大和城
大和城([山吹城 周辺城郭])
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大和城の口コミ情報
2025年02月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
大和城は山吹城の南東約3.7km、諏訪湖東岸、標高1355mの大見山から南西へ伸びる尾根末端部上、標高940mの小ピークを中心に立地する要害です。南東麓の諏訪湖湖面上からの比高は180m位でしょか。ちなみに「大和」は「おわ」と読ませる。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい…なんだけど、そのままじゃ行けないので以下を参照して下さい。
まず、Googleマップに位置登録されている南西麓の共同住宅、「Sanriz プレース浜沢」を目標に設定して下さい。この共同住宅を左手に見ながら舗装道路を登り詰めるとT字路にぶつかるので左へ進み、「御射宮司社跡」と呼ばれる史跡まで登る。社跡の西側には雨明沢(大和沢)が南北に流れており、お山へ取り付く荒れまくった山道が沢沿いに付いている。但し、少なくとも山尾根に上がる部分においては既に道自体が崩落、下段から元の道筋を判別する事が非常に難しい。よって、砂防ダムにぶつかる手前、砂防指定地を区切って示す、標柱1号を目印にしてよじ登るのがよいかと思われるが、尾根に上がっても道形は殆ど消失しており、残りの道程は全て踏み跡程度を辿る事になる。殆ど急登の直登を覚悟しておいた方が気が楽だろう。
築城年代は不明、築城者は諏訪社下社の大祝、金刺氏の一族、大和氏です。城主としては大和監物の名が伝わるが、監物の受領名は大和氏代々の名乗りとされるので時代や個人を特定する事は出来ない。ちなみに本来は一体である筈の諏訪社の上社と下社だが、文安六年(西暦1449年)、府中小笠原氏を後ろ盾とした下社は上社と合戦に及び社殿を焼き払われている。大和城の発生は、文安年間(西暦1444年〜1449年)、もしくはその前後に当たる時期が妥当だと思われる。
お城は殆ど単郭の縄張でありコンパクトだが、主郭周りには帯郭状の腰郭を多段に連ねている。但し、該地とその周辺は後世、かなりの上段まで耕作、もしくは植林場として整備されていたようなので、段郭様地形の何処までが城郭遺構なのかの判別が出来ない。主郭には削れているとはいえ土塁、主郭縁の一部には石列が付き、主郭の北東側山側背後には連続堀切を尾根筋に穿つ。この堀切間には導線を狭めるためなのか片落としの連続竪堀を入れている。縄張は更に2条の堀切を+してフェードアウトするが、この堀切間の北側斜面に付く1条の竪堀は結構な代物だ。又、虎口を構成していると思しき段郭の切岸の部分には土留めの石積みも確認出来る。
諏訪の山城あるあるとして多段の段郭様地形問題がある。前述したとおり、後世の改変との判別が極めて難しいのだ。現行の縄張図は確実なものとは言い切れず、むしろ常に修正を求められる側にある。アプリの登録城に昇格?した山吹城はその典型、特に東向き、南向きの斜面で顕著となる。凄く悩ましいんだよなぁ…何回見てもよく判らない。
明治二十一年(西暦1888年)、諏訪湖湖南地域に当たる真志野の最高耕地所有は、龍雲寺の六町四反二畝であったが、明治九年(西暦1876年)における同寺の耕地所有は一町八反に過ぎなかった。僅かな期間にも拘らず、耕地面積に飛躍的増加が見られるのは、所有山林を荒地でも耕作出来る桑畑に開墾した事がその理由だと推測されており、乏水地である山地の高所まで開墾の手が及んだ事は容易に想像出来る。明治期の養蚕業、製糸業は富国強兵に突き進む日本の経済力を外貨獲得によって下支えしたが、現代に生きる変態達を今も悩ませ続けている。
※登城路の説明が細かくなったが、それでも誰もが同じルートで登れるとはとても言い難い。兎に角、正解は無いに等しいので無理矢理にでも登ろう。→なんて言い草…
※南西麓の共同住宅、「Sanriz プレース浜沢」〜「殿屋敷」の字地名を残す。一帯は大和氏の居館跡、同じ山吹城のリア攻めマップにある大和殿屋敷館である。
※「御射宮司社跡」〜Googleマップに位置登録されていないのでリア攻めマップにスポット登録して写真だけ置いておく。ちなみに「御射宮司」は「ミシャグジ」であり、諏訪地域とその周辺に祀られる神霊、精霊の総称である。中世から近世にかけての諏訪社上社の神事においては欠かせない存在であった。
※「御射宮司社跡」と呼ばれる史跡まで登る〜登る道は鎌倉道の古道だ。