木曽義仲のやぐら(矢倉)
木曽義仲のやぐら(矢倉)([山吹城 寺社・史跡])
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木曽義仲のやぐら(矢倉)の口コミ情報
2025年02月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
⭐︎⭐︎「義仲・巴の〜伝承、伝説地探訪!」⭐︎⭐︎
帰って来たかずりの自己満足口コミシリーズ、おいらの推し武将である木曽義仲関連の伝承、伝説地を丁寧に御紹介〜ちなみに全国約600箇所に及ぶので終わるまで付き合ってもらいやす…
木曽義仲のやぐら(矢倉)は山吹城の南方約1.4km、同じ山吹城のリア攻めマップにある桜城の城山、南西斜面中腹に掘られた矢倉です。但し、皆が想像する櫓ではなく、ただの蔵なんで悪しからず…
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は城山南麓の公民館、「城の腰館」(!)に捨てられる。判り難い山道を登るが、熱狂的義仲様ファンのおいらは暖かい淡い光に包まれて導かれる様に辿り着いている。
面倒なんで現地説明板をフルコピしてどんなもんなんかを説明しよう。
「木曽義仲(幼名 駒王丸)は二歳の時、父義賢はその兄義朝との争いで義朝の子義平に殺された。義朝は後難を恐れ、駒王丸も殺すよう畠山重能に命じたが、重能はわずか二歳の幼児を殺すにしのびず武蔵の住人斎藤別当実盛に預けた。実盛は東国に置いては危ないと駒王丸の乳母の夫中原兼遠に託した。中原兼遠は中三権守とも呼ばれ、諏訪大社下社の神官でもあり木曽出身であった。母小枝とともに下社の地にかくまわれたというが、この地も危険と木曽へ移された。ここは下社大祝の山城桜ヶ城の中腹にあたる。その言い伝からここに矢倉(武器を納めておく蔵)を築いた。幼い日の義仲はこのあたりを駆け回って育ち、秋宮の森からこの桜ヶ城への道すじがいちばんの遊び場だったであろう。誰が名付けたかこの坂道を駒王坂という。」
…愛があり過ぎて困っちゃうんだけど、挙兵以前の事跡が全く不明な義仲の幼少期を語られても何だかねぇ…て感じ。諏訪社に伝わった伝承なんだろうけど、事実としては到底受け入れ難いものがある。但し、別の伝承によれば、下社の宮司、金刺盛澄に一時期預けられて修行したとも伝わり、諏訪社と義仲の関係性を無下に否定する事も出来ないだろう。金刺盛澄、その舎弟、光盛は義仲挙兵当時からの腹心であり、そうした経緯には、以前から上記事柄のような何かしらの繋がりを両者の間で共有していたから…等と考えてみても決して飛躍ではないと思う。
矢倉の現況は…前述したとおり、桜城の城山、南西斜面中腹に掘られた横穴状の小さな穴蔵となっている。が、本当なんか…こり…矢倉なら郭内に設けなければ全く意味が無いんじゃ…むしろ寄せ手に矢玉を給する事にもなりかねん。後世、何か別の目的で掘られたものだと思うんだけど…ちなみに「この中へは入らないで下さい。」て注意書きの看板が立っている。頼まれても入らないんで安心してつかぁさい。
駒王坂の位置が不明、矢倉に至る手前の山道を指して言うのかな。ひょとしたら幼少期の義仲様が駆け上がった坂なんだろうけど、桜城の大手筋とは異なるようだ。熱狂的な義仲様ファンには、駒王坂を匍匐前進で登り、真冬の矢倉の中の一夜を御嶽山Tシャツ1枚で過ごし、頼朝、範頼、義経への恨み節を朝日を見るまで唱え続ける…てのが慣例とされているんだけど、あの注意書きさえ無かったらなぁ…残念無念のかずりであった。
※付近には矢竹が群生している。
※「諏方大明神画詞」によれば、金刺盛澄は義仲を婿としたとする。
※中原兼遠は中三権守とも呼ばれ、諏訪大社下社の神官でもあり〜兼遠が神官であった事に確証は無い。
※金刺盛澄、その舎弟、光盛〜義仲の恩人である斎藤別当実盛と組み討ちして首級を挙げたのは金刺(手塚)太郎光盛である。場面は「平家物語」のハイライトの一つだ。