花岡城(はなおかじょう)

花岡城の基本情報

通称・別名

尾尻城、湖尻城

所在地

長野県岡谷市湊花岡

旧国名

信濃国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

花岡氏

築城年

鎌倉時代前期

主な改修者

主な城主

武田氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

市史跡

再建造物

碑、説明板

周辺の城

有賀城(長野県諏訪市)[4.8km]
山吹城(長野県諏訪郡)[5.6km]
高島城(長野県諏訪市)[5.7km]
諏訪氏城館(長野県茅野市)[10.0km]
上ノ平城(長野県上伊那郡)[14.2km]
藤沢城(長野県伊那市)[14.6km]
朝倉山城(長野県茅野市)[14.6km]
埴原城(長野県松本市)[15.5km]
武居城(長野県東筑摩郡)[16.8km]
福与城(長野県上伊那郡)[18.0km]

花岡城の口コミ情報

2025年11月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
鐘突狼煙台[花岡城  周辺城郭]



さて、全国108万人の煩悩抱えた鐘撞き野郎の皆さん、お待たせしやしたっ!ワクドキでしょ〜そう、今回の口コミはみんな大好き「鐘撞」地名の御登場っすっ!お城好きならその意味を知っていて当たり前の地名、城郭用語としても「埋門」と並ぶ人気ワードの一つであり、城郭検定3級の試験問題には毎年必ず選ばれている…っぽい雰囲気を醸し出しながらも実はそうではないよとの指摘もある…んだけどはっきりさせる事も難しいとのある筋による見解が発表されたらしいて噂を夢の中で誰かが話しているのをかずりはレム睡眠中に耳にしている。

鐘突狼煙台は花岡城の西南西約2.2km、天竜川東岸(左岸)、標高760mの河岸段丘台地上平場を中心に立地した狼煙台の類いです。現在、該地に残る「鐘突」の小名は分割された散在地となっているが、「該当字地名は三ヶ所に分かれているが元々は連続したものと思われる。」て信濃のお城の神は仰られている。

行き方は…リア攻めマップを参照して該地を特定しよう。付近に目標となるものがありまてん…とりまGoogleマップに位置登録がある「シンセイ機工」が当座の目標にはなるだろう。車はそこら辺に捨てられる。

築かれた年代、築いた方は不明です。知ったところでどうすんのレベルの話だ。伝達経路すら想像したくないけど、最も近い狼煙台となると、同じ花岡城のリア攻めマップにある橋原の火とぼし山砦であろうか。但し、該地とは約1.5kmの直線距離があり、山上に鐘の音がはっきりと聞こえるのかはよう知らん。何れにせよ、諏訪郡に拠った勢力によって利用されたのは間違いの無いところだ。

当然の知識で烏滸がましいんだけど一応説明…「鐘撞」は、中世に武士等が狼煙の替わりに陣鐘等を用いて情報の伝達を行っていた場所を示唆する地名、時間帯や天候不順によって不通となり易い狼煙よりは鐘の音で報せる方が遥かに有効な場合もあった訳だ。一心不乱にブラストビートを叩きまくる雑兵を想像すると自然と心拍数もBPM120を余裕で超えて来るぜ。

城砦としての加工を一切必要としない鐘撞の場故に探索自体が全く無意味な行動だ。「鐘突」の小名の範囲は意外にも広く、東側は山裾を南北に走る中央自動車道、西側は天竜川河畔の一般住宅地にまで及んでおり、薄過ぎる物件にも拘らず探索者をイラつかせるのには十分な現況だ。一応、真面目に最上段まで上がってみたけど視界が少し広がっただけ、だからどうした状態に陥いる。とっとと帰る事にしよう。

該地の北北東約1.0kmに鎮座する洩矢神社の祭神は、諏訪地方の国津神、洩矢神である。神話の世界の話なので詳細は語らないが、建御雷神との出雲の国譲りに敗れて逃れた建御名方神が、州羽(諏訪)の海に至った際にこれと争ったのが洩矢神だ。建御名方神はこれに打ち勝ち、諏訪の地に根差し、後には諏訪大明神として盛大に祀られる事になるが、この時の争いにおいて洩矢神が御座した場所を洩矢神社の旧地(現在地よりも西方、天竜川の畔に鎮座していたらしい。)とする江戸時代の資料がある。又、同川の対岸に鎮座する藤島神社は、藤島明神(諏訪明神)の御座した場所と伝わり、争いは両社が相対する天竜川の畔で繰り広げられたと解釈されている。洩矢神が争いに打ち勝っていたら諏訪大社も存在しなかった…等と妄想するのも個人の勝手だ。

※洩矢神社〜口コミはしないので同じ花岡城のリア攻めマップに史跡としてスポット登録だけしておく。又、洩矢神が居したと伝わる、「洩矢大神御舊趾(こちらは現在地よりも東寄りだったらしい。)」て呼ばれる物件が直近に位置しているのでこちらの方もスポット登録だけしておいた。ちなみに両者の移動は中央自動車道の建設に伴っている。罰は当たらなかったんだろうか。

※国津神〜元々から地上に土着していた神々の総称である。

※洩矢神〜争いに敗れた洩矢神は、建御名方神に従う事となる。諏訪社上社の神長官家、守矢氏は洩矢神の後裔とされている。

2025年11月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
三沢氏居館[花岡城  周辺城郭]



三沢氏居館は花岡城の西南西約2.4km、天竜川西岸(右岸)、待張川北岸(左岸)、標高約792mの河岸段丘台地緩斜面上平場に立地した居館です。同じ花岡城のリア攻めマップにある高尾山城は、この居館の主、三沢氏の築城だと推測されている。

行き方は…リア攻めマップを参照して該地を特定しよう。付近に目標となるものがありまてん…とりまGoogleマップに位置登録がある「岡谷市立岡谷西部中学校」が当座の目標にはなるだろう。車はそこら辺に捨てられる。

築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは前述したとおり三沢氏です。同氏については高尾山城の口コミも併せて参照して下さい。三沢氏は諏訪社下社の有力社人でもあった訳だがその裏付けとなる以下の書状が残されている。

天正六年(西暦1578年)二月廿八日、三澤平太宛、武田勝頼朱印状には、「高梨(高井郡)之内原郷、同堤郷、同櫻澤郷、小布施半郷、聖中条郷、長沼(水内郡)内村山、小県内塩田、塩崎(更級郡)内邊久部、従右郷中集造営銭、下諏方大鳥居造立之處、累年令難渋未済之由、大自由之至也、急度加催促、如前々造宮銭可請取之旨、所被仰下也、仍如件、」とあり、武田勝頼は、三澤平太に、諏訪社下社の大鳥居の造立のための銭が未済となっている事からこれに催促を加えるよう申し付けている。平太は下社側を代表する者として、信濃国内の各郡諸郷の負担を催促出来る立場にあった事が判る。

「信濃の山城と館6、諏訪・下伊那編」に掲載がある。著述の中には、「高尾山城東南山麓の小字大島が居館の地と伝承される。大島の場所は待張川に沿った舟形の沢状の窪地で要害の地とはほど遠い地形で、現在、田、畑、宅地になっている。…中略、三沢氏の居館は上記の如く大島にあり、小字今見堂(川岸小学校南西)のあたりに根小屋があったと伝えている。…後略、」とある。

上記著述にある、「小字今見堂(川岸小学校南西)のあたりに根小屋」の根小屋をどう捉えるのかが問題となる。居館地と根小屋がそれぞれ離れた場所に存在していた事になるからだ。想像するに根小屋とは高尾山城の在番衆の屋敷地であろうか。だとすれば居館地とは別に存在していたとしても何ら不思議な事ではないように思う。その裏付けになるものとして、現在の新倉集落は、時期不明なるも今見堂から風を避けて退転してきたとも伝わっている。従って三沢氏の居館地だけを問題とするならば「小字大島」に的を絞って探索すればよい筈だ。

居館の現況は…畑地、耕作放棄地、空地、一般住宅とその敷地等となっている。待張川を自然の水堀としていた可能性は十分に考えられるが、周囲より一段低い段の付いた窪地である事は問題である。或いはこの地形自体が往時の川筋なのかもしれない。要害性に乏しく河川の氾濫等の影響を受け易い占地にはどうしても疑問を抱いてしまう。信濃のお城の神は居館敷地範囲すら示していないが、「小字大島」の範囲も含めて、北側へ向けてかなりの広がりがあったのではないだろうか。何れにせよ後世の改変が大きく城郭遺構を見出せる筈もなく探索自体が徒労に終わる。

…戦国時代等の埋蔵金伝承て全国各地に残っていると思うんだけど、存外、眉唾な話として一笑に付す事も出来ないもんだと考える。黄金、小判がざっくざく…みたいなのを想像するから期待も常に裏切られるんだけど、地中に埋められた素焼きの瓶から大量の古銭が出土した事例は一つや二つではない筈だ。今回、紹介した居館の主、三沢氏の要害と推測される高尾山城にもそんな埋蔵金伝承が残されており、地元の古老の話によれば、「城の上から見て、三つ目のうこぎ塚に(三沢)対馬守の軍用金が埋めてある。そのうこぎ塚がどこか分からない。」て事らしい…何言ってんだかよく解んないんだけど、一攫千金を夢見るお宝ハンターはスコップ片手に探索するのもいいさ。但し、ユンボとか持ち込むのだけは止めてくり。

※「…累年令難渋未済之由、大自由之至也、…」〜武田氏は、新府城の築城によって領内が疲弊したとされているが、それ以前から既に「難渋」していた事に疑いは無いだろう。

※写真⑧、背景に写る独立山稜が文中にある高尾山城、お宝がこのお山に埋まっているかも…ちなみにかずぽん、登城中に血眼になって塚らしきものを探したけど判る筈も無かった。が〜んっ!

2025年11月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
高尾山城[花岡城  周辺城郭]



高尾山城は花岡城の西方約3.0km、天竜川西岸(右岸)、西方山塊から続く、標高1016mの独立峰、高尾山山頂部に立地する要害です。南東麓の広畑遺跡からの比高は160m位でしょか。ちなみに岡谷市では「高尾城」の名称で史跡として指定している。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは同じく位置登録がある、前述した「広畑遺跡」の裏手からとなり、高尾山の山頂へと至るしっかりとした登山道が付いている。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。広畑遺跡の少し先、こちらも位置登録がある「東雲閣(極寒キャンプ)」…の空地に捨てるのがよいかもしれん。

登山道はお手軽なトレッキングコースでもあるのだが結構な急登を強いられる。又、ごく最近の間伐整備事業に併せて重機が通る林道が別に設けられているのだが、この林道、登山道を所々で分断し、本来の道筋を判り難くしてしまっている。林道をそのまま登れば山頂へは自然と辿り着くとはいえ、ぐるぐる巻いて登っているため進む距離は倍増どころの話じゃなくなると思う。ここは素直に登山道を登るのが正解だ。

築城年代は不明、築城者には三沢氏が推測されている。同氏は諏訪社下社大祝、金刺氏の分流にして同社の有力社人、諏訪郡新倉、三沢両村の地頭職でもあった。武田氏時代の諏訪五十騎の内には三沢対馬守の名が見えるんだそう。

永禄八年(西暦1565年)十一月晦日、武田信玄発給、「諏方下社祭祀数年退轉之分、今玆永禄八年乙丑十一月晦日、令再興加下知次第」には、「一 正月十七日御神事、三澤六左衛門尉、高木蔵人、彦五郎等申合、厳重ニ可勤之事、」とあり、三澤六左衛門尉が、高木蔵人、彦五郎等と共に、正月十七日の神事を厳重に勤めるよう求められている。又、別に、「一 三済山(御射山)之山奉行三澤對馬守、従往古取来候分者、舟役、杣取役、檜物師役、灰汁役、三澤山之役、…後略、)ともあり、三澤対馬守が、御射山の神事に際して山奉行を勤めている。

縄張は主郭と副郭によって構成される単純なもの。両者間は空堀と土塁によって区画されている。主郭は過去の地滑り等があるのか、緩やかな傾斜地となり緊張感に欠け、副郭は重機が暴れまくって鑑賞に耐えない。空堀と土塁はこれによる明らかな損壊があり、堀の一部は埋められて幅員のある偽土橋を形成してしまっている。空堀や土塁はこの部分で折れを伴う鬼門除けの入角となっていたそうなので残念な結果ではある。ちなみに主郭からの諏訪湖方面への展望は絶佳、この場所に要害を築いた意味も自然と知れるだろう。

在地土豪の一要害ではあったが、後には武田氏等の狼煙台として機能していたのかもしれない。「長野県町村誌」には、「…天正年中(西暦1573年〜1592年)、武田家士三澤對馬守、藤森治部両名の守る所の城址なり。…」とある訳だが、或いは両名が交替で城番を務めていた事を意味するのであろうか。

…遺構の損壊を現地で確認したので秒でチクりの電話を岡谷市に入れるw行為に及んだのは間伐した業者なんだろうけど整備事業の主体はあくまで同市なのだ。おいらはそれが必要とされるならば城跡が破壊されても許せてしまう寛大なタイプのめぐら〜ではあるんだけど、意味の無い毀損行為だけは許せないのだ。電話を切る際には先方から、「折り返しの電話を差し上げたいと思いますのでお名前の方を宜しくお願いします。」て言われてちょと動揺してしまい、「あ、はい、◯◯もくと申します。」て城友さんのHNを出して盛大な嘘を吐いてしまう…ほいたら先方から、「…それは苗字でよろしいのでしょうか?」て追い討ちをかけられてしまい、「さぁ、一体、どっちなんでしょかね?」等と意味不明な回答を…悪い事してる訳じゃないんだし普通に答えときゃ良かったわw

※遺構は肉眼だとはっきりと判るんだけど、あらゆる意味で写真撮影が難しいお城だ。

※「諏方下社祭祀数年退轉之分、今玆永禄八年乙丑十一月晦日、令再興加下知次第」〜戦国時代、数年来に亘って途絶えていた諏訪社下社の神事を再興したのが御屋形様である。

※チクりの電話〜後日の回答によれば、毀損行為を直接現地確認したそうで、史跡としての今後については関係各所と協議した上で対処したいとの公務員らしいお話し…

※写真⑦は毀損部分を撮影した物っす。勿体無ぇなぁ…

2025年02月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
岡谷城(島崎城)比定地 照光寺[花岡城  周辺城郭]



岡谷城(島崎城)比定地 照光寺は花岡城の北西約1.2km、諏訪湖西岸、天竜川北岸(右岸)、標高約805mの丘陵地上平場に立地したと推測される要害です。東麓の長野県道14号、下諏訪辰野線からの比高は30m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は南東麓の真言宗智山派の寺院、城向山瑠璃院照光寺の駐車場に捨てられる。ちなみにお寺さんの山号は花岡城の向かいの山である事を意味し、信濃のお城の神は堂宇の位置を居館地として提言している。

まず、該地は岡谷城の比定地の一つである。お城の正確な位置は誰にも判らない。「日本城郭体系」には、照光寺背後の丘陵上であり、西、東、南の斜面に五段の帯曲輪を持つ等の記述があるそうだが、これに従うと纏まりのある花見ヶ丘の一帯が有力な候補として挙げられる。但し、周辺の造成地等は大概が五段程度で一区切りが付いており、探索する側にとっては比定出来る場所が無数に存在するのが悩ましい。

岡谷には「延喜式」の定める信濃十六牧の一つ、岡屋牧がかつて置かれていた。「吾妻鏡」、文治二年(西暦1186年)三月十二日庚寅の条、「乃貢未済庄々注文」の中に、貢税を未済する左馬寮領、信濃二十八牧の一つに岡屋牧が見られる。その正確な位置にあっては不明だが、該地の北側、岡谷公園を中心とする一帯であったと推測されている。比較的に標高の高い山際の丘陵地帯で放牧し、ぱかぱか歩かせて諏訪湖や天竜川の水を馬に飲ませていた…とか想像するときゅんきゅんしてくるわ。

「吾妻鏡」、治承四年(西暦1180年)九月十日己未の条には、甲斐源氏、武田太郎信義、一條次郎忠頼が、伊那平氏、菅冠者の討伐に赴き、諏訪社上社の庵澤の辺りに張陣、神告を受けた後、同名の拠る伊那郡大田切郷の城に攻め寄せ、これを聞いた冠者は館に火をかけ自害に及び滅亡したとの記述がある。事後に根上河原に張陣した両名は相談し、両社(諏訪社の上社、下社である。)に田園を寄進し神恩に報いる事と決し、上社分には、平出、宮所の両郷、下社分には、龍市の一郷を寄進する旨を人に書かせたが、寄進状には下社分に誤って岡仁谷郷を書き加えてしまった。諸人にこの郷名を知る者はなかったが古老に訪ねたところ、岡仁谷と号する地が実際に存在する事、改めて上下の宮に優劣が無い事等を鑑みてそのままとした。岡仁谷の地は即ち、岡谷であり、岡屋牧は両名によって新たに社領として下社に寄進された事になる。

築城年代、築城者は不明だが、城主として千野氏が挙げられる。同氏は諏訪氏の分流であり、諏訪湖湖畔を中心として同族は繁栄しているが、下社領へ進出した時期にあっては不明である。

リア攻めてよりはお城の正確な位置を求める素人による素人なりの果てしない探索だ。前述のとおり、照光寺の後背、花見ヶ丘の一帯が比定地として有力だけど、これだけじゃ面白く無い…探索の範囲を広げて更に上段、岡谷配水池と小部澤神社の周辺を彷徨う事に…遠州の城友さんも怪しんでる場所なんで確かめる事にしてみた訳だ。もう、この辺りなら何処でも比定地に成り得るんだけど、城友さんが言うように配水池を中心とする小丘陵が実にそれっぽい。後世、全山耕作されていたと思われるけど、段々畑の段の付き方等にどうにも不自然なものを感じてしまう…あ、あり?こりってもはや診断名、「リア攻め」の末期症状なんじゃ…あぁ…取り返しの付かない所まで来てしまった…家路は遠いのにすっかり日も暮れてきた感じもする。そう、おいらは帰れなくなったのだ。

帰れなくなってしまったおいらだけど、人類の友達が一向に出来ない替わりに四足歩行の動物だけは気まぐれに相手をしてくれる。小部澤神社や花見ヶ丘を一心不乱に探索してたら複数頭のニホンカモシカに見つめられていた。THE POLICEの「見つめていたい」状態なのかな。ひょとしたら仲間にでもしてくれるんだろうか。でも草とか食えねぇしなぁ…も、申し訳ないけどお断りしときますわ。ちなみに此処、岡谷市市街地のど真ん中なんすけどねぇ…

※下社領となった岡屋牧だが、左馬寮への貢税は免除されていない。

※照光寺〜名刹にして大寺だ。

※岡屋牧〜標柱が立っている。リア攻めマップにスポット登録して写真だけ置いておく。信濃の牧は正確な位置と範囲が殆ど特定されていない。訪ねる目標があるだけでもありがたい。

※小部澤神社〜祭神は白山比咩命、馬の神、もしくは牧の守護神らしい。

2025年01月14日 ᖇᕮᗞ 副将軍
花岡城



諏訪湖を一望できる諏訪西方衆である花岡氏の居城🏯

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

築城年代は不詳。鎌倉時代に花岡氏により築かれたと云われます。
花岡氏は諏訪氏一族である有賀氏の庶流とされ、諏訪西方衆として諏訪氏に属しました。
1542年に武田信玄が諏訪に侵攻すると臣従しましたが、1548年に武田信玄が村上義清に上田原の戦いで敗れると、城主の花岡忠常らの諏訪西方衆は小笠原長時に呼応して反旗を翻します。しかし武田信玄に鎮圧されて花岡城は落城。
その後は武田氏の拠点となり、武田信玄の弟である武田信繁も居城としたとされます。

見所
諏訪湖西側の湖尻にある標高811mの花岡山に築かれています。北側は天竜川であり、諏訪西方の古道、西街道が通る交通の要衝です。
山頂の主郭は西側に土塁が付き、南西下の二郭は堀切で区切られ、二郭は周囲を土塁が巡ります。
現在は公園化され、周囲も宅地化されており大きく改変を受けています。山腹も郭であった様ですが削平地は耕作地や宅地となっています。

城内には駐車場もあり車で登れます。但し道幅は狭く急勾配であるため、特に冬期は無理せずに諏訪湖周辺に駐車して歩いて登った方が無難です。比高は約50mです。

写真
①②土塁が巡る二郭
③主郭と二郭を区切る堀切
④主郭
⑤⑥主郭の切岸
⑦主郭の城跡碑
⑧主郭からの諏訪湖

2023年04月24日 カズ
花岡城



岡谷駅から天竜川沿いの道を諏訪湖に向かいます。城マニアなら、やや遠目でも分かる、水門近くの丘が城跡です。私は、稲荷神社に上る石段から登城しましたが、踏み幅が狭く、急なので、下りは車道をおすすめします。なお、神社石段と車道以外にも道がありますが、通行止めになっています。車道から駐車場に入る手前に簡単な説明板があります。一部ですが土塁も良好に残り、眺めも良く、藪漕ぎもありませんので、おすすめです。この時季には鯉のぼりもたくさん泳いでいます。諏訪大社に参拝される方々などにおすすめします。

2023年01月17日 ほりーないと信濃守
釜口水門[花岡城  その他]



諏訪湖には31の河川から水が入ってきますが、流れ出るのは天竜川のみです。そこには釜口水門があり、天竜川の起点になります。

天竜川の起点のすぐ横にあるのが花岡城(写真①)です。初めて行った時、釜口水門との位置関係を確認していませんでした。諏訪湖の唯一の出口を守る城です。
塩尻方面、伊那方面に分岐する場所でもあります。花岡城から現在の分岐点である岡谷JCTがよく見えます。

長野県歌「信濃の国」の歌詞の中に「諏訪の湖(うみ)には魚多し」とあります。釜口水門とその周辺では釣りをする人がたくさんいました。(写真③は花岡城から見た諏訪湖です)
諏訪湖を出発した天竜川は、長野県から愛知県、静岡県を経て太平洋へ213kmの旅をします。その213㎞にはいくつものお城があります。

2022年05月07日 尼崎城尾張守一口城主
花岡城



4月30日、岡谷駅の観光案内所でレンタサイクルを借り登城。当日は、諏訪大社の四社と高島城を周る際に立ち寄りました。岡谷駅から自転車ですぐのところにあり、花岡公園を登りきると高台に城跡の石碑が立っていました。高台からは諏訪湖がよく見え、鯉のぼり🎏も泳いでいて良い景色でした。
花岡神社を下城後、諏訪大社上社本宮に向かいましたが御柱祭の準備が進められていました。敷地内に江戸時代の名力士の雷電像もあったので歴史的人物ということで載せさせて下さい🙇‍♂️

2021年09月29日 出雲大介
花岡城

先人方の仰せの通り、道幅の狭い住宅地の中の坂道を抜けた先ある公園として、城跡はありました。駐車場は草が伸びていて、この先で大丈夫か?と不安になりました。トイレはあり、高台からの眺めも良かったのですが、道が狭くて苦心しました。

2021年07月05日 くっしー修理大夫尚人
花岡城



たどり着くまでの道が急で狭くて怖かった😣駐車場はありますが、見つけるのにちょっと苦労した。城としては小さいですが、複数の平坦面があり、諏訪湖を見下ろすことのできる良い位置にあります。

ただ説明看板にあった空堀・出丸がどれのことなのかよくわからなかったです。

2020年11月09日 sigesige主税頭信繁
花岡城



昔ながらの住宅密集地で道路は狭いですが、公園として整備されており主郭直ぐまで車で行けます。車10台位は駐車できそうです。


2015年10月09日 かめ〜右兵衛督
花岡城

登城する場合は諏訪湖沿いの釜口水門近くの駐車場に車を止めるのがおすすめです。

2012年09月12日 傾奇揚げ仙兵衛
花岡城

岡谷に来たら『佑庵』ってラーメン屋に行ってみたらあっさりで好みの店です。
鶏ベースのポタージュの様なスープがいいね

花岡城の周辺スポット情報

 高遠城移築門(遺構・復元物)

 A3ラミネートされた説明板(碑・説明板)

 花岡城説明看板(碑・説明板)

 下の城(周辺城郭)

 上の城(周辺城郭)

 萩倉砦(周辺城郭)

 小野峠物見(周辺城郭)

 峰畑城(駒沢城)(周辺城郭)

 高尾山城(周辺城郭)

 橋原の火とぼし山砦(周辺城郭)

 小坂殿屋敷館(周辺城郭)

 岡谷城(島崎城)比定地 小尾口海戸)(周辺城郭)

 岡谷城(島崎城)比定地 天王森(周辺城郭)

 小坂の火燈山(周辺城郭)

 東堀城(柴宮)(周辺城郭)

 山田氏屋敷(周辺城郭)

 横川館(周辺城郭)

 中屋火灯山(周辺城郭)

 今井家屋敷(御小休本陣)(周辺城郭)

 峰畑城(駒沢城)御頭(周辺城郭)

 岡谷城(島崎城)比定地 照光寺(周辺城郭)

 三沢氏居館(周辺城郭)

 鐘突狼煙台(周辺城郭)

 観音院(寺社・史跡)

 岡屋牧(寺社・史跡)

 洩矢神社(寺社・史跡)

 洩矢大神御舊趾(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 公園トイレ(トイレ)

 公園駐車場(駐車場)

 岡谷湖畔公園駐車場(駐車場)

 釜口水門(その他)

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