上ノ平城(うえのだいらじょう)

上ノ平城の基本情報

通称・別名

神之平城、丸山城

所在地

長野県上伊那郡箕輪町東箕輪日向前2699-4他

旧国名

信濃国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

源為公

築城年

平安時代後期

主な改修者

主な城主

伊那氏、知久氏

廃城年

不明

遺構

曲輪、堀切、横堀(空堀)

指定文化財

県史跡(上ノ平城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

福与城(長野県上伊那郡)[4.0km]
藤沢城(長野県伊那市)[8.6km]
有賀城(長野県諏訪市)[11.9km]
高遠城(長野県伊那市)[12.2km]
花岡城(長野県岡谷市)[14.2km]
殿島城(長野県伊那市)[14.5km]
高島城(長野県諏訪市)[15.7km]
諏訪氏城館(長野県茅野市)[15.8km]
朝倉山城(長野県茅野市)[22.5km]
市野瀬古城(長野県伊那市)[22.5km]

上ノ平城の解説文



上ノ平城(うえのたいらじょう)は、信濃国伊那郡(現在の長野県上伊那郡箕輪町東箕輪)にあった日本の城。長野県指定史跡。

概要 

平安時代後期に信濃国伊那谷に土着した源為公(伊那馬大夫為公)によって築かれたと伝えられる。以後、為公の嫡流が代々居住したが、鎌倉時代に諏訪氏の一族にあたる知久氏(為公の後裔とする説もある)の居城となった。

従来、鎌倉初期に城主であった知久信貞が承久の乱の後に下伊那の知久郷へ退去して以降は改築されることなく廃城となったと考えられてきたが、平成に入ってから行われた発掘調査で確認された遺構、遺物から戦国時代にも城として機能していたことが明らかとなった。また、主郭跡の地中から大量の炭化物および焦土が出土していることから、何らかの理由により焼失したものと考えられている。

現在、城跡は県指定史跡となっている[1]

参考資料 

  • 長野県・箕輪町両教育委員会「上ノ平城」説明看板

関連事項 

  • 日本の城一覧

上ノ平城の口コミ情報

2023年01月22日 ともっち♪信濃守
上平出の小城(小条)[上ノ平城  周辺城郭]



『井出の清水』
先人さんが書かなかった伝説を書いておきます〜

「小平物語」 (1687) には次のようなことが書かれている。 織田信長が高島城を水攻めにした時、不思議なことには上平出の天竜川東の山裾に穴が開き、せき止めた湖水の水が激しく流出したため諏訪湖は元のままであった。 その跡からは今もかなりの水が出ている。 これは神力のたまものであろうと言い伝えられている。
と、説明板にありました。

内容的にはむむむ(・ัω・ั)なのですが

このような伝承があるとゆうことは
当時、小平物語に係わった方は織田の配下にはなりたくないとの心情だったのでしょうか?

小平物語 資料 検索すると
京都大学の資料から本文を読むことができます。

信玄から守るために金を埋めた小平道三などの記載もあるらしく…おおっ!ヽ(`▽´)/
と、どんどん読みはずれてしまうのでこのあたりで…m(_ _)mペコリ
埋蔵金はワクワクしちゃいますよね♪


『藤の森湧水』
地元の方の話では上平出コミュニティセンター横の湧き水は雪解け水じゃないかなぁとの事。沸かして飲んでくださいねと言われました。コーヒーやお茶入れるととても美味しいらしいです。

2022年11月15日 ほりーないと
樋口内城(大石城)[上ノ平城  周辺城郭]



中央道建設により姿が変わった樋口内城へ初めて行きましたが、初めてではなかったようです。
中央道を伊那谷から岡谷JCTへ向かって走行すると辰野町でほぼ直線道路になります。ほぼ直線道路を進むと急な坂になります。その坂が樋口内城です。
曲がりくねった中央道ですので、ほぼ直線となる場所ではスピードが出てしまいます。樋口内城の付近では速度監視されています。坂が樋口内城だと意識すれば安全運転になります。

樋口内城から荒神山公園がよく見えます。その公園内にある辰野美術館は荒神山陣場です(緑色の屋根&紅葉の写真)
樋口内城も荒神山陣場も初回は城友さんとご一緒しました。伊那谷のお城の紅葉を撮ろうと約2週間後に再び辰野町へ来ました。樋口内城でカメラが電池切れ、荒神山公園の紅葉が撮れなかったです。樋口内城の菊も素敵でした。次は桜を追いかけて辰野町へ来ようと思います。

2022年11月10日 内記かずりヾ(・ε・。)
狐ヶ城(狐ん城)[上ノ平城  周辺城郭]



狐ヶ城(狐ん城)は上ノ平城の北方約2.7km、標高1120.5mの小式部城山から北西へ延びる山塊尾根上、標高約793mのピークの一つに主郭が存します。西麓の長野県道19号線、伊那辰野停車場線からの比高は80m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは北西麓の尾根末端からで、少し藪ってますが道はちゃんと付いてます。ちなみに尾根の中腹に分岐があるのですがどっちから行っても大丈夫っす。

築城年代、築城者は不明です。長野県町村誌には、狐ヶ城は大久保山にあり、同じ上ノ平城のリア攻めマップにある樋口内城(大石城)の物見の城だとの記述がある。同誌に大石城は永仁元年(西暦1293年)、樋前城城主の樋口長門守光久が、己が城館の大道(不明)より卑下なるを以て大石城を築いて移るとある。樋口内城の口コミと相違が生じるが、人物のみならず城館の名称や経緯に誤伝、混同、推測が見られるのか何れにせよはっきりしない。又、単純に大石城の物見の城とも言い難い面(現地を訪ねてみると理解出来るが大石城は物見を必要としない。)もある。時代的な変遷や二次利用も考慮すべきで、地図上で確認すれば上ノ平城に関連する城砦群の一つとの考え方も成り立つように思える。

お城の現況は概ねで3つの郭を東西に並べた単純な縄張だけど、むしろ3つの段を持つ土塁付きの主郭部て説明した方がしっくりする。これに付随する腰郭も明瞭で、主郭北東側に浅い堀切が1条付く。又、尾根の先端部は広大な平場となっており、此処には櫓台様の高まりが確認出来る。城域最南端の土橋は少し微妙な感じ…

そんなに期待してなかったけど、訪ねてみれば愛すべき小品て感じでした。素晴らしいのは主郭部の切岸で実に見事にエッジが立っている。小さな物見の城としては充分満足出来るでしょう。

「狐」は少なくともこの地方では「物見に携わる者」の隠語で、名称に狐が付く城館や地名は数多い。このお城が物見の城であったとされるのもこれが理由だ。じゃぁ狸はあるのかと言うと、「タヌキ」は宿泊施設の業界用語で「素泊まりの客」を意味するらしいのでおいらは何時でも夕飯抜きのタヌキと呼ばれている訳だ。

2022年11月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
堀の内館[上ノ平城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

堀の内館は上ノ平城の北方約4.8km、沢底川東岸(左岸)、標高約756mの山間平野部河子沢扇状地緩斜面上平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されている(有)タツノ工芸を目標に設定して下さい。後はリア攻めマップで位置を確認しましょう。初回訪問時、自分は地図を見誤って場所を特定する事が出来ませんでした。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明、該地周辺地域は伊那郡と諏訪郡の最短距離を山塊山中で結ぶ峠道の伊那口に当たり「山寺」の地名で呼ばれる。高白斎記、天文十一年(西暦1542年)の条に「九月廿六日辰刻、被仰付候間、高白藤沢口放火、案内者神長一騎、諏訪薩摩守(満隆)方竹慶(竺渓)ハ遅着陣、廿八日乙亥蓑輪次郎(藤沢頼親)出仕、廿九日丙子、信方(板垣信方)上伊那口動、十月大朔日丁丑高白陣所上伊那山寺、七日発末、諏訪西方衆鳴音室(宝)鈴、奉行高白」とあり、上伊那への侵入時に武田勢は山寺に陣を置いた事が判る。現代の人がそうするように中央自動車道を西進し岡谷JCTから中央自動車道西宮線を南下して上伊那に入った訳では決してないのだ。

在地土豪として山寺氏の名が挙がるそうだけど、この居館の主は伝承から堀の内左近の名が伝えられている。が、堀の内の左近さんて感じになるのではっきりした事は判らない。別に武田氏による道押さえの城館で、その存続期間は10年位とも考えられており、左近さんに愛着が持てず姓名が伝わらなかったのは土地の人ではなかったからとの推測が成り立つ。

居館の現況は、耕作地、耕作放棄地、一般住宅とその敷地等となっている。該地とその周辺は耕作地のくせに実に細かく字地名が残っていて、該地だけでも「堀の内」の他、「腰巻」、「日影(本当に日陰になる。)」、「ホウゲ」の字地名を残す。該地の北側には「古屋敷」の字地名が残り、堀の内に比して古い屋敷の存在を示唆している。

該地を間違えてしまい南信の城友さんには苦労をさせてしまいました。申し訳なかったです。堀の内館に関しては発掘調査報告書がネットで落とせるので興味があったらダウンロードするがいいさ。当然全国各地に無数に存在する堀の内のコンプリートを目指しているファンの方はリア攻めを。

※写真7、8が古屋敷の字地名が残る場所っす。

2022年11月07日 ほりーないと
日輪寺[上ノ平城  寺社・史跡]



上ノ平城の城主だった知久氏が鎌倉幕府のできる前年の建久2年(1191年)祈願寺として開いた真言宗の寺と伝えられる。(説明板より)

上ノ平城のすぐ近くにあるお寺です。上ノ平城の案内板を北へ少し過ぎると日輪寺の案内板があります。

知久氏は承久の乱の後に上ノ平城から本拠地を飯田市の知久平城へ移しました。
戦国時代に武田軍との戦いに敗れます。本能寺の変の後に旧領へ復帰しますが、徳川家臣・菅沼氏の謀略により知久家当主・頼氏は切腹。関ヶ原の戦いの後に頼氏の子・則直が旧領の喬木村阿島に陣屋を構えます。

先月、阿島陣屋で和傘(阿島傘)の展示がありました。そこで知久氏の名前の由来が話題になりました。
日輪寺の横を流れる小さな川は「知久沢川」です。飯田下伊那の村誌によると知久氏が上ノ平城にいた頃は「中津乗」と名乗っていたようであるが、知久平城(知久郷)へ移ってから「知久」となり地名も変えたといわれています。
箕輪町誌が私の手元にないので不明な点が多いです。日輪寺の西側は「日輪寺畑(洞田)居館」です。市町村誌などを読み込んで信濃国の調査している城友さんに後はお任せしたいと思います。

日輪寺の紫陽花は美しいそうです。紫陽花の時期に行く事ができず、秋に行ってきました。紅葉も素敵な所です。夏にはフジバカマが咲き、旅する蝶「アサギマダラ」が飛来します。季節を楽しめる所です。

2022年11月07日 内記かずりヾ(・ε・。)
上平出の小城(小条)[上ノ平城  周辺城郭]



上平出の小城(小条)は上ノ平城の北方約6.9km、標高約750mの河岸台地丘陵頂部に城域が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されている北側の上平出コミュニティセンターを目標に設定して下さい。車も堂々と捨てられます。

築城年代、築城者は不明、該地には「小城」の屋号を持つ一般住宅が建ち、「小城」、もしくは「小条」の字地名が残る他、周辺には「北垣外」、「桜垣外」の字地名が残る。小城遺跡として発掘調査が行われているらしいけど、例によってこの手のものは中世の事となると二の次、三の次ぐらいの話になってくるので報告書を探すのは諦めました。これについては信濃のお城の神も未見だと言っている。ちなみに天正(西暦1573年〜1592年)の頃の上伊那十三騎には平出住として平出孫右衛門(百石)の名が見られる。

お城の現況は、耕作地、墓地、空地、一般住宅とその敷地等となっています。周囲より一段高い丘陵一つがその城域となるので纏まりが良い。在地土豪層の居館城の類いと思われますが、湧水の多い場所でもあり住するには適地となっています。又、上平出コミュニティセンターの北側は山塊尾根の末端となり上平出公園として現在整備されているが、公園には法性神社の旧地と伝わる八幡社が鎮座、蚕玉神の石祠が建ち、別に秋葉社と諏訪社の石碑が立っている。火伏せの神を祀る秋葉社の存在から公園のある場所は狼煙台の跡であった可能性を信濃のお城の神は示唆している。

周辺は今も豊富に湧水が出る場所で、上平出コミュニティセンターでは蛇口から自由に水が汲める(藤の森湧水、水質検査はしていないらしいが激美味だそう。ちなみに流しっぱなし。)。平出区誌によると「平出」とは湧水の豊かな土地に付けられた地名(断定は出来ないと考える…何となく有賀峠を越えて伊那郡に至ったと推測される東山道と関係するように思う。)なんだそうで、上水道設置以前の湧水分布図を見ると平出に残っていた井戸や湧水はこの狭い範囲に総計45箇所を数える。城域外南側には「井出の清水」と呼ばれる水神の祀られた湧水もあって、これには織田氏による諏訪高島城攻めに纏わる伝説が小平物語にあるそうだけど、伝説なので敢えて此処では書かない。

※駿州の城友さん、お付き合いありがちょです。

2022年11月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
羽場古城(草間肥前の城・柴河内の城)[上ノ平城  周辺城郭]



羽場古城(草間肥前の城・柴河内守の城)は上ノ平城の北西約3.4km、標高約723mの河岸段丘台地東縁上平場に主郭が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されている小林モータースを目標に設定して下さい。この自動車屋さんとその敷地、隣接する一般住宅とその敷地が主郭の概ねの範囲となっています。

築城年代、築城者は不明、お城の存した中世における宮所郷の範囲は、北限を横川の谷筋に、南限は北の沢川の流れにまで達し、一つの郷としてはかなりの面積を持つ。東流して天竜川に注ぐ南限の北の沢川に沿う形で長さ約1.0kmの舌状台地が延びるが、この台地を古城原と呼び、羽場古城はこの舌状台地の先端部に段を持って縄張が展開、崖下の天竜川の羽場淵に接する。諏訪御符礼之古書、御射山明年御頭足、文明十九年(西暦1487)の条から宮所郷はこの時期、諏訪(高遠)継宗が知行していたらしく、同条に記された鞍懸山御陣は古城原に比定されている。

羽場古城は武田勢が伊那郡に侵入した際には小笠原氏の被官、草間肥前が籠り、その後は柴氏が入ったとされている。柴氏は天正(西暦1573年〜1591年)の頃の上伊那十三騎に柴金兵衛(百卅石)の名が見られ、同名は手長明神棟札には羽場住、盛次の名で見られるんだそう。

お城は国道153号線が南北に縦断、その他改変著しく旧態を見ない。古城原は一面の耕作地と化し一部をソーラパネル群が占拠しているけど周辺から往時の地形が要害地形であった事は充分理解出来ると思います。

谷筋を流れる北の沢川には国の有形登録文化財である「めがね橋」が掛かります。現在の町道509号線はこの煉瓦造のアーチ橋(ちなみにめがね橋と言いながら単眼す。)に大規模な谷筋を埋める盛り土をして南北に川を渡り、明治時代中期以降の渡河点として重用されていました。又、北の沢川が流れ込む天竜川の羽場淵はかつて渦が巻く程の深い流れで、注意喚起を促す河童伝承が永く伝えられていたんだそう。お城は正にその崖上に立地しています。

2022年11月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
新町原田館[上ノ平城  周辺城郭]



たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜

新町原田館は上ノ平城の北西約4.4km、標高約716mの河岸段丘台地上平場に存した居館です。

行き方はGoogleマップに位置登録されているJR飯田線の信濃新町駅を目標に設定して下さい。該地は駅の南端に隣接し、その敷地は軌道敷によって分断されています。

築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。周辺は城館に纏わる字地名が全く無かった場所だそうで、居館は開発行為に伴う発掘調査によって偶然発見されたもの。陶器片、方形竪穴遺構、堀、そして柱穴が多数検出され、堀は幅2.5m、深さ最大で1.2mの薬研堀だったそう。

居館の現況は耕作地、墓地、空地、軌道敷、共同住宅とその駐車場、一般住宅とその敷地等となっています。縄張図を見ると居館の敷地は河岸段丘台地の二段目と三段目に展開し、通称1郭から3郭までそれぞれ段で区切られる。コの字形の堀は開発等でほぼ埋め立てられているが、一部では堀形を想起させる水路が通っている。又、堀は五軒屋川の流れに一部が面し水勢を活用した水堀であった可能性が高いんだそう。

天竜川西岸(右岸)台地上の耕作地へと下る駅近の住宅地の外れである該地周辺だけど、通称2郭と通称3郭に沿う形で鉤の手が存在する。細かく諦めずに見ていくと周辺地形は居館の跡地を想起するには充分なものだと気付くでしょう。

ちなみに軌道敷で分断されているので通称1郭から通称2郭へ渡るには別に遠回りして踏切を越える必要があります。が、単線で本数の少ないJR飯田線の上空なら謎の飛行物体が出現する可能性も高いと思いますので、強烈な光に包まれて一瞬の内に意識を失うかもしれませんが気が付いたら運良く軌道敷を越えて放り出されていた…なんて事がひょっとしたらあるかもしれません。

2022年11月05日 内記かずりヾ(・ε・。)
新町の丸山[上ノ平城  周辺城郭]



新町の丸山は上ノ平城の北西約4.6km、標高約785mの河岸段丘台地丘陵上に城域が存すると推測されます。

※謂わゆるびっくり物件となります。びっくりしたくない方は読まなくてよいです。

行き方は…Googleマップに位置登録されている北側のタケショウを目標に設定して下さい。塗装や特殊印刷を生業とするこの会社から舗装道路を挟んだ南側の小さな独立丘陵が新町の丸山で、現在周辺は丸山公園としてこの小山(頂部に東屋が建つけどとても頑張れねぃ…)を除けばしっかりと整備されています。最初に断っておきますが、新町の丸山の正確な位置は不明で根本的に存在したのかさえ判りません。

新町の丸山は別に碑塚と呼ばれ、新町丸山遺跡として発掘調査が行われている。遺跡からは平安時代の物と推定される鉄製羽釜、中世の製鉄場が検出されています。辰野町誌、歴史編には、天文十三年(西暦1544年)十一月、小笠原勢と武田勢がこの地域で対峙すると、「近辺の百姓等肝を潰して周章し、西東の山奥へ逃げ入る事限りなし。」とあり、信長横死後には上伊那の各衆は山小座へ妻子を籠らせ、辰野の各衆は昔からの小屋場や桑沢山の太郎小座へ妻子を籠らせたとあるそう。これ等は新町の丸山とは別の場所となるのだが、信濃のお城の神は妻子を籠らせ小屋掛けが出来る適地として別にこの新町の丸山を提起しています。

該地周辺は後林と呼ばれる独立丘陵(物見場とも。)の西南麓で、古代〜平安時代に鵜居(うずれい)の里と呼ばれたこの地方の中心地からは山陰となる。中世には製鉄場も存した事から、二次利用も含めて確かに適地とは思うけど山地ではないのが気になるところ…

新町の丸山について調べる事により信長横死後の混乱がこの南信濃にも大きな影響を与えた事実を具体例により知る事が出来た訳だ。伊那郡を封地としていた毛利秀頼は依然不安定だった領国を捨てて尾張に帰還を果たすが、寄り所を失った上伊那の各衆は大海に投げ出され、その存亡を賭けてそれぞれの思慮を巡らす事となる。

2022年11月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
新町の木戸[上ノ平城  周辺城郭]



新町の木戸は上ノ平城の北西約5.0km、標高約769mの河岸段丘台地丘陵上平場周辺に存したと推測される木戸です。

※謂わゆるびっくり物件となります。びっくりしたくない方は読まなくてよいです。

行き方は…Googleマップに位置登録されている癒しの丘(公園なのかな。)を目標に設定して下さい。最初に断っておきますが、木戸の正確な位置は判っておらず、周辺に残された地名「木戸脇」から推測された場所に過ぎません。該地は近世に入ってから整備された春日街道(現在の長野県道88号線、伊那箕輪線とほぼ同じ道筋である。)に続く古道(春日道)が南北に走っていたと推測されます。

春日街道は養父、毛利秀頼の遺領を継ぎ信州飯田城城主、伊那郡六万石の領主となった京極高知が領内の利便性を求めて文禄二年(西暦1593年)から整備を進め、完成は諸事多難にて小笠原秀政時代の慶長十三年(西暦1608年)、奉行である春日淡路守の名を取って春日街道と呼ばれました。現在の伊那市西春近小出から天竜川西岸(右岸)の台地上を抜けて上伊那郡箕輪町(高橋神社付近となる。)に至るほぼ一直線の旧道でした。が、沿道には草木多く、湧水乏しく、人家無く、集落発達せず盗賊出没し盗人街道と呼ばれる有様で、慶安二年(西暦1649年)に伝馬道を東方、台地下に移して廃道となりました。

春日街道に続く中世の古道(春日道)は道筋がはっきりしていないらしいけど、向袋からこの木戸脇付近を通り、同じ上ノ平城のリア攻めマップにある要害付近を抜けて北行するルートがその一つとして推測され、新町の木戸はこれに設けられた木戸であると考えられています。施工主は信濃守護時代の小笠原氏なんでしょかね。

木戸ですわ、木戸…建築基準法第44条にある路上建築物に該当しやす。正確な位置が判っていないので写真も気分で撮れるさ。「木戸脇」の地名付近の適地を勝手に選択、我ながらそれっぽくはあるのだが…

※写真4枚目の草写真が推測される古道(春日道)、現行の舗装道路から道筋が離れる。

2022年11月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
要害[上ノ平城  周辺城郭]



要害は上ノ平城の北西約5.6km、標高約763mの河岸段丘台地緩斜面上平場に城域?が存します。ちなみに「ようがい」とは読まずに訛って「ようげ」と読むんだそう。

※謂わゆるびっくり物件となります。びっくりしたくない方は読まなくてよいです。

行き方は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…とりまGoogleマップに位置登録されている東方の浄土宗の寺院、長久寺を目標に設定するがいいさ、車も捨てられるしね。

同じ上ノ平城のリア攻めマップにある天白の城(天白の古城)の西方約0.3kmに位置し、単純にこれに付随する要害かと想像出来ますが、天白の城とは堀で隔絶している事、近世に入ってから整備された春日街道に続く古道(春日道、同じ上ノ平城のリア攻めマップにある竜ヶ崎城城下を経て北行し小野へ抜ける。)沿いである事等から、中世にはこの古道(近世の春日街道はこの地域において律令制下の東山道とほぼ同じ道筋だったと考えられている。)に設けられた木戸、番所か在地土豪の居館であったのではないかと信濃のお城の神は提起しています。

要害の現況は耕作地、空地、一般住宅とその敷地等となっています。改変著しいのでしょうか、要害は地名として残っているのですが、少なくとも要害地形ではなく守る意識は全く感じられません。天白の城より高台ではあるけど物見台としても微妙、神の提起したとおりだと思います。正しく何の変哲もない住宅街の外れ。居館跡だったと想像してもはっきり言って何も見出せないに等しいと思います(史料が皆無だからか情熱が足りないのか何も感じるものが無い。)。

こんなびっくり物件に南信の城友さんを付き合わせた挙句、通り道だったとはいえ短期間で2回も訪れるという…阿保なんでしょか。

※写真2枚目、遠景中央の頂上が少しだけ禿げたお山が同じ上ノ平城のリア攻めマップにある王城(大城)っす。

2022年11月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
天白の城(天白の古城)[上ノ平城  周辺城郭]



天白の城(天白の古城)は上ノ平城の北西約5.5km、標高約752mの河岸段丘台地東縁上平場に主郭が存します。東麓の国道153号線からの比高は20m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている長野県辰野高等学校を目標に設定して下さい。学校の全てとその周辺の一部が城域です。車は気合いの入った方なら学校の駐車場に捨てられます。

築城年代、築城者は不明、お城の存した宮所郷は横河城に拠った諏訪氏の分流である宮所氏が所領としていましたが、建武二年(西暦1335年)、小笠原氏に従った市河氏によって滅ぼされました。時代は下って天正六年(西暦1578年)の上諏訪造宮帳に「前宮御宝殿造宮 上伊那郡之内宮処、平出両郷 宮処郷 五貫百文 代官 春日河内守」とあるので、この時期、何某かの領主の代官が出張していた事はなんとなく理解出来る。春日河内守は天正十年(西暦1582年)の高遠城落城に際して討死しているそうなので、それ以降は上伊那十三騎の一人、矢島勘六(百石)、その子勘兵衛が保科氏の会津加増移封までの間住していたと推測されています。が、これ等を単純に天白の城の城主だったと判断するのは極めて困難ではありますね。

お城の現況は前述のとおり長野県辰野高等学校の敷地となっています。発掘調査の結果、中世の内耳鍋、陶磁器片、堀の1条が確認され、他に2条の堀の存在が推測されています(て事は連郭なのだ。)。時代ごとの改変が著しく細部は不明ですが、周辺地形から城館が存していた事は充分理解出来ると思います。

日曜日を狙っての訪問でしたが、それでも学校関係者が在勤してました。いきなり車を乗り付けると注意する事もなくこちらをじろじろ…取り付く島が無かったので写真だけ撮って陣払い。目論見的には、「かずり派手に車で乗り付ける。」→「かずり注意される。」→「かずり訪問の目的を告げる。」→「お互い笑顔になる。」だったんすけど…

2022年11月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
横山城(大石平)[上ノ平城  周辺城郭]



!!!PARENTAL ADVISORY!!!

-EXPLICIT CONTENT-

※一部にセンシティブな表現を含みます。18歳未満の方は読む前に親御さんの御判断を仰いで下さい。

横山城(大石平)は上ノ平城の北方約5.5km、標高約799mの河岸台地丘陵上平場に城域が存します。西麓の長野県道19号線、伊那辰野停車場線からの比高は75m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている大石平を目標に設定して下さい。別称にあるとおり現在住宅団地となっている丘陵上の平場が城域で西麓直下には中央自動車道西宮線が南北に走っています。車は捨てるのに少し困りますね。

築城年代、築城者は不明、史料、伝承等も皆無だそう。辰野町遺跡分布図に記載があるらしいのですが、項目のみのようで発掘調査が行われたのかも不明っす。お城の存した平出郷は天正六年(西暦1578年)の上諏訪造宮帳に「前宮御宝殿造宮 上伊那郡之内宮処、平出両郷 一貫三百五十文 代官 平出左馬允」とあるので、何某かの領主の代官が出張していた事はなんとなく理解出来る。が、お城との関係性て事になると史料が無いので詰みとなる。天正(西暦1573年〜1591年)の頃の上伊那十三騎には平出住として平出孫右衛門(百石)の名が見られるが…

お城の現況は一般住宅が立ち並ぶ団地と化していて何が何やらさっぱり…団地となる以前は起伏ある一般的な山地で一部においては耕作が行われていたらしい。かつて大石平の南側には東方の沢底(さわそこ、地名である。)へ抜ける間道が通り、沢底からは山塊山中を通って諏訪郡に入り、北行して有賀峠を越えればアプリ登録城である有賀城の西側へ出る。諏訪郡内において有賀城が武田氏によって重要視(一時期は足軽大将、鬼美濃こと原虎胤が城代であった。)されたのは実に伊那郡との境目であった事がその理由に他ならない。ちなみに沢底は古い読み方だと「させこ」と読むらしいので、沢底に居住する女性を「させこの○○さん」とか言うと大事件に発展するので注意です。

城跡に何にも無いからと言って遠慮していると多くの事を知る機会を見逃す事になる。机上の知識を現地のフィルターを通す事によってただの点が線や面にも繋がったりする訳だ。が、お城としては行ってもしょうもない色物物件である事は間違い無いので悪しからず…

2022年11月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
樋口内城(大石城)[上ノ平城  周辺城郭]



樋口内城(大石城)は上ノ平城の北西約3.6km、標高約726mの河岸台地丘陵上平場に主郭が存します。同じ上ノ平城のリア攻めマップにある荒神山陣場の東方至近に位置し、荒神山も含めた周辺地域は天竜川の氾濫原へ向けて台地が大きく張り出す形となっている。

行き方はGoogleマップに位置登録されている東部保育園を目標に設定して下さい。城域はこの保育園から中央自動車道西宮線を挟んだ東側の丘陵地頂部へ向けて展開しています。少し前までは半ば腐った標柱が立っていたらしいけど、いくら探したってもう見付からないでしょう。

築城年代、築城者はとりま不明、このお城に関しては信濃の山城と館5、上伊那編よりも「伊那の古城」の方が遥かに詳しい。が、神本では史料が皆無である事から敢えて長野県町村誌の記述を引用しているのみなのに対し、後者では「樋前の城」として木曽義仲四天王の一人、樋口次郎兼光が城館を構えた(根拠に乏しい。)とし、兼光が誅された後は伊那郡平出の地を頼朝に安堵されたその遺児、樋口左近兼重の曾孫、大学頭光頼が当地に還住し、応仁元年(西暦1293年)、大石城として築城に及んだとしている。これ等の出典が不明なので事実として確認出来ないけど、少なくとも樋口氏の子孫は同地において存続、天正(西暦1573年〜1591年)の頃の上伊那十三騎には、樋口七郎右衛門(百五拾石)、樋口茂兵衛(百石)、樋口清右衛門(百石)の名が確認(伊那古道記)出来ます。七郎右衛門は別に左近光教と称し保科氏に出仕、保科氏の会津加増移封に同道したんだそう。

お城の現況は凄く難しい…中央自動車道西宮線の建設に伴い発掘調査が行われており、信濃のお城の神が描いた縄張図もその結果を元にしている。主郭、主郭と堀で隔てられた通称二の曲輪、それ等に付随する腰郭等で縄張は構成されるが、明治時代初頭に編纂された長野県町村誌でも「…その城判然ならず…」と記述があるので現代においては尚更でしょう。耕作地に変貌した段の付いた平場を往時の郭跡と見る事は可能だけど…

鎌倉殿の13人で一躍脚光を浴びた一本眉の巴御前は樋口兼光の娘、もしくは姉妹と平家物語等の軍記物では設定されています。秋元才加演じる巴御前に度肝を抜かれたて方は訪ねてみるのも一興す。ちなみに直江兼続は兼の通字を持つ事から解るようにこの樋口氏の後裔とされています。

2022年10月31日 内記かずりヾ(・ε・。)
荒神山陣場[上ノ平城  周辺城郭]



荒神山陣場は上ノ平城の北西約3.9km、天竜川東岸(左岸)、標高約765mの河岸台地丘陵頂部に城域?が存します。西麓の天竜川からの比高は60m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている辰野美術館を目標に設定して下さい。荒神山の比高は低いけど河岸台地上の完全独立丘陵で陣場として用いるには最適なんでしょう。が、現在は全山が荒神山スポーツ公園等として大幅に改変されており、体育館、美術館、ホテル等の施設が各所に建つ小山となっています。信濃のお城の神は陣場の適地として2箇所を推測していますが、それが荒神山最高所に建つ配水池周辺と辰野美術館周辺となります。正直別に決め撃ちしなくてもいぃんじゃねぇ…て感じにはなるけど…

陣場が存した荒神山は武田勢の伊那侵入に対する押さえとして小笠原氏の被官、草間肥前が置かれ、箕輪記によるとこれ等伊那衆は武田勢に打ち負け、荒神山には逆に武田勢が陣立てしたそう。武田勢による同じ上ノ平城のリア攻めマップにある羽場古城攻めに際しては荒神山から軍勢を出立させた事はほぼ間違いないでしょう。

陣場の現況は…山容自体が変わってるらしいので頑張っても何も見付からないと思います。前述のとおり決め撃ちしなくても荒神山全体を陣場として見る事も可能でしょう、対峙する方角で話が変わってくると思うし。

江戸時代後期の国学者、松沢義章の洲羽国考によると、この辺りには一里四方の湖があり、「天ノ竜ノ海」と呼ばれていたそう。天竜川はかつて荒神山の東側を流れていたのが西側を流れるようになり、湖も沼となり、やがて干潟となって辰野の地名が残されたんだとか。ちなみに荒神山は樋口地籍に存しますが、「樋口」は水の出る場所の意味を持つんだそう。辰野には他にも竜に仮託した類似の伝説が伝えられていたりなんかしますね。

2022年10月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
古城(平出の古る城・高住城)[上ノ平城  周辺城郭]



古城(平出の古る城・高住城)は上ノ平城の北西約5.0km、天竜川東岸(左岸)、標高約715mの河岸台地上平場に城域が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されている古城のケヤキを目標に設定して下さい。その周辺が概ねの該地となっています。車は南側の辰野町立辰野中学校(現地に行けば解るけど駐車場には勝手に入れる…)にでも捨てればいいさ。

築城年代、築城者はとりま不明…以下は明治時代初頭に編纂された長野県町村誌を要訳したもの。ただ間違えてるかもしれん…

暦応年中(西暦1338年〜1341年)、木曽讃岐守家村(木曽氏中興の祖、木曽義昌の御先祖様っす。後世の人間はまんまとして騙されてるけど、少なくとも血筋的には義仲と無関係、源氏ではない。出自は藤原秀郷流沼田氏、本姓は藤原氏、源氏を称するのは史料上から室町時代後期、興禅寺に寄進した梵鐘銘から。)が足利尊氏に従い功があった事から本領木曽に加え伊那郡中に所領を賜り、その際に家士の出張があった城、その後に大隈と名乗る士が住し、天正年中(西暦1573年〜1591年)には武田氏被官の曲淵荘左衛門尉が住する。甲州武州十二騎が在番するも天正十年(西暦1582年)三月以来、各人は知行所に引き籠り御役御免となったそう。…すげぃ頑張ったょ…

お城の現況は写真のとおり改変著しく遺構は消滅、往時からあったとは思えないけど、城域を証明する「古城のケヤキ」が目標として屹立しています。長野県町村誌には古城の絵図が掲載されているのですが、このケヤキがしっかりと描かれている。少なくとも明治時代初頭には古木として認知されていたのでしょう。ちなみに推定城域を東西に縦断する舗装道は城前線、これが天竜川を渡る橋を城前橋て称します。

謂わゆる街中遺構ハントとなりますが、その中でも上級者向けとなる交差点を含む交通量の多い場所が該地です。美少年だから何をやっても微笑み一つで許されるけど、中学校に隣接してるんで当日が日曜日で本当に良かった。

※写真4は天竜川対岸から見る古城遠景っす。

2022年10月30日 内記かずりヾ(・ε・。)
政所[上ノ平城  周辺城郭]



政所は上ノ平城の北西約4.6km、天竜川西岸(右岸)、標高約730mの河岸段丘台地上平場に城域?が存します。

行き方はGoogleマップに位置登録されている空手道誠志館を目標に設定して下さい。道場の周辺が概ねの該地となっています。車は飯田線の伊那新町駅西側に建つ新町コミュニティセンターの駐車場にでも捨てるがいいさ。

信濃の山城と館5、上伊那編に記載があるのですが、「伝承、史料等は見当たらない。」と初っ端から突き放された記述が…じゃぁなんでなの?て話に当然なるけど、該地は「政所」の地名を残しているからなんす。政所て言うからには何らかの地方行政機関が置かれていた場所て事になりますね。

従ってその城域?すらも明確ではなく、信濃のお城の神が描いた縄張図も推測に過ぎません。該地周辺は住宅地に変貌していてとっ散らかった印象、むしろ縄張図を無視して現地で水路なんかを追った方がそれっぽいかな。当然往時の堀形とはとても考えられないんだけど…

かつて「鵜居(うずれい)」の里と呼ばれた地はこの地方の中心地であったらしく、それは政所の南西約0.3kmの場所に位置していたらしい。それがどの時代の事かははっきりしないけど政所が置かれる立地としては充分て事なんじゃないでしょか。ちなみに鵜居は上諏訪造宮帳に「神戸宇津羅井」として見られるそう。

現況はどう頑張っても住宅地、難し過ぎますわ…前述の様に水路に堀形を求めようとはしましたけど何れにせよ中世より以前の話だと思うので該地は時代ごとの大幅な改変があるのかと思います。つまりは遺構は消滅…痕跡すらも残っていません。

謂わゆる街中遺構ハントとなります。住宅地の中の探索は該地が「此処ら辺」であったとしか結果が残りません。

2022年10月29日 内記かずりヾ(・ε・。)
丸山[上ノ平城  周辺城郭]



丸山は上ノ平城の北方約6.2km、標高1027mの大城山の南方裾野、標高約765mの河岸台地丘陵頂部の一つに城域が存すると推測されます。南東麓の辰野球場(丸山球場)からの比高は25m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている南東麓、前述の辰野球場を目標に設定して下さい。球場に隣接する小山が該地となります。

信濃の山城と館5、上伊那編に記載があり、同じ上ノ平城のリア攻めマップにある丸山秋葉砦の項に付随して記述があります。推測地である丸山秋葉砦のおまけ扱いである色物中の色物物件…此処での丸山は山名てよりは地名感覚なんでしょう。山とは言いながら実際は独立した丘陵、集落内のレモンケーキの様な可愛い小山です。

まぁ丸山ですわ、丸山…信濃では丸山の名称を持つ城館が数多く存在しており、この辰野町だけでも2箇所を数える。砦である事が殆どで総じて薄い印象、地山に近いものが多いっす。独立した丸い山には何かしら人を引き寄せるものがあるんでしょかね。簡単に囲まれても別に構わないんでしょう。

同じ上ノ平城のリア攻めマップにある王城(大城)、竜ヶ崎城に連なる砦と推測出来ますが、大兵を引き寄せ易いので禍乱時に兵は置かないものなのでしょう。丸山北側の周辺は地名(上方、上屋、集落の上限を物語るそう。)から根小屋の存在を窺わせるそうなので、これに付随する平時の物見台の類いかと考えます。

現況は南中腹に墓地、丘陵頂部はある程度の削平があったかもしれません。此処には祠や石板が立っています。ただそれだけ。丸山なんでそれでいいと思います。

信濃のお城の神は展望が絶佳であると褒めているけど本当なんか…雑木が邪魔して何も見えないっす。しかし…物見台程度の推測地を書くのに添削含めて約1時間…やっぱり阿保なんだろうなぁ…

※写真5は登城口…てか南中腹の墓地に至る道、墓地に着いたら後は適当頑張って下さい。

2022年10月29日 内記かずりヾ(・ε・。)
丸山秋葉砦[上ノ平城  周辺城郭]



丸山秋葉砦は上ノ平城の北方約6.2km、標高1027mの大城山の南方裾野、標高約779mの河岸台地丘陵頂部の一つに城域が存すると推測されます。南西麓の辰野球場(丸山球場)からの比高は40m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されている秋葉神社を目標に設定して下さい。神社周辺とその南側の下辰野公園が概ねの該地となっています。

信濃の山城と館5、上伊那編に記載があるのですが、信濃のお城の神は「史料、伝承等はないが…」と前置きして、当地が要衝である事、同じ上ノ平城のリア攻めマップにある王城(大城)の根小屋が該地以外には考えられない事、火伏せの神を祀る秋葉社の存在がかつての狼煙台跡を窺わせる事等を踏まえて推測としてこの丸山秋葉砦(仮称である。)を提起しています。

砦の現況は公園化によって大きく改変されており旧態を想像し難い。城域北端には土塁が残り、秋葉神社自体は土塁上に鎮座している。又、改変でなければ帯郭条の腰郭が付き、削平地には土壇様の高まりも確認出来る。該地に山側から入れば要害感は充分伝わるし、周辺は砦としても根小屋としても怪しい地形が連続する。

信濃のお城の神は辰野町が居住地に近い事がその理由なのか、字地名等からこの地域の結構な色物物件を紹介してくれているけどこれもその一つとなります。該地の一部分である下辰野公園には忠魂碑の他、伊藤大八像、矢ヶ﨑克己像なんてのも建ってたりするんですが、両名が何を成した人なのかはさっぱり不明…調べる気にもなれないので個人的には謎偉人として片付けときます。

※駿州の城友さんにお付き合いさせてしまいましたが、まぁ白い目で見られた事でしょう。おいらが基本ソロめぐら〜なのはそれが理由だw人を楽しませるのは到底無理だが自分の目標を違える事も絶対に無いのさ。

2022年10月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
王城(大城)[上ノ平城  周辺城郭]



王城(大城)は上ノ平城の北方約6.9km、標高1027mの大城山山頂に主郭が存します。南麓の辰野球場(丸山球場)からの比高は290m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。比高は結構あるのですが、日本中心の標に至る林道王城枝垂栗線てのが山塊山中を南北に縦断しており車で登れて且つ駐車場も付いてます。が、大城山への分岐の所から道は悪くなるので潔く此処に車を捨てるのがよいでしょう、歩いても大した距離ではないけど坂道なのが辛いところ…

該地は単純に遮るもの無く辰野町市街地が一望出来る観光スポットの一つでもあり、武田信玄狼煙リレーのポイントの一つでもあるみたい。

築城年代、築城者は不明です。現代においてもそうですが、中世の辰野(実は意外にもはっきりしない事だらけ…辰野町誌もあえて多くは語らない。)は交通の要衝、諏訪郡から天竜川沿いに進めば辰野を経て伊那、飯田に至り、塩尻峠の戦いの場にも比定される善知鳥峠を越えれば小笠原氏の本拠であった府中に至る。武田氏の勢力が伸張する以前は小笠原氏の影響力の及ぶ地域であった事は疑いが無く、小笠原氏に関係する狼煙台、物見台であったと考えるのは自然でしょう。又、王城の名称も気になるけど、親王とか坂上田村麻呂とかのその辺の話になってくるので無視する方向で…

お城の現況は大城山展望台として変貌、整備されていてすっきりとした印象、長方形の主郭に腰郭の付いた単純なものとなっています。遺構としては堀切、竪堀、土塁が、他には横堀様の地形なんかも確認出来ます。竪堀の内2条は集合し、且つ長大だったりするんですが、写真は死ぬ程難しいのですっぱり諦めて下さい。全体的には当然改変も含んでいるので薄いっす。

信濃のお城の神マジックで俯瞰図なんかを見ると「おぉぉっ!」とかなったりするんですが、現地を実際に訪ねると「おろろっ?」てなったりします。ただ此処から見える展望は素晴らしいし、夜景なんか見に行ったら最高なんじゃないでしょか。従って夜間の訪問を推奨しますが、夜中に1人で訪ねるには勇気が必要、意中の人を誘って行けば「もぅいいから早く帰ろうょ…」とか言われると思います。

2021年09月27日 ほりーないと
羽場城[上ノ平城  周辺城郭]



1年程前に上ノ平城で会った人に「お城好きならJR飯田線羽場駅のすぐ近くにある羽場城へ行ってみて下さい」と教えてもらい、どんなお城なのか聞かずに訪ねました。最初に目に入ったのは遺構ではなくマレットゴルフ場! 長野県内には色んな所にあるマレットゴルフ場、本丸に堂々とコースがあるお城もあります。羽場城のコースは特別です。堀底や土塁の上にコースがありマレットゴルフをプレイすると自然に城攻めができます!

松尾城の小笠原貞宗の四男重次郎が築城したといわれています(詳しくは説明板の写真をお読み下さい)。マレットゴルフ場だけでも驚きですが、JR飯田線が突っ切っています。この電車に乗れば飯田市の松尾城へ行けるなと考えてしまいました。

訪城した人の見方によって変わるお城かもしれません。私は堀底でマレットゴルフをプレイしたいと思いました。

写真
①手長神社
②③説明板
④東側の空堀
⑤西側の空堀
⑥主郭から天竜川を望む
⑦土塁の上のマレットゴルフコース
⑧羽場城を通るJR飯田線

2021年07月05日 くっしー大学頭尚人
上ノ平城



高台にあるので、住宅街からどうやって行くのか迷いました。看板があって、細い道を抜けると、広い耕作地になっているのですが、ここが城跡です。

史跡について説明した看板を通り過ぎ、50メートルほど行くと、東屋があり、車を数台止められるスペースがありました。遺構として、空堀は見映えしますが、曲輪はだだ広い耕作地・空き地となっていて面白くありませんでした。眺望はなかなかいいですけどね😄

2020年08月30日 まるぴっと
上ノ平城



広い東屋があり駐車場と簡易トイレもあります。見晴らしも良く、天竜川の見事な河岸段丘と豊かな農作地を眺めることができます。中央アルプス絶景です!

2015年07月27日 摩虎羅**
上ノ平城

南北5本の空堀で4つの郭に区切られてます。主郭からの空堀は見応えあります。
主郭にはラベンダー等の花もあり場所も高台なので、山並みや町の景色も堪能できます。

入口にはポストがあり「東山山麓歴史コース」と、城跡周辺の文化財などを記載した手作りの地図&説明書が入ってます。
お時間あれば一緒に巡られるのも良いと思います。

2012年03月03日 赤いRVR甲斐守@松本
上ノ平城

県道竜東線東箕輪農協から真っすぐ東へ行くと、地区の公民館があり、そこに案内看板があります。少し道は狭いですが、普通自動車なら余裕。遺構は全体的に耕作地で、堀切の一部は埋められているものの、主郭裏手のものなど、見事な遺構も残存している。最近駐車場も作られた。トイレもある。

上ノ平城の周辺スポット情報

 上ノ平城(碑・説明板)

 龍ヶ崎城(周辺城郭)

 大出城(周辺城郭)

 羽場城(周辺城郭)

 丸山(周辺城郭)

 丸山秋葉砦(周辺城郭)

 王城(大城)(周辺城郭)

 横山城(大石平)(周辺城郭)

 狐ヶ城(狐ん城)(周辺城郭)

 要害(周辺城郭)

 天白の城(天白の古城)(周辺城郭)

 新町の木戸(周辺城郭)

 政所(周辺城郭)

 新町原田館(周辺城郭)

 羽場古城(草間肥前の城・柴河内の城)(周辺城郭)

 上平出の小城(小条)(周辺城郭)

 荒神山陣場(周辺城郭)

 堀の内館(周辺城郭)

 樋口内城(大石城)(周辺城郭)

 古城(平出の古る城・高住城)(周辺城郭)

 新町の丸山(周辺城郭)

 日輪寺(寺社・史跡)

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