山吹城(やまぶきじょう)
山吹城の基本情報
通称・別名
- 山吹城[山吹大城(おおじょう、萩倉要害、隠れ城)・山吹小城(こじょう)]
所在地
- 長野県諏訪郡下諏訪町東町上他(地図は山吹大城を示す)
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 金刺氏[すべて]
築城年
- 室町時代?[すべて]
主な改修者
- -
主な城主
- 金刺氏[すべて]
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)[すべて]、石垣[山吹大城]
指定文化財
- -
再建造物
- 碑、説明板[すべて]
周辺の城
-
花岡城(長野県岡谷市)[5.6km]
高島城(長野県諏訪市)[6.0km]
有賀城(長野県諏訪市)[8.3km]
諏訪氏城館(長野県茅野市)[10.5km]
朝倉山城(長野県茅野市)[12.4km]
埴原城(長野県松本市)[12.8km]
山家城(長野県松本市)[15.0km]
林城(長野県松本市)[16.5km]
桐原城(長野県松本市)[17.2km]
藤沢城(長野県伊那市)[18.2km]
山吹城の解説文
山吹城の口コミ情報
2025年03月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
香炉の岩物見[山吹城 周辺城郭]
さて、基本的においらはソロめぐら〜、色物物件や謎物件、びっくり物件だけを廻る事も多いので自分から他人を誘う事は殆ど無いのら。大体にしてそんな物件に付き合う阿保もそうはいないだろう。が、今回紹介するびっくり物件にはなんと城友さんが頑張って付いて来てくれたっ!おいらのリア攻めがどんなもんなんかがバレて少し恥ずかしいけど、彼女もきっと立派な阿保なんだろう…
香炉の岩物見は山吹城の北北東約4.3km、砥川東岸(左岸)、諏訪湖の北方山塊を構成する一山、標高1414mの山稜山頂から南西へ伸びる尾根端部の南東側斜面、標高約1115m地点の岩場上に立地したと推測される物見台です。東麓の国道142号からの比高は45m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。位置登録したのは遠州の城友さん、彼もやはり相当な阿保だ。ちなみに車は国道脇の退避場に捨てられる。登城?は駐車場所から眼前に迫る山尾根の斜面を適当な場所を選んで適当直登する。結構なガレ場の急斜面なんで殆どは四足歩行を強いられる筈…登る比高は大した事無いので頑張ろう。
築城年代、築城者は不明…てか特に何かを普請した訳でもないだろうし、その年代を特定する事に意味なんか一つも無い。敢えて言うならば利用したのは諏訪郡に拠った勢力て事になるだろう。
物見台としては適地である。該地は現在の国道へ向けて張り出す狭小な崖地上の岩場だが、往時、眼下にあったのは中世の和田峠道、近世の中山道であり、小県郡から諏訪郡への通行を見張る番所的な物見の場としては極めて有効なのだ。周辺の樋橋は、元治元年(西暦1864年)十月二十日、上洛する武田耕雲斎が引率する尊皇攘夷派の水戸浪士、謂わゆる天狗党と、高島、松本両藩の軍勢が合戦(和田嶺合戦)に及んだ場所である。
物見台の現況は…三方を岩盤層が露出する垂直の崖地とした狭小な岩場、人工の跡は見られず物見台てよりは地形をフル活用した物見の場と言った方がしっくりとする。但し、往時から何かと目に付く特別な場所であった事は想像に難くない。びっくりする事に崖地上には摩利支天像の石板が置かれているのだ。一体誰が何の為に残したのかは知らんけど、ここ数十年の間でこれを見た人間は、信濃のお城の神とおいら、遠州と駿州の城友さんの4人だけだと思う。ちなみに此処から落ちたら死ぬ確率は70%位、頭から落下でもしない限り即死も難しいのでかなり苦しむ筈…
「香炉」は「ゴーロ」、即ち、石が散乱している場所を意味するんだそう。確かに崖下の斜面には崩落石が散乱しちょる。ちなみに「信濃の山城と館6、諏訪・下伊那編」をしっかりと読んでみたら、該地は信濃のお城の神が和田峠道に狼煙台や物見台の適地を求めて問題提起してみた単なる場所に過ぎない…つまりはびっくり物件である以前に色物物件でもある訳だ…それでもおいらは楽しかったぜ、誰も見向きもしないような崖の上を確かめる事が出来たしね。
今後、国道142号を走る際には…
かずり 「あの岩場の崖の上には摩利支天像の石板が置いてあるんだよ。知らなかったでしょ。」
美女1 「えっ、あんな所に…あなたてどんな場所でも登ってしまうのね!好奇心が旺盛な色男、ますます素敵に見えるわ!」
美女2 「趣味のためならどんな事でも厭わない。あなたこそ本当の男前だわ。美顔と抜群のスタイルだけで勝負している訳じゃないのね!」
美女3 「バレンタインデーのために毎年冷蔵倉庫を新造するだけの事はあるわ!世紀のエターナル美少年が世代を超えて受け入れられるのにはちゃんとした理由があるのね!」
〜以下永遠に讃辞が続く〜
2025年02月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
高木城[山吹城 周辺城郭]
高木城は山吹城の南南東約2.6km、諏訪湖北岸、諏訪湖の北方前衛山塊を構成する一山、標高約904mの山陵山頂から南西へ伸びる尾根上段上、標高約875m地点の平場を中心に立地する要害です。南麓の諏訪湖湖面上からの比高は115m位でしょか。
諏訪湖の北方前衛山塊が最も湖に近付く場所であり、往時の湖の大きさから判断すれば、山麓が湖東地域と湖北地域を結ぶボトルネックを形成していた事に間違いは無い。南麓には東西に旧甲州街道が通っている。中世の道筋は更に上段に付いていたのかもしれない。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車でのアプローチは山稜東方からとなるので、同じく位置登録がある「高木のしだれ桜」を目標に設定するとよい。この桜を越えて登り詰めれば、送電線の鉄塔用保安道が付いているのでこれを徒歩で登る。保安道の手前には車も捨てられるだろう。ちなみにこの桜、元和元年(西暦1615年)、高島藩藩主、諏訪頼水の子、忠恒が、同年に行われた「大坂夏の陣」に出陣、その帰藩の際に持ち帰った苗木を藩士に分けたものが育った桜らしい。諏訪郡下諏訪町の指定文化財にして天然記念物だ。
築城年代は不明、築城者は高木氏が推測されており同氏の詰城とも。高木氏は諏訪社下社の大祝、金刺氏の一族、当然、神氏の一党でもあり、該地の南東麓、同じ山吹城のリア攻めマップにある殿村館に居していたと推測されている。同氏については別の機会に譲る。
送電線の鉄塔用保安道を登り詰めれば主郭に自然と辿り着く。何故なら主郭には鉄塔が建っているから…我儘なめぐら〜達よ、許してあげましょうよ。インフラが無ければ困るのは地域の方だしね。戦後昭和初期の開発行為はそんな事考える余裕も無かったのさ。ちなみに遺構自体の損壊は無いに等しいと思う。
縄張は主郭と副郭で構成されており、縄張図における通称二の曲輪の北側下段には雛壇状の腰郭が付く。此処が「駒隠し」と呼ばれる場所なんだろうか。城郭遺構としては、主郭に土塁(殆ど確認不能だ。)、主郭西側〜南側谷側の斜面に4条の竪堀と1条の竪土塁が残る。但し、はっきり言って確実にそうだと言えるのはこの内の2条の竪堀ぐらい。残りの遺構を確認するのは素人にはとても無理な話、難し過ぎるよ…
詰城でもよいと思われるが、山頂部を外した見通しの良い場所に占地されている事から狼煙台や物見台の類いであろうか。展望はすこぶる良い。ちなみに削平された主郭部は冬場なら山麓からでも確認出来る。小品とはいえ探索は十分楽しめた。
※車を捨てて徒歩で登る比高は70m位、走れば5分で城域に入る好物件だ。ちなみに山麓の何処からでも直登出来ると思うさ。
※狼煙台としての利用は武田氏時代にも続けられていたと思われる。Googleマップの航空写真、地形模型図等で位置を確認してみるとよい。あらゆる意味で重要な場所である。
※湖東地域と湖北地域を結ぶボトルネック〜概ねで湖東には諏訪社上社、湖北には諏訪社下社が拠った。両社は文安六年(西暦1449年)に直接争い、以降、下社は常に劣勢だった。
※「高木のしだれ桜」〜同じ山吹城のリア攻めマップにスポット登録して写真だけ置いておく。
※写真①は東麓から撮影した近景っす。お城は見えていないけど…ちなみにソーラーパネルてあらゆる意味で大問題だと思うさ。物事には表と裏がある…色々と調べてみようよ。少なくともこんな里山の風景は誰も求めていない。
※写真⑧は鉄塔マニアに捧げやす。
2025年02月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
大和城(大城)[山吹城 周辺城郭]
大和城(大城)は山吹城の南東約3.6km、標高1355mの大見山から南西へ伸びる尾根中段上、標高約1154mの小ピークに立地する砦か狼煙台や物見台の類いです。南東麓の諏訪湖湖面上からの比高は395m位でしょか。ちなみに「大和」は「おわ」と読ませる。又、名称にあっては混同を避けるため以下文中では大城と呼称する。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…なんだけど、そのままじゃ行けないので以下を参照して下さい。
同じ山吹城のリア攻めマップにある大和城の口コミを参照して大和城まで気合を入れて登り、リア攻めを終えたら後背尾根筋を死ぬ気で登ってくらさい。道は付いていないけど迷う事はありまてん…一度の行程で山城2件を制覇出来ると思えば気も楽かな。ちなみに行き方は別に2ルートあるんだけど、そっちを選ぶ奴はめぐら〜的に救いようの無い阿保だ。
大城は同一山尾根末端部上に立地する大和城の詰の城だと推測されている。但し、現況を見る限りでは詰城としての要件を満たしていないのではないかと考える。はっきり言って殆ど地山の小ピークにはそれなりの人数が詰められないのだ。同一尾根上に詰の城、逃げ込み城が存在するとすれば、標高1120.1mの大和山山頂部の方が削平された感もあり遥かにそれらしい。
築城年代は不明、築城者は大和城に準じて諏訪社下社の大祝、金刺氏の一族、大和氏が推測されている。ちなみに未見だが、享保十八年(西暦1733年)の「諏訪藩主手元絵図」には大城の位置と思しき場所に堀が描かれているんだそう。高島藩藩主も「なんすかこり?」とか下問した筈…
お城の現況は山尾根上の岩場を有する小ピーク、前述したとおり削平も無く殆ど地山、尾根筋自体も此処でほぼ直角に曲がる。城郭遺構としては2条の堀切、だいぶ埋まり気味とはいえ少なくとも山尾根に人工の跡だけは見て取れる。期待していた展望は諏訪湖湖畔と離れ過ぎでいてあんまし…狼煙を上げるにも高所に過ぎるし、番所的な砦と見た方が無難かもしれない。
そりにしても、久々に気持ちが折れそうになったわ…標高1100mを超えた山尾根上の寒さは想像以上、通常のリア攻め装備に防寒対策を少し+しただけのおいらにとっては厳し過ぎた。諏訪湖の畔で2℃だった気温も該地ではぐっと下がって−6℃、しかも両側遮るものが無いので強めの冷風がもろに身体を突き抜ける。居ても立っても居られない状態とは正にこの事…おまけに手指が悴んでしまいカメラのシャッターボタン半押しがまともに出来なくなる…めぐら〜て本当に阿保な生き物っすね。
※本城とされる大和城は紹介例も多いんだけど、大城の方は皆無だったんで頑張ってみた。
※信濃のお城の神は城域の範囲に複数の捉え方を提言しているが、2条の堀切に挟まれた山尾根上の小ピークを主郭と判断した。
※尾根筋は藪も殆ど無く夏場でもすっきりとしている筈…逆に送電線の鉄塔周囲の方が薄で藪っている。又、該地は大和山山頂部後背上段の小ピークなので注意が必要、登山系アプリ等でお城の正確な位置を把握しておいた方がよい。頑張って登って実は間違っていましたじゃ話にもならない。イージー物件とは訳が違うのだ。
※標高1120.1mの大和山山頂部〜現況を見る限り逃げ込み城だと思うのだが…むしろ大城は大和城に付随するものではなく、これに付随する砦であったと考えたい。もしくは大和山山頂部自体が大城であったとも言えるだろう。
※下社の大祝、金刺氏〜諏訪大社(上社の前宮、本宮、下社の秋宮、春宮の四社を纏めて言う。)に大祝は存在しないので注意が必要、諏訪大社の成り立ちと上社と下社の関係性を理解すべし。そもそも論で祭祀も神事も別に行われていた。
※写真⑧は大和山山頂部を撮影したもの。
2025年02月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
大和城[山吹城 周辺城郭]
大和城は山吹城の南東約3.7km、諏訪湖東岸、標高1355mの大見山から南西へ伸びる尾根末端部上、標高940mの小ピークを中心に立地する要害です。南東麓の諏訪湖湖面上からの比高は180m位でしょか。ちなみに「大和」は「おわ」と読ませる。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…なんだけど、そのままじゃ行けないので以下を参照して下さい。
まず、Googleマップに位置登録されている南西麓の共同住宅、「Sanriz プレース浜沢」を目標に設定して下さい。この共同住宅を左手に見ながら舗装道路を登り詰めるとT字路にぶつかるので左へ進み、「御射宮司社跡」と呼ばれる史跡まで登る。社跡の西側には雨明沢(大和沢)が南北に流れており、お山へ取り付く荒れまくった山道が沢沿いに付いている。但し、少なくとも山尾根に上がる部分においては既に道自体が崩落、下段から元の道筋を判別する事が非常に難しい。よって、砂防ダムにぶつかる手前、砂防指定地を区切って示す、標柱1号を目印にしてよじ登るのがよいかと思われるが、尾根に上がっても道形は殆ど消失しており、残りの道程は全て踏み跡程度を辿る事になる。殆ど急登の直登を覚悟しておいた方が気が楽だろう。
築城年代は不明、築城者は諏訪社下社の大祝、金刺氏の一族、大和氏です。城主としては大和監物の名が伝わるが、監物の受領名は大和氏代々の名乗りとされるので時代や個人を特定する事は出来ない。ちなみに本来は一体である筈の諏訪社の上社と下社だが、文安六年(西暦1449年)、府中小笠原氏を後ろ盾とした下社は上社と合戦に及び社殿を焼き払われている。大和城の発生は、文安年間(西暦1444年〜1449年)、もしくはその前後に当たる時期が妥当だと思われる。
お城は殆ど単郭の縄張でありコンパクトだが、主郭周りには帯郭状の腰郭を多段に連ねている。但し、該地とその周辺は後世、かなりの上段まで耕作、もしくは植林場として整備されていたようなので、段郭様地形の何処までが城郭遺構なのかの判別が出来ない。主郭には削れているとはいえ土塁、主郭縁の一部には石列が付き、主郭の北東側山側背後には連続堀切を尾根筋に穿つ。この堀切間には導線を狭めるためなのか片落としの連続竪堀を入れている。縄張は更に2条の堀切を+してフェードアウトするが、この堀切間の北側斜面に付く1条の竪堀は結構な代物だ。又、虎口を構成していると思しき段郭の切岸の部分には土留めの石積みも確認出来る。
諏訪の山城あるあるとして多段の段郭様地形問題がある。前述したとおり、後世の改変との判別が極めて難しいのだ。現行の縄張図は確実なものとは言い切れず、むしろ常に修正を求められる側にある。アプリの登録城に昇格?した山吹城はその典型、特に東向き、南向きの斜面で顕著となる。凄く悩ましいんだよなぁ…何回見てもよく判らない。
明治二十一年(西暦1888年)、諏訪湖湖南地域に当たる真志野の最高耕地所有は、龍雲寺の六町四反二畝であったが、明治九年(西暦1876年)における同寺の耕地所有は一町八反に過ぎなかった。僅かな期間にも拘らず、耕地面積に飛躍的増加が見られるのは、所有山林を荒地でも耕作出来る桑畑に開墾した事がその理由だと推測されており、乏水地である山地の高所まで開墾の手が及んだ事は容易に想像出来る。明治期の養蚕業、製糸業は富国強兵に突き進む日本の経済力を外貨獲得によって下支えしたが、現代に生きる変態達を今も悩ませ続けている。
※登城路の説明が細かくなったが、それでも誰もが同じルートで登れるとはとても言い難い。兎に角、正解は無いに等しいので無理矢理にでも登ろう。→なんて言い草…
※南西麓の共同住宅、「Sanriz プレース浜沢」〜「殿屋敷」の字地名を残す。一帯は大和氏の居館跡、同じ山吹城のリア攻めマップにある大和殿屋敷館である。
※「御射宮司社跡」〜Googleマップに位置登録されていないのでリア攻めマップにスポット登録して写真だけ置いておく。ちなみに「御射宮司」は「ミシャグジ」であり、諏訪地域とその周辺に祀られる神霊、精霊の総称である。中世から近世にかけての諏訪社上社の神事においては欠かせない存在であった。
※「御射宮司社跡」と呼ばれる史跡まで登る〜登る道は鎌倉道の古道だ。
2025年02月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
木曽義仲のやぐら(矢倉)[山吹城 寺社・史跡]
⭐︎⭐︎「義仲・巴の〜伝承、伝説地探訪!」⭐︎⭐︎
帰って来たかずりの自己満足口コミシリーズ、おいらの推し武将である木曽義仲関連の伝承、伝説地を丁寧に御紹介〜ちなみに全国約600箇所に及ぶので終わるまで付き合ってもらいやす…
木曽義仲のやぐら(矢倉)は山吹城の南方約1.4km、同じ山吹城のリア攻めマップにある桜城の城山、南西斜面中腹に掘られた矢倉です。但し、皆が想像する櫓ではなく、ただの蔵なんで悪しからず…
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は城山南麓の公民館、「城の腰館」(!)に捨てられる。判り難い山道を登るが、熱狂的義仲様ファンのおいらは暖かい淡い光に包まれて導かれる様に辿り着いている。
面倒なんで現地説明板をフルコピしてどんなもんなんかを説明しよう。
「木曽義仲(幼名 駒王丸)は二歳の時、父義賢はその兄義朝との争いで義朝の子義平に殺された。義朝は後難を恐れ、駒王丸も殺すよう畠山重能に命じたが、重能はわずか二歳の幼児を殺すにしのびず武蔵の住人斎藤別当実盛に預けた。実盛は東国に置いては危ないと駒王丸の乳母の夫中原兼遠に託した。中原兼遠は中三権守とも呼ばれ、諏訪大社下社の神官でもあり木曽出身であった。母小枝とともに下社の地にかくまわれたというが、この地も危険と木曽へ移された。ここは下社大祝の山城桜ヶ城の中腹にあたる。その言い伝からここに矢倉(武器を納めておく蔵)を築いた。幼い日の義仲はこのあたりを駆け回って育ち、秋宮の森からこの桜ヶ城への道すじがいちばんの遊び場だったであろう。誰が名付けたかこの坂道を駒王坂という。」
…愛があり過ぎて困っちゃうんだけど、挙兵以前の事跡が全く不明な義仲の幼少期を語られても何だかねぇ…て感じ。諏訪社に伝わった伝承なんだろうけど、事実としては到底受け入れ難いものがある。但し、別の伝承によれば、下社の宮司、金刺盛澄に一時期預けられて修行したとも伝わり、諏訪社と義仲の関係性を無下に否定する事も出来ないだろう。金刺盛澄、その舎弟、光盛は義仲挙兵当時からの腹心であり、そうした経緯には、以前から上記事柄のような何かしらの繋がりを両者の間で共有していたから…等と考えてみても決して飛躍ではないと思う。
矢倉の現況は…前述したとおり、桜城の城山、南西斜面中腹に掘られた横穴状の小さな穴蔵となっている。が、本当なんか…こり…矢倉なら郭内に設けなければ全く意味が無いんじゃ…むしろ寄せ手に矢玉を給する事にもなりかねん。後世、何か別の目的で掘られたものだと思うんだけど…ちなみに「この中へは入らないで下さい。」て注意書きの看板が立っている。頼まれても入らないんで安心してつかぁさい。
駒王坂の位置が不明、矢倉に至る手前の山道を指して言うのかな。ひょとしたら幼少期の義仲様が駆け上がった坂なんだろうけど、桜城の大手筋とは異なるようだ。熱狂的な義仲様ファンには、駒王坂を匍匐前進で登り、真冬の矢倉の中の一夜を御嶽山Tシャツ1枚で過ごし、頼朝、範頼、義経への恨み節を朝日を見るまで唱え続ける…てのが慣例とされているんだけど、あの注意書きさえ無かったらなぁ…残念無念のかずりであった。
※付近には矢竹が群生している。
※「諏方大明神画詞」によれば、金刺盛澄は義仲を婿としたとする。
※中原兼遠は中三権守とも呼ばれ、諏訪大社下社の神官でもあり〜兼遠が神官であった事に確証は無い。
※金刺盛澄、その舎弟、光盛〜義仲の恩人である斎藤別当実盛と組み討ちして首級を挙げたのは金刺(手塚)太郎光盛である。場面は「平家物語」のハイライトの一つだ。
2024年11月03日 ほりーないと
山吹城
2024年4月6日から名称と位置が変更した山吹城に初登城しました。先人様の口コミのおかげで迷うことなく登城口に辿り着くことができました。ありがとうございます。
山吹城へ向かうには諏訪大社下社の前を通ります。下諏訪岡谷バイパス開通前、諏訪大社下社の目の前を通り、和田峠(新和田トンネル)を越え、東信地方(上田など)へ行ったことを思い出しました。
説明板には「山吹城は諏訪大社下社の大祝であった金刺氏によって築かれた城とされている」と書かれています。和田峠は中山道の峠です。諏訪大社下社の門前町でもある下諏訪宿は"中山道甲州道中合流之地"です。交通の要衝であることがよくわかります。
登城口の案内板は小さいので見落としにご注意下さい(写真④)。入ってすぐに説明板と案内板があります(写真⑤)。ここから先については先人様の口コミをお読み下さい。
小城(写真①〜③)は登城口からすぐに到着し、負担なくリア攻めできます。大城(写真⑥〜⑧)にはスマホ電波の悪い所があります。増水時の小川越えは止めた方がよさそうです。整備されているので歩きやすかったです。
2024年04月17日 aruu
山吹城
①山吹城(小城)
★徒歩★
•諏訪湖側国道20号から142号に入り突き当り諏訪大社下社秋宮を左方向へ道なりに進むと右側に慈雲寺が現れる。
慈雲寺建物終わりで右上方向に登る小道をあがるとすぐ小さな分岐点があり、左側に水月公園、右側に水月公園駐車場があります。ここに車を止め上方向奥に見える下諏訪清掃センター目指して歩きます。清掃センター関連建物のちょうど終わり部分対面左側に斜め上方向へ登る小道があり、登るとすぐに城説明板と小城、大城への方向板が建っており、左側へ2〜3分で小城現着。
山吹城(大城)
★徒歩★
•①の方向板右側を(幅狭、左側急斜面の少し注意が必要な小道を途中特に要注意な足場悪な小川超え)で20分〜30分、小城から500m位で現着。
★車★
•清掃センターをさらに登ってくと2差路があり左側の林道萩倉線表示方向へ入り、数えて4つ目のカーブミラーの場所にスペースがあるのでそこに車を駐車。そこから左側に分け入れば5分〜10分で大城主郭、各曲輪へたどり着けます。
2022年05月11日 ️…
山吹城
山吹小城とは打って変わって至るところ段曲輪🎎だらけの城です
が、戦前は主郭を除き全山耕作🌾されていたとのことであり、どこまでが純粋な遺構であるのか判然としません🤷♂️
特に、北曲輪の西側にある出曲輪から北に続く段々は降りて行く度にデジャヴ現象🙄が起こるほど続いています
また、北曲輪の南に続く三日月型🌙の段々も曲線美に萌えること請け合いです🥰
解説板には宮坂御大🧐の縄張り図が掲載されており、御大も5段程度は遺構として取り扱っておられるようですので、その部分だけでも楽しんでみてはいかがでしょうか❓😚
中世の守備力増強💪のための曲輪普請と後世の食糧確保のための耕作🌾はどちらも必死さで負けてないだけに、たどり着く削平地も似てしまうのかもしれませんね🤔
山吹小城から歩いて🚶♂️向かいましたが、同城の駐車スペース🅿️から林道を更に北上したところにあるカーブミラー付近の路肩が広くなっているため、そこに駐車すればすぐに城域に突入することができます😊
〜以下、現地解説板より〜
山吹城跡
山吹城は諏訪大社下社の大祝であった金刺氏によって築かれた城とされている。
金刺氏の居城は下社秋宮の背後に築かれた桜城とされていたため、山吹城は有事の際の詰め城とされており、前方に小城があり、後方に本城である大城が構えられていた。
築城時期については定かではない。
金刺氏は、「中先代の乱」、「桔梗ヶ原の合戦」、「大塔合戦」などの抗争を経て、諏訪大社上社の大祝を務めていた諏訪氏との間に、政治姿勢の相違が重なり、対立していった。
やがて上社と下社は武力衝突し、上社勢が下社を攻め、社殿を焼き払う結果となった。
その後も上社と下社の抗争は続いたが、おおむね下社の劣勢であり、衰退の一途にあった。
永正15年(1518年) 諏訪頼満が、金刺昌春が籠城していた萩倉の要害へと攻め入った。
この萩倉の要害が山吹城の大城ではないかと推定されている。
上社大祝家に伝わる 「当社神幸記」によれば、萩倉要害は自落して、一類の面々家風ことごとく断絶、没落したとある。
ここに、金刺氏の没落は決定的となったとされている。
2022年05月11日 ️…
山吹城
山吹小城は3つの曲輪と4つの堀凹から成る連郭式の城です☺️
500m北側に位置する山吹大城と比較すると、単純な縄張りであり、同城の南西部を補強する出城的に機能していたのではないかと思われます🤔
駐車場🅿️は水月公園を利用してもさほど歩きませんが、下諏訪町清掃センター付近(センター営業時間中は持ち込み車両もあることからおすすめしません)も路肩が広くなっており、そこに停めれば西側尾根をヒョイと上がるだけで城域に突入できます😚
〜以下、現地解説板より〜
山吹城跡
山吹城は諏訪大社下社の大祝であった金刺氏によって築かれた城とされている。
金刺氏の居城は下社秋宮の背後に築かれた桜城とされていたため、山吹城は有事の際の詰め城とされており、前方に小城があり、後方に本城である大城が構えられていた。
築城時期については定かではない。
金刺氏は、「中先代の乱」、「桔梗ヶ原の合戦」、「大塔合戦」などの抗争を経て、諏訪大社上社の大祝を務めていた諏訪氏との間に、政治姿勢の相違が重なり、対立していった。
やがて上社と下社は武力衝突し、上社勢が下社を攻め、社殿を焼き払う結果となった。
その後も上社と下社の抗争は続いたが、おおむね下社の劣勢であり、衰退の一途にあった。
永正15年(1518年) 諏訪頼満が、金刺昌春が籠城していた萩倉の要害へと攻め入った。
この萩倉の要害が山吹城の大城ではないかと推定されている。
上社大祝家に伝わる 「当社神幸記」によれば、萩倉要害は自落して、一類の面々家風ことごとく断絶、没落したとある。
ここに、金刺氏の没落は決定的となったとされている。
山吹城の周辺スポット情報
山吹小城(周辺城郭)
武居祝邸(周辺城郭)
桃井祢宜太夫邸(周辺城郭)
金刺大祝館(神殿)(周辺城郭)
伝・東山田金刺大祝邸(周辺城郭)
伝・八幡小路権祝邸(周辺城郭)
東山田副祝邸(周辺城郭)
桜城(桜井城・湯沢城)(周辺城郭)
伝・鋳物師沢権祝邸(周辺城郭)
大和城(周辺城郭)
大和城(大城)(周辺城郭)
大見山(周辺城郭)
大和の火ともし山(周辺城郭)
渡部沢城(周辺城郭)
大和殿屋敷館(周辺城郭)
殿村館(周辺城郭)
高木城(周辺城郭)
香炉の岩物見(周辺城郭)
木曽義仲のやぐら(矢倉)(寺社・史跡)
一念石(寺社・史跡)
御射宮司社跡(寺社・史跡)
高木のしだれ桜(寺社・史跡)