埴原城(はいばらじょう)

埴原城の基本情報

通称・別名

所在地

長野県松本市中山

旧国名

信濃国

分類・構造

山城

天守構造

不明

築城主

村井(埴原)氏?

築城年

鎌倉時代?

主な改修者

主な城主

村井氏

廃城年

遺構

曲輪、石積、土塁、堀切、竪堀、井戸跡

指定文化財

県史跡(小笠原氏城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

林城(長野県松本市)[4.1km]
山家城(長野県松本市)[5.2km]
桐原城(長野県松本市)[5.4km]
井川城(長野県松本市)[6.0km]
松本城(長野県松本市)[7.0km]
稲倉城(長野県松本市)[12.0km]
平瀬城(長野県松本市)[12.5km]
武居城(長野県東筑摩郡)[14.5km]
花岡城(長野県岡谷市)[15.4km]
和田城(長野県小県郡)[17.1km]

埴原城の解説文



埴原城(はいばらじょう)は、長野県松本市にあった日本の城。県指定史跡「小笠原氏城跡」を構成する山城群(埴原城跡、山家城跡、桐原城跡、林小城跡)の一つ[1][2]

概要 

信濃国の守護・小笠原氏の家臣埴原氏(村井氏)の城であった。

天文19年(1550年)、武田晴信により真っ先に攻撃され落城した。この後、林城など小笠原氏の諸城は続々と落城し、信濃守護小笠原氏はこの地を追われることになった。

武田氏滅亡後、松本盆地を奪還した小笠原貞慶が改修し、現在の城跡はその時のものと推定されている。石垣、土塁などが一部残る。

埴原城の口コミ情報

2022年09月23日 よっこいしょーいち
白河十郎有忠の館跡[埴原城  碑・説明板]



白河惟家の孫、白河十郎有忠の館跡。惟家の館同様、遺構はありません。

2022年09月23日 よっこいしょーいち
藤原(白河)惟家の館跡[埴原城  寺社・史跡]



白川諏訪神社が館跡らしいです。
白河氏は「桓武平氏流秩父氏の一族で、平武基の孫の秩父忠兼が信濃国筑摩郡白河郷(現・長野県松本市大字寿豊丘字白川)に移住して白河氏を称した。その二男・親忠が隣接する赤木郷(現・同市大字寿小赤字赤木)に分家して赤木氏を称したとされる。鎌倉時代の承久3年(1221年)親忠の子・忠長が承久の乱の勲功で備中国川上郡穴田郷(現・岡山県高梁市宇治町穴田)を恩賞として賜り、新補地頭として移住し、その後発展した。その時に持参した『赤韋威鎧(あかがわおどしよろい)』は国宝に指定されている。現在赤木姓は、宮崎県や岡山県に多く見られる姓で、俳優の赤木春恵も、この流れを自称する。」(Wikipediaより)
とあり秩父忠兼の孫が惟家とのこと。
遺構はありませんでした。

2022年09月16日 よっこいしょーいち
真田城[埴原城  周辺城郭]



馬場家住宅の西側に[真田城]があったと「私本信府統記」や「片丘村誌」に記載されていますが遺構は全く確認出来ませんでした。

2022年05月29日 mootze
埴原城

なかなか、期待通りの山城です、小さな郭が何段もかさなり、所々には、堀切を配置して敵の侵入を防ぐ、山城特有の構造です、本郭には石垣、搦手には、大堀切、必見です。

2022年05月05日 沼田上野介
登城口[埴原城  その他]

登城口の所で道が左右にありますがどちらからでも登城できます、途中の段郭前の堀切で合流。

2022年05月05日 沼田上野介
化粧清水[埴原城  遺構・復元物]



主郭下にある水場、付近の水の尾沢より蟹水道の工法により水を引いており、写真では分かりにくいが今なお十分利用できるほど湧き出ている

2022年05月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
町村[埴原城  周辺城郭]



町村は埴原城の南西約7.4km、標高1665mの高ボッチ山山塊の南西裾野、標高約720mの台地緩斜面上平場に存した北熊井城の外郭(便宜上外郭としますが、簡単に言えば北熊井城に連なる町割です。)です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている北熊井城を目標に設定して下さい。車は北熊井城周辺の適当な場所に捨てて歩きましょう。

築かれた年代、築いた方は不明です。元々存した居館城を拡張、改修したとされる北熊井城の西側に位置する事、大きな勢力の在地支配に伴って成立するものだと考えられる事から小笠原氏もしくは武田氏によるものと推測され、北熊井城城番(長野県町村誌には小笠原氏庶流の溝口美作守が北熊井城を築き、島立氏、溝口氏の両氏が交替で城番を勤めていたとの記述があります。)の諸士が居していたと推測して間違いは無いでしょう。北熊井城は武田氏によって天文二十一年(西暦1552年)に鍬立て(高白斎記)され改修が始まりますが、この年は深志城の拠点化の後に当たり、東山地域を背後に控え、諏訪郡と筑摩郡、伊那郡を結ぶ他、木曽口、飛騨口にも連なる事からこの熊井の地が改めて重要視されたて事なんでしょか。

町村は地名でもあり、城主(城代)居館、侍町、馬場、的場、出構え、堡塁等からなる複合用途で、周辺にはそれらに関連付けられる城下、中屋敷、前田、堀田等の地名が残ります。

外郭の現況は耕作地、耕作放棄地、空地、墓地、一般住宅とその敷地等となっています。が、行ってみりゃ理解出来ると思いますが、推定居館跡地を東端とする屋敷割が小規模ながらも往時とほぼ変わらないような気がします。西端部には堀の存在を窺わせる横矢の掛かる切岸、「古堂」と呼ばれる堡塁が確認出来ます。この堡塁は半周に土塁が付き、外郭の前哨、更には北熊井城に西方からアプローチする際の番所機能を有していたと想像出来ます。今は全体が墓地となっていますが、墓地に利用されたからこそ削平を逃れたとも言えるでしょう。又、改変が無ければ外郭全体は西面の大沢川、南北面の小河川を天然の堀としていたようです。

近世の城下町以前の、戦国時代の城下が偲べる点においては珍しいものかと思います。現況集落とはいえ探索は結構楽しめます。推定居館跡の東側、耕作放棄地の片隅には城主の物と伝わる五輪塔と宝篋印塔がひっそりと佇んでいたりなんかもしますね。

2022年04月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
小屋城(村井城)[埴原城  周辺城郭]



小屋城(村井城)は埴原城の西南約5.6km、奈良井川東岸(右岸)、標高約625mの平野部平場に城域が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。ピンの位置は概ねで城域の中心地、説明板の立つ場所となっています。

築城年代は不明、築城者は村井氏です。村井氏は信濃国府を中心とした地に勢力を保った古代から続く犬甘氏の一族とされています。寛正三年(西暦1462年)、諏訪上社の御符礼之古書から埴原、中内田の領主は波多判官太夫跡の波多政盛から村井伴政知に交替した事が確認出来るので、この頃より平野部の小屋城に居し、詰城として埴原城を築いたものと推測されます。

天文十七年(西暦1548年)七月、塩尻峠の戦いで勝利した武田氏は同年十月、小笠原氏の本城、林城の直近である小屋城に鍬立て、大幅な拡張と改修を行い府中攻めにおける本拠としました。従って小屋城には村井氏の居館城時代、武田氏の拠点城時代の二期が存在します。

お城の現況は駅近の市街地、遺構は何も残っていないとされていますが、広大な城域内には僅かながらの土塁と堀形を見る事が出来ます。又、城域の東辺と西辺の水路は武田氏時代の堀跡を想起させる他、一般住宅の敷地内には土塁にしか見えない土盛りなんかも見る事も出来るでしょう。

「人は城、人は石垣、人は堀…」、武田信玄が語ったとされる言葉(出典は何処なんでしょか?事実なのかな。)ですが、人材を貴とする信玄の考えを言葉で表したもので決して城の存在を軽視したものではありません。信玄は討ち入った土地に大勢力を背景に平城を築いて外地における拠点とし、在地勢力の施政権と行政権を否定する。これらが山地にいかな堅城を築いて籠ろうにも既に詰んでいる訳で、後に待ち受けているのは調略だ。そしてそれと同時に在地勢力に担保を与える。信玄の信濃政略は苛烈だったとされるけど、初期の佐久攻めが過大評価されているに過ぎないとさえ思っている。信濃の土豪や国人領主にとって一時的だったとはいえ武田氏は頼りにするのに充分な存在でした。そして小田原攻めにおける石垣山城と府中攻めにおける小屋城の存在価値は同一のものだったと考えます。

※リア攻めマップには既に小屋城がスポット登録されていましたが位置は完全な間違い…改めて別にスポットを作成しました。

2022年04月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
長者屋敷館[埴原城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

長者屋敷館は埴原城の西南約6.8km、奈良井川東岸(右岸)、標高約645mの平野部平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。該地は長者原公園となっていて駐車場も付いてます。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは城氏とされています。長野県町村誌では「伝に曰、天文中、城ノ伊織拠之。城氏は始、長尾氏に仕え、後武田氏に属す。」との記述があり、信府統記にも吉田村屋敷跡としてほぼ同様の記述があります。又、石碑が建っていたらしいのですが、明治の初頭には既に文字が読めなくなっていたそうです。

城氏と言えば越後平氏、平安時代末期には越後国のみならず周辺諸国まで影響力を及ぼしていましたが、城長茂が木曽義仲と横田河原の戦いで敗れ急速にその勢力を衰退させます。平家滅亡後、長茂は梶原景時に預けられて頼朝の奥州征伐に従う等、鎌倉幕府御家人として存続を図りますが、頼朝の死後に将軍家討伐の宣旨を後白河院に強要して果たせず逃れた吉野で討たれました。越後平氏としての城氏は事実上滅亡する事になります。

戦国時代の城氏は同氏と関係の深い玉虫氏が城氏を称したらしいのですが、その関係性を解き明かす事は難解で困難、はっきりさせる事は出来ないでしょう。確実なのは城貞茂、その子景茂は長尾氏に出仕し、景茂の時に長尾景虎の勘気を蒙り会津へ出奔、その後は武田氏に出仕しました。生島足島神社文書、甘利郷左衛門信康起請文中に城和泉守景持の名が同族と推測される玉虫助大夫定持の名と共に残ります。

居館の現況はグラウンド、公園、公共施設とその敷地等となっています。居館は方形の縄張で往時は堀と土塁で敷地の周囲を囲っていたようです。現在もかなりの範囲で土塁が残っていてちょと感動…土塁の一部は遊具の基礎なんかにも使われていますが、それでも削平せずに残してくれた事は素直に感謝したいと思います。

リア攻め当日は休日で沢山の子供達が遊びに来ていました。居館の成れの果てとしては泉下の主も上出来だと考えている事でしょう。

2022年04月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
光明寺館(吉田氏居館)[埴原城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

光明寺館(吉田氏居館)は埴原城の西南約5.9km、標高約644mの平野部平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。光明寺周辺が該地です。車はお寺さんの駐車場に捨てましょう。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは伝承で吉田四郎忠家です。吉田氏は信濃国白河(寿)に住した赤木氏の一族で、忠家には兄弟に赤木親忠、小池家兼、白河親行がおり、赤木氏から四家に分かれた内の一つになります。赤木氏については同じ埴原城のリア攻めマップにある赤木氏館を参照して下さい。又、吉田氏が本家に従って備中に移ったのか、在地のままだったのかは不明です。

居館の現況は耕作地、空地、寺院、住宅地の一部となっています。光明寺を中心に囲む舗装路の内側が居館の敷地で、昭和二十八年(西暦1953年)まで居館を囲む土塁、その内側の空堀が残っていたそうです。今はすっかり平らげられましたが、東辺の一部に土塁の残滓が、光明寺山門の傍らに半桝形状の土塁の一部が残ります。

ほんの少しでも往時が偲べる遺構が残っている事は素直に嬉しいです。謂わゆる街中遺構ハントの醍醐味でしょう。が、土塁の写真を撮っていたら近所のおばちゃんに「あたしも撮るかい?」と声を掛けられました。秘技、「美少年だけが出来る魅惑の微笑み」で適当やり過ごしましたが撮らないです。街中遺構ハントの難しいところなんでしょか。

2022年04月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
野村砦(城下・楯下)[埴原城  周辺城郭]



野村砦(城下・楯下)は埴原城の南西約6.6km、田川西岸(左岸)、標高約666mの平野部台地北端部上平場に城域が存します。謂わゆる桔梗ヶ原に連なる広大な台地上の北端縁に当たります。

行き方はGoogleマップに位置登録されている二柱神社を目標に設定して下さい。神社の周辺が該地となります。

築城年代、築城者は不明です。長野県町村誌の広丘村「城下」がこれで、「又楯下と云…伝に曰、砦址にて天文中、縄無理之助拠之」と記述があります。この縄無理之助(那波宗安、浪人衆の頭役だったとも。長篠の戦いでは武田晴信の異母弟、川窪信実に従っているけど、信実の軍役の内には浪人衆三百十三人が含まれる。都合の良い想像に過ぎないけど…)については同じ埴原城のリア攻めマップにある野村屋敷を参照して下さい。何れにせよ砦の西方約0.6kmに位置する野村屋敷との関連が指摘出来そうです。

砦の位置は比定地です。二柱神社の南西側には「中屋(中屋敷)」、「城下」、「かきあがり」の地名が残る事から二柱神社南側の塩尻市立丘中学校のグラウンド辺りが比定地とされているんですが、信濃のお城の神はそれよりも北側、台地の先端部、二柱神社の境内とその周辺が適地だとしています。自分もそう思います。信者だからね。

真面目な話、二柱神社を訪ねれば誰でも此処が適地だと感じるでしょう。台地の先端部は舌状を形成していて周囲より一段高く要害性も充分、この台地の先端部を無視した北向きの砦は有り得ないし、何と言ってもこの神社の境内の地形は明らかに特異です。後世の改変も視野に入れるべきなんでしょうが、空堀様の窪地が境内を縦断し、東辺には土塁様の高まりすら確認出来る。又、台地上故に城域を想像よりも広く取る事も可能(そうなると武田氏による普請になるのかな。小屋城を頂点として桔梗ヶ原を押さえて諏訪郡との連絡を図る府中攻めにおける一次的な拠点との推測も出来る。)だと考えます。

さっさと切り上げる予定が約1時間のリア攻めに、探索魂に火を付けてくれました。ネットで検索してもあんましヒットしないのは比定地だからでしょう。「比定は嫌だなぁ…」等と呟く白黒はっきりさせたい方は是非確認してみて下さいまし。

2022年04月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
野村屋敷[埴原城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

野村屋敷は埴原城の南西約6.9km、標高約660mの平野部平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているはんのき原公園を目標に設定して下さい。公園の周辺が該地となります。

築かれた年代は不明、お住まいになられていた方なんですが、信府統記では「武田氏ノ小臣名和無理之助領地ニテ居住セシト云伝フ」と記述があり、屋敷の東方約0.6kmに位置する同じ埴原城のリア攻めマップにある野村砦との関連が指摘出来そうです。

名和無理之助…いかにも怪しい感じですけど調べたらネットで簡単に出て来ました。それによると那波宗安とも。名和氏は別に「那波」、「縄」と書き方があり、その何れかが当て字になると思うんですが、たぶん「那波」が正解なんでしょう。鎌倉時代から続く上野国の名族らしく大江広元の末流とも。上杉氏の関東出兵により上州より退去、武田氏に出仕したようで、後に宗安は長篠の戦いの前哨戦となった鳶ヶ巣山砦の戦いで討死しました。ちなみに城めぐ登録城である群馬県高崎市堀口町の那波城は宗安の父とされる宗俊が城主でもありました。疑って悪かったわ…

が、名和無理之助の素性が判ったとしてもこれを居館の主とするには無理之助だけにちょと無理があるんじゃないでしょか。火の立たない所には煙はなんちゃらの例えもあるけど、どうしてもおいらはすんなりとこの手の話を受け入れられないのさ〜野村砦との関係性も含めて在地土豪の居館だったとする考えがやっぱり一番しっくりします。二次利用があっても不思議じゃないんですが…

砦の現況はほぼ公園です。生意気にも周辺は過去に発掘調査が行われたらしいですが、殆ど何も検出されなかったそうです。水堀があるとの資料もあるけれど公園に残る池の事を言っているのかな。その名残りなんでしょか。

1分で終わらすつもりのリア攻めが、まさかの約1時間に…理由は子供達がサッカーボールで遊んでいて写真が撮れなかったから…帰るまでちょと無理之助って感じでした。

2022年02月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
北熊井城[埴原城  周辺城郭]



北熊井城は埴原城の南西約7.1km、標高1665mの高ボッチ山山塊の南西裾野、標高約755mの台地上平場に主郭が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は常識の範囲内でそこら辺に捨てられます。

築城年代は不明、築城者は時代の振れ幅もあるし、関係諸氏は多数に上るしで諸説あってはっきりしないです。城主となると尚更っす。

お城の存する熊井郷は文治二年(西暦1183年)が文書上の初見ですが、お城の方は戦国時代、武田氏による府中乱入の際が初見となります。天文十四年(西暦1545年)、福与城の藤沢頼親を降した武田勢は府中、林城付近まで兵を進め近隣を放火、その際に「熊ノ井」の城は自落、その後は天文十七年(西暦1548年)まで再び小笠原氏の支配を受けていたようですが、塩尻峠の戦いの後に再々武田氏の勢力下に置かれました。天文十七年に武田氏は村井城を築城して府中攻めの拠点としますが、北熊井城は天文二十一年(西暦1552年)に鍬立てされた事から深志城を補完する拠点として整備が進んだようです。

松本平における城郭としては珍しい部類に入ります。台地上に西方へ張り出す短冊状の微高地全てを使い切り(平城である。)、元々の居館城の縄張を大幅に拡張し順次改修に及んだとされています。決して複雑な縄張ではありませんが、堀切(主郭東側背後は三重堀切だ…)や空堀が良好に残っている他、土塁、虎口、喰違虎口、馬出、櫓台と思しき削平地等が確認出来ます。又、お城の一部は現在も耕作地として利用されていますが、耕されたぐらいで特に大きな影響は受けていないと思われます。

結構知られたお城だと思うんですが、がっつりな山城ファンが好む中信、北信のお城とは一線を画す北熊井城、伊那平や田切地形を活用しない佐久平のお城の趣きもあるけど話題になる事はあまり無い…でも冷静に考えりゃ武田ブランドで再出発した凄いお城なんですよ〜平城でこんなに素敵な堀系が残るお城なんて松本平では現況他には見当たらないっす。

かく言う自分も2回目の訪問でようやくそれに気付きました。初回訪問時は夏場で藪ってる上に城域が広大で大味な印象しかなかったんですが、積雪でコーティングされた北熊井城は大変な魅力を放っています。埴原城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2022年02月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
南熊井城[埴原城  周辺城郭]



南熊井城は埴原城の南西約8.3km、標高約714.mの平野部台地西端部上平場に主郭が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。西側直下に建つ松林寺に駐車も出来ます。

築城年代、築城者は不明です。名称や今に残る遺構から同じ埴原城のリア攻めマップにある北熊井城の出城との見方が有力でしたがどうにも違うらしい…宝徳三年(西暦1452年)、信濃守護小笠原持長によって諏訪大社下社に熊井郷他十数郷が寄進されていますが、宝徳元年(西暦1449年)の諏訪大社上社と下社の内乱の際に上社の圧迫に耐えかねた下社の社人等は府中小笠原氏を頼り、その代表各であった大和織部正に熊井郷を守らせ居館城として築かれたとする説がそれっぽいです。又、太平洋戦争終結後まで片丘村(廃村)に残存していた旗塚60基の配置は北東の北熊井城に対するもので、これも出城説を否定するものの一つであると言えるんでしょう。

お城は西辺の崖地を除く、三辺に空堀を巡らせた単郭方形、居館城の縄張なんですが、これが塩尻市郊外にありながら実によく残っている。北辺には空堀に付随する立派な土塁もちゃんと残っていて虎口まで開口していますし、その土塁の西端部延長線上には櫓台ぐらいは付いていたでしょう。又、東辺の空堀には現況側溝による水路が堀底に付いていたりしますが、これが逆に遺構の保存度を上げているように思います。

実は2回目の訪城、前回は真夏の直射日光に曝されて写真が壊滅、全部削除しちゃったんすけど、今回は積雪も相まって遺構がはっきり確認出来て思わず見直しちゃったぜ〜季節によってこんなにも印象が変わるものなのかなって感じです。同様の事は周辺の北熊井城にも言えるので積雪の残る冬場の時期がお勧め♪埴原城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。又、北熊井城との関係性を否定するような説明になってしまいましたが、遺構は正しくミニ北熊井城の趣き…北熊井城が武田氏によって拡張改修された際に出城として改修されたと考えても飛躍ではないと思います。

2022年02月13日 内記かずりヾ(・ε・。)
高山城[埴原城  周辺城郭]



高山城は埴原城の南西約8.7km、標高1665mの高ボッチ山山塊の南西裾野、標高約784mの台地上丘陵頂部に主郭が存します。東麓の長野自動車道からの比高は30m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。長野自動車道と一部区間を並走する東山山麓広域農道、アルプス展望しののめのみち沿いの空地に車を捨て、徒歩で高架橋を使って高速を渡り城域に至る東側からのアプローチがよいでしょう。ちなみに城域はほぼ塩尻ICに隣接しています。

築城年代は不明、築城者は小笠原氏の被官、犬飼半左衛門と伝わり、東山(有名な美ヶ原高原の山塊を近代まで東山と呼称していた。)地域の守りを構築する試みの一つなんでしょう。又、城域東側を走るアルプス展望しののめのみちは松本市と塩尻市を結ぶ広域農道で、律令制下に設けられた東山道と一部区間が重複していると推測されています。何れにせよ該地は諏訪方面から松本平へ向かう経路の延長線上にあったと考えられ、高山城の南東約5.1kmには武田勢と小笠原勢が激突したとされる塩尻峠が位置します。

お城の現況は…城山は名称自体が「高山城」なんですが、城山の東側は長野自動車道、南西側は国道20号線によってかなり削られているのかな。又、城域は両道を東西に跨ぐ高架橋の中間地点でもあり城域内を舗装路が貫通、旧態を堀切の様に損ねています。主郭は一部が耕作地、残りは雑木林ですかね、ただのお山って感じですわ…ちなみに主郭から北西側の斜面に段郭様の地形、北東側斜面には何だかよく判らないぽこぽこ地形が確認出来たりしますが、過去に全山耕作されたらしいのでその名残りなのかもしれません。開発行為に伴い発掘調査も実施されてるんですが、やる気が無かったのか調査結果もこの点については匙を投げているそうです。

この発掘調査結果は「中央自動車道長野線埋蔵文化財発掘調査結果報告書2」に収められているんですが、中古で2500円…要らないものも多分に含んでいるのでやっぱ要らないです。が、ただなら頂いても全然構いませんのでお持ちの方は気軽に伝言して下さいまし。

2022年02月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
権現館(立小路館)・たけ原[埴原城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

権現館(立小路館)・たけ原は埴原城の南西約6.6km、権現沢北岸(右岸)、標高約727mの平野部緩斜面上平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている南方の北熊井区公民館を目標に設定して下さい。後は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。該地は「権現」、周辺には「たけ原」、「山ノ内」の地名が残り、北側には立小路が東西に走ります。が、素人には一体何の事やら…居館に関係する地名て事なんでしょか。又、居館の存在を伺わせるような伝承等も一切無い(誰も知らんらしい。)ようです。ちなみに塩尻市誌では前述の「権現」に築かれた方形居館だとの記述があるそうです。

居館の現況は耕作地と一般住宅、その敷地となっています。東辺、並びに北辺の僅かな部分に堀形が確認出来ますが、まぁただそれだけの話です…

「たけ原」は「権現」の西方約0.3kmに残る地名でして、信濃のお城の神は比定地の一つとしてその候補に挙げています。が、神はその範囲が広過ぎる事を理由に匙を投げたようで、自分も集落の中の耕作地を真面目に探索する気にはとてもなれなかった(写真は撮らなくてよかったよレベル…)です。それよりも現況から自分が居館の適地だと素直に感じたのは「権現」の南東側に残る地名、「山ノ内(写真は4枚目っす。)」でして、居館を囲んでいたと思われる「権現」に残る堀形と一部辻褄が合わなくなる不都合も発生しますが参考までに…

松本平に無数に点在した地方豪族の居館の一つに過ぎないとは思いますが、心の奥底に潜む意外な探索魂に火を付けました。当日は前日の降雪を懸念して山城を訪ねるのを断念、そしてこの薄過ぎる居館跡にリア攻め1時間位…集落の片隅で何やってんだおいらは…怪しまれたろうなぁ…

2022年02月12日 内記かずりヾ(・ε・。)
高島城移築城門(常光寺山門)[埴原城  遺構・復元物]



高島城移築城門(常光寺山門)は埴原城の南西約7.0kmに位置する常光寺に移築された城門です。

常光寺は山号を雨寶山、真言宗智山派の寺院です。元は同じ埴原城のリア攻めマップにある北熊井城の西方に位置し、その鬼門除けとしても機能していた三つの従寺を持つ大寺でした。天文十七年(西暦1548年)、武田氏の兵火により焼失、江戸時代の初期に現在地に移り再建されました。

高島城は維新後の明治三年(西暦1870年)から城内の建造物が順次民間に払い下げられ、明治四年(西暦1871年)には県(高島県)庁舎が城内に建てられました。明治六年(西暦1873年)、太政官から陸軍省と大蔵省に向けて発せられた「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方」を下敷きに天守が明治八年(西暦1875年)に破却されました。

当時全国の城郭や陣屋は陸軍省の所管で、前述の通達をスーパー簡潔に要約すると、兵営地として残す所は残し、必要無い所は大蔵省に所管を移して財産を処分してねて感じです。何処の城郭も似たようなものだと思いますが、この通達を元にして建造物の払い下げが始まった訳では無いようです。又、実に長ったらしい通達名ですが、簡単に言ってみりゃ廃城令っす。

諏訪高島藩高島城の城門でありながら塩尻市片丘に立地する常光寺の山門として移築された経緯ですが、単純に筑摩郡の内11ヶ村、五千石が諏訪高島藩の封地で、片丘の地はその全域が諏訪高島藩領でした。常光寺が松本藩内で吹き荒れた廃仏毀釈から逃れる事が出来たのもこれが故です。

日根野氏時代に完成を見た高島城には8つの門が建てられたらしいのですが、常光寺の山門が何処の門であったかは不明です。形式は薬医門、大きさから見ると内門の一つだったとは思うのですが…ちなみに高島城の現存建築物としては別に移築城門として長野県諏訪市湯の脇に建つ温泉寺の山門があります。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。お寺さんもどこかほっこりするよな素敵な雰囲気です。城門マニアは是非訪ねてみて下さいまし。

2022年02月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
本城[埴原城  周辺城郭]



本城は埴原城の南方約5.2km、標高1665m(三角点は亡失…)の高ボッチ山の西方裾野、山塊から西方へ延びる尾根上、標高1134.8mのピークの一つに主郭?が存します。登城路入口となるブリーズベイリゾート塩尻かたおか(営業してんのか知らん。)からの比高は120m位でしょか。

行き方は…前述のホテルがGoogleマップに位置登録されていないので、西麓の塩尻市上水道片岡浄水場を目標に設定して下さい。此処から林道を更に車で登ればホテルに到着します。ホテルの裏手に高ボッチ山への登山道が付いていて誰でもそのまま登って行きたくなりますが、お城の存する尾根筋はこのルートから姥ヶ沢を挟んだ北側に見える尾根ですので、沢へ下りてから尾根上まで急斜面(簡単には登れない…)を直登しましょう。運が良ければ既に城域です。

築城年代、築城者は不明です。周辺地域は承久の乱の後、内田牧埴原に源姓波多(秦)氏(渡来人とされる秦氏に清和源氏源頼清流、源盛国が後嗣として入ったらしい。)が地頭職として入部しました。波多氏は南北朝の時代まで東山の内田埴原と西の波多を所領とし、南内牧、北内牧、大野牧を経営し極めて裕福でしたが、室町時代中期に入ると旧左馬寮の管轄であった官牧に周辺豪族や農民が流入、開田が始まり牧経営は困難、衰退します。又、戦国時代に入ると同氏の後裔とされる北方約1.3kmに位置する八間長者城主、波多(畠庄司腰)山城守は天文十九年(西暦1550年)、武田氏に出仕し、洗馬の三村氏の取りなしで所領を殆ど安堵されているようなので同氏に関係するものなんでしょか。

お城の現況は大変素晴らしい。痩せ尾根を介して東西2ブロックに分けられますが、西側は隠れ城の趣き、東側が主郭部となります。主郭部の東側山側背後は曲げを伴う三重の横堀+竪堀で堀切られ、主郭部北側の腰郭を絡めながら複雑な展開を見せる横堀+竪堀と相まって感動でしかない…が、このお城主郭と呼ばれるものが不明確でして、標高1134.8mピークは大土塁状の高まりでしかない…付近は沢筋で地滑りが多発する場所らしいので、主郭は崩落して痩せ尾根を形成していると考えられているようです。

八間長者城と共に松本平における隠れた良城の一つです。ネットで検索しても全くヒットしないのはその名称故…埴原城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2022年02月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
御城山(音渡山・音声山)[埴原城  周辺城郭]



御城山(音渡山・音声山)は埴原城の南西約1.2km、標高1530.5mの宮入山から西方へ延びる支尾根の一つ、尾根末端部上、標高約795m(推定)のピークの一つに城域が存します。北麓の舗装路からの比高は15m位だったでしょう。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…ちなみに最初に断っておきますが行ってもしょうもないっす。

築城年代、築城者は不明です。東方約2.4kmには宮入山山頂付近、宮入峠付近に大小屋(寒過ぎだったし面倒になって未見…)が、北東約1.2kmには埴原城が存し、直近には同じ埴原城のリア攻めマップにある仙石雅楽助館が存します。周辺は入山辺や牛伏寺方面へ抜ける峠道が今も走っていて、往時は間道であったこの峠道の監視の役を担っていたか、単純に埴原城の物見の役を担っていたかの何れか、もしくはその合わせ技でしょう。

お城の現況は…城域そのもの、尾根末端部が昭和末年頃の採土により完全消滅(本当に山側東側背後の林道を境にしてばっさり無い。)、信濃のお城の神が聴取したジモティーのお話によると、尾根の先端部に狭い削平地(堀とか土塁とかは無かったようです。)があって此処からの眺めは良かったそうなんですが確かめようにも確かめる術がありません…

城郭消滅の顛末も色々あるとは思いますが、重機で尾根ごと消し去るパワフルなお城の終焉、まぁ単郭の物見台程度の縄張だった事は間違い無いとは思いますが…ハイパーマニア向け。訪ねる必要無し。

2022年02月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
大宮八幡館[埴原城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

大宮八幡館は埴原城の南西方約4.9km、標高約730mの平野部平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている北方、長野県道63号線、松本塩尻線沿いに建つ大宮八幡宮を目標に設定して下さい。駐車も出来ます。後は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…

直近にある大宮八幡宮は歴史のある神社で、武田晴信が旗を立てたイチイの木(寒くて探せず…)とか、晴信奉納の弓と箭が残っているらしいです。又、お宮の南側に居住する唐沢さんは先代まで同社の神主で、石川数正が松本城築城の際、その地鎮祭を取り仕切った唐沢備前守の末裔と言われているそうです。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは波多腰清勝との伝承があります。信濃のお城の神本(信濃の山城と館4、松本・塩尻・筑摩編)に波多腰氏は古代氏族巨勢氏の一族(波多の巨勢、つまりは波多腰…)との記述(神は「松本・塩尻・東筑摩郡誌」から引用したのかな。)がありますが俄かに信じ難く、秦姓から源姓に転じた波多判官代跡の一族とする説が濃厚です。

波多腰氏は古くから輿(腰)村等周辺に居し、室町幕府から内田牧埴原の地頭職に補任された波多氏は内田牧に地縁の深い一族の波多腰氏をこれに任じたようです。波多腰清勝は牧経営が困難になった内田牧を南内田の牧人を統べて塩沢川の水を田組堰に引き南内田と中内田に開田を行いました。やがて同名は八間長者屋敷に居する事になります。すなわち八間長者です。

居館の現況は耕作地です。該地は「館」の地名が残りますが、周囲より一段高くなってるぐらいでただの畑っす。写真も探せなくなった(どの畑の写真がそうなのかまじで判らない…)ので居館と関係が深かったと思われる大宮八幡宮(居館は往時の参道沿いに立地する。)の写真を挙げときます。畑の写真見せられても困るでしょうし…

八間長者屋敷の位置が全く不明だし、これと大宮八幡館とを同一視、もしくは関係性を指摘する事も極めて難しいでしょう。戦国時代になると波多氏のみならず、村井氏や和田氏との関係性も考えられる事から館の主を特定するのも極めて困難です。信濃のお城の神の言葉を借りれば「後究を待つ。」て感じですかね。スーパーマニア向け。

2022年02月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
赤木北城[埴原城  周辺城郭]



赤木北城は埴原城の西南約4.8km、田川の東岸(右岸)、赤木丘陵の西端、標高719.2mの赤木山(山てよりは丘陵頂部です。)北端崖地、標高約669mの緩斜面上平場に主郭が存します。西麓の長野県道288号線、新茶屋塩尻線からの比高は25m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車で直近まで行けます。

築城年代、築城者は不明ですが、赤木氏に関係する城館と推測されています。赤木氏については同じ埴原城のリア攻めマップにある赤木氏館を参照して下さい。

お城は完全単郭方形の縄張ですが、北側崖地を除くコの字形の空堀がよく残っています。主郭までは幅広の土橋で周囲と連絡していますが、この土橋自体は後世の改変でしょう。主郭は熊笹藪、蔦植物が蔓延っていて冬場でも気持ち悪い…この主郭は過去に重機が暴れまくったらしく、東辺、南辺は城域外周囲よりも一段低くなっていて違和感しか感じないのでかなり削られているのかな。主郭には空堀に沿って土塁が設けられていたと思いますが、それでも堀外の高所なんて籠る側からしたら障りでしかないでしょう。又、縄張図には含まれませんが、西側の桃水寺跡(お城の説明板が立つ。)を城域と考える事も出来るでしょう。

周辺には同じ埴原城のリア攻めマップにある赤木氏館、赤木南城、横山城が存します。承久の乱の後、備中に本拠を移した赤木氏ですが、本貫地であった赤木郷にも所領を保っていた事が嘉元三年(西暦1305年)の関東下知状で確認出来ます。赤木郷には引き続き一族、代官の何れが置かれたと思いますのでそれに関係するものなんでしょか。又、天正壬午の乱の後には小笠原氏の要害として赤木南城と共に利用があったと推測しても無理は無いと思います。

写真を撮るのが難しいお城です。諦め切れずに冬場なら何とかなるかなと考えての再訪でしたが、やっぱりね…今回を最後に赤木北城から引退したいと思います。

2022年02月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
赤木南城[埴原城  周辺城郭]



赤木南城(赤木山の砦)は埴原城の南西約5.3km、田川の東岸(右岸)、赤木丘陵の西端、標高719.2mの赤木山(山てよりは丘陵頂部です。)南端崖地、標高約694mの緩斜面上平場に主郭が存します。西麓の長野県道288号線、新茶屋塩尻線からの比高は35m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。が、ピンの位置はやや西側にずれているので注意です。正解はピンの位置からヘアピンカーブを進んだ東側にある遊水池から舗装路を挟んだ南東側、セイコーエプソン・松本南事業所の駐車場南側の高まりが主郭の位置となっています。

築城年代、築城者は不明ですが、天正年間に古川伝八郎なる者が詰めていたと伝えられています。天正十三年(西暦1585年)、井伊直政が塩尻峠に出て小笠原貞慶の動静を伺った際(天正十三年は貞慶が徳川方から豊臣方に転じた年である。)、貞慶が赤木山砦に陣を敷いたとも。

お城は舗装路、駐車場建設等により改変されていますが、それでも基本形はよく残していると思います。腰郭なんかもちゃんと確認出来ますし、主郭東側背後の2条の堀切+竪堀はぎりぎり破壊を逃れています。縄張図を見るとこの堀切+竪堀は主郭北側の横堀を起点としていたようですが、肝心の横堀は埋め立てられ今はただの側溝にその姿を変えているようです。ただ全体的には藪が酷い印象で時期によっては見れたものではありません(此処の堀切+竪堀…過去通算で30枚以上写真撮ってますが全てファジー、上手く撮れた事が無いです…)。冬場でも痛いぐらいの枯木が各見所で襲って来ます…

砦規模のお城ですが標柱が立っているはず…ただ4回目の訪問(自分にとっては長野自動車道塩尻ICを降りて下道を走ってると最初に現れるまともな松本市のお城なんす。)にも関わらず未だに発見出来ないっす。たぶん今はもう無いのかもしれません。又、該地はセイコーエプソンさんの巡回警備箇所の背後となっているので注意しましょう。

自分は今回、警備員も巡回しないであろう主郭部南側崖下付近まで落ちる竪堀末端から侵入しましたが、沢を飛び越える必要があるし傾斜は決して優しくないのでやめときましょう。以前よりも運動能力が格段に落ちている事を忘れていて、飛び越える際に左膝部内側側をコンクリート製側壁に強打、5分位動けませんでしたわ…

2022年02月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
三郎城(雨堀)[埴原城  周辺城郭]



!!!PARENTAL ADVISORY!!!

-EXPLICIT CONTENT-

※一部にセンシティブな表現を含みます。18歳未満の方は読む前に親御さんの御判断を仰いで下さい。

三郎城(雨堀)は埴原城の南西約4.2km、標高1665mの高ボッチ山の西北裾野、塩沢川北岸(右岸)、標高約871mの緩斜面上平場に城域が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されている舗装路を挟んだ北西側に建つ山崎商店を目標に設定して下さい。車は路駐でOK♪レベルです。

築城年代、築城者は不明です。三郎城なのでたぶん三郎さんのお城なんですが、エリートヤンキー三郎に代表されるように三郎は一家の三男を表す通名だと思うので何処の三郎さんなのかはやっぱり不明です。片丘村(廃村)誌には三郎城の北西約1.6km、北内田の浅田城城主に浅田三郎義景があるのでこれに関係するものかと推測しているそうですが、お城の立地は崖の湯温泉の入口、そしてあの素晴らしい八間長者城の西麓にあると言えるので八間長者城に対する居館城、つまりは室町時代中期の八間長者、波多腰清勝、もしくは少なくとも天文十九年(西暦1550年)まで八間長者城城主であった波多氏とその一族に関係があったと考えるのがよさそうです。

お城の現況は…写真のとおり大人のホテルの成れの果て(廃墟っす。)です。城域は比定地ではありますが、ホテル建設時の改変によりそれを確かめる術はありません。訪ねてみても「バブル期に青春時代を送ったお父さんお母さん達もかつては此処で頑張っちゃったんだろうなぁ…」としか感想が思い浮かばないです。

訪ねる際はソロを心掛けましょう。男女のペアとかもってのほか…さもないと周囲の方から「そこはもう営業してませんよ、真昼間から元気ねぇ、他にやる事ないのかしら…」等と冷たい言葉を投げ掛けられるかもしれません…まぁ誰も通りませんが…スーパーマニア向け。廃墟マニアのみ。

※ちなみに廃墟マニアには知られていて、ようつべに動画が何本かアップされてます。仮想リア攻めしたい方は「ホテル・クラウン」で検索してみて下さいまし。

2022年02月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
鍬形原烽火台[埴原城  周辺城郭]



鍬形原烽火台は埴原城の西北約2.4km、独立峰である中山霊園が立地する標高約836mの山塊山頂に主郭が存します。西麓の牛伏川からの比高は210m位でしょか。

行き方は同じ埴原城のリア攻めマップにある中山砦を参照して下さい。砦の北東側山側背後に隣接しています。てか往時は中山砦の一部であった事でしょう。

築城年代、築城者は不明です。こんなん知らんわってレベルでしょう…が、小笠原氏の本拠、府中に繋がる狼煙台の一つであったと想像する事は容易ですし物見台としても極めて有効です。

狼煙台の現況は…改変されていて何だかよく解らないけど何らかの聖地に指定されています。整地されている箇所には立ち入る事が出来ないし入った所でどうしようもないので狼煙台の雰囲気だけを楽しみましょう。中山砦と鍬形原烽火台は発掘調査で2条の堀切が検出されているんですが、その内の1条が現在竪堀として確認出来ます。後は虎口っぽい高まりとか付いてましたが、こちらはハイキングコース整備時の削平残土だと思います。

狼煙台の立地は南北に長い山塊山頂(このお山、山名があるのかしらん…松本平では相当目立つお山なんすけど…)で独立峰、広く見れば美ヶ原高原の西方裾野に連なる独立峰で、松本平の大半をその視界に収める素晴らしい展望を持っています。言ってみれば単純に狼煙台や物見台の場としては最適で過去には展望台も備え付けられていました。狼煙台とか物見台としても何じゃこりゃレベルですが、嫌な事があったら此処に来て夜景なんかを眺めると慰められるかもしれません…

確認出来る竪堀はそれなりな代物です。でもこれだけを見に来てもねぇ…ただ車で行けるので凄く暇な時に訪ねるのもよいかもしれません。見終わったら景色を眺めて慰められましょう。スーパーマニア向け。

2022年02月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
中山砦[埴原城  周辺城郭]



中山砦は埴原城の西北約2.4km、独立峰である中山霊園が立地する山塊、南東に延びる尾根上、標高約833mのピークの一つに主郭が存します。西麓の牛伏川からの比高は210m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている鍬形神社を目標に設定して下さい。神社(跡)の高まりが主郭位置となっています。てか松本市民なら誰でも知っているであろう中山霊園の直上に隣接し、城域は中山霊園マレットゴルフ場に吸収されてる感じです。車は分散すれば100台以上は停められる駐車場が付いてますので団体で砦を訪ねても安心ですね。ちなみにマレットゴルフ発祥の地は長野県松本市今井にあり、山城ファンとしてのマレットゴルフ場は長野県城郭改変の一端を担っていると認識されています。

築城年代、築城者は不明です。こんなん知らんわってレベルでしょう…が、小笠原氏の本拠、府中を守る外城の一角を占めていたかもしれません。

砦の現況は神社跡を示す鳥居と石碑の建つ高まりの一つに過ぎません。中山砦と隣接する鍬形原烽火台は生意気にも発掘調査が行われたらしいけど…又、主郭(現況からは単郭としか言いようがない…)には堀形の様な窪みも付いてますが、まぁただの窪みでしょう…

中山砦と鍬形原烽火台は隣接しています。往時は区分されていなかった事間違い無しと思いますが、敢えて別々の口コミとしました。多くの方にとっては何じゃこりゃレベルですが、信濃の城館となるとやっぱり丁寧にお話したい…まぁリア攻め中は文句たらたらでしたが…スーパーマニア向け。仕事のサボり(沢山の営業マンが車の中で夢見てたわ…はっ!?うっ、ぐはっ!)ついでに訪ねるのが無難です。

2022年02月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
尾池砦(塩田山)[埴原城  周辺城郭]



尾池砦(塩田山)は埴原城の西方約2.0km、牛伏川東岸(右岸)標高約707mの河岸台地丘陵頂部上に主郭が存します。東麓の舗装路からの比高は25m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。駐車場所は大人として自分の力量を鑑みて判断して下さいまし。

築城年代、築城者は不明です。「府中深志を中心とする小笠原氏主要城砦の分布」に添付された位置図に記載のある砦らしいんすけど、根拠も詳細も不明で砦の名称さえ無かったそうです。

立地は東方に埴原城、北方直近には同じ埴原城のリア攻めマップにある中山砦、鍬形原烽火台が存し、小笠原氏の本拠、府中を守る外城の一角とも言えそうですが、築城年代、存続時期が不明なのでその背景を探る事が出来ないし、此処に砦を築いた理由も解らない…結局昔の事なんでよく判らねぃよて感じです。

砦の現況ですが、たぶん私有地…そして皮肉な事に周辺地域においては最も砦跡を感じさせてくれるものの一つです。と言っても明確な遺構が残っている訳でもない…縄張図を見ると概ね4つの郭で構成されていますが、削平や切岸もファジーだし、そもそも夏場は藪塗れでしょう。でもなんとなく砦っぽい、「あぁ、砦だわ〜」と誰でも呟けるとは思います。又、土留めの石積みが付いてる箇所があるんですが、とてもじゃないけど後世の改変なのかどうかは判りません。ちなみに地形図を見れば誰でも砦を築きたくなるような要害地形(古墳っぽい感じもする。直近には中山10号墳、周辺には他にも古墳が点在する。)なのもポイント高いです。

好意的な砦の感想に感じるかもしれませんが、自分の感動爆発下限界の10%にも届きません。最近の自分は皆様にすげぃ山城を紹介したいという純粋な気持ちは特に無く、訪ねる城館も選んでません(そりゃ。行きたい所は沢山あるさ〜)。すげぃお城ばっかり行って満足してたらその地方の歴史や背景を理解する事は困難だし必ず穴が空く…自分は単なるお城好きて訳じゃなくやっぱり歴史も好きなんだなぁ…日本全国無数に点在する中世城館の数々…これらを通して地方史を学ぶ、信濃の事なら尚更っす。

2022年02月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
小池砦(砦)[埴原城  周辺城郭]



小池砦(砦)は埴原城の西南約4.2km、塩沢川北岸(右岸)標高約655mの河岸台地上平場に城域が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車はそこら辺に捨てましょう。

築城年代、築城者は不明ですが、砦跡に居住する百瀬氏の伝承によると武田信玄の同母弟、武田信廉(逍遙軒信綱)の砦だったとの事で、百瀬氏は武田姓を名乗っていたのを改姓したらしいのですがちょっと俄かに信じられません。別に当初小笠原氏の砦として築かれ、小池郷地頭職だった小池殿左馬亮信道の屋敷となったとの説もあるそうですが、何れにせよ昔の事なんでよく判らねぃよて感じですかね。自分は武田氏が此処に砦を築く必要性も特に無い事、信廉の事跡が本国以外では南信に集中する事等から後者推し、もしくは合わせ技っす。

砦の現況は城域外東側から見るとただの一般住宅の敷地なんですが、意外にも砦の痕跡がよく残っています。特に西辺には三日月状の水堀、北辺の一部には空堀が巡っていてちょっと感動…水堀は湧水を水源にしているのでたぶん往時もそうだったのでしょう。北辺の堀も水堀だった可能性が高いと思われます。又、土塁状の高まりなんかも確認出来まして、その上には小社(白山神社)が鎮座しています。ただ家人に挨拶しない事には十分な探索は難しいでしょう。ちなみに後世の五千石街道が城域内を貫通しています。

三日月堀の存在から武田氏に結び付けたくもなるけど往時から三日月堀だったとはとても考え難いです。三日月堀=武田氏築城みたいな風潮もありますが、気になりましたら是非現地を確認してみて下さいまし。

※写真を12枚撮りましたが、生活感溢れる写真の方が多くなってしまいました。そっちは没にしときます。

2022年02月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
弁当原城(無量庵城)[埴原城  周辺城郭]



弁当原城(無量庵城)は埴原城の南西約5.3km、南北を南洞川と小場沢に挟まれた標高約745mの台地緩斜面上平場に城域が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されている西方の片岡保育園を目標に設定して下さい。後は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…車はそこら辺に捨てましょう。

築城年代、築城者は不明です。弁当原は地名らしく、周辺住民の子弟が弁当を広げた事からその名が付けられたという眉唾な伝承がありますが、別当が転化して弁当になったという説もあるようでこっちの方が意味ありげだし適当だと思います。

信濃のお城の神は牧に関連する城館だったと推測していますが、該地は埴原牧が発展した南内牧、北内牧のどちらかに含まれる(となれば当地を経営した信濃源氏、波多判官代跡に関係するものだと推測出来る。)と思いますのでそのとおり(信者だしね。)なんじゃないでしょか。それならば別当が居していても不思議じゃないしね。南洞川、小場沢の二つの流れは馬の放牧に最適(水場であり、自然の柵となる。)だと思います。

お城の現況は…元々雑木林だったらしいのですが、土地の構造改革によって耕作地に変貌、該地にはコミュニティセンター、稲荷社が建っています。又、「じょう」と呼ばれる地名が残っていますが、まぁ…ただそれだけの話ですわ…

コミュニティセンターと稲荷社が無ければ位置の特定に相当苦労したでしょう。リア攻めは該地を通り過ぎたレベルですが、現地までの確認作業が20分位…特定出来た時は「此処がそうなんか〜」等と感動出来るのですが、家に帰れば「あんな所に…」等と嘆きすっかり気持ちも冷めます。ハイパーマニア向け、訪ねる必要無し。でも名称が素敵…

2022年02月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
馬場家屋敷[埴原城  周辺城郭]



たまには山城でなく屋敷なんかをほっこり口コミ〜

馬場家屋敷は埴原城の南西約3.6km、標高約688mの平野部平場に存する屋敷です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定してください。駐車も出来ます。

馬場家屋敷は信濃のお城の神本(信濃の山城と館4、松本・塩尻・筑摩編)に記載されている名称で、一般的には馬場家住宅として知られています。現在残る主屋は江戸時代の本棟造りの家屋で嘉永四年(西暦1851年)築、従って実際にも住宅でOK♪っす。

屋敷の主、馬場さんは今も此処にお住まいなんですが、敷地の約西半分と建物の一部が松本市に寄贈され、平成八年に国指定の重要文化財となり、その一部が一般公開されています。

馬場家の伝承によれば、深志城代であった馬場美濃守信春の縁者、馬場亮政が武田氏滅亡後、当地に居して屋敷を建てたのがその始まりとされています。が、亮政の没年は天正九年(西暦1581年)と墓石に刻まれているらしいので、馬場氏が深志城代であった頃には既に当地に居していたて事なんでしょか。江戸時代、当屋敷は諏訪藩(高島藩)知行地であった内田の地に含まれ、馬場家は広大な田畑を持ち、藩主とも代々親密な関係を築く事が出来た特別な地位にある素封家でした。又、松本藩内の大庄屋や各地の本陣と縁組を交わしていて、当地の名家として特にその名が知られていたようです。

屋敷の現況ですが、敷地の東辺、南辺の一部、北辺に立派な土塁が残り、西辺は土塀と豪壮な長屋門が残ります。家屋群の一部は前述のとおり一般公開されているけど休館日だったので未見…又、屋敷自体は元々現在の場所より西方に立地していたそうなんですが火災により焼失、二代目て事になるんでしょかね。

地方豪族や国人領主の居館もひょっとしたらこんな感じだったのかなとか想像するには充分です。土塁越しに見える家屋群なんてちょっと萌えるじゃないすか、こんなに立派じゃないとは思いますけど…ちなみに今は別の意味で警備が厳重っす。

甲斐のみならず、武田氏家臣団の一人でありながら周辺各地にその足跡を残す馬場信春…これもその一つて事になるんでしょか。松本に来る事がありましたら鬼美濃ファンは是非訪ねてみて下さいまし。その働き比類なし!

2022年02月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
百瀬の堀屋敷[埴原城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

百瀬の堀屋敷は埴原城の西方約3.8km、標高約626mの平野部平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている西方、長野県道288号線、新茶屋塩尻線沿いに建つ正念寺を目標に設定して下さい。駐車も出来ます。後は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは百瀬氏との伝承があります。

さて、長野県松本市の姓で最も多いのは何でしょう?田中でも佐藤でもなくぶっち切りの第一位はこの百瀬なんです。百瀬は地名として松本市に残っていますが、百瀬姓自体は百済からの渡来人との伝承がありまして、旧松本市誌にその記述があります。又、百瀬は百済が転じたものとの説もあるそうです。

武家としての百瀬氏はこの渡来人の末裔ではなく信濃源氏、波多判官代跡の系統で、鎌倉時代には筑摩郡百瀬郷を受領していました。南北朝時代の総領波多長盛は信濃守護である小笠原貞宗に従い、建武年間(西暦1334年〜1338年)、飛騨口の押さえのため波田の古城に陣立てしました。南北合一を果たした明徳三年(西暦1392年)、それぞれの武士団は本領に帰還しますが、二代長秀の子、豊前守長吉は百瀬郷に帰らず波多(現松本市波田)本郷堀ノ内の館に居し、百瀬の姓に改め兎渕牧跡の荒地を開発、梓川から嶋堰を開いて水を引き渕東嶋の水田化を成し遂げました。

さてさて、居館の該地は松本市寿豊岡百瀬に存し、松本市波田とは直線で約11kmの距離があります。居館の主がこの百瀬氏ならば、同氏は本領の百瀬の堀屋敷に居して、本郷の堀ノ内の館を在地所として利用(逆もありかな。)していたと考えるのが自然じゃないでしょか。何れにせよ一次資料からの情報は事案の羅列にしかならないので、時系列的にはまだしも詳細や往時の事情や背景を窺い知る事がとても難しい…地方史あるあるですな…

居館の現況は「堀屋敷」の屋号を持つ一般住宅とその周辺の耕作地、空地でして、旧態は全く想像出来ません。ただ南辺の舗装路は不自然に大きく湾曲していてひょっとしたら堀形をなぞっているのかなとか考えたりしますが、例え本当にそうであったとしてもどうしようもないのでほっときましょう。スーパーマニア向け。

2022年01月31日 内記かずりヾ(・ε・。)
百瀬陣屋[埴原城  周辺城郭]



凄まじく愛の無い陣屋口コミ〜

百瀬陣屋は埴原城の西方約3.8km、標高約621mの平野部平場に存した陣屋です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。そこら辺に車捨てたら急いでリア攻めを切り上げましょう。自分は写真も撮って44秒で終わらせました。

信州諏訪藩(高島藩)第二代藩主、諏訪忠恒の三男、右衛門頼久は明暦三年(西暦1657年)、長兄忠晴が家督を相続した際に内田、赤木の地を分知されました。その後、赤木山の入会山論(なんのこっちゃ…)が起きたので知行地を替えて瀬黒村、竹渕村、白川村、百瀬村の一部、一千石を封地としました。百瀬陣屋はその際に築かれた陣屋です。頼久は寄合に列し、御小姓組頭、日桐間の番頭、小普請を歴任、上州邑楽郡、野州安蘇郡に五百石を加増されました。又、子孫は幕末まで旗本として存続し、陣屋の方も最終的には近藤氏が御用人兼代官を勤めて明治維新を迎えています。ちなみに松本平にありながら諏訪藩の知行地…お察しのとおり飛び地でして、東山地域とその周辺に五千石(付近を走る五千石街道の謂れはこれ。)を領していました。

私事ですが、自分の興味は中世の城館に限定されるので正直近世の陣屋に一つも関心が湧かない…じゃ、どうして訪ねたのかと言うと理由はただ一つ、信濃のお城の神本(信濃の山城と館4、松本・塩尻・筑摩編)に記載があるからなんす。神が調査した城館は絶対無視しないていうマイルールに従っただけですわ…阿保なんでしょか。

陣屋の現況は一般住宅、共同住宅です。正直元々興味が無いので−2℃の寒さの中を頑張る気は一つも無い…頑張っても通報されるだけだと思うしね。ただ今もこの立派なお家には桝形の虎口が形として残っていまして、ガレージから車を出すのが面倒だろうなぁ…等と呟く事が出来ます。又、土塁の改変と思しきもので敷地の一部を囲んでいます。

自分に課したルールてのは破ると後味が悪いし、どうせいつかは行くんだからちゃっちゃと済ませよう(口コミは手抜きしないぜ。44秒に比して1時間位…添削10分位…)と重い腰を上げました。ネガティブな口コミになりましたが、陣屋ファンはそのコレクションに加えてみるのもよいかもしれません。

2022年01月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
埴原牧跡(千石繁飼場跡)[埴原城  寺社・史跡]



埴原牧跡(千石繋飼場跡)は埴原城の南西約1.7km、標高約867mの緩斜面上平場に存した牧です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車はそこら辺に捨てても問題無いと思います。てかそんなに時間取りません…

「牧」って書きましたが、読んで字の如く馬を生産する牧場の事です。ただ一般的な牧場と違う点は律令制下における左右馬寮の管轄下に設けられた官制の牧場であった事で「勅旨牧」、「御牧」と呼ばれます。これらの牧は東国に置かれ、すなわち武蔵国4箇所、上野国9箇所、甲斐国3箇所、信濃国16箇所が整備されました。

信濃国は他の追従を許さない数ですが、馬の生産に適した土地柄(広大な放牧地、牧草地、水場が必要である。)だったのでしょう。延喜式には大室牧、高井牧、笠原牧、平井手牧、宮処牧、新張(新治)牧、塩原牧、岡屋牧、山鹿牧、望月牧、長倉牧、塩野牧、埴原牧、大野牧、猪鹿牧、萩倉牧が記録されていて、これらで信濃十六牧を構成していました。又、毎年4月に都に献上する貢馬は信濃国全体で80疋と指定されていました。

埴原牧は信濃国の牧監(もくげん、各令制国の牧を統轄するための官職、国司の次官に相当する。)が置かれたと推測されています。付近からは牧監庁の物と思しき礎石が検出されており、当地には古屋敷、千石の地籍が残ります。

勅旨牧は十世紀を境に衰微します。文治二年(西暦1186年)には信濃の勅旨牧は28牧を数えますが、その中に埴原牧の名は見られません。ただし筑摩郡の牧に数えられる南内牧、北内牧が埴原牧の発展したものと考えられています。信濃の勅旨牧は左馬寮の荘園化が進み、これと平行して各国の牧監や別当は在地で力を蓄え武士団として発展する者も現れました。すなわち信濃では望月牧(信濃十六牧の筆頭であった。)の望月氏、埴原牧では犬甘氏の一族、村井氏(埴原氏)等を輩出しました。

信濃の武家氏族の歴史を調べているとこの勅旨牧の存在がバックグラウンドとして浮かび上がって来る事が度々あります。西国には当然見る事が出来ない武士団の形成、発展のあり方は地方史の重要な一節である事は間違いありません。飛躍かもしれませんが、埴原城築城の間接的なバックグラウンドとして考える事も可能ですね。

2022年01月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
仙石雅楽助館[埴原城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

仙石雅楽助館は埴原城の南西約0.8km、標高約820mの緩斜面上平場に存した居館です。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…空家とはいえ正しく人の家であります。

仙石氏と言えば岐阜県、清和源氏土岐氏流、美濃国山県郡千石谷を本拠とした仙石氏が有名ですよね。しかしっ!長野県にも仙石氏が居るのれすっ!何でも美濃の仙石氏は大名になったり漫画の主人公にもなったりする著名人らしいですが、信濃の仙石氏は令和の今も変わらず出身地に居住する一族なんでこっちの勝ちですかね。故郷を愛するという点では余裕の勝利ですが、まぁ帰農したとも言えるんでしょう…

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは仙石氏です。仙石氏自体が全く不明(周辺には千石の地名が今も残るが…)なんですが、仙石文書なるものが残されている(未発表)そうです。天正十年(西暦1582年)九月、小笠原貞慶が深志(松本)を回復すると、貞慶は百瀬雅楽助等に埴原の地を与えているので、この百瀬氏が仙石氏に比定出来るんじゃないでしょか。

居館の現況は耕作地の中の一般住宅地等となっています。居館の位置は特定されておらず、信濃のお城の神が現地を調査して導き出した適地(仙石氏本家の家屋だったらしい。)という事になります。自分は信者なので疑いを全く持ちませんが、疑ったところで「じゃぁ何処なんだよ〜」とか言われたら誰でも困るでしょう。又、周囲より一段高く、此処から見渡せるロケーションは大変素晴らしいです。ちなみに付近は仙石さんだらけなので注意です。

埴原城の南西麓に立地する居館です。山城ファンを魅了して止まない同城ですが、その影に隠れて当地でひっそりとその血を繋いで来た一族がある事に頭を垂れます。信濃守護としての小笠原氏は最終的に信濃を離れますが、一体どちらが幸福だったと言えるでしょうか。

2022年01月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
中山二山砦[埴原城  周辺城郭]



中山二山砦(なかやまふたやまとりで)は埴原城の西北約3.2km、独立峰である中山霊園が立地する山塊、北西に延びる尾根上、標高約774mのピークの一つに主郭が存します。北麓の東山山麓広域農道、通称アルプス展望しののめの道からの比高は165m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている北麓の弘法山古墳・駐車場を目標に設定して下さい。直近に建つ弘法山・公衆トイレの裏手には尾根筋を登る登山道が付いてますので、これを使って同じくGoogleマップに位置登録されている石堂神社址(今は東屋が建つ。)を目指します。神社址に到着したら更に5分位登り、後は高度計を使って標高774mピークを確認しましょう、意外な程の削平地なので直ぐに判別出来るかと思います。ちなみに難しく書きましたが、登山道は崩落箇所を除けば比較的緩やかな整備されたハイキングコースでして、慣れた方ならサンダルでも登れます。

築城年代、築城者は不明です。府中を拠点とした信濃守護小笠原氏に関係する砦かと推測出来ますが違うとも簡単に言えるでしょう。立地は松本平を遮ぎるもの無く一望出来る高所であり、物見台としては最適だと思います。又、砦の存する中山の地は深志(松本)から鉢伏山山塊西麓を通り諏訪方面へ抜ける交通の要衝でもありました。

砦の現況はお山のピークの削平地って感じです。が、凄いのは西側斜面が崩落している南側の尾根筋でして人一人がやっと通れるぐらいの痩せ尾根は守る側からしたら心強いでしょう。往時はどうだったか知らんけど何れにせよ細尾根であった事は間違い無いと思います。又、砦自体も西側と南側斜面が崩落していると考えられ、それは今も密やかに時間を掛けて進行中だと思います。

この砦から尾根筋を南方へ約1.2km頑張ると鍬形原烽火台、更にこれに隣接する中山砦に辿り着きます。自分は当日のメインが控えていたので諦めましたが、ちょっとした軽いハイキングのつもりで縦走するのもよいでしょう。運が良ければ鹿の群れにも遭遇出来ます。

※砦の位置は比定地ではありますが、信濃のお城の神が著述するように此処が適地、間違い無いと思います。

2022年01月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
旗塚[埴原城  周辺城郭]



凄まじくつまらない塚塚口コミ〜

お城的なジャンルてものは色々あると思う。自分の好きな中世城郭の中にも様々な区分がある。平城、平山城、山城、砦、物見台、狼煙台、館、屋敷、番所等はその地勢や目的によって分類され、区分が曖昧なものもあるけど後世の人間にとっては少なくとも十分な目安にはなる。しかしっ!これをそのジャンルの一つに加えるべきなんだろか…初耳な方も多いと思うし、自分も紹介するのを躊躇するジャンル…それが旗塚(類似品に物見塚てのもある。)だっ!

この旗塚の名称は特に無し…埴原城の北西約3.6km、独立峰である中山霊園が立地する山塊、北西に延びる尾根端部、標高約693mから標高約716mの緩斜面上に点在します。北麓の東山山麓広域農道、通称アルプス展望しののめの道からの比高は90m位でしょか。残念なジャンルのくせに簡単には見せてくれません。

行き方は同じ埴原城のリア攻めマップにある中山二山砦を参照して下さい。登山道は被っています。石堂神社址(今は東屋が建つ。)北西側の尾根緩斜面上に旗塚は一直線に連続しています。

盛られた年代、盛った人は知らんがな…府中を拠点とした信濃守護小笠原氏に関係するものだと推測出来ますが、小笠原氏の砦に関する情報さえ不明な点が多いのにこんなん判る訳もない…ただ旗塚は深志(松本)方向を向いてるのが気になるところ…

肝心の旗塚の現況なんすけど、信濃のお城の神本(信濃の山城と館4、松本・塩尻・筑摩編)には不定間隔で11基が連立しているそうなんですが、これが凄まじく難しい…自分の想像していた土饅頭的なものはとてもじゃないけど見付けられない。が、土塁様の高まりなら1基だけ確認出来まして、ひょっとしてこれが旗塚なんだろうか?て感じです。神の眼に近づく事は永遠に出来なさそうですわ…

旗塚は読んで字の如く旗を立てるためだけの土盛りの事で、支配領域の境目の目印、示威目的で使われるものです。おいらにとっては更科峠旗塚に続く二例目となる旗塚…心眼をお持ちの方ならきっと何かが見えるはず…

2022年01月21日 内記かずりヾ(・ε・。)
赤木氏館[埴原城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

赤木氏館は埴原城の南西約5.1km、標高約656mの平野部平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている赤木公民館を目標に設定して下さい。居館の比定地は二つあり、何れにせよこの公民館の直近となります。自分は二つの比定地の内、公民館南東側の方をスポットとして登録しました。

築かれた年代は不明ですが、お住まいになられていたのは赤木氏とされています。

赤木氏は桓武平氏平良文の後裔親忠が信濃国赤木郷に入り地名を取って赤木氏を称したのが始まりです。親忠の子、忠長は承久の乱において功を立て備中国穴田郷の地頭職を賜り同地に入部、発展します(謂わゆる西還御家人ですが、信濃国にも所領を残していた事が文書で確認出来るそうです。)。そういえば岡山県高梁市の滝谷城は同氏が城主だったようですね。戦国時代には三村氏(諸説ある三村氏の出自を信濃国とした場合は近隣の同郷となる。)と親密な関係を築き、後には毛利氏に従いました。ちなみに同氏の赤木丹後守は備中高松城攻めで援兵として籠城しています。

居館の比定地の内、一つは住宅地、もう一つは一部が果樹園です。自分は後者推しですが理由は何となく…後者には「やかた」の地名が残っているらしいしね。何れにせよ後の五千石街道沿いに立地し、古来から諏訪、塩尻方面から松本を経て善光寺平を結ぶ交通の要衝であったようです。

国宝、重要文化財(美術品)に指定される赤韋威鎧(兜・大袖付き)はこの赤木氏に伝わった大鎧です。近世以降、大幅に補修されている事が殆どの平安時代の鎧としては、後補されていない点で全国的に見ても大変貴重な物だそうです。自分もネットで写真を拝見しましたが、保存状態も素晴らしく凄みみたいなものを感じさせてくれる逸品でした。居館に行く必要は全くありませんが、こちらの方は是非お願いしたいところです。ハイパーマニア向け。

※1枚目と2枚目の写真がそれぞれの比定地となります。

2022年01月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
横山城[埴原城  周辺城郭]



横山城は埴原城の南西約4.3km、標高約688mの台地上平場に城域が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車はそこら辺に捨てても問題無いと思います。

横山城て滋賀県長浜市、長野県長野市の二つのお城が有名ですよね、前者は木下秀吉が城番を勤めたり、後者は長尾景虎が陣を敷いたり攻めたりしています。しかしっ!長野県松本市にも横山城があるのれすっ!しかも全国的に見ても標高的には一番高い場所に位置(東側からなら比高はゼロどころかマイナス…)する横山城…ただ残念ながらそれしか勝てる部分はありまてん…

築城年代、築城者は不明です。「堀」の屋号や「城西」の地名が残っている事から概ねの位置は特定出来ますが、遺構は何一つ残っていないので堀形は追えないし城域の判定すら出来ません。又、周辺は要害性が低い事から居館城だったと推測されているようです。

お城は横山城遺跡として昭和四十一年(西暦1966年)に発掘調査が行われているようなんですが、資料は特に探せないらしいし、発掘のメインは同地の弥生時代の遺跡群だったと思うのでお城の調査も二の次、三の次ぐらいだった事でしょう。

現地にはびっくりする事に内田歴史研究会作成の標柱(標柱としてはたぶん二代目です。)が立っています。ただその位置は「城西」の地名の範囲内であり、城域内に立っているものとは一概に言えません。この標柱の付近には堀形を想起させる舗装路が付いてたりしますが、まぁ違うだろうなぁ…お城の現況は完全に耕作地と集落の一部って感じです。

整理する側としたら標柱が無けりゃ何処の写真だかも判らないでしょう、地形段差マニアでも無理だと思います。スーパーマニア向け。

※スポット登録は標柱の位置となります。

2021年04月23日 よっこいしょーいち
埴原城



塩尻市の桜沢砦の1291m峰まで登りましたが現地にあった曲輪状の物が砦の遺構かどうか判断できませんでした。
全体的に急登で両サイドが切れ落ちた細尾根の連続で危険です。
行かれる方はご注意下さい。あとクマが出ます。

2021年04月18日 国府右京大夫城介
赤木南城[埴原城  周辺城郭]



戦国時代には小笠原氏の支城の一つ

※本城郭は企業の私有地なので、勝手に入らず、車道等からの見学に留めること!

【歴史】
築城年代、築城者共に不明。
天正年間には、古川伝八郎が守っていたと云われている。また、天正13年(1585)に、井伊直政が塩尻峠に兵を進めた時に、小笠原貞慶がこの辺りに陣を張ったという。

【遺構】
赤木北城の南700mの比高30mほどの台地に造られている。現在はセイコーエプソンの敷地内となっているため、中に入ることは出来ず、車道から遺構を確認することしかできない。
遺構としては、2条の堀切や郭などを確認することが出来る。

【感想】
セイコーエプソンの敷地であることを示す看板が沢山あり、立入禁止や警備員巡回などと書かれているので、絶対に入らず、車道等からの確認だけに留めてください。若しくは、セイコーエプソンの社員になって、正々堂々と見学してくださいw
駐車場あたりの背後には郭があったり、車道脇にはっきりとした堀切を確認することができます。また、企業の敷地内ということもあり、ある程度整備されており、無理に遺構を破壊している様子は見受けられません。遺構を維持しつつ、見学開放とかしてくれるといいな~

【アクセス】
篠ノ井線・村井駅から徒歩35分。

【写真】
1:主郭と思われる郭(手前がエプソンの駐車場)
2:堀切1
3:堀切2
4:東側の車道から見た郭

2021年03月29日 国府右京大夫城介
赤木北城[埴原城  周辺城郭]



赤木氏の居館跡。

【歴史】
赤木氏の居館跡と伝わるが、築城年代等、詳細は一切不明。

【遺構】
北洞下堤南側にある比高20mの台地上に築かれている単郭の中世居館跡。
主郭を囲むように空堀、土橋や土塁は明瞭に残っている。

【感想】
畑の端っこにポツンと存在しており、主郭内には廃アパートがあり、夜に訪れたくはない雰囲気のお城跡です。
主郭の一部は藪で覆われているが、それほど深くないので簡単に突破できます。この城の周囲を囲う空堀は、よく往時の姿を残しており、特に西側の空堀は北側へ落ちていくように掘られている。また、東側の空堀側は台地の方が高くなっているのが特徴です。しかし、あまり保存状態は良くなく、空堀には粗大ごみが捨てられているのが残念である。

【アクセス】
篠ノ井線・村井駅から徒歩で40分程。

【写真】
1:南西にある土橋
2:西側の空堀
3:南側の空堀
4:東側の空堀
5:主郭内
6:説明板(赤木北城の西側にある桃水寺内にあります)

2020年06月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
八間長者城(八間欠城・八軒城)[埴原城  周辺城郭]



八間長者城は埴原城の南方約3.9km、高ボッチ山から西方へ延びる尾根の一つ、標高約1020mの尾根上端部に主郭が存します。

築城年代、築城者は不明ですが、鎌倉〜室町時代初期、波田判官代跡の一族、波多氏の可能性が指摘されています。ただし今もはっきりと残るお城の縄張は、明らかに戦国の厳しい時代を通過して成立したものである事は疑いなく、在地土豪が独力で築き上げたものとも考え難いことから、小笠原氏、武田氏等による改修があったであろう事は容易に想像出来ます。

行き方はGoogleマップに位置登録されている崖の湯温泉の山二旅館(館主夫妻は本当に良い方っす。)を目標に設定して下さい。旅館の裏手に観音堂があり、不鮮明ながらも道が付いてますのでこれに従いましょう。他にもルートはありますが、これを使えば城域東端に出るのが容易になりますし後々楽になるかと思います。ちなみにお城の最高所はこの城域東端の郭群ですが、此処でも比高は60m無いので安心して下さい。

松本平周辺には素晴らし過ぎる小笠原氏関連のお城が沢山ありますが、このお城はどうも個人所有の山に存しているらしく、整備も植林、間伐以外はされていないので史跡としては見過ごされがちです。しかしとんでもない遺構がほぼ完存していると思われ、山城マニアは唸らされる事間違いありません。下手な説明するよりも縄張図はネットの画像検索で容易に拾えますので、興味を持ちましたら是非見て下さいまし。巨大な二本の竪堀はサーベルタイガーの牙みたいで格好よいでしょ!又、縄張図に無い部分も現地に赴けば見つける事が出来るでしょう。主郭部北側にある自然地形の鞍部は手が加えられた巨大な空堀として機能しています。しかし何と言っても最も感動したのは主郭部周辺にある堡塁2つです。この堡塁の突飛なぽこりん感には思わず誰でも「ふぁぁ〜」等と呟くことでしょう。この堡塁を超える塁の存在に今後お目に掛かる事は無いと思います。

とにかく素晴らしいお城です!理屈じゃなく小笠原てよりも武田の匂いが強いような感じがします。夏場は藪が酷くなるかと思いますが、竪堀に植林された苗木が大木に成長する前に是非訪ねてみて下さいまし。

2020年05月27日 内記かずりヾ(・ε・。)
浅田城[埴原城  周辺城郭]



浅田城は埴原城の南西約3.1km、標高約747mの緩斜面上平場に存した居館城です。

築城年代は応永二年(西暦1395年)、築城者は浅田三郎義景と伝えられています。ところが正確な場所は特定されておらず、「大体この辺りにお城があったよ…」てな場所に石碑が立つのみで遺構は特にありません。周辺は舟沢川や川から分岐する水路が縦横に流れており、凄く優しい眼で見ると昔の堀跡の名残なのかなとか思ったりしますが、整地に伴う改変があるとされ、どんなに頑張っても城域の判定すら出来ないでしょう。

浅田氏は戦国時代には小笠原氏に従っていたようですが、城主の浅田長康、長寧父子は武田氏に攻められ、父子は栗林に退去したとされています。そして武田氏時代には曽根原孫右衛門が居城したとも伝えられています。が、石碑を頑張って読んでみた(漢文な上に序盤は擦り減りまくり…)んですが、解読出来たのは、甲州の将「甘利飯富(原文ママ)」に攻められて数日頑張ったけど衆寡敵せず落城しましたみたいな感じでしょか…この碑文どこから引っ張って来たのか解らないけど、一次資料が見当たらないので真相は闇の中といった感じっすね。

誰も行かないとは思いますが、Googleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。

有名な浅田飴の創業者はこの辺りの出身らしいです。良薬なのに甘い、お城も甘過ぎですが、興味を持ちましたら碑文の全文解読をお願いしたいところです。

2020年03月17日 RED副将軍【新宮党】
埴原城



オススメ度 ★★★★★

蓮華寺前に整備された無料駐車場があります。
登山道は梅屋敷跡を過ぎると右に折れるのが正規のルートの様です。私は直進し積雪もあったので登山道が分からず、足場も悪い急坂を直登する羽目になりました。
写真の通り狭い足場や急坂も多く、相応の装備は必要です。
登頂だけなら50分くらいで登れると思いますが遺構が随所にあり、まともに全てを見るならば半日でも厳しいかと・・
連続堀切、段曲輪、畝状竪堀、石垣等、保存状態の良い素晴らしい遺構の宝庫でした。

2020年03月12日 征夷大将軍 びゅ~てぃみみ
北熊井城[埴原城  周辺城郭]



西に突き出た高い台地を五つの郭で区切り、本城含む6つから形成されたわりとシンプルな城跡。
各郭のまわりは深い空堀がめぐっています。

小笠原氏の城でしたが、塩尻峠の合戦前哨戦で武田信玄に攻め落とされたと言われています。

おおむね整備されているので見易いのですが、そうでない部分もありせっかくの空堀が…というところも。
本丸からの眺めは塩尻の街並と北アルプスが同じフレームに収まるという、何とも贅沢で素晴らしい景色が広がっていて、これは中々感動モノです。

ちなみに山城ではないので登りはありません。
近くまでいくと(位置はリア攻めマップ参照)案内板があるので迷うことはないと思いますが、入るところによっては途中道が狭いので大きな車だと草等があたり傷がつく可能性がありますのでお気をつけください。
駐車場はなかったため、大手を少し過ぎた東側付近にとめさせてもらいました。

松本付近はガッツリの山城が多いですが、ここはお散歩感覚でお手軽に土遺構を楽しむことができますよ。
城小腹が空いた時、ハードな山城散策前のウォーミングアップ…前菜的な感じで訪れてはいかがでしょうか。

2019年05月31日 龍馬備中守【】
埴原城



段郭から続く尾根上の連続堀切を上部より☆武田信玄様が松本へ侵攻した時まずこの埴原城を攻撃し占領☆埴原城落ちると小笠原氏の本城の林城をはじめ支城四城が自落する☆しかし武田氏滅亡後に松本盆地を奪還した小笠原貞慶が改修☆

2019年05月28日 龍馬備中守【】
埴原城



副郭側面部を守る石垣☆「小笠原氏城跡」の1つ☆標高1004mに造られた戦国の山城☆武田信玄様により攻撃され落城☆小笠原氏の諸城は続々と攻略される☆信濃守護小笠原氏はこの地を追われる事になる☆

2019年05月10日 龍馬備中守【】
埴原城



(右)は主郭守る大土塁☆(左)竪堀は急激に落ちる☆「小笠原氏城跡」の一つ☆埴原城は標高1000m付近に築城☆信濃国の守護・小笠原氏の家臣埴原氏(村井氏)の居城☆

2016年11月08日 おにぎり(縫殿助の佃煮)
埴原城

近くの保福寺に、小笠原長時妻子のお墓があります。
お寺自体もなかなかいいですよ。

2016年10月20日 おにぎり(縫殿助の佃煮)
埴原城

松本市立考古博物館の南東方向、蓮華寺前に駐車場があります。
駐車場内に郵便受けのようなものが立っていて、中にマップが入っています。
もしここになければ、考古博物館でももらえます(山中は脇道がいくつかあります)。

ルートは2つありますが、蓮華寺前の道路から入って行くのが一般的でしょう。

靴はしっかりしたものを用意したほうがいいです。

今回は時間が限られていたので、寄り道せずに、まっすぐ主郭を目指しました。

化粧水のところから、右に向かうと畝状竪堀群に、左に向かうと主郭に向かうルートになります。
主郭への道の方がやや分かりにくくなっているので注意です。

主郭から周囲を見回した後、そのまま下山。
今回は写真など撮りながら行って帰ってくるだけでしたので、所要時間は50分程度でした。
1時間半から2時間あれば、満足できるかと思います。

周辺には原始から古代にかけての遺跡も多くありますよ。

2013年10月23日 赤いRVR甲斐守@松本
埴原城

化粧水は、昔は結構な水量があって、コップも置いてあり、飲んだこともありましたが、現在はだいぶ水が少なくなりました。

2013年04月05日 赤いRVR甲斐守@松本
埴原城

ふもとの松本市立考古博物館に、中山史跡めぐりマップ③埴原城があります。博物館では、勾玉づくりなども体験できますよ!!城めぐりとあわせてどうぞ!

2010年06月20日 赤いRVR甲斐守@松本
埴原城

県道松本塩尻線柿の窪バス停近く、蓮華寺が目印、そこに駐車場あり。そこから山道、鹿柵のゲートから入る。違う尾根からも登れるが、鹿柵ゲート注意。

埴原城の周辺スポット情報

 帯郭(遺構・復元物)

 石垣(遺構・復元物)

 虎口、石積(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 高島城移築城門(常光寺山門)(遺構・復元物)

 化粧清水(遺構・復元物)

 説明板(碑・説明板)

 説明板(碑・説明板)

 チラシボックス(碑・説明板)

 白河十郎有忠の館跡(碑・説明板)

 北熊井城(周辺城郭)

 八間長者城(八間欠城・八軒城)(周辺城郭)

 浅田城(周辺城郭)

 赤木北城(周辺城郭)

 赤木南城(周辺城郭)

 小屋城(周辺城郭)

 横山城(周辺城郭)

 赤木氏館(周辺城郭)

 御城山(音渡山・音声山)(周辺城郭)

 仙石雅楽助館(周辺城郭)

 本城(周辺城郭)

 旗塚(周辺城郭)

 中山二山砦(周辺城郭)

 百瀬陣屋(周辺城郭)

 百瀬の堀屋敷(周辺城郭)

 馬場家屋敷(周辺城郭)

 弁当原城(無量庵城)(周辺城郭)

 小池砦(砦)(周辺城郭)

 中山砦(周辺城郭)

 鍬形原烽火台(周辺城郭)

 尾池砦(塩田山)(周辺城郭)

 三郎城(雨堀)(周辺城郭)

 大宮八幡館(周辺城郭)

 権現館(立小路館)・たけ原(周辺城郭)

 高山城(周辺城郭)

 南熊井城(周辺城郭)

 町村(周辺城郭)

 野村砦(城下・楯下)(周辺城郭)

 光明寺館(吉田氏居館)(周辺城郭)

 長者屋敷館(周辺城郭)

 小屋城(村井城)(周辺城郭)

 野村屋敷(周辺城郭)

 真田城(周辺城郭)

 埴原牧跡(千石繁飼場跡)(寺社・史跡)

 藤原(白河)惟家の館跡(寺社・史跡)

 駐車場(駐車場)

 松本市考古博物館(関連施設)

 入り口(関連施設)

 登城口(その他)

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