大島氏館(古城)
大島氏館(古城)([山家城 周辺城郭])
山家城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「大島氏館(古城)」の地図・口コミがご覧頂けます。
※「ニッポン城めぐり」アプリでは、スタンプラリースポットとなっている3,000城それぞれの地図に、周辺城郭や史跡など、様々な関連スポットを自由に追加できます。
大島氏館(古城)の口コミ情報
2023年11月04日 内記かずりヾ(・ε・。)
大島氏館(古城)は山家城の西南西約0.5km、薄川(すすきがわ)北岸(右岸)、標高約862mの河岸段丘台地緩斜面上平場に立地した居館です。該地は山家城の南麓であり、「古城の窪」と呼ばれる。又、此処より一つ西側の窪地は「古家の窪」と呼ばれ、徳雲寺の旧地を含んでいる。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さい。周辺に目標となるものがありまてん…山家城の辛い方の登城路入口手前の一帯が該地です。
築かれた年代は不明、お住まいに成られていたのは大島氏と推測されている。「長野県町村誌」には、「中入城の麓に古城といふ所あり。口碑にいふ明応年間(西暦1492年〜1501年)小笠原の家臣大島為永居館を設け、数世居住せし処なりと。」とある。諏訪氏系山家氏の滅亡に伴い、折野氏と共に入部したものだろうか。他に大島氏の事跡は伝わらない。又、該地は「古城」と呼ばれる訳だが、諏訪氏系山家氏の居館地であった可能性もある筈だ。
居館の現況は…段の付いた一面の果樹園、付近には水の手もあり水神も祀られている。見るべきものは特に無い。収穫時期に近くを彷徨いてると通報されそうなんで急いで引き揚げた。
山家城は一般的に小笠原氏系の要害の一つとされる。縄張から見てもそれは決して間違いでは無いのだが、その発生となると全くの別物である。該地の山家郷は諏訪氏、神氏の一党、山家氏が地頭職であった。山家氏は応永七年(西暦1400年)の大塔合戦にはその名が見られず、永享十二年(西暦1440年)の結城合戦における陣中警護の輪番を定めた「結城陣番帳」には、「十七番 赤沢殿 和田殿 同名但馬守殿 山家殿 武石殿」とその名が見られる。
諏訪社上社の神長官、守矢満実が記した「神長守矢満実書留」、文明十二年(西暦1480年)庚子、神使御頭足の条には、「同(八月)十六日、仁科盛直与小笠原民部大輔長朝於穂高為合戦、長朝討勝。…此日(二十日)、小笠原民部大輔為敵、仁科、西牧、山家為同心間、民部大輔山家寄懸城櫓被責、山家孫三郎討死、口惜次第也…」とあり、小笠原長朝が穂高で仁科盛直と合戦に及んで打ち勝ち、後日、同心した諏訪氏系山家氏の山家城(「城櫓」と言っている。居館城の事ではないだろう。)が攻められ、山家孫三郎が討死(当然だが口惜しいと言っている。)している事が判る。
更には、「小笠原民部大輔長朝、山家前和泉守光家御敵参、就然山家為合力、諏方刑部大輔政満伊那郡引率、四月十九日真志野迄御門戸出、同廿三日府中御出陳、神長次男神次郎政実始出陣、十六才、然仁科、香坂当方同心、不慮ニ和田城被責、井河、山家無為儀可有、五月六日御帰陣有、」とある。小笠原長朝と山家光家が敵対し、諏訪政満が伊那衆を率いて山家に合力して府中まで出陣、次男の守屋政実(神長次男、筆者の子である。)は十六歳で初陣、然るに仁科と香坂が当方に同心し不意に和田城(筑摩郡、和田古城の事だろうか。)を攻めたので井河と山家はそのままに帰陣したと言っている。この書留は文明十三年(西暦1481年)五月のもの。よって信濃守護小笠原氏と諏訪氏系山家氏が争ったのは文明十二年から文明十三年の事であり、文明十三年以降には「諏訪御符禮之古書」に山家氏の名が見られなくなる事から、その滅亡は文明十三年の事と推測出来る。
山家城が小笠原氏の改修、拡張を受けている事は間違い無い事だと考えるけど、正直、諏訪氏系山家氏の滅亡後に熱心に普請する必要も無い地域だとも思う。桐原城についてもそうだが、小笠原氏の本拠、林城に近過ぎる(支城としては巨大に過ぎるし、被官衆の要害としても破格だ。喫緊時には籠城衆の分散も招く。熱心に普請する理由が希薄だ。)のだ。存外、諏訪氏系山家氏の時代には縄張の基本形は備わっていたのかもしれない。
※写真①が「古城の窪」、当たり前だが窪地である。