桜城(桜井城・湯沢城)
桜城(桜井城・湯沢城)([山吹城 周辺城郭])
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桜城(桜井城・湯沢城)の口コミ情報
2025年11月14日 内記かすりヾ(・ε・。)
桜城(桜井城・湯沢城)は山吹城の南方約1.3km、諏訪湖の湖北地域、標高1075.mの山稜山頂から南西へ伸びる尾根末端部上、標高約874m地点の平場を中心に立地する要害です。南麓の城の腰館(!)からの比高は65m位でしょか。南面は諏訪湖の北方山塊が平地に消える丘陵台地を形成する場所に接している。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は前述した、同じく位置登録がある「城の腰館」に捨てるのがよい。立派な名称だけど単なる地区のコミュニティセンター、調べていないが地籍が「城の腰」なんだろう。
築城年代は不明、築城者は金刺氏です。同氏の出自は途方もないので此処では問題にしないが、それこそ「科野国造」に関わるような古代氏族(金刺舎人、金刺部)であり、その末裔は諏訪社下社の祝部、大祝家として存続した。
平安時代には武士団化しており、治承、寿永の乱の際には木曽義仲に従った、金刺(諏訪)盛澄、その舎弟、手塚太郎光盛の活躍で知られる。寿永二年(西暦1183年)六月一日、「倶利伽羅峠の戦い」に続く、「篠原の戦い」において、総崩れとなった平氏勢の殿軍を引き受けて奮戦した義仲の恩人、斎藤別当実盛を討ち取ったのは光盛である。又、義仲の滅亡後に捕縛された盛澄は弓の名手として高名であり、源頼朝から流鏑馬の難題を押し付けられても見事にクリアー、義仲の郎党でありながら特に赦され、金刺氏は御家人の列にその名を連ねている。
桜城は金刺氏の大城(本城)であり、大祝が居した「神殿(ごうどの)」の北門から秋宮を経て不明門を出れば同城は指呼の距離だ。下社の内では最も早い時期に普請された要害であったろう。又、あくまで個人的にだが、廃城時期は下社とその一帯が上社勢に焼かれた、文明十五年(西暦1483年)三月を推測している。
「高白斎記」、天文十二年(西暦1543年)の条には、「七月十五日戌午、下宮ノ城普請初、二十八日御帰府、」とあり、武田氏によって「下宮ノ城」が普請されている。同城は桜城の事であろう。鎌倉道を前にし、小県郡へ抜ける和田峠道を北西に控える同城の立地が再び有用と家中で取り沙汰されたのかもしれない。
縄張は当然、武田氏による改修後のものである。主郭と、信濃のお城の神が描いた縄張図における、通称、二の曲輪、水の手曲輪で構成され、斜面上には南面を中心に帯郭状の腰郭が雛壇状に付いている。城郭遺構としては、主郭北東側山側背後に四連続堀切+竪堀が確認出来るが、この竪堀間には更に数条の竪堀が+されている。こう書くと立派だが、肝心の部分は藪に覆われている上に後世の登山道としての改変もあり、鑑賞には少し厳しいものがあるかもしれない。藪が消えれば色々と新たな発見も出来そうなのだが…
城山は個人所有のお山であるが、所有者(城山会)の方は大変理解のあるお方、訪ねて来る人を歓迎してくれる。獣柵ゲートの貼り紙には…
「お客様への「お願い」です お入りの時及びお帰りの際はその都度必ず戸を閉めて(鎖をかけて頂く)よう切にお願い申し上げます 鹿などの侵入により山頂の花が食害にあうのを避けたいためです ご面倒とは思いますがどうかよろしくご協力賜ります様よろしくお願いします」
…こんな暖かい愛の溢れる注進書きを見た事が無いわ…「普通、開けたら閉めるやろ、この阿保んだらがーっ!」みたいなのが殆どだけど、読み終えたこっちも、「今後のUNICEFへの毎年の寄付を十倍の1000万円に引き上げようかな…」等と優しい気持ちになってしまうわ。
※特に赦され〜取りなしたのは讒言野郎、梶原平三景時である。高島城のリア攻めマップにある梶原塚は、盛澄が恩人に報いるために五三の桐の太刀を納めて造立した。
※四連続堀切+竪堀〜写真がどうしたって上手く撮れない。なんじゃこりゃ写真を量産する。
※UNICEFへの毎年の寄付〜するなら当然ながら黒柳徹子さんルートを使おう、全額が純粋に寄付される。
2024年05月01日 国府左京大夫城介
諏訪大社秋宮の背後にある下社大祝金刺氏の居城
【歴史】
築城年代は不明だが、下社大祝である金刺氏が築いた。永正15年(1518)に金刺昌春は、上社の諏訪頼満によって諏訪を追われると、武田信虎の下へ逃げ込んだ。武田信虎の助力を得ながら、故地の回復を目指したが失敗している。享禄4年(1531)に、飯富虎昌や今井信元らが信虎に叛乱を起こした際に戦死したため、金刺氏は遂に滅亡した。
その後、武田信玄によって諏訪が統治されると、諏訪統治の拠点として、上原城と下宮の城を修築している。この下宮の城が桜城のことと考えられている。武田氏が滅亡すると、廃城になったようである。
別名:桜井城、湯沢城
【遺構】
諏訪大社秋宮の北約0.4kmに位置する山(標高874m/比高88m)に築かれた山城である。
主郭は開墾により地形が変わっているようで、単なる平坦地となっている。西側に虎口があり、途中に馬出のような小さな曲輪があり、その下に二の曲輪がある。二の曲輪に北側に二条の竪堀が掘られている。主郭下には複数の腰曲輪があるが、段々畑としても利用されているので、実際に造成されたものかは分からない。
主郭の尾根側は、四条の巨大な堀切で遮断しており、かなり下まで竪堀として落としている。三条目の堀を越えると、後曲輪があり、L字型の土塁がある。また、北側の途中には水の手曲輪があり、井戸も残っている(未確認)。
【感想】
諏訪大社秋宮の背後を守る城ですが、大祝の金刺氏だけでなく、武田氏の手も入ったお城です。おそらく主郭背後の四条の堀切などが武田氏による改修と推測されています。主郭からの眺望はよく、秋宮や諏訪湖、塩尻峠を見渡すことができ、正に軍事的な要衝として武田氏も活用したことは納得することが出来ます。
主郭周りは、地元の方々により公園として整備され管理されているのでかなり見やすいですが、背後の四条の堀切は藪でやや遺構は見難いところがあります。水の手曲輪の方を見落としていたので、再訪する際はそこも確認したいです。
また、二の曲輪を更に下った所には一念石があります。一念石は、鎌倉時代初期の弓馬の達人である金刺盛澄(諏訪大社秋宮の駐車場にある銅像)が、この地で座禅を組んで技を研ぎ澄ましたと伝わる場所です。百発百中にあやかり合格・当選・縁結び・子授けなどの御利益があるようです。
【アクセス】
下諏訪駅から徒歩で約20分。
主郭の南東側には駐車場がある。
【写真】
①麓から望む
②主郭背後の堀切(一条目)(登城路)
③主郭背後の堀切(四条目)
④後曲輪の土塁
⑤主郭
⑥主郭からの眺望
⑦二の曲輪の竪堀
⑧一念石









