山家城(やまべじょう)

山家城の基本情報

通称・別名

中入城

所在地

長野県松本市入山辺中入

旧国名

信濃国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

山家氏

築城年

鎌倉時代後期

主な改修者

小笠原氏

主な城主

山家氏

廃城年

遺構

曲輪、石積、土塁、堀切

指定文化財

県史跡(小笠原氏城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

桐原城(長野県松本市)[2.9km]
林城(長野県松本市)[4.0km]
埴原城(長野県松本市)[5.2km]
松本城(長野県松本市)[7.8km]
井川城(長野県松本市)[8.0km]
稲倉城(長野県松本市)[9.4km]
平瀬城(長野県松本市)[11.9km]
和田城(長野県小県郡)[14.0km]
虚空蔵山城(長野県松本市)[16.5km]
塩田城(長野県上田市)[17.7km]

山家城の解説文



山家城(やまべじょう)は、長野県松本市にあった日本の城。別名中入城。県指定史跡「小笠原氏城跡」を構成する山城群(埴原城跡、山家城跡、桐原城跡、林小城跡)の一つ[1][2]

概要 

鎌倉時代、諏訪氏の一族が山家氏を称し、この地に居城を築いたと言われている。文明12年(1481年)に小笠原氏に攻められ、諏訪氏の流れをくむ山家氏は滅亡した。その後は、小笠原氏の系統である折野昌治が山家氏を称し、山家昌治となりこの地を治めた。しかし、昌治は後に武田氏に従った。

美ヶ原王ヶ鼻から西方の山辺谷に張り出した尾根先にある標高1057メートルの峯と、その先端の尾根先にある標高1000メートルの峯に構築された2つの城郭から構成されており、城跡は石垣などが現在も残る。「小笠原氏城跡」として桐原城埴原城などと共に長野県指定史跡に指定されている。

出典 

  • 信濃史学会編 『信州の山城 信濃史学会研究叢書3』 1993年

山家城の口コミ情報

2023年12月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
大和合の御殿[山家城  周辺城郭]



大和合の御殿は山家城の南南東約2.3km、薄川(すすきがわ)南岸(左岸)、標高約970mの河岸段丘台地緩斜面上平場に立地した屋敷です。該地は山辺の谷筋中にあり、現在の長野県道67号、松本和田線を東行すれば扉峠に至り、扉峠から南行すれば和田峠を経て諏訪郡下諏訪町に至る。道筋は往古から存在し諏訪郡と筑摩郡を巻きながら山越えで結んでいるが、集落も見当たらず軍勢の通過(記録が探し出せない。)も簡単には許さない厳しい道のりだったと考える。

行き方は…Googleマップに位置登録されている北方の「大和合神社」をざっくりとした目標に設定して下さい。後は…リア攻めマップを参照しましょう。周辺に目標となるものがありまてん…ちなみに松本市の城館としてはたぶん最東端に位置している。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明、「信濃の山城と館4、松本・塩尻・筑摩編」に掲載がある。史料、伝承等無く、どうやら信濃のお城の神は該地と該地周辺に残る「御殿」、「御殿入」、「御殿沢」の地字から該地を調査したようだ。近在の方への聞き込みもはっきりしなかったようで、「昔上田の方から殿様が来て住みついた。」て話と「松本の殿様が鷹狩りの時に休憩した所」ていう雑な話を聞いている。

限り無く色物物件だけど、「入山辺地区史跡・案内図」によれば、大和合の御殿との関係性不明なるも、前述の大和合神社の南側には「大和氏館跡」てのが存在するらしい。はっきり言ってこっちの方を調査して欲しかったんだけど、それならばいつの日かおいらがやってやろうじゃないの。但し、10年後位にはなると思う。

屋敷の現況は…一般住宅とその敷地等となっている。「御殿」の地字の西側には「御殿沢」が流れ、南側上段の場所が「御殿入」、信濃のお城の神は、「館跡を思わせるものは見出せないが…」とするが雰囲気だけは十分だと思う。集落の最上段に位置し水場にも事欠かない。

山辺の谷筋は有名な美ヶ原高原の西方入口にも当たる。松本平の東方山岳地帯は古くから「東山」の総称で一括されるが、高原に連なる標高2006.5mの茶臼山なんかもその一山だ。

地球が温暖期にあった縄文時代前期には高原は狩猟の場であり生活圏が及んでいたと推測される。遠い祖先は既に美ヶ原の往来があり、和田(小県郡長和町)周辺から採取した黒曜石を運び出し、それを加工した痕跡が残る場所が該地の大和合だ。基本的に縄文時代中期まで繁栄したのはこれ等山地であり、平地に人の定住が始まり繁栄するのは稲作文化の入った弥生時代を待たなければならない。

今では観光地として人々を魅了する美ヶ原だが、律令制下では武石峠、扉峠〜和田峠、保福寺峠へ通じる茶臼山山麓は交通の要衝だったと推測されている。現代人の感覚では俄かに信じられないかもしれないが、中世には高原とその周辺に幾つかの城砦が築かれている(口コミは気が向いたら。)。軍勢の通過は厳しくとも人々の往来が常態化していた事を意味する。

万延元年(西暦1860年)、加賀藩は江戸への経路として武石峠、もしくは扉峠越えの道筋を調査している。結果は芳しくなかったようだが、最短コースを選び藩財政を圧迫する参勤交代の費用を少しでも抑える事に大藩も腐心した訳だ。両峠に至るまでの経路も北アルプス越え(殆ど佐々成政ですわ…)を余儀無くされる等凄まじいものだけど、近代に入るまで人が山地を往来するのはごく当たり前の話だった。

城館を築くには意味がある。逃げ込み城は別として人の住まう場所、人の往来が無ければ城館は存在しない。皆さんの地域、地方にも中世の古い道筋(近世の街道と混同しないように。)が残る場所が必ず存在する。これ等道筋を辿って城廻りするのも新鮮で面白いかもしれない。特に新城発見の野望を持つ方は是非お試しあれ〜

※写真④は該地から山家城の方向っす。居館地としては相当な高位標高だ。

※作成途中のまま3ヶ月位放置してた口コミ…フォルダから写真を特定するのに難儀した。

2023年11月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
大島氏館(古城)[山家城  周辺城郭]



大島氏館(古城)は山家城の西南西約0.5km、薄川(すすきがわ)北岸(右岸)、標高約862mの河岸段丘台地緩斜面上平場に立地した居館です。該地は山家城の南麓であり、「古城の窪」と呼ばれる。又、此処より一つ西側の窪地は「古家の窪」と呼ばれ、徳雲寺の旧地を含んでいる。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…山家城の辛い方の登城路入口手前の一帯が該地です。

築かれた年代は不明、お住まいに成られていたのは大島氏と推測されている。「長野県町村誌」には、「中入城の麓に古城といふ所あり。口碑にいふ明応年間(西暦1492年〜1501年)小笠原の家臣大島為永居館を設け、数世居住せし処なりと。」とある。諏訪氏系山家氏の滅亡に伴い、折野氏と共に入部したものだろうか。他に大島氏の事跡は伝わらない。又、該地は「古城」と呼ばれる訳だが、諏訪氏系山家氏の居館地であった可能性もある筈だ。

居館の現況は…段の付いた一面の果樹園、付近には水の手もあり水神も祀られている。見るべきものは特に無い。収穫時期に近くを彷徨いてると通報されそうなんで急いで引き揚げた。

山家城は一般的に小笠原氏系の要害の一つとされる。縄張から見てもそれは決して間違いでは無いのだが、その発生となると全くの別物である。該地の山家郷は諏訪氏、神氏の一党、山家氏が地頭職であった。山家氏は応永七年(西暦1400年)の大塔合戦にはその名が見られず、永享十二年(西暦1440年)の結城合戦における陣中警護の輪番を定めた「結城陣番帳」には、「十七番 赤沢殿 和田殿 同名但馬守殿 山家殿 武石殿」とその名が見られる。

諏訪社上社の神長官、守矢満実が記した「神長守矢満実書留」、文明十二年(西暦1480年)庚子、神使御頭足の条には、「同(八月)十六日、仁科盛直与小笠原民部大輔長朝於穂高為合戦、長朝討勝。…此日(二十日)、小笠原民部大輔為敵、仁科、西牧、山家為同心間、民部大輔山家寄懸城櫓被責、山家孫三郎討死、口惜次第也…」とあり、小笠原長朝が穂高で仁科盛直と合戦に及んで打ち勝ち、後日、同心した諏訪氏系山家氏の山家城(「城櫓」と言っている。居館城の事ではないだろう。)が攻められ、山家孫三郎が討死(当然だが口惜しいと言っている。)している事が判る。

更には、「小笠原民部大輔長朝、山家前和泉守光家御敵参、就然山家為合力、諏方刑部大輔政満伊那郡引率、四月十九日真志野迄御門戸出、同廿三日府中御出陳、神長次男神次郎政実始出陣、十六才、然仁科、香坂当方同心、不慮ニ和田城被責、井河、山家無為儀可有、五月六日御帰陣有、」とある。小笠原長朝と山家光家が敵対し、諏訪政満が伊那衆を率いて山家に合力して府中まで出陣、次男の守屋政実(神長次男、筆者の子である。)は十六歳で初陣、然るに仁科と香坂が当方に同心し不意に和田城(筑摩郡、和田古城の事だろうか。)を攻めたので井河と山家はそのままに帰陣したと言っている。この書留は文明十三年(西暦1481年)五月のもの。よって信濃守護小笠原氏と諏訪氏系山家氏が争ったのは文明十二年から文明十三年の事であり、文明十三年以降には「諏訪御符禮之古書」に山家氏の名が見られなくなる事から、その滅亡は文明十三年の事と推測出来る。

山家城が小笠原氏の改修、拡張を受けている事は間違い無い事だと考えるけど、正直、諏訪氏系山家氏の滅亡後に熱心に普請する必要も無い地域だとも思う。桐原城についてもそうだが、小笠原氏の本拠、林城に近過ぎる(支城としては巨大に過ぎるし、被官衆の要害としても破格だ。喫緊時には籠城衆の分散も招く。熱心に普請する理由が希薄だ。)のだ。存外、諏訪氏系山家氏の時代には縄張の基本形は備わっていたのかもしれない。

※写真①が「古城の窪」、当たり前だが窪地である。

2023年11月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
山家氏館(折野氏館・内城)[山家城  周辺城郭]



さて、同一地域内の物件を集中して口コミするのは手間が省けて凄く楽なんだけど、こうも続けると流石に飽きるわ…これからは気分次第で別地域の物件も混ぜ込んでいく事にする。

山家氏館(折野氏館・内城)は山家城の西方約0.8km、薄川(すすきがわ)北岸(右岸)、標高約807mの河岸段丘台地緩斜面上平場に立地した居館です。該地は山家城の西麓であり、周辺には「上手町」、「三反田」「竹の下」の字地名が残る。「竹」は「館」が転じたものかもしれない。又、少し離れた場所には「厩所」の字地名が残っていたりもする。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。「徳運寺」でもOK♪っす。

徳運寺は徳雲寺が改称したもの。元弘元年(西暦1331年)に山家郷の地頭職、山家為頼によって開基(開山は諏訪郡、慈雲寺の住僧、幸村梅安、当時高名だったんだそう。)されたが衰退、永正年間(西暦1504年〜1521年)には折野氏が中興したが、天正十年(西暦1582年)に同氏が滅ぶと廃絶した。文禄年間(西暦1592〜1596年)に寺地は山家氏館の旧地に移り再興、現在に至る。山号は福田山、水堀なんかもあったりする雰囲気の良い曹洞宗の寺院だ。

築かれた年代は不明、お住まいに成られていた方は折野氏と推測されている。同氏は明応年間(西暦1492年〜1501年)に薩摩守昌治が播磨姫路から来住し府中小笠原氏の被官となったんだそう。当地への入部は諏訪氏系山家氏の滅亡後であり、折野氏も後には山家氏を称した。よって山家氏には2系統が存在する。

山家(折野)氏は武田氏の勢力が府中に及ぶとこれに出仕、天文二十年(西暦1552年)、アプリの登録城である平瀬城攻めに際しては山家左馬冘が小笠原氏被官、平瀬八郎左衛門を捕らえる等功を挙げ、武田晴信から感状を得ている。又、別の活動についても文書で確認できる。

元亀三年(西暦1572年)十二月廿七日、武田勝頼は遠江二俣城に在城する「三浦右馬助、小山田六左衛門、小原宮内丞、其外在番衆」に宛てて以下の条目を定める朱印状を発給している。即ち、「条目 一 其城用心普請等、不捨晝夜煎之事 付、忍之用心専可被申付之事 一 向諏方原出伏兵、稼不可有由断候事 一 其地為番替山家并駿州衆一両人指越候、為着城者、小山田六左衛門尉片時も早速帰参之事」とあり、二俣城の用心普請を昼夜分かたず世話を焼き、忍びの用心も一途に申し付けるよう指図、諏訪原に向けて伏勢を出して油断せぬよう促し、更には番替えに山家(藤九郎昌矩か。)と駿河衆の一人を送るので両人が到着したら小山田六左衛門尉は速やかに帰参するよう申し付けている。「山家」はこの時期、二俣城の城番衆の一人であった訳だ。それにしても簡潔ながら当時の緊張感が伝わる情報量の多い書状、二俣城に武田氏の手が加わっている事、諏訪原がこの時期、依然徳川氏の勢力下にあった事も窺える。勝頼ありがとう。

天正五年(西暦1577年)七月九日、近松齋(山家昌實)宛武田勝頼宛行状案によると、嫡子の藤九郎(昌矩)が「長篠の戦い」において討死している事が判り、近松齋には隠居分として中河原郷の二百貫文九百文が宛行われている。又、同日付の山家左馬允宛武田勝頼安堵状案によると、山家左馬冘は養父(近松齋)の訴えに任せて桐原郷の千貫文を安堵された他、今後は直参として奉公、武具等厳重に備えるよう申し付けられている。勝頼はこの時期、「長篠の戦い」における遺児等に宛行状、安堵状等を連発しているが、被官衆の再編成を図る事は領国経営の安定化にも連なる喫緊の課題であり、これ等はその下地となるものである。

居館の現況は立派なお寺さん、寺院とその敷地等となっている。但し、あくまで印象に過ぎないが寺院の敷地がそのまま居館跡の敷地を踏襲しているとも思えない。遺構は消滅しているが、堀跡を想起させる狭小な空地が境内の西側を南北に横断していたりもする。又、居館地北側背後の山尾根は山家城への登城路の一つだ。

実は4回目の訪問、山家城登城の前進基地でもあるので駐車場は毎回利用させてもらっていた。該地が居館跡だったのは知っていたんだけどまともにお寺さんの中に入ったのは今回が初めて、逆に酷暑だったので素晴らし過ぎる山家城(信濃の山城ベスト5には誰もが選ぶだろう。)のリア攻めはなし。汗だくでぼろぼろになるわ…

※写真①、背景の山稜が山家城、楽しいけど隅々まで探索すると半日以上は必要だ。

2023年09月30日 らっちゃん
駐車場[山家城  駐車場]



二躯のハイエースでは上れませんでした。また、入口に2016年より通行不能、徳運寺のお墓経由でとの案内があるので要注意。

2023年01月14日 もと右近衛中将
山家城



少し険しい山道も素晴らしい石垣の登場に疲れも吹き飛ぶ、そんな魅力的な石垣でした!

2022年07月28日 RED副将軍
宮原城[山家城  周辺城郭]



小規模ながら尾根筋を深い堀切で分断。
特に主郭背後の三重堀切は素晴らしいです✨

オススメ度 ★★★★⭐︎

築城年代等の詳細不明。
山家城から薄川を挟んだ対岸に位置し、山家城を居城とした折野山辺氏の支城と考えられています。

見所
まず登城し始めてしばらくすると、山麓居館跡と思われる削平地に辿り着き、石積み遺構も確認できます。
かなりの斜度を直登すると北端の堀切に到達します。最高所の主郭手前も堀切で分断。
主郭背後は土塁で固め、更に三重の堀切で分断
されており一番の見所。堀切の両端は竪堀として深く刻まれ落ちています。
主郭周辺にも崩落した石積みが認められます。

行き方は、Googleマップにも地点登録があります。城域北側の住宅地に登城口の案内板があり、車も一台程度なら駐車可能なスペースがあります。
主郭まで迷うことは無いと思いますが登山道はあまり整備されておらず直登に近いです。20分くらいで辿り着きました。

2020年03月17日 RED副将軍
山家城



信濃国守護の小笠原氏 一族の居城。
県指定史跡「小笠原氏城跡」を構成する山城群のひとつ。

オススメ度 ★★★★★

鎌倉時代、諏訪氏の一族が山家氏を称し居城を築いたと伝わります。
1481年に信濃守護の小笠原氏による侵攻で諏訪氏の流れをくむ山家氏は滅亡しました。
その後は、小笠原氏の一族である折野昌治が山家氏を名乗り居城としました。

見所
主郭東側の石積み 。高さ3mと周辺の中世城郭に残る石積みの中で最も高く、400年以上も孕みが無く現存しています。
主郭背後には巨大な堀切が5連続で続き、左右も長大な竪堀となり落ちています。
雪の中、撮影の1分前に滑り落ちたのは秘密の話。

徳運寺の駐車場をお借りして墓地の裏手より登城しました。
登山道は写真の通り、一本尾根を縦走していく感じです。
当日は積雪があり非常に足場が悪く、倒木もあり、駐車場から主郭まで45分程度かかりました。正規のルートが分からず、下りも急な傾斜は足元が滑り時間がかかりました。
しっかりとした登山靴が必要です。
連続堀切と主郭付近の石垣、大きな竪堀は圧巻です。しっかりと遺構を見るのなら3〜4時間程度は必要です。

2019年12月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
宮原城[山家城  周辺城郭]



宮原城は山家城の西南約1.5km、薄川の南岸、詫沢に沿って北東へ延びる山塊尾根上、標高約890mのピークの一つに主郭が存します。北東麓からの比高は110m位でしょか。山家城登城の際の目標の一つである徳雲寺(山家氏の居館跡に立地する。)から0.8km、山家城の事実上の支城として機能していたようです。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。北東麓には少し判り難いですが案内板も立っています。

築城年代、築城者は不明ですが、小笠原系山家氏と推測されているようです。お城は一本尾根上を利用して築かれていてとてもコンパクトですが、尾根上にこれでもかと段郭を施し、主郭南西側山側に土塁、その背後に三重の堀切を設ける等、小笠原ブランドの縄張がキュッと凝縮されたお城です。

案内板から尾根東側直下に辿り着くまでが結構謎でして、所々に土留めの石積みが施された削平地が何段も続きます。後世のものだと思いますが、北斜面に畑は作らないし根古屋ぽい雰囲気もあるのでまぁ謎のままにしときましょう。

尾根東側直下に到着すると尾根斜面の中腹に別の案内板が見えるのですが辿り着ける道が無い…結果として尾根上まで直登するのですが、木が必要以上に間伐されている上に落ち葉で溢れ返り、急斜面を文字通り土を掴みながら登るはめに…でも尾根上に出れば勝利です!主郭までに2条の堀切+竪堀が明瞭に残ってますし、段郭の段々感を主郭から眺める事が出来たりなんかもします。主郭南西側山側背後の三重堀切は言わずもなが、更に小郭を挟んで1条の堀切+竪堀でお城はフェードアウトします。

自分は山家城リア攻め後のデザート感覚で訪ねましたが、ただのデザートには終わりません。尾根上に展開する土のぽこぽこ感が実に素晴らしい。山家城から距離も近いので皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

2019年06月24日 はとまめ
山家城

ルートは2つありますが2019年6月現在、徳運寺裏からのルートの方が道がしっかりしており登りやすいです。

どちらの入口も獣避けの柵を開けて入山します。徳運寺後ろの柵を開けると木に傷がしっかりあってびっくりしますがこれは鹿の角研ぎ跡だと思います。ただ途中で気になるフンもあったので念のため熊避けは必要だと思います。

途中で道が少し不安になる場所がありますが小さな案内板がありました。急な山道を登りますが、石垣や堀切など素晴らしい遺構に出会えてとても楽しい山城です。

縄張り図はネット等にもあるので確認してからいってください。私は徳運寺から入ったのになぜか帰りは上手町の方の入口に下りてきてしまいました。そちらは登る人が少ないようで枯れ葉が多く積もっていたり、倒木もありました。


2019年05月07日 龍馬備中守【感謝】
山家城



主郭群の石塁☆平に積まれた石塁は圧巻☆小笠原氏に攻められ山家氏は滅亡☆

2019年05月07日 龍馬備中守【感謝】
山家城



主郭背後の五重堀切の一本☆鋭い堀切が敵兵の足を止める☆小笠原氏城跡を構成する山城群の一つ☆

2019年05月07日 龍馬備中守【感謝】
山家城



主郭背後の五重堀切の横から☆写真には二本しか入らず☆戦国期に生きた城主・山家氏の居城☆

2019年04月30日 龍馬備中守【感謝】
山家城



主郭・南東部に築かれた石積み☆標高1056mに築かれた戦国の山城☆小笠原氏城跡の一つ☆

2019年04月07日 ⛫武蔵の謙
山家城

2019年4月の時点で上手町からの登城路は倒木の為、立ち入り出来ないようです。
案内板はありませんが、徳運寺の墓地の通路から登城できます。そのまま登ると獣避けの柵の所にたどり着けます。柵は開閉できます。縄張り図を準備して登城しないと、迷う恐れがあります。

2016年05月06日 大隅守
山家城

昨日行ったのですが
登山道が倒木で通れず泣く泣く
山の斜面を直登しました。
けど 登る価値ありです。

2015年11月25日 カーネル
山家城

最寄のバス停である大手橋バス停は土日運休。なので次に近い(と思われる)舟付橋バス停へ松本駅からバスで移動し、下車後に東にある徳雲時を目指しました

徳運寺からさらに東に行くと、かすれた文字で山家城跡へ。の小さめの木の標識があります。これは帰りに発見しました
そんな登山口があるのを知らず、寺の真裏から直登して尾根に取り付き、尾根を東へ進むと大きな堀を2つ越え、さらに進むと登山道と合流します。登山道と合流するまでは、尾根を外さなければ迷わず歩けます

登山道を進み本丸を経て秋葉神社へ。秋葉神社の奥の堀まで行って引き返し、帰りは登山道から降りました
汗で上半身がビショビショ。小雨だったので傘を差してたのに、傘で隠れている部分が一番濡れていた・・・

お城は端から端まで歩くと広いですが、見どころ満載で飽きないです。
登山口に降りたのは、道に迷ったのも含めて、バスを降りて2時間ちょいでした

歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです


2011年12月08日 赤いRVR甲斐守@松本
山家城

徳運寺裏手から尾根伝いに行くのが本来の登城路ですが、現在は分かりづらいので、上手町(わでまち)裏手まで急坂を進むと、ちょっとした駐車スペースがあり、そこから20分位で主郭にたどり着きます。高さ2程の石垣が残る主郭と、その背後には多重堀切があり、見事の一言。さらに奥にも、秋葉神社のある郭があり、古い主郭とも考えられています。さらに奥にも遺構がありますが、熊のひっかき傷などもあるので、一人登城は要注意です。規模の大きな山城で、必ず満足できると思います。

山家城の周辺スポット情報

 堀切(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 宮原城(周辺城郭)

 大島氏館(古城)(周辺城郭)

 山家氏館(折野氏館・内城)(周辺城郭)

 大和合の御殿(周辺城郭)

 徳運寺(寺社・史跡)

 白山大権現お社(寺社・史跡)

 駐車場(駐車場)

 徳運寺駐車場(駐車場)

 獣避け柵(徳運寺からのルート入口)(その他)

 鳥獣害対策柵(その他)

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