樋口内城(大石城)
樋口内城(大石城)([上ノ平城 周辺城郭])
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樋口内城(大石城)の口コミ情報
2022年11月15日 ほりーないと
中央道建設により姿が変わった樋口内城へ初めて行きましたが、初めてではなかったようです。
中央道を伊那谷から岡谷JCTへ向かって走行すると辰野町でほぼ直線道路になります。ほぼ直線道路を進むと急な坂になります。その坂が樋口内城です。
曲がりくねった中央道ですので、ほぼ直線となる場所ではスピードが出てしまいます。樋口内城の付近では速度監視されています。坂が樋口内城だと意識すれば安全運転になります。
樋口内城から荒神山公園がよく見えます。その公園内にある辰野美術館は荒神山陣場です(緑色の屋根&紅葉の写真)
樋口内城も荒神山陣場も初回は城友さんとご一緒しました。伊那谷のお城の紅葉を撮ろうと約2週間後に再び辰野町へ来ました。樋口内城でカメラが電池切れ、荒神山公園の紅葉が撮れなかったです。樋口内城の菊も素敵でした。次は桜を追いかけて辰野町へ来ようと思います。
2022年11月01日 内記かずりヾ(・ε・。)
樋口内城(大石城)は上ノ平城の北西約3.6km、標高約726mの河岸台地丘陵上平場に主郭が存します。同じ上ノ平城のリア攻めマップにある荒神山陣場の東方至近に位置し、荒神山も含めた周辺地域は天竜川の氾濫原へ向けて台地が大きく張り出す形となっている。
行き方はGoogleマップに位置登録されている東部保育園を目標に設定して下さい。城域はこの保育園から中央自動車道西宮線を挟んだ東側の丘陵地頂部へ向けて展開しています。少し前までは半ば腐った標柱が立っていたらしいけど、いくら探したってもう見付からないでしょう。
築城年代、築城者はとりま不明、このお城に関しては「信濃の山城と館5、上伊那編」よりも「伊那の古城」の方が遥かに詳しい。が、神本では史料が皆無である事から敢えて「長野県町村誌」の記述を引用しているのみなのに対し、後者では「樋前の城」として木曽義仲四天王の一人、樋口次郎兼光が城館を構えた(根拠に乏しい。)とし、兼光が誅された後は伊那郡平出の地を頼朝に安堵されたその遺児、樋口左近兼重の曾孫、大学頭光頼が当地に還住し、応仁元年(西暦1293年)、大石城として築城に及んだとしている。これ等の出典が不明なので事実として確認出来ないけど、少なくとも樋口氏の子孫は同地において存続、天正(西暦1573年〜1591年)の頃の上伊那十三騎には、樋口七郎右衛門(百五拾石)、樋口茂兵衛(百石)、樋口清右衛門(百石)の名が確認(「伊那古道記」)出来ます。七郎右衛門は別に左近光教と称し保科氏に出仕、保科氏の会津加増移封に同道したんだそう。
お城の現況は凄く難しい…中央自動車道西宮線の建設に伴い発掘調査が行われており、信濃のお城の神が描いた縄張図もその結果を元にしている。主郭、主郭と堀で隔てられた通称二の曲輪、それ等に付随する腰郭等で縄張は構成されるが、明治時代初頭に編纂された「長野県町村誌」でも「…その城判然ならず…」と記述があるので現代においては尚更でしょう。耕作地に変貌した段の付いた平場を往時の郭跡と見る事は可能だけど…
鎌倉殿の13人で一躍脚光を浴びた一本眉の巴御前は樋口兼光の娘、もしくは姉妹と平家物語等の軍記物では設定されています。秋元才加演じる巴御前に度肝を抜かれたて方は訪ねてみるのも一興す。ちなみに直江兼続は兼の通字を持つ事から解るようにこの樋口氏の後裔とされています。