和田城(わだじょう)

和田城の基本情報

通称・別名

所在地

長野県小県郡長和町和田

旧国名

信濃国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

大井氏

築城年

不明

主な改修者

主な城主

和田氏

廃城年

遺構

曲輪、石積、土塁、堀切

指定文化財

再建造物

周辺の城

長窪城(長野県小県郡)[8.6km]
塩田城(長野県上田市)[14.0km]
山家城(長野県松本市)[14.0km]
望月城(長野県佐久市)[15.4km]
桐原城(長野県松本市)[16.7km]
埴原城(長野県松本市)[17.5km]
林城(長野県松本市)[18.0km]
朝倉山城(長野県茅野市)[18.9km]
岡城(長野県上田市)[19.4km]
岩尾城(長野県佐久市)[20.2km]

和田城の解説文

和田城は大井氏から分かれた和田大井氏(和田氏)の居城であったとされる城郭。

天文年間(1532~1555)に武田信玄によって攻められ、落城したとされる。

比高70メートルほどの山稜に築かれており、現在でも堀切や郭を確認することが出来る。

和田城の口コミ情報

2022年04月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
中山城[和田城  周辺城郭]



中山城(城山・中山ごや)は和田城の北東約4.8km、北東へ延びる山塊尾根上、標高約881mのピークの一つに主郭が存します。西麓の国道142号線からの比高は165m位でしょか。

行き方はGoogleマップ位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。北麓の青原発電所から保安道を登るルートがよく紹介されてますが、普通に尾根末端から取り付いた方が楽だし確実です(ショートカットにもならないと思う。)。

築城年代、築城者は不明です。各資料を探っても詳細は判らないそうですが、山稜の東側を大門峠道、西側を和田峠道が走り、両道は中山城の北側で合流します。武田勢は両道を頻繁に利用して小県郡に入っていて、地元には武田氏の狼煙台との伝承が残ります。が、ただの狼煙台としては縄張が立派過ぎるし、やはり在地土豪の築いた要害を武田氏が拡張と改修を続けて小県郡における重要な拠点の一つとして維持されたと考えるのが自然ではないでしょか。

お城は南北に長く総延長は約0.8km、信濃のお城の神はA〜Dの4つの地区に区分しています。A地区は物見で岩場と地山に近い数段の削平地、お城のメインはB〜D地区だけど、あくまで私見ですが時代的な変遷も考慮しなくてはならないと思います。当初はB地区までの要害、改修を経てD地区まで、C地区はその繋ぎ…各地区はそれぞれ独立していた印象を感じます。尾根上の要所を堀切と竪堀で遮断、郭には土塁や櫓台、虎口、石積みなんかも確認出来ます。圧巻なのはD地区の郭でして、南側山側背後を竪堀付きの三重堀切、北側正面を同様に竪堀付きの三重堀切を穿っています。小さな郭なんですが全く釣り合いの取れていない圧倒的な土木量、お山の中で突然トレンドの最前線を走るインフルエンサーに出会ったような気分になります。

小県郡と言えば真田氏の影響もあってか注目されるのは千曲川以北のお城ばかり。しかしっ!小県郡南部には凄い山城が沢山隠れているんです。この中山城もそんなお城の一つ。機会がありましたら子供さんの結婚式にぶち当たったとしても行っとけ。城クズとして蔑まれる修羅の道を歩みましょう。

※中山城(上田市)、中山城(長和町)、和田城(長和町)の三城はGoogleマップの航空写真を見れば一目瞭然だけど、山城としての選地が非常に似通っています。

2022年03月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
矢ヶ崎城(城ヶ峰)[和田城  周辺城郭]



矢ヶ崎城(城ヶ峰)は和田城の北東約5.8km、依田川西岸(左岸)、標高1082mの山塊山頂から北東へ延びる尾根上、標高939.2mのピークの一つに主郭が存します。東麓の国道152号線からの比高は260m位でしょか。

行き方はGoogle マップに位置登録されているのでダイレクト設定してください。獣柵ゲートを開けて北東麓の尾根末端部から取り付きます。人が入るお山(大岩山、仙ノ倉山とも。)ではありますが(当然○○の為だが…)明確な登城路は無く、踏み跡を単純に辿るだけの尾根登山となります。山稜を見れば容易に想像出来ますが、お山の立ち上がりが異常に厳しくて最初から手を使うはめになるでしょう。

築城年代は不明、築城者は武田氏になるんでしょうか。小県郡誌には「武田氏の一砦にして且烽火台を兼ぬ、和田城主大井信定之を預り、其臣秦(羽田)治郎右衛門幸清をして守らしむといふ。」とあります。羽田氏の伝承にある天文二十三年(西暦1554年)六月十五日(誤伝がある。)、村上氏と通じて武田氏と合戦に及んだ大井信定父子がこれに打ち負けて岩窟に潜んでいたところを発見され斬首されたとされる大岩山は矢ヶ崎城の事と考えてほぼ間違いは無いと思われます。

お城はコンパクトではありますが、主郭を中心に纏まりがよく、在地土豪の要害と言うよりは最初から砦として武田氏によって普請されたとの考えは正しいように思えます。主郭部(この手のお城としてはかなりの広さがある。)には土塁が残り、南西側には三〜四段の腰郭、主郭部北西側山側背後は二重堀切、更に細長い小郭を挟んで堀切が1条、そのまま城域はフェードアウトします。又、主郭部には堀てよりはちょっと変わった窪地形が幾つか確認出来たりなんかもします。

登城は楽ではありません。幾つかの弛みを持っていますが、基本的に全て急登となります。いつまで経っても辿り着かない感じ。訪ねる際は本日の1城目を心掛けましょう。

※写真1枚目、中央の山稜が遠景、写真向かって左側の山稜が中山城(長和町)です。中山城の北側で大門峠道(大門川右岸)と和田峠道(依田川左岸)が合流、かつての諏訪郡へ抜ける交通の要衝でした。

2022年03月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
相馬伊勢守屋敷[和田城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

相馬伊勢守屋敷は和田城の北東約4.9km、大門川西岸(左岸)、標高約715mの山間平野部緩斜面上平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている居館東側の民宿みやを目標に設定して下さい。西側に見える大門川に架かる橋、相馬橋を渡ると該地となります。同じ和田城のリア攻めマップにあるとんでもなく素晴らしい中山城(長和町)の謂わゆるC地区の直下、東麓に立地します。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは相馬氏です。相馬氏は今も該地にお住まいなんですが、同氏の伝承によると大門神社の神主で、江戸時代に城の腰の地名に続く大門川西岸(左岸)の開墾(相馬河原)を行った方らしいです。大門神社は同地に還住した相馬氏が氏神として建立したもので、伊勢守の官名からもただの神社の神主とも思えず、村の草分け、該地周辺の開発主体として存在していたようです。

居館の現況は耕作放棄地、耕作地、墓地、一般住宅とその敷地等となっています。居館の敷地には「城の腰」の地名が残りますが、これは中山城の麓を表す地名で、相馬氏が屋敷を建てる以前の居館が存在したのかもしれません。敷地外北東側には相馬川原(相馬っぱら)の地名に耕作地、敷地の西端、最高所には相馬氏の墓所が残ります。

中山城のリア攻めを終えての下山中、C地区に至ると突然おいらに神が降りて来た…南北に長い中山城をこのまま元のスタート地点に戻るのはいかにも面倒、相馬伊勢守屋敷に向かってC地区の竪堀(たぶん兼堀底道…)から直下山すればスーパーショートカット出来るんじゃないかと…美少年なのは知ってるけど天才だったとは気付いてなかったぜ、秒で思案を実行に移しました。が、半分滑り落ちながら山麓に辿り着く事には成功しましたが、獣柵ネットが立ちはだかり山裾を出る事が出来ない…ネットは獣柵ネット界の傑作、いのしかクン…以前には隙間を作ろうとして指を切ってしまい出血に及んだ事もある乗り越えられない代物、結局山裾から比高約160m分を登り返して元の登城路に戻るはめに…死ぬ程疲れましたわ…「獣柵を設置するものは獣柵30m毎に人の出入りが出来る開閉可能な扉を、又はこれに替わる設備を設けなくてはならない。」みたいな条令が施行されないかしらん。獣柵ゲートが一つも無かったです。

2022年03月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
宇津野の屋敷[和田城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

宇津野屋敷は和田城の北東約4.4km、標高約713mの山間平野部平場に存した居館です。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…

築かれた年代は不明、お住まいになられてい
たのは伝承で小林右近、又は宇津野右近、この方の情報は全く出て来ないです。

居館の現況は耕作地、一般住宅とその敷地等となっています。「宇津野」は「内野」が転じたもの、周辺には「松狭間」の地名が残ります。旧中山道沿いに立地していますが、西方山塊と中山城(長和町)の存する山稜との最も間隔の狭い地峡部に位置し、谷筋の拠点としても機能していたと考えられているようです。ちなみに居館の位置は信濃のお城の神が推測した比定地、地元の古老のお話しも同様だったそうです。

居館比定地に隣接した場所に薬師堂跡てのが残っていて跡地には真新しい石碑が建っているんですが、その石碑には「羽田一族」の文字が刻まれています。羽田(秦)氏は和田大井氏被官衆の一つ、和田六騎の一氏で秦氏の後裔とされています。羽田本家の家系図によると天文二十三年(西暦1554年)六月十五日(誤伝がある。)、羽田治郎左衛門幸清が矢ヶ崎城にて当主大井信定父子と共に討死、嫡男羽田筑後守竹久、二男の六右衛門房幸、三男の右近之助幸正は武田氏に従い、その滅亡後は真田氏に仕えて大坂夏の陣で討死、四男の信久、五男の吉久は真田信之に従ったらしくその家系を継ぎました。幸清の妻は長野信濃守業正の妹とされ、真武内伝(真田氏にやや忖度する。)には「羽田筑後は長野信濃守一家なり。甲州衆なるが甲州崩れのとき房州様へ従い数度覚えあり」との記述があります。又、真田信之時代の「寛文十年分限帳」には羽田六右衛門が三百石の知行を、そして後世一族の中からは小田急バス社員から父の地盤を受け継ぎ政界に転出した者も現れます。第80代内閣総理大臣、羽田孜その人です。

居館の主が羽田氏であったとする情報も全くありませんが、この場所にこの石碑、意味ありげに思えて仕方ありません。居館跡から南西約1.5km、若宮八幡神社境内には大井信定父子と羽田幸清の墓所が、神社の周辺はかつて仙の倉と呼ばれる集落だったようです。

2022年03月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
竹屋敷(上野の屋敷)[和田城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

竹屋敷(上野の屋敷)は和田城の北東約1.5km、標高約849mの山間平野部緩斜面上平場に存した居館です。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…竹屋敷だからか竹藪が目立っています。車はそこら辺に捨てて大丈夫ですが、周辺は結構農作業用の軽トラックが通るので農道だけは避けましょう。ちなみに「竹」は「館」に通じるらしいっす。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは上野氏です。上野氏は和田大井氏被官衆の一つで、和田六騎(上野、上原、遠藤、境沢、長井、羽田)の一氏に数えられます。武田氏と合戦に及んだ和田大井氏の当主、大井信定が討死すると、かつての和田六騎を中心として信定の菩提を弔う為に和田城の北東麓、信定の居館跡に信定寺を建立しました。又、高野山蓮華定院(信濃の国人領主、土豪の多くが宿坊とする。)、天正十六年(西暦1588年)の過去帳に和田上野和泉守入道の名が見られます。お母さんのために何かやったようですね。

居館の現況は竹藪、耕作放棄地、耕作地、墓地等となっています。居館の推定位置は上野氏の旧墓の辺りと伝えられ、南側には「竹(館)の下」の地名が残っているそうです。実は意外にも楽しめる居館跡です。縄張図に示された敷地の中心部は一応耕作放棄地とは判断しましたが整地の痕があんまし見受けられない。土塁様の地形や意味ありげな巨石なんかがそのままで周辺の耕作地とは明らかに趣きが違っています。後は推定敷地外西側、少し離れた場所に明神堀推定地、敷地東側の竹藪は頑張れない感じだったので諦めちゃいました。又、土留めの石積みなんかも見られますが後世のものなんでしょう。

和田宿の本陣を務めた長井家も和田六騎の一氏でした。在地土豪であった長井氏は大井信定の娘婿となり、信定の敗死後には武田氏に従っていたようです。武田氏の滅亡とも命運を共にせずしぶとく在地で生き残りを果たしました。今も長和町和田に数多く残る上野、長井、羽田の姓はその証です(最近のリア攻めマイブームは周辺住宅の表札確認と周辺墓地の墓碑銘確認…)。朱子学や葉隠精神と性格を異にする、武士が名を残すって本来こういう事を言うんじゃないでしょか。

※写真8枚目、中央の山稜が和田城です。

2022年03月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
窪城とんがり山物見[和田城  周辺城郭]



窪城とんがり山物見は和田城のの東方約3.9km、大門川蛇行点東岸(右岸)、標高993mの通称とんがり山山頂から北西へ延びる尾根上、標高約974mのピークの一つに主郭が存します。西麓の国道152号線からの比高は185m位でしょか。

行き方はGoogle マップに位置登録されているのでダイレクト設定してください。該地は通称のとおり結構目立つお山なので近くに来れば判ると思います。が、山裾は水路がぐるりと巡っているので急斜面の木を掴む気持ちで飛び越えましょう。落ちても濡れるだけで終わるとは思いますが…

築城年代、築城者は不明です。信濃のお城の神本(信濃の山城と館3、上田・小県編)に記載があるのですが、それによると「資料や伝承等はなく、はっきりしたこと分からない。」と突き放されたような記述が…信濃のお城の神はお山の西麓に残る「城の腰」の地名と立地から推測して調査に入ってみたら本当に発見してしまったらしいっす。流石にございます。

物見なんですが、まず縄張図が薄過ぎる…細かく等高線が並んだラグビーボール状のお山の形をベースに郭を示す申し訳程度のスリットが描かれている感じ…ぺちゃんこですわ…別に神が悪い訳じゃなくて本当にそうなんだから仕方ない。単郭に堀切が1条、ほぼ地山、ただそれだけの話です。が、個人的には堀切南側山側背後の山頂部も縄張に含んでよいように思いました。理由は別の風景が見れるから、ただそれだけの話です。

この物見、信濃のお城の神本を除けば紹介されるのは初めてだと思います。少なくともネットで検索してもGoogleマップ以外はヒットしません。敬遠される理由は縄張図が原因でしょう、苦労対効果が非常に悪くリア攻めの目標になり難い。平均斜度40°の尾根筋をただひたすら真っ直ぐに登るだけ、鉄塔整備用の保安道が一応付いてましたが、斜面で脛、平面で膝上の積雪で全く活用出来ず…結果が見えてるだけに辛かったです。「全部知ってたさ、でもとんがりとか言われたら無視出来ないよ…」そんな感じです。

2022年03月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
入大門日山(火山)物見[和田城  周辺城郭]



入大門日山(火山)物見は和田城のの東方約3.4km、大門川蛇行点西岸(左岸)、標高約815mの河岸台地緩斜面上平場に城域が存します。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…該地は結構目立つ場所なのでリア攻めマップのみで行けると思います。真新しいソーラーパネル群が目印です。ちなみに「日山」の地名がありますが全然山じゃないです。

築城年代、築城者は不明です。信濃のお城の神本(信濃の山城と館3、上田・小県編)に記載があるのですが、それによると「…物見があったという資料や伝承は不明。」と突き放されたような記述が…信濃のお城の神は周辺地域の地名を鑑みて、そして「日山(火山)」の地名が狼煙台の存在を示唆しているとの推測から導き出した答えのようです。おいらは信じますよ、だって信者だから。

物見の現況は一面のソーラーパネル、元々全面耕作されていたらしいですが、信濃のお城の神が調査した平成十三年とも大きく違っています。縄張図には土塁や小郭が描かれているんですが、フェンスによって立入禁止が告知されていて入る事が出来ません。又、付近には土留めの石積みや石塁状の石積みが散見されますが後世の改変でしょう。

立地としては申し分ないと思います。対岸の大門峠道を監視下に収め、大門川の流れは峡谷地形を形成していて守りも充分、ただ山間平野部との比高差が殆ど無い事から物見台や狼煙台として機能するのかは少し疑問に感じます。むしろ関門としての役割を果たしていたものなんじゃないでしょか。

この物見、現地に赴いても楽しめるのは峡谷地形ぐらいで一つも面白くない。ただ上方からの遠景で見ると「なるへそ〜」等と呟けると思います。上方とは…同じ和田城のリア攻めマップにある信者も敬遠する色物物件、窪城とんがり山物見っす。

2022年03月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
窪城の古城[和田城  周辺城郭]



窪城の古城は和田城の東北約3.9km、大門川東岸(右岸)、標高約787mの河岸段丘台地緩斜面上平場に城域が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されている長和町資料館原始・古代体験館を目標に設定して下さい。後はリア攻めマップと小吹村反別帳とか宮ノ上反別帳とか入大門反別帳とかの古文書をなんとか入手して地名と現在地を確認しながら適当歩き回って下さい。そう、投げっぱなしアテンドってやつです。

築城年代、築城者は不明です。お城は大門峠へ通じる旧道沿いに立地し、旧道は諏訪郡へ通じる古来から往来のあった道でした。

お城の現況は集落の一部となっています。該地には古城の地名は勿論の事、南谷戸、北谷戸、下木戸、袋小路、かまば、腰巻、水堀等の地名が残っていたそうです。これらの断片を繋ぎ合わせてお城の旧態を想像しようとしましたが素人にはとても無理ですわ…又、周辺は中世城館の存在を示唆する別の地名も数多く残っていた地域だそうです。

令和四壬寅年諏訪大社式年造営御柱大祭…簡単に言うと今年の諏訪大社の御柱祭は木落しが行われないみたいですね。鎌倉時代に成立した武士団、諏訪神党三十三家は諏訪大社の神事(花会、五月会、御射山会)に勤仕し、輪番でそれぞれの頭役を勤める等、信濃での諏訪大社の影響力は計り知れないものでした。姻戚関係を元に神氏を称した禰津氏に代表されるように小県郡もその例外ではありません。城下を通る大門峠道は国道152号線として現在も長和町と茅野市を結ぶ唯一のルートですが、諏訪大社へ向かう神党各家の武士等も頻繁に利用していた事でしょう。ちなみに武田勢も御得意様だったと思います。

神事の内、御射山会は階段状に設けられた桟敷の内で相撲、草鹿、揚馬、武射、小笠懸等を競うもので正に中世のオリンピック!その一月後には参加者同士で争いを始めたりするところなんかも似ていたりしますね。

2022年02月26日 内記かずりヾ(・ε・。)
信定寺館[和田城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

信定寺館(しんじょうじやかた)は和田城の東方約0.6km、標高約831mの山間部緩斜面上平場に存した居館です。解り易く言えば和田城の存する山塊尾根末端部東麓に立地します。

行き方はGoogleマップに位置登録されている信定寺を目標に設定して下さい。お寺さんは居館跡に建てられたとされています。

築かれた年代は不明ですが、お住まいになられていたのは和田大井氏です。天文二十二年(西暦1553年)八月、村上義清が奪還した葛尾城を捨てて越後へ走ったのは、同年七月二十五日に武田勢が甲府を進発した事を受けてのものかと思われますが、この際に和田城は小県郡に乱入した武田勢によって落城、当主の大井信定は討死しました。伝承では落城を逃れて大岩山(矢ヶ崎城か。)の岩窟に潜んでいたところを発見され矢ヶ崎にて斬首されたとも。高白斎記には同年八月一日、長窪城に着陣した武田勢は和田城の衆を悉く討ち取ったとの記述があります。武田氏に従いながらも後に村上氏に同調した和田大井氏は滅亡の憂き目に遭う事となりました。

居館の現況は寺院です。寺伝によると和田六騎と呼ばれたかつての被官衆が中心となって当主の冥福を祈るために居館跡辺りに建立されたとあります。ただこの「辺り」が気にならないでしょか。寺院の敷地は居館の敷地をそのまま踏襲していない可能性も残ります。

7月25日に甲府を進発した武田勢は1週間足らずで小県郡に着陣、和田城を落城させた事になります。国人領主や土豪がいかな堅城を築こうとも大勢力の前には蟷螂の斧でしかありません。そしてこれが往時の武田氏の実力という事になると思います。

※和田城へは信定寺の墓地の裏手からも登城路(西麓からの正規?の登城路に合流する。)が付いてます。が、お墓に惑わされて道筋が判り難いので注意です。

2022年02月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
古屋敷[和田城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

古屋敷は和田城の西方約0.8km、追川北岸、標高976mの河岸台地緩斜面上平場に存した居館です。リア攻めマップのスポットは想像しうる概ねの中心点となります。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは武石大井氏とされます。大井光照の五男、大井信広の二男、大井信定の幼子は母と共に和田村古屋に住むとの記述が武石信広寺文書にあるそうで、この「古屋」が古屋敷に比定すると考えてよさそうです。

古屋敷は野々入地籍に残る地名で、その範囲は正確には判っていないようです。このために居館の位置やその敷地の範囲が不明確ですが、古屋敷地名の範囲は広大で、有力者の存在を裏付けるには充分と言えるでしょう。

居館の現況は集落の一部であり、耕作地、一般住宅の敷地等となっています。推定される古屋敷の範囲を歩いてみましたが、全て改変されてしまって何が何やら…遺構は消滅と言ったところでしょうか。贔屓目に見て耕作地と化した段々地形は元の縄張を下敷きにしてるのかなとか考えてみましたがやっぱりただの耕作地なんでしょう。ただ適地と思われる場所にはそれらしい地形なんかが窺えたりします。

居館の存した和田の地は中山道六十九次の内の二十八次、和田宿が設けられていました。次の下諏訪宿までの距離は約23km、中山道最大の難所である和田峠(最大標高1531m)を控える宿場として往時栄えました。人の住まう集落としては小県郡の最南端の一角であり、お城的にも諏訪へ抜けるまではほぼ皆無(白樺湖周辺につまんないのは幾つかあるけどねぇ…)となります。又、黒曜石の産地でもありその始まりは縄文時代にまで遡るらしいですね。古屋敷に来てもしょうがないですが、古い歴史と街並みが残る和田の地に皆様も是非訪ねてみて下さいまし。

※写真6枚目、背後の山稜向かって左側が和田城です。

2021年10月26日 赤かぶ【】
中山城[和田城  周辺城郭]



長和町大門にある中山城は国道152号と国道142号に挟まれた尾根上に城跡があります。交通の要地にある中山城ですが詳しい事は分かっていません。武田氏関連の城や相馬氏関連の城etc.....

登城口は二つの国道を結ぶ旧中山道沿い廃屋の脇にあります。登って直ぐに防獣棚がありますので中に入って行って下さい。ひたすら急坂を登って行きます、一本道ですので道に迷うことありません。ただキツいです⤵︎

稲荷大明神や発電所施設を経て細く急な尾根を上がり切るとコの字形の土塁に囲まれた曲輪に出ます!この光景を見ると今までの苦労が報われます‪w土塁の先には堀切や曲輪が連続♬︎登城口~主郭までの所要時間は約40~50分くらい。主郭周辺にはビニール紐が張り巡らされている為、茸シーズンは注意が必要かもしれません!

① 登城口
② 登城路
③ 広い曲輪と土塁
④ 連続する堀切 1
⑤ 主郭
⑥ 連続する堀切 2
⑦ 堀切

2019年01月13日 数正〜!左衛門佐紺絹地六連銭
和田城

和田峠を使って上田方面へ、または諏訪方面へ抜けようとされる皆さん。悪いことは申しません。冬場は旧道を通らず、是非新和田トンネルをお使い下さい。その際料金所手前の道の駅やコンビニに入ってからトンネルを目指して下さい。いいことがありますよ!(割◯券が手に入ります)

2018年03月31日 数正〜!左衛門佐紺絹地六連銭
和田城

≪駐車場、交通機関、施設等≫
車の方は長和町国道142号線沿いにある「和田宿ステーション」に駐車場、トイレがありますので活用してください。
公共交通機関は、バスのみです。上田駅から長久保行きに乗って下さい。長久保停留所で男女倉行きのバスに乗り継ぎ「上和田」停留所で降りて下さい。停留所にトイレもあります。本数が少ないので、注意してください。
周辺には、セブンイレブン、和田宿ステーションの裏側には、日帰り温泉の和田宿温泉があります。和田宿温泉では、蕎麦など食事も出来ます。

2018年03月31日 数正〜!左衛門佐紺絹地六連銭
和田城

≪注意点≫
山の北側は止め山となっており、入らないように、といいますか、崖から落ちないよう、ビニールテープが張られていますので、そこから出ないように気を付けて下さい。また散弾銃の薬莢等が落ちており、狩猟期間中の入山は目立つ服を着るなどをして特に気をつけて下さい。野生動物の糞も沢山あり、熊避け等の道具が必要です。
道中、滑る場所があるので、軍手や滑りにくい靴があると安心です。

2018年03月31日 数正〜!左衛門佐紺絹地六連銭
和田城

旧中仙道和田宿の北に横たわる山全体が山城和田城址です。
登山口は、長和町の国道142号線役場前信号交差点から山側へ入り、県道172号線に沿って和田宿から山を回り込むと見えてきます。
登山口から主郭までは手摺が付いており、崖っ淵を歩く場所等があるものの、とても登り易くなっています。
神社の建つ場所から主郭までは、三段の曲輪と深い横堀が連続し、美しいです。
主郭部には西側から北側まで土塁が残っています。
この主郭部から山頂の郭までの道のりが山城好きには一番楽しい場所だと思います。
主郭の直ぐ裏側には、美しい三段堀切が残っており、見応えがあります。
更にここから頂上の郭までは、馬の背のような稜線上を歩きます。気を付けて進んで下さい。南側は急斜面、北側は高い崖の下に川が流れており、稜線上随所に掘られている堀切跡から下を望むと、この山城の堅固さが分かります。
山頂部の郭は比較的に広く、その郭に沿って下に二段の曲輪跡が残っています。

和田城の周辺スポット情報

 中山城(周辺城郭)

 古屋敷(周辺城郭)

 信定寺館(周辺城郭)

 入大門日山(火山)物見(周辺城郭)

 窪城の古城(周辺城郭)

 窪城とんがり山物見(周辺城郭)

 相馬伊勢守屋敷(周辺城郭)

 宇津野の屋敷(周辺城郭)

 竹屋敷(上野の屋敷)(周辺城郭)

 矢ヶ崎城(城ヶ峰)(周辺城郭)

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