武居城(たけいじょう)

武居城の基本情報

通称・別名

洗馬城

所在地

長野県東筑摩郡朝日村西洗馬

旧国名

信濃国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

三村氏

築城年

南北朝時代?

主な改修者

主な城主

三村氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、堀切、竪堀

指定文化財

県史跡(武居城跡)

再建造物

模擬冠木門、石碑、説明板

周辺の城

井川城(長野県松本市)[13.9km]
埴原城(長野県松本市)[14.5km]
中塔城(長野県松本市)[15.0km]
松本城(長野県松本市)[15.7km]
林城(長野県松本市)[16.7km]
花岡城(長野県岡谷市)[16.8km]
桐原城(長野県松本市)[18.7km]
山吹城(長野県諏訪郡)[19.0km]
山家城(長野県松本市)[19.5km]
平瀬城(長野県松本市)[19.9km]

武居城の口コミ情報

2023年12月27日 よっこいしょーいち
小俣氏館跡[武居城  碑・説明板]



ここに小俣氏の館があった。
現在は圃場整備により遺構は一切無いが、過去には100m四方の変形四辺形の堀と土塁に囲まれた館跡があったらしい。
小俣郷は平安から鎌倉期は諏訪下社の荘園だったが、室町時代には近衛関白領となり、代官として佐久郡の平賀氏の一族、主膳正義村が来住し、小俣郷を治めた、と「笹賀地区誌」にあります。
その後、小俣左衛門尉貞親の代に小笠原持長·宗康の家督争いで宗康に味方するも漆田原の合戦にて敗れ、討死して小俣氏は断絶してしまったそうです。

2023年12月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
比叡ノ山砦[武居城  周辺城郭]



比叡の山砦は武居城の東南東約5.1km、奈良井川東岸(右岸)、標高809.4mの比叡ノ山山頂部に立地したと推測される陣城か狼煙台か物見台の類いです。西麓の国道19号線からの比高は60m位でしょか。比叡ノ山は南方山塊と鞍部(律令制下で設けられた東山道支道が通ると推測される。)を挟んで独立山稜を形成している。ちなみに「比叡ノ山」は「ヒイの山」の後世の借字らしい。もののけ姫っすわ…

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは西麓からが最も楽だけど、道筋が周囲に擬態しちゃって判り難いので注意です。車はその辺に捨てられるレベルだ。

築城年代、築城者は不明、「長野県町村誌」、宗賀村の「比叡山」には、「此原野の中央より坤(南西)の方に方り、字比叡山と称ふ孤立山あり。天文年間(西暦1532年〜1555年)武田信玄出陣の節、陣営の地と云伝ふ。且又此山南の方、東山道の旧道あり、今古俚俗古井道通りと云。…」とあり、武田晴信が天文年間に陣を構えた場所て事になる。戦の事については書かれないが、事実ならば木曽攻めに際してのものだと考える。

謂わゆる色物物件、でも神本に掲載があるので地道にリア攻めする。未だ藪も多い時期だったけど縄張に1mmも期待していないので全然気にしない。むしろこの時期に時間を割いた方が賢明だ。夏場は色物物件や居館跡のリア攻め数が飛躍的に増加する。冬場に山城を訪ねるのがおいらのセオリー、年間通しての時間の有効活用に繋がる。

比叡ノ山は古来から「神(かん)なびの山」と呼ばれる神を招き下ろす場所であり、山頂と山麓からは何れも祭祀用の土器が出土している。お山の東麓には「平出の泉」、北東麓には日本三大遺跡の一つである「平出遺跡」、南麓には「鷹遣岩」、「平出古墳」が位置し、縄文時代から人の定住があった地域である。ちなみに時代不明なるも比叡ノ山には「刃の雉子」と呼ばれる化鳥が棲み付き近傍の村民を悩ませた事もあるらしい。「くえ〜っ、くぇっ、ばさばさっ…」みたいな感ぢ?なんすかね。

砦の現況は…山頂部には金山彦尊等三尊の石碑と座王大権現の小祠が鎮座、一応削平もされている。但し、城郭遺構は一つも見出せないし、当時の武田勢の外征における動員数から考えてみてもこれを陣城とする事には甚だ疑問を感じる。例え利用があったとしてもせいぜい狼煙場や物見場の類いであったろう。展望は相当に開けている筈だが現在は樹木によって遮られる。とっとと帰ろう…

…これだけじゃあんまりなんで、付近の「塩尻市立平出博物館」を訪問、が、思いっきり休館日だった…該地とその周辺は交通の要衝である「桔梗ヶ原」に含まれるし、平安時代までの遺跡が検出された地域でもある。正直、縄文時代、弥生時代の事や古墳については門外漢なんだけど、中世における何かしらの史料が転がっていないかなと期待した訳だ。

各自治体が行なっている遺跡の発掘事業は縄文時代や弥生時代の事が常にメイン、予算の都合もあるし、各種開発行為に被らない事もその理由なんだろうけど、中世好きにとっては実に寂しい限り…地字図なんかを見る度に、「この辺も発掘してくれないかな〜掘りまくってくれないかな〜」等と何時も勝手に思っている。中世城館て調査もされずに割とぞんざいな扱いのまま土中に眠っている。内輪にいると気付かないけど、中世のお城好きて極めて少数の者達だって事を改めて認識する。それならば1件でも多くの物件を訪ねる事で歴史から忘れられたこれ等隙間を掘り起こそうか。おいらが色物物件や遺構の存在しない城館跡を丁寧に訪ねて廻るのはそれが理由の一つだ。他力本願的に何かを期待するんじゃなくて自ら行動し発信していく事が大切なんじゃないのかと考える。

※この砦を伝えようとすれば写真は2枚で事足りるんだけど…写真①は要るのか知らんけど近景っす。

※写真④は「平出の泉」っす。石灰岩の空洞に集まった伏流水が、鍾乳洞の出口から湧き出しているものらしい。

2023年12月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
長瀬氏館(長瀬判官館)[武居城  周辺城郭]



さて、今回の口コミはおいらの推し武将、木曽義仲様と血縁関係があるとも噂される長瀬判官代(「源平盛衰記」では義員、「平家物語」では重綱とする。)の物件っす。長瀬判官代?聞いた事無いなんて言わないでっ!おいらもよく知らねぃっす。

長瀬氏館(長瀬判官館)は武居城の南南東約4.6km、奈良井川西岸(左岸)、標高約745mの河岸台地上平場に立地した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている「長瀬判官代塚」を目標に設定して下さい。この塚の残る場所が該地です。近世に入ると奈良井川対岸には中山道の宿駅、洗馬宿が設けられているが、街道の喧騒とは無縁の実に寂しい場所っす。ちなみに長瀬氏の居館跡は別に上田市長瀬にも存在するので注意っす。こっちの方はインスタにはアップしてある。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは長瀬氏です。長瀬判官代が居したと伝わるが、長瀬氏自体は小県郡依田庄の庄司だったとされる。「木曽福島町史」には、「兼遠(中原)、義仲の養育を諾するや、その将来のために素地を作らんとし、次郎兼光を伊那郡樋口に、四郎兼平を筑摩郡今井に、五郎兼行を恵那郡落合に居らしめ、己れ府中にあって國中の豪族と手を握り、以てその地盤を固むるに腐心した。」とある。判官代の事は書かれないが、同様の経緯で木曽に通じる交通の要衝に腹心を置いたと考えてもよさそうである。

そもそもが判官代は生年が不明であり、義仲との血縁関係があるとするならばどのような立ち位置になるのかも不明である(前記二書では従弟とする。)。仮に同年代と推測するが、小県郡には長瀬氏当主が別に依然健在で、義仲への近仕を判官代の個人的出張と見るべきなんだろうか。後には小県郡依田庄で挙兵に及ぶ義仲だが、何れにせよこの長瀬氏の地縁があったからこそだとも言える。

軍記物にも登場するが雑な扱いである。「平家物語」では、「粟津の戦い」、宇治川の先陣争いの際に畠山重忠(馬をも背負えるストロングスタイル…)によって軍神への血祭りとしてあっけなく討たれている。後世の錦絵には、「巴御前長瀬判官をこらしむる図」なんてのもある。但し、本人の名誉のためにも言っておくけど、義仲に殉じた一人でもあるし、義仲の首と共に都大路を渡された事は、当時名の知れた腹心だったて事を意味するんだろう。

居館の現況は隠れ里の中の一角て感じ…奈良井川対岸の洗馬宿からは一段下がった平場に立地し、西側背後には山際が迫る。見るべきものは「判官様」と呼ばれる塚であろうか。埋物があるのか知らんけど土盛は土塁の残滓と言ってもよいぐらいのものである。周辺一帯は現在も長瀬さんの所有であり、家屋の1件にはごく最近まで居住があったようだが今は無人のようだ。居館地の北側には白山神社が鎮座、後背の山稜を適当登ると、「平じゅう」と呼ばれる平場があって物見場とも推測されている。

「洗馬」の地名は馬を洗った所を意味する訳ではなく「狭まる」が転化したもの。松本平が木曽の谷筋へ向けて一気に幅を狭める所である。東五千石街道と道筋を重ねた中山道が善光寺街道、西五千石街道を集めて一本となる追分の地であり、木曽谷への関門の地でもあった。戦国時代には三村氏の領分、その誅殺、滅亡後には武田氏に従った木曽氏の領分となったらしく、永禄六年(西暦1563年)八月十八日付、原平左衛門尉宛木曽義昌宛行状には、「為重恩、洗馬於百姓前二百疋、当秋可扶持者也、仍如件、」とあり、義昌は洗馬の内から二百疋の地を原平左衛門尉に宛行っている。

※写真①は要るのか知らんけど長瀬橋から撮影した近景っす。

※写真⑦は「平じゅう」の平場っす。

※ 写真⑧は居館地北側に鎮座する白山神社っす。長瀬氏が信仰したんだろう。該地周辺一帯は長瀬さん一族の集落でもある。

2023年11月07日 よっこいしょーいち
今井の砦[武居城  周辺城郭]



ここに今井の砦がありましたが現在は太陽光発電パネルが並び砦の遺構は消滅してしまったようです。
鎖川左岸の段丘崖に沢によると思われる小さい谷があり、この谷を天然の堀として利用し背後に土塁を伴った約20m四方の曲輪があったようです。
曲輪の背後に土橋が設けられた横堀、曲輪前面にも横堀があったらしいのですが朝日村村誌と宮坂武男先生の縄張図には若干の差異がみられる。
宮坂先生が調査された時点で現代の用水路や江戸末期の堰が設けられていたので、かなり改変されていたと思います。
朝日村村誌には武居城の前衛の砦とされていますが宮坂先生が仰られる通り鎖川左岸という立地から旭城の前衛砦ではないかと思いました。
いずれにしても現状では何も確認することができなくなってしまった。朝日村や宮坂先生により調査されたことが、せもてもの慰めです。

2023年11月07日 よっこいしょーいち
今井兼平 館跡[武居城  寺社・史跡]



今井兼平は中原兼遠の息子で木曽義仲が挙兵すると義仲と共に戦うが粟津の戦いにて義仲の後を追い自刃した。
ここ今井神社には滋賀県琵琶湖畔の粟津ヶ原にある兼平の墓の土を持ち帰り祀った兼平塚があります。
そしてこの神社は兼平の館跡と言われていて長野県町村誌によれば館の堀があったため、この辺りは堀村とよばれた、とある。
神社本殿の背後に鎖川のわずかな段丘があり、この段丘を利用したコの字型の堀があったのではないかと想像したが遺構は見られませんでした。
神社前の道は朝日村の薬師堂に通ずる参詣道で兼平もこの道を通り薬師堂に詣でていたと伝承されています。

2023年11月07日 よっこいしょーいち
中原氏館[武居城  周辺城郭]



ここは中原兼遠の館跡ではないかと言われています。
中原兼遠は木曽義仲の養父として有名ですが当時、兼遠は信濃国の権守で信濃国府に勤めていて信濃国府があったとされる里山辺周辺に上屋敷があり、ここは下屋敷ではないか、と言われているらしい。
木曽義仲は中原兼遠に匿われていたので幼少期はここ、松本市今井や塩尻市洗馬など松本平南西部で育ったのではないかという説があり木曽義仲に関する伝承地がいくつかあります。
館跡のすぐ北側にある宝輪寺も兼遠の息子、今井四郎兼平が中興開基とされる。
館跡は個人宅のため中を見ることはできませんが周辺の道路からは堀跡や土塁が確認できました。また館跡西側にかなり古い時代のお墓もありますが具体的な記録、史料がないため、よく分かっていないようです。

2023年11月07日 よっこいしょーいち
今井陣屋跡[武居城  周辺城郭]



宝輪寺の真向いにあります。
今井の地が元禄4年に幕府領となったため飯島陣屋の出張陣屋として置かれたらしい。
陣屋と宝輪寺の間の道は高遠道と呼ばれ幕府領になる前、高遠藩領だった頃の高遠との連絡道路だそうです。
高遠道とつながる陣屋すぐ北側の小道は陣屋道と呼ばれるらしいが道の先は鎖川に行き着く。
陣屋跡は個人宅が建っているので中を確認することはできなかったが西側から見ると鎖川のわずかな段丘(1~2m)上にあることがわかる。しかし遺構らしい遺構は特に見られませんでした。
陣屋道に標柱があるのみです。

2023年08月01日 よっこいしょーいち
小曽部館(大熊屋敷)[武居城  遺構・復元物]



塩尻市小曽部の長崎地区にある小曽部川の段丘上に小曽部氏(大熊氏?)の館があったらしい。現地は畑となっており居館跡北側に堀跡と思われるものがあるが、それ以外に遺構は見当たらない。南側には荒神社跡の石碑があり、この石碑の裏側に「往古、古曽部殿の居館があったとも伝えられている。」と記されている。

2022年11月17日 RED副将軍
武居城



コンパクトな城ながらも遺構の保存状態は良好で適度な整備は素晴らしい。地元愛が感じられます。

オススメ度 ★★★★★

地方土豪、三村氏の居城。
信濃国守護の小笠原氏に従っていましたが、甲斐の武田氏によって侵攻されると、三村氏も武田氏に従属。
16世紀初め頃に三村氏は本拠を本洗馬の妙義山城に移したとされます。

見所
横堀と放射状竪堀が素晴らしい。
西側斜面に横堀が延び、その横堀に接して6条の竪堀が等間隔に下に延びています。
三の郭から北東尾根筋の二重堀切も絶品。
規模と深さは写真では伝わり切りません。是非訪れて欲しい遺構です。

2022年10月17日 よっこいしょーいち
武居城



最近になって地元の方の努力により城址北側の大手筋ルートが整備されました。
また主郭以外の郭も笹藪が刈られ大変見やすくなっています。
近くにこられた際は是非お立ち寄りを。

2022年10月17日 よっこいしょーいち
下村の館[武居城  周辺城郭]



三村氏に関する館跡と考えられ、武居城より北に500メートル離れた所にあります。
館に関連する地字が残っていて道割に館の痕跡が伺えます。館跡から北東方向に延びる道を中心として館町があったと推測されていてこの道にはうっすらと鍵の手もあります。

2022年09月16日 よっこいしょーいち
立所入山城[武居城  周辺城郭]



宮坂武男氏の著書にある「洗馬の鐘撞田」として記載のある狼煙台はここの事と思われます。単郭式の郭の前面に小曲輪、柵列跡、その前面に浅い堀切、北東に腰曲輪らしきものが確認できます。南東方向にある鉄塔の真下にも堀切らしき物があります。塩尻市立平出博物館や本洗馬歴史の里資料館などの調査により武居城や妙義山城の関連支城が見つかっているようです。

2022年07月25日 しげしげ主税頭信繁
武居城



大変整備された公園になってます、駐車場があり今の季節は紫陽花が咲いていて、奥に進むと獣ゲートが有ります。ゲートを開けて進入すると10分程で主郭跡に着きます。結構遺構が残ってました。
多少の登りは有りますが大した事は無いので家族連れにも良いと思います♪

2022年03月21日 内記かずりヾ(・ε・。)
小坂城(焼城桂入山の城)[武居城  周辺城郭]



小坂城(焼城桂入山の城)は武居城の北西約4.7km、東方へ延びる山塊尾根上、標高約989mのピークの一つに主郭が存します。平野部との比高は230m位ですが、南麓の林道からの比高は100m位でしょか。

行き方はGoogle マップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。南麓の林道が大きくヘアピンカーブを描く所から適当直登出来ますが、安易に谷筋に入らずひたすら目の前に現れる急坂を登りましょう。人が入るお山ではあるので踏み跡ぐらいは付いてます。東麓から尾根筋を辿る別なルートもありますが、これがとりま最短、10分強で城域に入る事が出来ます。

築城年代は不明、築城者は小坂氏です。結城合戦における結城陣番帳の二十番に「犬甘殿、平瀬殿、村井殿、三村殿、小坂殿」とあり、松本平における小笠原氏の有力な被官衆と共にその名が見られます。同氏ははっきりした事跡に乏しいのですが、小笠原氏の庶流、赤沢氏の末流と推測され、近隣の大池氏と同族でもあったようです。大池氏に伝わる家伝書によると、大池村と小坂村(何れも現山形村)は元は一郷で総貫高七百貫文、大池丹波守隠居領として下郷百貫文、大池右馬助昌勝三百貫文、小坂豊前守三百貫をそれぞれ領していました。又、大池氏に伝わる「私本信府統記」によれば城主として小坂主計の名が伝えられています。

お城は信濃の山城としては珍しい堀切の少ない(たぶん1条のみ。)縄張で、数条の竪堀で斜面上の要所を分断しています。主郭(土塁囲み、虎口二箇所付き。)北東側正面には無数の小郭が設けられていますが、これがまじかよ…ってぐらいの数でして、明瞭なものは殆ど無いだろうし、そもそも論で雪に埋もれて判る訳も無いので最初から諦め気味…又、竪堀の方は縄張図外にも数条確認出来たりなんかします。

長野県だけど山形村、松本平においても地味な場所なんですが良城と言えるでしょう。南麓の林道を車で更に登ると標高1222mの平場に立地する真言宗の寺院、慈眼山清水寺(無住である。)に辿り着きます。山中に留まった山岳寺院として全国的にも珍しいので是非セットで訪ねてみて下さいまし。

2022年02月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
本山城(掛上城)[武居城  周辺城郭]



〜本山城攻城編〜

築城年代は不明、築城者は本山民部と伝わります。本山氏は奈良井氏の庶流、奈良井氏自体は洗馬の三村氏の一族とされていて戦国時代の奈良井義高(贄川城で武田勢を一度は退ける。)は小笠原長時の娘婿でした。民部は木曽氏の被官で、天正年間(西暦1573年〜1593年)、本山城は武田勢により落城しました。天正年間の事なんで木曽氏の叛意が明らかとなり征伐を受けた際の事なのは明らかで、続く鳥居峠の戦いの前哨戦と位置付けて間違い無いでしょう。木曽氏は木曽路の最北端に桜沢砦を築いて此処を一の城戸としていましたが、それより更に北方の本山に城を構えていた事が判ります。

織田氏に従属した木曽氏は甲州征伐の後に安曇、筑摩の二郡を加増されましたが、天正壬午の乱において深志(松本)を回復した小笠原氏と衝突します。天正十年(西暦1582年)七月、小笠原氏家臣、犬甘政信が討死したのは本山城西麓に建つ常光寺(廃寺)の観音堂付近とされていて、お城はこの際も無事では済まなかった事でしょう。

お城は大変素晴らしいです。サブ名称の掛上城は掻揚城(疎かに構たる城、急造の城っす。)に通じるんだろうけどそんな事はない。主郭南側には3段の腰郭(エッジが萌える。)を持ち何れも土塁付き。とんでもなく素敵なのが主郭東側の大堀切+竪堀でして、山城ファンは見てるだけで幸せな気分に浸れるでしょう。城域は比較的コンパクト、主郭を中心にぎゅっと山城が凝縮されている感じでリア攻めも実に気持ちが良いです。又、通称7郭付近から縄張図に無い結構な竪堀様地形が2条程確認出来ます。これらで寄手の攻城路を限定させる事(主郭部を遮断し通称7郭に直接誘導する。)が可能となるけどまぁ気のせいなのかもしれません。

注意点は信じられない事に城域東端外に石灰採掘場跡(登城編でその厳しさを語りましたが、此処に至る別の優しい林道が付いてるかもしれん…)が残っていてお城の遺構と勘違いし易い事(竪堀かと思ったよ。)、それから前述のとおり留山なので時期になれば言い訳が出来ない事(警告は大変厳しい。)です。

しかし所有者でも無けりゃこんな山に○○採りに入る奴がいるのかよと疑問が湧いて来ますが、そんな奴等からしたらこんな山にお城見に来る奴の方がよっぽど不思議でしょう。そんな奴等な山城好きは是非こっそりと訪ねてみて下さいまし。

2022年02月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
本山城(掛上城)[武居城  周辺城郭]



〜本山城(掛上城)登城編〜

本山城(掛上城)は武居城の南東約6.8km、標高約1225mの山塊ピークから南西へ延びる尾根上、標高約1045mのピークの一つに主郭が存します。西麓の国道19号線からの比高は230m位でしょか。

お城の存する本山の地は中山道六十九次の内の三十二次、本山宿が設けられた宿場でした。城友さんが口コミにアップしていた福島関所は三十七次、福島宿に立地します。両者の距離は直線で約30kmですが、地図を眺めりゃ解るように車でも無けりゃとても木曽路を旅する気にはなれねぃよ…又、木曽路は律令制下の大宝二年(西暦702年)に「岐蘇山路」、「吉蘇路」としては和銅六年(西暦713年)に開通し、東山道から分岐する美濃へ抜ける往還として古来より特に重要視されていました。ちなみに「木曽路」の表記が定着したのは旭将軍の活躍のおかげっす。

行き方はGoogleマップに位置登録されている南西麓の本山神社を目標に設定して下さい。神社の裏手に留山である事を示す標柱が立っていますので此処から登ります。が、道は踏み跡程度であり最初から何処へ向かって登って行けばよいのか判らなくなると思います。自分は踏み跡を辿って登ったら尾根の西側斜面を登る羽目になりまして、結果的に冗談抜きの斜度約60°を尾根上まで直登しました。結果的には早い内に、標柱から気持ち南側へ巻き気味で尾根筋に出るのが正解で、尾根上に建つ小社に至るまでは比較的判り易い踏み跡が付いていた事に後で気付きました。ただこのお城は尾根筋に出たからといって楽に登れる箇所は一切ありません。城域に至るまでの約90%は普通に歩けないです。

小社に辿り着いてからが更に問題、小社の背後は細尾根の岩場となっていてこれをよじ登る覚悟が必要です。トラバースしようにも尾根の両斜面は急坂急崖で、頼りに出来る草木も生えておらず積雪も相まって逆に危ない…岩場をよじ登る決心をしますが、逆に岩場には松の若木が生えまくりで痛いのなんの…泣きそうになります。岩場を抜けても急坂の連続、留山である事からも解るように、尾根筋には余計な雑木が生えていないので大変苦労します。

竪堀を抜けて通称7郭に入れば後の探索は楽だと思いますが、同じ長野県内にある鳥羽城や水の手城に匹敵するとまでは言わないけど、気楽に訪ねたら意外にも難城だったのには閉口しました。

2021年04月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
天ヶ上(天狗城)[武居城  周辺城郭]



天ヶ上(天狗城)の続きなり。

お城のある山塊尾根稜線上は遥か昔に木曽へ抜ける間道が通っていたそうです。となるとお城はこの監視の任を担っていたと推測出来ますが、それなら別のもっと楽な場所でもいいんじゃねぇ…何だか逃げ込み城のようにも思えますが、目立つ尾根稜線上は避けると思うのでこれも疑問…それだったら途中にある標高1604mピーク付近にある船窪地形の方がよっぽど相応しいしお城っぽい…結果としては本当にあったのかどうかを含めて謎という感じでした。まぁ自然地形を100%に近い形で利用した砦規模のお城というのが今判る現況です。

登城の際の注意点はお城廻り気分で行かない事です。完全な低登山になるのでそういう装備で…もう生えてる木(白樺があるぞ…)からして普通の山城とは違います。携帯の電波も殆ど入らず遭難したら誰も気付く事はないです。地図と高度計、コンパスを用意しましょう。ただ登山系のアプリがあれば事足ります。リアルタイムで自分の軌跡を追えますし特に帰りに重宝します。そしてどんなに辛くとも尾根筋を絶対に外さないように…

このお城、単独での紹介例はあらゆる媒体を含めて初めてとなります。信濃のお城の神以外(行ったという事実はあるのだろうか…)に純粋にお城目的でこのピークに辿り着いた人は近年にはいないと思います。長野県の中世城館跡・分布調査報告書にも記載が無く、今のところ資料といえば塩尻町誌、朝日村誌にわずかな記載があるのみ(武居城の土塁の案内板にも記述がある。)…行く価値は全くありません。ただ誰かが行かなきゃそれすらも判らないし、永遠に謎のままで埋もれてしまう。徒歩での総移動距離約10.7km、総経過時間約7時間10分、今回のリア攻め最大の成果はこれに尽きると思います。

2021年04月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
天ヶ上(天狗城)[武居城  周辺城郭]



天ヶ上(天狗城)の続きなり。

ルートは決まり後は実行に移すのみ!当日の天候は晴れだった…

まず最初の経由地である菅野林間広場を目指す。此処までは車で行けて駐車も出来るのだが、からたきの峯登山口に至る林道入口まで車で行けた。林道は作業用林道でもあり、当日も林道整備の作業用軽トラック数台が入っていたが一般車両は進入禁止でした。林道はかなり東方へ巻いてから山側へ登って行くけど、約1時間の行程で標高約1400m地点にあるからたきの峯登山口に到達、此処からは整備された登山道を使って標高1691mピークを目指す。凄く疲れたけど約40分の行程でこのピークに到達出来た。

此処までは順調に事は進んだが地獄の始まりが近づいて来た…からたきの峯登山コースを外れて北方へ延びる尾根稜線上を進むのだが、長きに渡り人が入る事は絶えたのであろう、尾根一面を覆う人の背丈を超える熊笹地獄が行手を阻む。群生率が凄まじく同行の城友さんの姿も見えなくなる…足を取られて転ぶ事数回、おまけに倒木まで隠れてやがった。アップダウンは比高100mを超える事は無いが、二つのピークを越える約2kmの藪漕ぎを強いられる。途中熊笹が消える場所は1箇所、約20mの間のみ、休む事もままならず時間ばかり浪費して進める距離は僅かという有様、約2時間の藪漕ぎを意地と根性のみで耐え抜きお城を目指しました。

熊笹地獄を抜けて辿り着いたお城のある標高1698mピークは…やっぱり一面の熊笹!山頂部はびっくりするぐらい広い削平地ですが、そもそも熊笹目線なので本当に削平されているかどうかは全く判らん…城域内には堀というか溝があるけどこれが遺構なのかは全く判らん…又、段が付いているけどたぶん自然地形でしょう。期待していた展望は奥山中の奥山なので最低レベルです。

続く…

2021年04月29日 内記かずりヾ(・ε・。)
天ヶ上(天狗城)[武居城  周辺城郭]



SHINANO‘S MOST HARDEST!!!

まずは遠州の城友さんにこの口コミを捧げる。一人では絶対成し遂げられなかったぜ〜感謝感謝!

天ヶ上(天狗城)は武居城の南方約5.5km、標高1698mの山塊山頂に主郭?が存します。北方の武居城公園からの比高は890m位でしょか。

築城年代とか築城者なんかどうでもいいんです。知ったところでどうしようもない。標高1000mを超える山城は信濃では決して珍しくない。しかし標高1500mを超える山城は知っているだけで3城しかない。木曽の楡沢山城、甲斐の御坂城、そしてこの天ヶ上だ。山城には限界高度というものがあると思う。標高や比高が高過ぎれば逆に意味を為さなくなるし生活だって困難だろう。常識を覆す所にお城を築いたのは何故だろうか、きっと阿保に違いない。名称からして決して行ってはいけないお城だけど変態が確かめに行く時が来たって訳だぜ〜

信濃のお城の神は重ね城の項の最後をこう締め括っている。「…直線距離で5km上方の1698m峯には天ヶ上(天狗城)がある。…確かな造りの砦である。」と…ところが神は独立した項を作る事も無く、縄張図も描いてはいない…お城の情報はたったこれだけなので、まずは場所の特定から始めなければならなかった。幸いにも武居城から尾根続きである事、標高1698mピークは尾根稜線上に一つしかない事でこれをクリアー出来た。後はどうやって行くのかが最大の課題だった。

山城は好きだけど山登りが大嫌いな自分は、直線距離で約5.5km、比高約890mの尾根登山をする気にはとてもなれない。別ルートを探すべく情報を集めるが、山の名称が無い事からも解るように登山者の目標にもならず、登山系の情報も皆無だった。そこであらゆる形態の地図を見比べて別ルートの開拓を2Dで試みる。するとお城の南方麓に林道と「菅野林間広場」という施設を発見する。更に調べると此処から「からたきの峯」というピークに至る登山道がある事が判った。

計画は決まった。この登山道を使いひとまず尾根稜線上の標高1691mピークを目指した後、からたきの峯とは逆の北方へ尾根を進み、お城のある標高1698mピークを南側から狙う。しかもこのルートなら林間広場から登る比高は550m位になる…が、案外楽勝かなと考えていたのが大間違いだった…

続く…

2021年04月24日 よっこいしょーいち
武居城



現在、塩尻市洗馬の本洗馬歴史の里資料館にて三村氏に関する企画展が開催中です。
最近の調査で武居城や妙義山城に関連する支城や狼煙台が見つかっているようです。
興味のある方は是非。

2021年04月11日 けろりん弾正大弼
武居城

ミズバショウと桜咲く武居城公園を目指したどり着きました。公園の奥の防獣柵を開け、登山道を登ります(本来の大手は異なる側とのことです)。腰郭にたどり着く前に、横堀、竪堀、大堀切を見ることができます。本郭は明治時代に開墾の影響があるとのことですが、二の郭には土塁が残っています。
規模は大きくないですが、よく整備されており、初心者にもわかりやすい山城でした(^^)
春先は松葉が滑りやすく、トレッキングシューズ履いていけばよかったなあということと、登山道入り口で貸出して頂けますが熊鈴は持参しなければと思った次第です。
朝日村はレタスと、地元の木材で建てられた朝日村役場が素晴らしいです!

2021年02月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
妙義山城[武居城  周辺城郭]



妙義山城は武居城の東南約2.6km、標高953.8mの長興寺山から北東へ延びる山塊支尾根上、標高約892mのピークの一つに主郭が存します。東麓からの比高は135m位でしょか。

築城年代は不明ですが、築城者は三村氏で、洗馬に居館を構えてこの妙義山城を詰城としました。経緯は不明ですが武居城から引越したらしいですね。

三村氏の出自は諸説あって確かな事は定まらないそうで、清和源氏小笠原氏の庶流とするもの、清和源氏経基流多田満仲の次男頼親の後裔とするものがあるらしいです。ちなみに備中三村氏は信濃三村氏の流れらしいっすね。

戦国時代の当主三村駿河守長親は塩尻峠の戦いの後に小笠原氏を離反、武田氏に従属しますが、天文二十四年(西暦1555年)正月二十八日、甲府一蓮寺において主従共々撫で切りにされました。

行き方はGoogleマップに位置登録されている東南麓の本洗馬歴史の里資料館・釜井庵を目標に設定して下さい。この資料館の敷地裏手に登城路が付いてます。ちなみに釜井庵の建つ場所は三村氏の居館跡に比定されています。

お城は素晴らしいです。城域は信濃のお城としては意外にも広く、無数の小郭、帯郭の数には困惑するかもしれません。堀切や土橋(後世の改変とは明らかに違う。)も素敵ですが、特筆すべきは竪堀で城域内の至る所にスリットが入ってます。自然地形と考えられるものも多くありますが、要所に残るそれは何か意図的なものを感じさせてなりません。又、明瞭な竪堀の中の3条にはきっと大興奮させられる事でしょう。

それにしても冬という季節は山城を見るには最高だなと思いました。帰りは南東尾根から落ちる大竪堀を使って下山したんですが、縄張図では1条に描かれる竪堀が竪土塁によって二つに別れ、竪土塁の終端と共に再び集合するという竪堀の妙を味わう事が出来ました。枯藪が痛かったけど夏場なら下りる気も失せるので良い経験させてもらったなぁとひとり悦に入ってます。

謎な部分も多いですが、登城路はしっかりしてるし散策し易いです。武居城を訪ねる事がありましたら引越先の妙義山城も是非訪ねてみて下さいまし。

2016年10月13日 おにぎり(縫殿助の佃煮)
武居城

登り口周辺は武居城公園として整備されていて、駐車場もあります。
公園入り口は案内板がありますが、塩尻方面からだとやや分かりにくいかもしれません。

冠木門の奥に防獣フェンスの入り口があり、一見入れないように見えますが、鎖が簡単に巻いてあるだけなので、外して入れます。

入り口右手に入山者用の熊鈴が置いてあり、借りる場合には備え付けのノートに氏名等を書き込むようになっています。

遊歩道が整備されていますが、勾配がややきつい上に砂利が敷いてあるため、かえって歩きにくい感じでした。
スニーカーでも充分登れますが。

入り口から頂上の主郭までは、距離にして500メートル程度です。

武居城周辺には、木曽義仲ゆかりの光輪寺薬師堂があり、見応えありです。
また、近隣の松本市今井地区には今井四郎兼平ゆかりの宝輪寺もあります。
源平好きの方は是非。

2016年07月24日 左近将監みかん
武居城

縄張り図付きの説明板が各所にあり分かりやすいですね。
見学者用に熊よけの鈴が置いてありました。

2012年06月11日 そば右近衛中将
武居城

登山口にも防獣柵が張り巡らしてあり、中に入れませんでした…。

武居城の周辺スポット情報

 小曽部館(大熊屋敷)(遺構・復元物)

 中山道と善光寺道のわかされ道標(碑・説明板)

 小俣氏館跡(碑・説明板)

 妙義山城(周辺城郭)

 天ヶ上(天狗城)(周辺城郭)

 比叡ノ山砦(周辺城郭)

 本山城(掛上城)(周辺城郭)

 小坂城(焼城桂入山の城)(周辺城郭)

 立所入山城(周辺城郭)

 下村の館(周辺城郭)

 桜沢砦(木曽氏砦)(周辺城郭)

 贄川の千村氏屋敷(周辺城郭)

 土居平(周辺城郭)

 上田城(城山・小野城)(周辺城郭)

 中原氏館(周辺城郭)

 今井の砦(周辺城郭)

 今井陣屋跡(周辺城郭)

 小坂田山物見(周辺城郭)

 武井氏館(周辺城郭)

 下西条の館(周辺城郭)

 上の段館(周辺城郭)

 洞館(周辺城郭)

 松台烽火台(周辺城郭)

 長瀬氏館(長瀬判官館)(周辺城郭)

 大尾沢の砦(周辺城郭)

 大池村山大城(周辺城郭)

 池の入城(周辺城郭)

 大池城(ごてんじょう・上大池の城)(周辺城郭)

 旭城(大城)(周辺城郭)

 旭城(小城)(周辺城郭)

 大池氏居館A(周辺城郭)

 大池氏居館B(周辺城郭)

 上田館(畑中の館・雄館)(周辺城郭)

 川鳥城(周辺城郭)

 霧訪山狼煙台(周辺城郭)

 鳴雷城(周辺城郭)

 姫城(周辺城郭)

 飯縄城(周辺城郭)

 嵐城(周辺城郭)

 西条城(城)(周辺城郭)

 上の山城(上野城)(周辺城郭)

 内城(周辺城郭)

 桟敷城(高須城)(周辺城郭)

 代官山砦(周辺城郭)

 重ね城(周辺城郭)

 竹田城(秋葉城)(周辺城郭)

 小西城(草間城・古城)(周辺城郭)

 道林の砦(周辺城郭)

 鐘撞(周辺城郭)

 高山城(周辺城郭)

 今井兼平 館跡(寺社・史跡)

 邂逅(あふた)の清水(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 武居城公園駐車場(駐車場)

 登城口(その他)

 善光寺街道(北国西街道)(その他)

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