勲功で備中国川上郡穴田郷(現・岡山県高梁市宇治町穴田)を恩賞として賜り、新補地頭として移住し、その後発展した。その時に持参した『赤韋威鎧(あかがわおどしよろい)』は国宝に指定されている。現在赤木姓は、宮崎県や岡山県に多く見られる姓で、俳優の赤木春恵も、この流れを自称する。」(Wikipediaより)
とあり秩父忠兼の孫が惟家とのこと。
遺構はありませんでした。

2022年09月16日 よっこいしょーいち
真田城[埴原城  周辺城郭]



馬場家住宅の西側に[真田城]があったと「私本信府統記」や「片丘村誌」に記載されていますが遺構は全く確認出来ませんでした。

2022年05月29日 mootze
埴原城

なかなか、期待通りの山城です、小さな郭が何段もかさなり、所々には、堀切を配置して敵の侵入を防ぐ、山城特有の構造です、本郭には石垣、搦手には、大堀切、必見です。

2022年05月05日 沼田上野介
登城口[埴原城  その他]

登城口の所で道が左右にありますがどちらからでも登城できます、途中の段郭前の堀切で合流。

2022年05月05日 沼田上野介
化粧清水[埴原城  遺構・復元物]



主郭下にある水場、付近の水の尾沢より蟹水道の工法により水を引いており、写真では分かりにくいが今なお十分利用できるほど湧き出ている

2022年04月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
小屋城(村井城)[埴原城  周辺城郭]



小屋城(村井城)は埴原城の西南約5.6km、奈良井川東岸(右岸)、標高約625mの平野部平場に城域が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。ピンの位置は概ねで城域の中心地、説明板の立つ場所となっています。

築城年代は不明、築城者は村井氏です。村井氏は信濃国府を中心とした地に勢力を保った古代から続く犬甘氏の一族とされています。寛正三年(西暦1462年)、諏訪上社の御符礼之古書から埴原、中内田の領主は波多判官太夫跡の波多政盛から村井伴政知に交替した事が確認出来るので、この頃より平野部の小屋城に居し、詰城として埴原城を築いたものと推測されます。

天文十七年(西暦1548年)七月、塩尻峠の戦いで勝利した武田氏は同年十月、小笠原氏の本城、林城の直近である小屋城に鍬立て、大幅な拡張と改修を行い府中攻めにおける本拠としました。従って小屋城には村井氏の居館城時代、武田氏の拠点城時代の二期が存在します。

お城の現況は駅近の市街地、遺構は何も残っていないとされていますが、広大な城域内には僅かながらの土塁と堀形を見る事が出来ます。又、城域の東辺と西辺の水路は武田氏時代の堀跡を想起させる他、一般住宅の敷地内には土塁にしか見えない土盛りなんかも見る事も出来るでしょう。

「人は城、人は石垣、人は堀…」、武田信玄が語ったとされる言葉(出典は何処なんでしょか?事実なのかな。)ですが、人材を貴とする信玄の考えを言葉で表したもので決して城の存在を軽視したものではありません。信玄は討ち入った土地に大勢力を背景に平城を築いて外地における拠点とし、在地勢力の施政権と行政権を否定する。これらが山地にいかな堅城を築いて籠ろうにも既に詰んでいる訳で、後に待ち受けているのは調略だ。そしてそれと同時に在地勢力に担保を与える。信玄の信濃政略は苛烈だったとされるけど、初期の佐久攻めが過大評価されているに過ぎないとさえ思っている。信濃の土豪や国人領主にとって一時的だったとはいえ武田氏は頼りにするのに充分な存在でした。そして小田原攻めにおける石垣山城と府中攻めにおける小屋城の存在価値は同一のものだったと考えます。

※リア攻めマップには既に小屋城がスポット登録されていましたが位置は完全な間違い…改めて別にスポットを作成しました。

2022年02月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
北熊井城[埴原城  周辺城郭]



北熊井城は埴原城の南西約7.1km、標高1665mの高ボッチ山山塊の南西裾野、標高約755mの台地上平場に主郭が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は常識の範囲内でそこら辺に捨てられます。

築城年代は不明、築城者は時代の振れ幅もあるし、関係諸氏は多数に上るしで諸説あってはっきりしないです。城主となると尚更っす。

お城の存する熊井郷は文治二年(西暦1183年)が文書上の初見ですが、お城の方は戦国時代、武田氏による府中乱入の際が初見となります。天文十四年(西暦1545年)、福与城の藤沢頼親を降した武田勢は府中、林城付近まで兵を進め近隣を放火、その際に「熊ノ井」の城は自落、その後は天文十七年(西暦1548年)まで再び小笠原氏の支配を受けていたようですが、塩尻峠の戦いの後に再々武田氏の勢力下に置かれました。天文十七年に武田氏は村井城を築城して府中攻めの拠点としますが、北熊井城は天文二十一年(西暦1552年)に鍬立てされた事から深志城を補完する拠点として整備が進んだようです。

松本平における城郭としては珍しい部類に入ります。台地上に西方へ張り出す短冊状の微高地全てを使い切り(平城である。)、元々の居館城の縄張を大幅に拡張し順次改修に及んだとされています。決して複雑な縄張ではありませんが、堀切(主郭東側背後は三重堀切だ…)や空堀が良好に残っている他、土塁、虎口、喰違虎口、馬出、櫓台と思しき削平地等が確認出来ます。又、お城の一部は現在も耕作地として利用されていますが、耕されたぐらいで特に大きな影響は受けていないと思われます。

結構知られたお城だと思うんですが、がっつりな山城ファンが好む中信、北信のお城とは一線を画す北熊井城、伊那平や田切地形を活用しない佐久平のお城の趣きもあるけど話題になる事はあまり無い…でも冷静に考えりゃ武田ブランドで再出発した凄いお城なんですよ〜平城でこんなに素敵な堀系が残るお城なんて松本平では現況他には見当たらないっす。

かく言う自分も2回目の訪問でようやくそれに気付きました。初回訪問時は夏場で藪ってる上に城域が広大で大味な印象しかなかったんですが、積雪でコーティングされた北熊井城は大変な魅力を放っています。埴原城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2022年02月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
南熊井城[埴原城  周辺城郭]



南熊井城は埴原城の南西約8.3km、標高約714.mの平野部台地西端部上平場に主郭が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。西側直下に建つ松林寺に駐車も出来ます。

築城年代、築城者は不明です。名称や今に残る遺構から同じ埴原城のリア攻めマップにある北熊井城の出城との見方が有力でしたがどうにも違うらしい…宝徳三年(西暦1452年)、信濃守護小笠原持長によって諏訪社下社に熊井郷他十数郷が寄進されていますが、宝徳元年(西暦1449年)の諏訪大社上社と下社の内乱の際に上社の圧迫に耐えかねた下社の社人等は府中小笠原氏を頼り、その代表各であった大和織部正に熊井郷を守らせ居館城として築かれたとする説がそれっぽいです。又、太平洋戦争終結後まで片丘村(廃村)に残存していた旗塚60基の配置は北東の北熊井城に対するもので、これも出城説を否定するものの一つと言えるんでしょう。

お城は西辺の崖地を除く、三辺に空堀を巡らせた単郭方形、居館城の縄張なんですが、これが塩尻市郊外にありながら実によく残っている。北辺には空堀に付随する立派な土塁もちゃんと残っていて虎口まで開口していますし、その土塁の西端部延長線上には櫓台ぐらいは付いていたでしょう。又、東辺の空堀には現況側溝による水路が堀底に付いていたりしますが、これが逆に遺構の保存度を上げているように思います。

実は2回目の訪城、前回は真夏の直射日光に曝されて写真が壊滅、全部削除しちゃったんすけど、今回は積雪も相まって遺構がはっきり確認出来て思わず見直しちゃったぜ〜季節によってこんなにも印象が変わるものなのかなって感じです。同様の事は周辺の北熊井城にも言えるので積雪の残る冬場の時期がお勧め♪埴原城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。又、北熊井城との関係性を否定するような説明になってしまいましたが、遺構は正しくミニ北熊井城の趣き…北熊井城が武田氏によって拡張改修された際に出城として改修されたと考えても飛躍ではないと思います。

2022年02月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
本城[埴原城  周辺城郭]



本城は埴原城の南方約5.2km、標高1665m(三角点は亡失…)の高ボッチ山の西方裾野、山塊から西方へ延びる尾根上、標高1134.8mのピークの一つに主郭?が存します。登城路入口となるブリーズベイリゾート塩尻かたおか(営業してんのか知らん。)からの比高は120m位でしょか。

行き方は…前述のホテルがGoogleマップに位置登録されていないので、西麓の塩尻市上水道片岡浄水場を目標に設定して下さい。此処から林道を更に車で登ればホテルに到着します。ホテルの裏手に高ボッチ山への登山道が付いていて誰でもそのまま登って行きたくなりますが、お城の存する尾根筋はこのルートから姥ヶ沢を挟んだ北側に見える尾根ですので、沢へ下りてから尾根上まで急斜面(簡単には登れない…)を直登しましょう。運が良ければ既に城域です。

築城年代、築城者は不明です。周辺地域は承久の乱の後、内田牧埴原に源姓波多(秦)氏(渡来人とされる秦氏に清和源氏源頼清流、源盛国が後嗣として入ったらしい。)が地頭職として入部しました。波多氏は南北朝の時代まで東山の内田埴原と西の波多を所領とし、南内牧、北内牧、大野牧を経営し極めて裕福でしたが、室町時代中期に入ると旧左馬寮の管轄であった官牧に周辺豪族や農民が流入、開田が始まり牧経営は困難、衰退します。又、戦国時代に入ると同氏の後裔とされる北方約1.3kmに位置する八間長者城主、波多(畠庄司腰)山城守は天文十九年(西暦1550年)、武田氏に出仕し、洗馬の三村氏の取りなしで所領を殆ど安堵されているようなので同氏に関係するものなんでしょか。

お城の現況は大変素晴らしい。痩せ尾根を介して東西2ブロックに分けられますが、西側は隠れ城の趣き、東側が主郭部となります。主郭部の東側山側背後は曲げを伴う三重の横堀+竪堀で堀切られ、主郭部北側の腰郭を絡めながら複雑な展開を見せる横堀+竪堀と相まって感動でしかない…が、このお城主郭と呼ばれるものが不明確でして、標高1134.8mピークは大土塁状の高まりでしかない…付近は沢筋で地滑りが多発する場所らしいので、主郭は崩落して痩せ尾根を形成していると考えられているようです。

八間長者城と共に松本平における隠れた良城の一つです。ネットで検索しても全くヒットしないのはその名称故…埴原城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2022年02月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
赤木北城[埴原城  周辺城郭]



赤木北城は埴原城の西南約4.8km、田川の東岸(右岸)、赤木丘陵の西端、標高719.2mの赤木山(山てよりは丘陵頂部です。)北端崖地、標高約669mの緩斜面上平場に主郭が存します。西麓の長野県道288号線、新茶屋塩尻線からの比高は25m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車で直近まで行けます。

築城年代、築城者は不明ですが、赤木氏に関係する城館と推測されています。赤木氏については同じ埴原城のリア攻めマップにある赤木氏館を参照して下さい。

お城は完全単郭方形の縄張ですが、北側崖地を除くコの字形の空堀がよく残っています。主郭までは幅広の土橋で周囲と連絡していますが、この土橋自体は後世の改変でしょう。主郭は熊笹藪、蔦植物が蔓延っていて冬場でも気持ち悪い…この主郭は過去に重機が暴れまくったらしく、東辺、南辺は城域外周囲よりも一段低くなっていて違和感しか感じないのでかなり削られているのかな。主郭には空堀に沿って土塁が設けられていたと思いますが、それでも堀外の高所なんて籠る側からしたら障りでしかないでしょう。又、縄張図には含まれませんが、西側の桃水寺跡(お城の説明板が立つ。)を城域と考える事も出来るでしょう。

周辺には同じ埴原城のリア攻めマップにある赤木氏館、赤木南城、横山城が存します。承久の乱の後、備中に本拠を移した赤木氏ですが、本貫地であった赤木郷にも所領を保っていた事が嘉元三年(西暦1305年)の関東下知状で確認出来ます。赤木郷には引き続き一族、代官の何れが置かれたと思いますのでそれに関係するものなんでしょか。又、天正壬午の乱の後には小笠原氏の要害として赤木南城と共に利用があったと推測しても無理は無いと思います。

写真を撮るのが難しいお城です。諦め切れずに冬場なら何とかなるかなと考えての再訪でしたが、やっぱりね…今回を最後に赤木北城から引退したいと思います。

2022年02月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
赤木南城[埴原城  周辺城郭]



赤木南城(赤木山の砦)は埴原城の南西約5.3km、田川の東岸(右岸)、赤木丘陵の西端、標高719.2mの赤木山(山てよりは丘陵頂部です。)南端崖地、標高約694mの緩斜面上平場に主郭が存します。西麓の長野県道288号線、新茶屋塩尻線からの比高は35m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。が、ピンの位置はやや西側にずれているので注意です。正解はピンの位置からヘアピンカーブを進んだ東側にある遊水池から舗装路を挟んだ南東側、セイコーエプソン・松本南事業所の駐車場南側の高まりが主郭の位置となっています。

築城年代、築城者は不明ですが、天正年間に古川伝八郎なる者が詰めていたと伝えられています。天正十三年(西暦1585年)、井伊直政が塩尻峠に出て小笠原貞慶の動静を伺った際(天正十三年は貞慶が徳川方から豊臣方に転じた年である。)、貞慶が赤木山砦に陣を敷いたとも。

お城は舗装路、駐車場建設等により改変されていますが、それでも基本形はよく残していると思います。腰郭なんかもちゃんと確認出来ますし、主郭東側背後の2条の堀切+竪堀はぎりぎり破壊を逃れています。縄張図を見るとこの堀切+竪堀は主郭北側の横堀を起点としていたようですが、肝心の横堀は埋め立てられ今はただの側溝にその姿を変えているようです。ただ全体的には藪が酷い印象で時期によっては見れたものではありません(此処の堀切+竪堀…過去通算で30枚以上写真撮ってますが全てファジー、上手く撮れた事が無いです…)。冬場でも痛いぐらいの枯木が各見所で襲って来ます…

砦規模のお城ですが標柱が立っているはず…ただ4回目の訪問(自分にとっては長野自動車道塩尻ICを降りて下道を走ってると最初に現れるまともな松本市のお城なんす。)にも関わらず未だに発見出来ないっす。たぶん今はもう無いのかもしれません。又、該地はセイコーエプソンさんの巡回警備箇所の背後となっているので注意しましょう。

自分は今回、警備員も巡回しないであろう主郭部南側崖下付近まで落ちる竪堀末端から侵入しましたが、沢を飛び越える必要があるし傾斜は決して優しくないのでやめときましょう。以前よりも運動能力が格段に落ちている事を忘れていて、飛び越える際に左膝部内側側をコンクリート製側壁に強打、5分位動けませんでしたわ…

2022年02月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
鍬形原烽火台[埴原城  周辺城郭]



鍬形原烽火台は埴原城の西北約2.4km、独立峰である中山霊園が立地する標高約836mの山塊山頂に主郭が存します。西麓の牛伏川からの比高は210m位でしょか。

行き方は同じ埴原城のリア攻めマップにある中山砦を参照して下さい。砦の北東側山側背後に隣接しています。てか往時は中山砦の一部であった事でしょう。

築城年代、築城者は不明です。こんなん知らんわってレベルでしょう…が、小笠原氏の本拠、府中に繋がる狼煙台の一つであったと想像する事は容易ですし物見台としても極めて有効です。

狼煙台の現況は…改変されていて何だかよく解らないけど何らかの聖地に指定されています。整地されている箇所には立ち入る事が出来ないし入った所でどうしようもないので狼煙台の雰囲気だけを楽しみましょう。中山砦と鍬形原烽火台は発掘調査で2条の堀切が検出されているんですが、その内の1条が現在竪堀として確認出来ます。後は虎口っぽい高まりとか付いてましたが、こちらはハイキングコース整備時の削平残土だと思います。

狼煙台の立地は南北に長い山塊山頂(このお山、山名があるのかしらん…松本平では相当目立つお山なんすけど…)で独立峰、広く見れば美ヶ原高原の西方裾野に連なる独立峰で、松本平の大半をその視界に収める素晴らしい展望を持っています。言ってみれば単純に狼煙台や物見台の場としては最適で過去には展望台も備え付けられていました。狼煙台とか物見台としても何じゃこりゃレベルですが、嫌な事があったら此処に来て夜景なんかを眺めると慰められるかもしれません…

確認出来る竪堀はそれなりな代物です。でもこれだけを見に来てもねぇ…ただ車で行けるので凄く暇な時に訪ねるのもよいかもしれません。見終わったら景色を眺めて慰められましょう。スーパーマニア向け。

2022年01月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
埴原牧跡(千石繁飼場跡)[埴原城  寺社・史跡]



埴原牧跡(千石繋飼場跡)は埴原城の南西約1.7km、標高約867mの緩斜面上平場に存した牧です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車はそこら辺に捨てても問題無いと思います。てかそんなに時間取りません…

「牧」って書きましたが、読んで字の如く馬を生産する牧場の事です。一般的な牧場と違う点は律令制下における左右馬寮の管轄下に設けられた官制の牧場であった事で、「勅旨牧」、「御牧」と呼ばれます。これらの牧は東国に置かれ、即ち、武蔵国4箇所、上野国9箇所、甲斐国3箇所、信濃国16箇所が整備されました。

信濃国は他の追従を許さない数ですが、馬の生産に適した土地柄(広大な放牧地、牧草地、水源が必要である。)だったのでしょう。「延喜式」には大室牧、高井牧、笠原牧、平井手牧、宮処牧、新張(新治)牧、塩原牧、岡屋牧、山鹿牧、望月牧、長倉牧、塩野牧、埴原牧、大野牧、猪鹿牧、萩倉牧が記録されていて、これらで信濃十六牧を構成していました。又、毎年4月に都に献上する貢馬は信濃国全体で80疋と指定されていました。

埴原牧は信濃国の牧監(もくげん、各令制国の牧を統轄するための官職、国司の次官に相当する。)が置かれたと推測されています。付近からは牧監庁の物と思しき礎石が検出されており、当地には古屋敷、千石の地籍が残ります。

勅旨牧は十世紀を境に衰微します。文治二年(西暦1186年)には信濃の牧は二十八牧(左馬寮領)を数えますが、その中に埴原牧の名は見られません。但し、筑摩郡の牧に数えられる南内牧、北内牧が埴原牧の発展したものと考えられています。信濃の勅旨牧は平安時代に至ると左馬寮の荘園化が進み、これと平行して各牧の別当等は在地で力を蓄え武士団として発展する者も現れました。即ち、信濃では望月牧(信濃十六牧の筆頭であった。)の望月氏、大野牧、南内牧、北内牧では波多氏等を輩出しました。

信濃の武家氏族の歴史を調べているとこの勅旨牧の存在がバックグラウンドとして浮かび上がって来る事が度々あります。西国には当然見る事が出来ない武士団の形成、発展のあり方は地方史の重要な一節である事は間違いありません。飛躍かもしれませんが、埴原城築城の間接的なバックグラウンドとして考える事も可能ですね。

2022年01月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
中山二山砦[埴原城  周辺城郭]



中山二山砦(なかやまふたやまとりで)は埴原城の西北約3.2km、独立峰である中山霊園が立地する山塊、北西に延びる尾根上、標高約774mのピークの一つに主郭が存します。北麓の東山山麓広域農道、通称アルプス展望しののめの道からの比高は165m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている北麓の弘法山古墳・駐車場を目標に設定して下さい。直近に建つ弘法山・公衆トイレの裏手には尾根筋を登る登山道が付いてますので、これを使って同じくGoogleマップに位置登録されている石堂神社址(今は東屋が建つ。)を目指します。神社址に到着したら更に5分位登り、後は高度計を使って標高774mピークを確認しましょう、意外な程の削平地なので直ぐに判別出来るかと思います。ちなみに難しく書きましたが、登山道は崩落箇所を除けば比較的緩やかな整備されたハイキングコースでして、慣れた方ならサンダルでも登れます。

築城年代、築城者は不明です。府中を拠点とした信濃守護小笠原氏に関係する砦かと推測出来ますが違うとも簡単に言えるでしょう。立地は松本平を遮ぎるもの無く一望出来る高所であり、物見台としては最適だと思います。又、砦の存する中山の地は深志(松本)から鉢伏山山塊西麓を通り諏訪方面へ抜ける交通の要衝でもありました。

砦の現況はお山のピークの削平地って感じです。が、凄いのは西側斜面が崩落している南側の尾根筋でして人一人がやっと通れるぐらいの痩せ尾根は守る側からしたら心強いでしょう。往時はどうだったか知らんけど何れにせよ細尾根であった事は間違い無いと思います。又、砦自体も西側と南側斜面が崩落していると考えられ、それは今も密やかに時間を掛けて進行中だと思います。

この砦から尾根筋を南方へ約1.2km頑張ると鍬形原烽火台、更にこれに隣接する中山砦に辿り着きます。自分は当日のメインが控えていたので諦めましたが、ちょっとした軽いハイキングのつもりで縦走するのもよいでしょう。運が良ければ鹿の群れにも遭遇出来ます。

※砦の位置は比定地ではありますが、信濃のお城の神が著述するように此処が適地、間違い無いと思います。

2022年01月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
横山城[埴原城  周辺城郭]



横山城は埴原城の南西約4.3km、標高約688mの台地上平場に城域が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車はそこら辺に捨てても問題無いと思います。

横山城て滋賀県長浜市、長野県長野市の二つのお城が有名ですよね、前者は木下秀吉が城番を勤めたり、後者は長尾景虎が陣を敷いたり攻めたりしています。しかしっ!長野県松本市にも横山城があるのれすっ!しかも全国的に見ても標高的には一番高い場所に位置(東側からなら比高はゼロどころかマイナス…)する横山城…ただ残念ながらそれしか勝てる部分はありまてん…

築城年代、築城者は不明です。「堀」の屋号や「城西」の地名が残っている事から概ねの位置は特定出来ますが、遺構は何一つ残っていないので堀形は追えないし城域の判定すら出来ません。又、周辺は要害性が低い事から居館城だったと推測されているようです。

お城は横山城遺跡として昭和四十一年(西暦1966年)に発掘調査が行われているようなんですが、資料は特に探せないらしいし、発掘のメインは同地の弥生時代の遺跡群だったと思うのでお城の調査も二の次、三の次ぐらいだった事でしょう。

現地にはびっくりする事に内田歴史研究会作成の標柱(標柱としてはたぶん二代目です。)が立っています。ただその位置は「城西」の地名の範囲内であり、城域内に立っているものとは一概に言えません。この標柱の付近には堀形を想起させる舗装路が付いてたりしますが、まぁ違うだろうなぁ…お城の現況は完全に耕作地と集落の一部って感じです。

整理する側としたら標柱が無けりゃ何処の写真だかも判らないでしょう、地形段差マニアでも無理だと思います。スーパーマニア向け。

※スポット登録は標柱の位置となります。

2021年04月23日 よっこいしょーいち
埴原城



塩尻市の桜沢砦の1291m峰まで登りましたが現地にあった曲輪状の物が砦の遺構かどうか判断できませんでした。
全体的に急登で両サイドが切れ落ちた細尾根の連続で危険です。
行かれる方はご注意下さい。あとクマが出ます。

2021年04月18日 国府左京大夫城介
赤木南城[埴原城  周辺城郭]



戦国時代には小笠原氏の支城の一つ

※本城郭は企業の私有地なので、勝手に入らず、車道等からの見学に留めること!

【歴史】
築城年代、築城者共に不明。
天正年間には、古川伝八郎が守っていたと云われている。また、天正13年(1585)に、井伊直政が塩尻峠に兵を進めた時に、小笠原貞慶がこの辺りに陣を張ったという。

【遺構】
赤木北城の南700mの比高30mほどの台地に造られている。現在はセイコーエプソンの敷地内となっているため、中に入ることは出来ず、車道から遺構を確認することしかできない。
遺構としては、2条の堀切や郭などを確認することが出来る。

【感想】
セイコーエプソンの敷地であることを示す看板が沢山あり、立入禁止や警備員巡回などと書かれているので、絶対に入らず、車道等からの確認だけに留めてください。若しくは、セイコーエプソンの社員になって、正々堂々と見学してくださいw
駐車場あたりの背後には郭があったり、車道脇にはっきりとした堀切を確認することができます。また、企業の敷地内ということもあり、ある程度整備されており、無理に遺構を破壊している様子は見受けられません。遺構を維持しつつ、見学開放とかしてくれるといいな~

【アクセス】
篠ノ井線・村井駅から徒歩35分。

【写真】
1:主郭と思われる郭(手前がエプソンの駐車場)
2:堀切1
3:堀切2
4:東側の車道から見た郭

2021年03月29日 国府左京大夫城介
赤木北城[埴原城  周辺城郭]



赤木氏の居館跡。

【歴史】
赤木氏の居館跡と伝わるが、築城年代等、詳細は一切不明。

【遺構】
北洞下堤南側にある比高20mの台地上に築かれている単郭の中世居館跡。
主郭を囲むように空堀、土橋や土塁は明瞭に残っている。

【感想】
畑の端っこにポツンと存在しており、主郭内には廃アパートがあり、夜に訪れたくはない雰囲気のお城跡です。
主郭の一部は藪で覆われているが、それほど深くないので簡単に突破できます。この城の周囲を囲う空堀は、よく往時の姿を残しており、特に西側の空堀は北側へ落ちていくように掘られている。また、東側の空堀側は台地の方が高くなっているのが特徴です。しかし、あまり保存状態は良くなく、空堀には粗大ごみが捨てられているのが残念である。

【アクセス】
篠ノ井線・村井駅から徒歩で40分程。

【写真】
1:南西にある土橋
2:西側の空堀
3:南側の空堀
4:東側の空堀
5:主郭内
6:説明板(赤木北城の西側にある桃水寺内にあります)

2020年03月17日 RED副将軍
埴原城



小笠原氏の改修による名城中の名城🏯

オススメ度 ★★★★★

築城年代は不詳。埴原氏により築かれた代々の居城。
埴原氏は、後に村井館を築いて村井氏を称してからも埴原城は詰城として機能したと云われます。
小笠原氏が信濃守護職となると従属。南方からの押さえとして重要拠点となり、城域も拡張されました、
1550年、武田信玄が小笠原氏攻略のため侵攻。イヌイの城を落とすと、小笠原氏の大城・深志・岡田・桐原・山家の五城は自落したと伝わります。この「イヌイの城」は戌亥の方角からも埴原城と考えられています。
武田氏が滅亡すると、所領を奪還した小笠原貞慶が改修したと云われ、現在の城跡遺構は小笠原氏の改修によるものとされます。

見所
標高1,004mの高所に主郭部は東西二つの郭を配します。
西側の主郭は南東側に二段に積まれた石積みが良好に残っています。平石を積み上げた石積みは小笠原氏城郭の特徴です。
主郭東側背後は大堀切で遮断され、その先の尾根筋にある大規模な畝状竪堀群は圧巻です。
尾根筋の至るところに堀切、竪堀が設けられており見所は多数です。

行き方は、麓の蓮華寺を目指してください。駐車場と案内板もあります。登城路も整備されており登りやすいですが、かなり広い城域で見所も多いため余裕ある時間が必要です。

2020年03月12日 征夷大将軍 びゅ~てぃみみ
北熊井城[埴原城  周辺城郭]



西に突き出た高い台地を五つの郭で区切り、本城含む6つから形成されたわりとシンプルな城跡。
各郭のまわりは深い空堀がめぐっています。

小笠原氏の城でしたが、塩尻峠の合戦前哨戦で武田信玄に攻め落とされたと言われています。

おおむね整備されているので見易いのですが、そうでない部分もありせっかくの空堀が…というところも。
本丸からの眺めは塩尻の街並と北アルプスが同じフレームに収まるという、何とも贅沢で素晴らしい景色が広がっていて、これは中々感動モノです。

ちなみに山城ではないので登りはありません。
近くまでいくと(位置はリア攻めマップ参照)案内板があるので迷うことはないと思いますが、入るところによっては途中道が狭いので大きな車だと草等があたり傷がつく可能性がありますのでお気をつけください。
駐車場はなかったため、大手を少し過ぎた東側付近にとめさせてもらいました。

松本付近はガッツリの山城が多いですが、ここはお散歩感覚でお手軽に土遺構を楽しむことができますよ。
城小腹が空いた時、ハードな山城散策前のウォーミングアップ…前菜的な感じで訪れてはいかがでしょうか。

2019年05月31日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
埴原城



段郭から続く尾根上の連続堀切を上部より☆武田信玄様が松本へ侵攻した時まずこの埴原城を攻撃し占領☆埴原城落ちると小笠原氏の本城の林城をはじめ支城四城が自落する☆しかし武田氏滅亡後に松本盆地を奪還した小笠原貞慶が改修☆

2019年05月28日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
埴原城



副郭側面部を守る石垣☆「小笠原氏城跡」の1つ☆標高1004mに造られた戦国の山城☆武田信玄様により攻撃され落城☆小笠原氏の諸城は続々と攻略される☆信濃守護小笠原氏はこの地を追われる事になる☆

2019年05月10日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
埴原城



(右)は主郭守る大土塁☆(左)竪堀は急激に落ちる☆「小笠原氏城跡」の一つ☆埴原城は標高1000m付近に築城☆信濃国の守護・小笠原氏の家臣埴原氏(村井氏)の居城☆

2016年11月08日 おにぎり(縫殿助の佃煮)
埴原城

近くの保福寺に、小笠原長時妻子のお墓があります。
お寺自体もなかなかいいですよ。

2016年10月20日 おにぎり(縫殿助の佃煮)
埴原城

松本市立考古博物館の南東方向、蓮華寺前に駐車場があります。
駐車場内に郵便受けのようなものが立っていて、中にマップが入っています。
もしここになければ、考古博物館でももらえます(山中は脇道がいくつかあります)。

ルートは2つありますが、蓮華寺前の道路から入って行くのが一般的でしょう。

靴はしっかりしたものを用意したほうがいいです。

今回は時間が限られていたので、寄り道せずに、まっすぐ主郭を目指しました。

化粧水のところから、右に向かうと畝状竪堀群に、左に向かうと主郭に向かうルートになります。
主郭への道の方がやや分かりにくくなっているので注意です。

主郭から周囲を見回した後、そのまま下山。
今回は写真など撮りながら行って帰ってくるだけでしたので、所要時間は50分程度でした。
1時間半から2時間あれば、満足できるかと思います。

周辺には原始から古代にかけての遺跡も多くありますよ。

2013年10月23日 赤いRVR甲斐守@松本
埴原城

化粧水は、昔は結構な水量があって、コップも置いてあり、飲んだこともありましたが、現在はだいぶ水が少なくなりました。

2013年04月05日 赤いRVR甲斐守@松本
埴原城

ふもとの松本市立考古博物館に、中山史跡めぐりマップ③埴原城があります。博物館では、勾玉づくりなども体験できますよ!!城めぐりとあわせてどうぞ!

2010年06月20日 赤いRVR甲斐守@松本
埴原城

県道松本塩尻線柿の窪バス停近く、蓮華寺が目印、そこに駐車場あり。そこから山道、鹿柵のゲートから入る。違う尾根からも登れるが、鹿柵ゲート注意。

埴原城の周辺スポット情報

 帯郭(遺構・復元物)

 石垣(遺構・復元物)

 虎口、石積(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 化粧清水(遺構・復元物)

 高島城移築城門(常光寺山門)(遺構・復元物)

 説明板(碑・説明板)

 説明板(碑・説明板)

 チラシボックス(碑・説明板)

 白河十郎有忠の館跡(碑・説明板)

 瀬黒山城(碑・説明板)

 赤木北城の説明板(碑・説明板)

 登城口と説明看板(碑・説明板)

 北熊井城(周辺城郭)

 赤木北城(周辺城郭)

 赤木南城(周辺城郭)

 小屋城(周辺城郭)

 横山城(周辺城郭)

 本城(周辺城郭)

 中山二山砦(周辺城郭)

 鍬形原烽火台(周辺城郭)

 南熊井城(周辺城郭)

 小屋城(村井城)(周辺城郭)

 真田城(周辺城郭)

 尾池砦(塩田山)(周辺城郭)

 百瀬陣屋(周辺城郭)

 百瀬の堀屋敷(周辺城郭)

 御城山(音渡山・音声山)(周辺城郭)

 仙石雅楽助館(周辺城郭)

 大小屋(周辺城郭)

 旗塚(周辺城郭)

 中山砦(周辺城郭)

 浅田城(周辺城郭)

 三郎城(雨堀)(周辺城郭)

 八間長者城(八間欠城・八間城)(周辺城郭)

 小池砦(砦)(周辺城郭)

 馬場家屋敷(周辺城郭)

 赤木氏館(周辺城郭)

 町村(周辺城郭)

 権現館(立小路館)・たけ原(周辺城郭)

 光明寺館(吉田氏居館)(周辺城郭)

 長者屋敷館(周辺城郭)

 五百渡城(周辺城郭)

 弁当原城(無量庵城)(周辺城郭)

 大宮八幡館(周辺城郭)

 野村屋敷(周辺城郭)

 野村砦(城下・楯下)(周辺城郭)

 埴原牧跡(千石繁飼場跡)(寺社・史跡)

 藤原(白河)惟家の館跡(寺社・史跡)

 駐車場(駐車場)

 松本市考古博物館(関連施設)

 入り口(関連施設)

 登城口(その他)

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