中塔城(なかとうじょう)
中塔城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 長野県松本市梓川梓
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 西牧氏
築城年
- 戦国時代?
主な改修者
- -
主な城主
- 西牧氏、二木氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、堀切
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
小岩嶽城(長野県安曇野市)[12.9km]
平瀬城(長野県松本市)[12.9km]
井川城(長野県松本市)[13.5km]
松本城(長野県松本市)[13.7km]
武居城(長野県東筑摩郡)[15.0km]
林城(長野県松本市)[17.4km]
稲倉城(長野県松本市)[17.7km]
埴原城(長野県松本市)[18.9km]
桐原城(長野県松本市)[18.9km]
山家城(長野県松本市)[21.4km]
中塔城の口コミ情報
2022年10月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
隠れ小屋・殿様小屋ーC[中塔城 周辺城郭]
〜隠れ小屋・殿様小屋ーCについて〜
信濃のお城の神は隠れ小屋ーAと殿様小屋ーBの他に比定地としてCとDの2箇所の平場を位置図に載せている。今回辿り着けたのは比定地CとDの平場のみ。
比定地Cは栃沢西岸(右岸)の崖地上、標高1227mの平場に立地し、山塊山中の平場としてはかなりの面積を持つ。自然地形ではあるが4段の段付き、無数に点在する石積みや石の集積(炭焼き釜とは断定出来ないものが多数を占める。枡形も残ってた…)を見る事が出来る。栃沢沿いに設けられた領内郷民の逃げ込み城としては最良(複数の小屋掛けも余裕だ。)でしょう。今に見るものは後世の杣人が残した山番所や山中炭焼き場等(当該稲核村は大野川村、大野田村、島々村と共に「入り四か村」と呼ばれる御用杣村であった。松本藩では元伐奉行として徒士、山目付役に足軽、杣改役として小人等の藩役人が山方として勤仕していた。入り四か村は明治に入り安曇村として発展解消する。)の残滓なんだろうけど、平場としては往時の逃げ込み城の二次利用の可能性が高い。この平場を無視して後背に存する隠れ小屋、殿様小屋を成立させる事は出来ないだろう。
実際に現地を訪ねて思うに、平野部の稲作、耕作面積の少ない谷筋の領内において、在地領主は豊富な山林資源に活路を求めて栃沢沿いに進出、様々な林場を整備し、禍乱時にこれ等は逃げ込み城としての利用があったものなんじゃないかな。隠れ小屋、殿様小屋はあくまでその結果に過ぎないんじゃないかと…天正十年(西暦1582年)八月、西牧氏は府中を回復した小笠原氏によって滅亡しますが、隠れ小屋、殿様小屋はその終焉の地とも推測されています。少なくとも鎌倉時代の初期から梓川下流域に根付いた滋野姓の末裔達は歴史の表舞台から完全に消え去る事となりました。
※沢も近いし熊さんの餌が極めて豊富なお山です。痕跡のみならず明瞭な足跡、崖中には冬眠穴等が散見されます。
※体調、装備は万全に…携帯電話はほぼ圏外、山中での行動不能は人知れぬ死を意味する。又、登山系アプリは必須となる。
2022年10月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
隠れ小屋・殿様小屋ーC[中塔城 周辺城郭]
〜隠れ小屋・殿様小屋ーC登城編〜
まず登城?に関する確かな情報が一つも無い。全くの手探りで偉大な先人の軌跡を追うしかない。著述には「…道も殆ど消えかけていて、危険な登山である。」とある。行けば誰でもびっくりするけど、かつてこの山塊山中には徳本峠道(上高地へ通じる。飛騨を追われた三木秀綱の妻がこの峠道を通って落命したとされる。松本市安曇資料館には夫人の小袖等が現存する。)に至る間道が通っていて単純にこの道筋を求めたいところだけど、実際は急峻な斜面(平均斜度45°位、場所によってはそれ以上、ザレ場、ガレ場が多いし藪漕ぎも覚悟しよう。)の横移動に終始する。悩ませてくれるのは斜面崩落の跡(実に見事な竪堀を形成している。急峻な斜面に付いた幅の広い竪堀って水平方向に越えられない事を体感出来ます。)で、これを避ける為に上下に100m位の縦移動を数回余儀無くされるかもしれない。かもしれないと言ったのは誰でも同じ道筋を進めるとは到底思えないからで、かつての杣人(そまびと、簡単に言えば林業に従事する人っす。)が残したと思しき踏み跡が山中には縦横に存在する。
最初の目的地は地図上に明記された「ドウドネキ(物が崩れた傍らの意味かな?)」の地名(沢の名称か。)、直線距離にして約3.0kmだけど、前述のとおり単純には進めず実質移動距離は倍近くになる。疲労困憊だが此処から栃沢に下りて沢を渡りCを目指す。ところが沢に至る斜面が立ち上がりで浸食崖を形成していて下りるポイントが見付からない。此処で相当な時間を費やす事に…結局はかなりの無理をして沢に下り、対岸のCにはなんとか辿り着く事が出来た。
Cから最終目標である隠れ小屋・殿様小屋を目指すのだが、此処で決断もしなくちゃならなくなってきた。朝の7時から登り始めたのだが既にこの時点で13時を過ぎており、距離的には近いけど、栃沢をもう一度渡り返した後、約250mの急登直登を経験しなければ辿り着けない。状況も判らないし城友さんと下した判断は陣払い…根性無しとか言わないでくれ、暗くなれば冗談抜きで遭難するかもしれないんだょ…1日での到達、帰還を目指すなら、あらゆる無駄、休憩、寄道を排して最短距離を進まなきゃならない事を此処で思い知らされる。
※写真は登城?中の光景、既に余裕無し。写真4〜6は比定地D、写真9は杣人が残した炭焼き釜っす。
2022年10月13日 内記かずりヾ(・ε・。)
隠れ小屋・殿様小屋ーC[中塔城 周辺城郭]
〜隠れ小屋・殿様小屋ーC紹介編〜
まさかの色物物件を3回に分けての御紹介〜
隠れ小屋・殿様小屋ーCは中塔城の南西約10..0km、栃沢西岸(右岸)、標高1227mの山塊崖地上平場に城域?が存すると比定されます。南東麓の梓川からの比高は440m位でしょか。謂わゆる穂高岳の前衛山峰に連なる山塊山中に立地し、一般的に城館?の位置する場所としては私達が持つ想像の範囲を遥かに超えます。
小屋って何ぞや?みたいに思われる方が殆どだと思いますが、これも城館における立派なジャンルの一つ、大抵は山深い山中に立地し、基本人を寄せ付けない以前に目立たない。騒乱時に在地武士や領内郷民等の逃げ込む先であるものが多数を占める。小土豪間の御近所争いに終始する事が多い信濃では一方の勢力が他勢力を併呑する事は稀で、争いに打ち負けてもこれ等に逃げ込み籠り、禍乱が過ぎ去るのを待ち、しぶとく旧領復帰までを生き延びるのを目的としたものなんて説明すると仰々しいかな。実際は山中で一族、一党がひっそりとするんだから惨めだった事でしょう。
築かれた年代は不明、各小屋…は立地から南東麓、稲核集落の安田沢(あんださわ)上に存した高見屋敷に関係するものと推測されています。「安田」は「安堵」に通じ、周辺の下々畑、三反二畝六歩(坪数に直すと966坪…すっ、少ねぃ…しかも畑地だ。)が某九郎右衛門に安堵された事から名付けられた地名とされており、九郎右衛門は西牧氏の一党と推測されます。
信濃の山城と館4、松本・塩尻・筑摩編に記載があり、隠れ小屋と殿様小屋は栃沢を登り詰めた標高約1450mの山塊山中崖地上平場に2本の沢を挟んで隣接しているそう。最初に断っておきますがこの目標には辿り着けていない。信濃のお城の神も殿様小屋の方は未踏査である。理由は時間が無かったからとしか思えない。
信濃のお城の神は2つの小屋(隠れ小屋ーAと殿様小屋ーB)以外にも栃沢沿いに「それ」と思しき比定地を探し出していてそれは2箇所(CとD)ある。今回辿り着けたのはCとDのみ、Dはスポット作成出来ないので割愛する。又、実際に現地を訪ねてみれば他にも「それ」と思しき平場は幾つか候補に挙がる。
※写真はスタート地点となる水殿ダムと登城路?入口(砦跡との見方もあるが石積みは後世のものかな。)付近、今年の8月に下見していた。
2022年08月17日 内記かずりヾ(・ε・。)
多田氏堀屋敷[中塔城 周辺城郭]
たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜(今回は情熱無し。)
多田氏堀屋敷は中塔城の東北約8.0km、標高約581mの平野部平場に存した居館です。
行き方はGoogleマップに多田加助宅跡の名称で位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は直近の中萱公民分館の駐車場に捨てられます。ちなみに多田加助宅跡のピンの隣りに中萱氏館跡の位置登録がありますが完全な誤認なので無視しましょう。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは多田加助です。加助は江戸時代初期、松本藩内安曇郡中萱村の庄屋でした。貞享三年(西暦1686年)の貞享騒動の際の首謀者としてその名が知られます。騒動の発端は、安曇郡で数年の間続いた不作により困窮した百姓に対して松本藩が課した処置が年貢の増徴命であった事にあり、十月十四日、年貢減免を求めて藩に強訴に及んだのがこの加助でありました。訴えは四日後に一旦は聞き届けられましたが、当時江戸詰めだった藩主水野隼人正忠直は早馬で事の次第を逐一把握しており、一月後に訴えは覆され、十一月二十二日、加助等8名は磔、20名が連座して獄門となり梟首されました。加助は謂わゆる義民として後世崇められ、明治の世に至って自由民権運動の象徴の一つとして担ぎ出された経緯を持っていたりします。
長々説明しましたが、謂わゆる近世に入ってからの出来事、且つ居館は江戸時代以降のものと思われるので例えよい話であっても自分は門外漢となります。じゃぁなんで訪ねたのかていうと信濃の山城と館7、安曇・木曽編に掲載があるて理由、多田だけにただそれだけの話です。居館の現況は耕作地、空地、一般住宅とその敷地となっていて、長野県道314号線、田多井中萱豊科線沿いにはファンシーな標柱、説明板も立っています。加助の屋敷地は安曇郡奉行番所が置かれていたそうで、これが理由なのかは知らんけど結構な敷地面積を持っている他、周囲に堀を巡らせ内側を土塁で囲んだ方形居館の体裁を採っています。その残滓を居館の敷地東南隅に確認出来たりするのが個人的には救いでした。
加助についての話は検索すればネットで詳細が出て来ます。が、ここで書かれた文章もほぼwikiから要約したものです。
2022年05月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
小倉城[中塔城 周辺城郭]
〜小倉城攻城編〜
築城年代、築城者は不明です。お城の存した小倉郷は小笠原長時時代の分限帳に、秋山与一、高百八貫文、軍役十騎との記述があります。時代は下って小笠原貞慶が府中を回復すると一族である小笠原但馬守貞政が小倉城に配され安曇郡における軍事行政を委任(安曇郡内において貞慶の嫡男、秀政と連名の給地宛行等の発給文書が複数残る。)されたそうです。この時期においては重要な拠点として位置付けられていた事は疑い無いでしょう。
お城はコンパクトですがしっかりと普請されています。城域内には長大過ぎる竪堀が2条設定されていますが、内1条は尾根上に設けらているので遮蔽された導線としての堀底道か後世の改変かと思います。又、主郭には腰郭までカバーする土塁が残る他、主郭からの北尾根と西尾根には堀切と竪堀を設定、これらは主郭北西切岸で隣接して結果として畝状竪堀を形成していたようです。ちなみに主郭には案内板も立ってました。
一体何の口コミなんだって書いてて疑問に思いますが、山城って自己責任で登る訳で陣払いも常に考えて挑戦しています(侮るなかれ、低山=山城には低登山としてのリスクがある。登山道が整備されていない事、情報が皆無に等しい事、携帯の電波が不安定な事、他人が山に入る理由が単に山頂を目指すためだけのものではない事=踏み跡が複数存在する。…直結するのは滑落と道迷い…道迷いから生じる無理な下山に伴う滑落だ。そして結果的に急峻な山稜を一気に登るていう事実を考えましょう。)。それでも誰でも今回の様なケースに至ってしまう可能性てあるかと思います。登山系アプリの発達で道迷いは格段に少なくなったとは思いますが、現地の状況は現地入りしないと判らないので今猛烈に反省中、不動様にリア攻めの無事を祈り倒しといてよかったぜ、山には必ず神様がいるのです。
※登城編の補足ですが、自分が帰りに使った東尾根からだと距離はあるけど危ない事にはならないのでこちらを推奨しときます。取り付きはGoogleマップに位置登録されている南麓の八幡宮から東方へ200m位進んだ場所に立地する墓地からですが、登り始めはほぼ急登直登、道形は比高を稼ぐまで不明瞭なので何れにせよ注意です。
2022年05月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
小倉城[中塔城 周辺城郭]
〜小倉城登城編〜
小倉城は中塔城の北東約3.7km、標高1163.6mの角蔵山山頂から南方へ延びる尾根上、標高約968mのピークの一つに主郭が存します。南麓の鳴沢からの比高は210m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている南中腹の穴不動明王を目標に設定して下さい。車は手前の駐車スペースに捨てる事になるでしょう、付近にはお城の標柱も立っています。穴不動明王までは参道が付いていますが、不動様から南尾根の弛みまでを直登します。後は道形に沿って登って行けば楽ちん♪登る比高は50m位、迷う事も無いでしょう。
久々に死ぬかと思いやした。不動様裏手を覗くと岩盤崩落跡と思しき平均斜度50°から60°の岩場の中の大きな竪堀様地形にピンクテープが上方へ向けて張ってある。当然これが道筋なんだと判断するじゃないすか(完全な間違いでしたわ…)、ところが一面は草木が殆ど生えていないガレ場を形成していてどうやってテープを張ったのか謎でしかない…大体これを使って入山(○○の留山でもある。)している事自体が驚愕だわ…登り始めたら二足歩行はまず無理だし、手を地面に付けると自落石で自分が危ない。何十個石を落とした事でしょう、ぼっちでよかったっす。小雨中でもありコンディションも悪かった。
20m位登った時点でこりゃあかんと思って岩場をよじ登る決心をしますが、岩盤は手を置いただけでぼろぼろ崩れる悲惨なガチのロッククライミングに…もう無理だと思って戻ろうとしたら逆に危な過ぎて下りれなくなってしまい結局意地と根性のみで南尾根の弛みまで登り切りました。最後は垂直の岩盤層、大規模な崩落は此処から始まってたみたい。岩場の切れ目から何とか無理矢理突破出来ましたが、この切れ目が無けりゃ進退極まってた事でしょう。慌てて登坂途中に今まで一回も使った事が無い墜落制止用器具を装着しましたが、そもそも論でランヤードを掛ける支点が不安過ぎるポイントしか無く、ブレークしたら支え切る事が出来たかどうかは甚だ疑問っす。余裕を完全に無くしてましたわ…この間の写真すら撮っていない。
続く…
※南麓の鳴沢は北アルプス山麓でもある安曇野を感じさせてくれる素敵な水流、癒されます。
※写真は城域までのものっす。
2022年05月22日 内記かずりヾ(・ε・。)
田多井城[中塔城 周辺城郭]
田多井城は中塔城の北東約5.3km、北東へ延びる山塊尾根上、標高約842mのピークの一つに主郭が存します。北東麓の賀茂神社からの比高は200m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている前述の賀茂神社を目標に設定して下さい。後はもう何て説明したらよいのでしょか、リア攻めマップで位置を確認した後、沢を渡って尾根筋を適当直登して下さいとしか言えないわ…幸いネットで検索すれば行き方を拾えるのでそちらを参考にして下さいまし。同じ中塔城のリア攻めマップにある田多井城見張台も同様ですが、賀茂神社北側の林道を参道入口から200m位西方へ進むと田多井No.13ていう獣柵ゲートが左手に付いてますので此処が尾根筋に至るスタートとなります。
築城年代は不明、築城者は田多井氏なんでしょか。田多井氏については同じ中塔城のリア攻めマップにある田多井古城下居館を参照して下さい。ただ小笠原長時時代には草間肥前て方が城主だったそうなので確実なところとは言えないでしょう。同じ中塔城のリア攻めマップにある田多井古城と比較すると築城レベルは一気に上がるので、小笠原氏被官衆による築城、もしくは二次利用による改修も視野に入れるべきだと思います。
尾根筋は全て急登、お山の弛みは殆どありません。踏み跡の消えかかった比高約200m分の斜面をただひたすら真っ直ぐに登りましょう(ほぼ直登っす。)。腹立ってくるわ…
お城は概ねで主郭北東側正面に段郭を連ねる他、主郭南西側山側背後に二連続堀切が設けられています。が、堀切は何れも埋まり気味っす。素晴らしいのは主郭のコの字形の大土塁、高さも残存率も申し分無し。主郭にはびっくりする事に標柱が寝ています。誰が此処に来るのか疑問でしかありませんが、田多井城からしたら「お前だよ。」て感じなんでしょかね。信濃の山城の標柱は総じてやる気の無い物が多いです。又、城域南西端には竪堀様地形が確認出来ますが、これ後世の改変(道跡か。)だと思います。此処に竪堀設定する意味も無いでしょう。ちなみに展望は最低レベルです。
苦労するけど個人的には充分満足、御の字でした。が、万人受けは絶対しないので悪しからず…城域に入るまでは不安しか感じないです。
2022年05月21日 内記かずりヾ(・ε・。)
田多井城見張台[中塔城 周辺城郭]
田多井城見張台は中塔城の北東約5.4km、北東へ延びる山塊尾根上、標高約743mのピークの一つに主郭が存します。北東麓の賀茂神社からの比高は105m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている前述の賀茂神社を目標に設定して下さい。後はもう何て説明したらよいのでしょか、リア攻めマップで位置を確認した後、沢を渡って適当尾根稜線上まで直登して下さいとしか言えないわ…幸いネットで検索すれば行き方を拾えるのでそちらを参考にして下さいまし。
築城年代は不明、築城者は田多井氏なんでしょか。田多井氏については同じ中塔城のリア攻めマップにある田多井古城下居館を参照して下さい。名称のとおり同じ中塔城のリア攻めマップにある田多井古城、もしくは田多井城の物見台である事は確実です。
苦労対効果が凄まじく悪い…尾根の立ち上がりが大変厳しいです。一応消えかかった踏み跡が付いてますが別に楽な行き方があるのかしらん…ただ尾根筋に出ればそこから(小社が鎮座する。)は比較的楽だとは思います。
見張台の現況ですが、まず縄張図が薄過ぎる…簡単に言うと小郭程度の主郭、主郭南西側山側背後に堀切が1条、以上、韻を踏んでみたぜ、そう、リアルな山城のフィーリングをこもったビートに乗せたリリック語りながらディスる事も出来るドープなラッパーめぐら〜って訳さ。山城を感じろ、土塁にたまに感涙、食べるのは主に麺類、堀切で間仕切り、当然、レペゼン、でもビーフに発展は勘弁してくれよな…
…話は滅茶苦茶脱線したけど、要は豆粒程度の縄張図(よく見えないて方もいると思う。)で、姫路城の縄張図と比べたら微かな点でしかない…写真は複数枚挙げてますが、見張台の全てを1枚の写真に凝縮する事も可能です。ディスりまくりですけど個人的には堀切がちゃんと確認出来た事に満足、土橋も付いていました。又、主郭にはびっくりする事にぼろぼろですが標柱が立っています。が、これ標柱が古い訳では決してなく、クレオソートとシンナーの匂いを嗜好品とする熊さんの仕業…ね、行く気無くしたでしょ。
訪ねた日は山城3城目、何れも苦労対効果が悪いお城ばかり、前日の雨、そして小雨の中の登城となり、元々の腐葉土と相まって泥だらけに…二度と行かねぃ。
2022年05月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
田多井古城[中塔城 周辺城郭]
田多井古城は中塔城の北東約5.8km、標高約620mの平野部緩斜面小丘上平場に主郭が存します。
行き方はGoogleマップに位置登録されている賀茂神社を目標に設定して下さい。お城は神社境内の内、北側参道入口付近東側に位置しています。
築城年代は不明、築城者は田多井氏です。田多井氏については同じ中塔城のリア攻めマップにある田多井古城下居館を参照して下さい。城主としては田多井治郎綱元、田多井大隅の名が伝わります。
お城は田多井氏初期の要害と推測され、東方約0.2kmに立地する田多井古城下居館との関係性が指摘されています。お城はコンパクトな砦規模の縄張ですが、小笠原長時時代の田多井郷の総貫高は少なく見積もっても最大で六十五貫、軍役は僅か四騎としているのでこれでも要害としては充分だったと思います。
古墳の跡地系のお城となります。古墳に興奮…する美濃の微少女や備前の城友さんは是非…小丘は古墳だったって訳だ。古墳としては寛政十年(西暦1798年)に発掘され、石室の床面は石畳、太刀三振、小柄一振等都合八振、轡、焼物十八が出土、びっくりしちゃって松本藩主に届出たら、掘り出してはいけない(知らんから)ので元の場所に埋め戻してねと言われたらしい…副葬品から見ると結構な有力者の古墳だったんすかね。
後世の副葬品出土状況から、築城者は該地が古墳だったとは知らんかった(主郭は墳丘頂部を削平していると思われるが…)とする説も頷けます。石室は石採りで残っていませんが、縄張のほぼ中心部にはその残滓と思しき窪み、お城の遺構としては空堀、土塁、帯郭状の腰郭等が残ります。標柱が土塁上に立っているのは純粋に嬉しいですね、通り過ぎるのを防いでくれます。又、破壊を逃れたのは賀茂神社の神域だったからでしょう。ちなみに神社の方が断然見応えがあります。
やる気がなけりゃ探索は五分位て終わると思います。だって古墳だから…(`・∀・´)…ちなみに英語で棺の事を「COFFIN」と書きますが、言葉のシンクロってやつなんでしょか。
2022年05月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
小田多井の丸山氏屋敷(御東)[中塔城 周辺城郭]
たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜
小田多井の丸山氏屋敷(御東)は中塔城の北東約6.7km、標高約583mの平野部平場に存した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている居館南西側の神社、小田多井八幡神社を目標に設定して下さい。後はリア攻めマップで位置を確認しましょう。自分も特定に10分位費やしています。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは丸山氏です。同氏は仁科氏の一族で、居館の主は犬甘氏の一族にして有力被官衆の一つ、平瀬城城主、平瀬氏の寄子同心となった丸山丹後守からの分流とされています。同氏は明応年間(西暦1492年〜1501.年)、永正年間(西暦1502年〜1520年)何れかの間に吉野の地に移り住んで(平瀬城のリア攻めマップにある吉野堀屋敷がそれと推測される。)平瀬氏に属し、後には武田氏に抗しています。小田多井へは芝切(開発主体)として来住し村を起こしたとされ、その屋敷となったのが「御東」の地名の残る該地となります。
居館の現況は水田、耕作地、一般住宅とその敷地等となっています。居館敷地の西端には小田多井郷倉跡の標柱が立っているので此処が村落の中心であった事は間違い無いんでしょう。縄張図ではこの郷倉跡も敷地内に含んでいますが含まない考え方も出来るかもしれません。土塁状の高まりが残っているらしいけど該地は今も正しく人の家なので探索は諦めました。又、敷地内を南北に流れる水路は後世の改変で動いているらしいのでこれを堀跡と見るのは早計でしょか。
敷地内には周囲より一際高い樹木が立ち並んでいます。なんだかまんが日本昔ばなしに出てくる長者屋敷の趣き(実際にも長者だが…)、意識して見れば「あ〜昔の屋敷だわ〜」とか誰でも呟くと思います。でも意識しなけりゃねぇ…マニア向け。ちなみに今も丸山さんがお住まいっす。
2022年05月20日 内記かずりヾ(・ε・。)
田多井古城下居館[中塔城 周辺城郭]
たまには山城でなく居館なんかをほっこり口コミ〜
田多井古城下居館は中塔城の北東約5.9km、標高約597mの平野部緩斜面上平場に存した居館です。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…該地は長野県道25号線、塩尻鍋割穂高線に分断されている他、長野県道314号線、田多井中萱豊科線が東から合流する交差点の西側となっています。
築かれた年代、お住まいになられていた方はとりま不明です。居館の存した田多井郷は長享二年(西暦1488年)の春秋宮造宮次第を始めとして天正年間まで諏訪社の造宮に関わっていたらしく以降度々その郷名が文書に見えます。田多井氏としては多田左衛門尉頼綱の玄孫を田尻冠者重綱とし、その子、田多井治郎綱元を同じ中塔城のリア攻めマップにある田多井古城の城主とする他、田多井大隅の名も同城城主として伝わります。ただ大隈等の時代は不明らしくその事跡を追う事は出来ません。
時代は下って小笠原長時時代の分限帳に草間肥前、高六十五貫文、軍役四騎、田多井山の城主との記述があります。領主の交替を示唆するものなんでしょか。田多井氏は武田氏時代には天正七年(西暦1579年)の上諏訪造宮帳に上野郷の造宮所約徴収の代官として田多井安右衛門の名が確認出来るぐらい、やはり事跡を追う事は出来ません。推測に過ぎませんが田多井郷からは既に退去、上野郷を領する西牧氏の寄子同心の地位にあったように思えます。
居館の現況は水田、耕作地、一般住宅とその敷地等となっています。少し前までは県道脇に標柱が立っていたそうですが今は撤去済み。県道に分断された敷地の東端部からは発掘調査により堀形が検出、薬研堀の堀底からは中世常滑産陶器片が出土したそうです。
居館の敷地には「城下」、敷地外北東側には「殿畑」の地名が残ります。もっともらしい感じですけど基本ほぼ水田なので悪しからず…マニア向け。
2022年03月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
田屋城(上野城)[中塔城 周辺城郭]
田屋城(上野城)は中塔城の南東約3.2km、標高1200mの山塊山頂から東南へ延びる尾根上、標高約1066mのピークの一つに主郭が存します。南麓の林道からの比高は260m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている南麓の穴沢秋葉社・山神社を目標に設定して下さい。この裏手にある竪堀様地形から取り付きます。人が入るお山ではありますが道は踏み跡程度、城域までは全て急登、手は使わないけど楽に登れるお城では決してありません。
築城年代は不明ですが、築城者は西牧氏です。西牧氏については同じ中塔城のリア攻めマップにある長坂上砦を参照して下さい。
お城は西牧氏初期の要害と推測されており、それに相応しい縄張を持っています。主郭は堀切で東側正面と西側山側背後を遮断し、主郭から派生する3つの尾根には無数の小郭が設けられ、各尾根の城域末端からは竪堀が落ち込んでいます。東尾根に長く延びる竪土塁は他では滅多に見られるものではないでしょう。又、少し異形のお城でもあります。
西牧氏関連の山城で悩まされるのが竪堀様地形の存在でして、縄張図外にも数多くそれが認められる事なんです。同じ施工主である北条城、鞠子山砦なんかもそうなんですが、城域外の登城路からも竪堀様地形が散見され、縄張図を確認しながら登ると「???」、はてなマークが浮かびまくり…特に田屋城の場合は南麓の林道通過時に既に1条の竪堀様地形、前述した登城路入口となる山神社の裏手には三重竪堀様地形…ところが誰もこの事実を疑問として語らない。持論ではありますが、山城は縄張図外であってもお山の取り付きから既に始まっていると常日頃から考えています(自分が築城者のつもりで考えましょう。)。お城ブームを経て様々な情報が溢れ返る今、世間一般に流布した多くの縄張図は再確認の時期に来ているのではないでしょか。
信濃のお城の神もこれが完全だと考える縄張図は一つも無いそうで更新していく事が常に必要だと述べています。信者は神の偉業を元にお山に入る訳ですが、疑問を胸に抱きながら、先人が辿ったその軌跡を確かめるてのが礼儀だと思います。
※留山です。付近住民とトラブルになりかけましたので季節限定で…先手を打って入山許可を得るのもよいでしょう。
※お山に入った時は晴れてたけど山頂で軽く吹雪に、写真が暗いのはそれが理由…
2022年03月22日 内記かずりヾ(・ε・。)
鞠子山砦[中塔城 周辺城郭]
鞠子山砦は中塔城の南東約3.9km、標高1290mの穴沢山から東南へ延びる尾根上、標高約930mのピークの一つに主郭が存します。南麓の長野県道278号線、大野田梓橋停車場線からの比高は250m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは東尾根末端からですが、目標が一切無いのでGoogleマップで見える南麓の農道を行き詰めた所としか説明出来ません。獣柵ゲートを開けたら直ぐに尾根末端ですが、道は踏み跡程度で城域までは全て急登となります。
築城年代は不明ですが、築城者は西牧氏です。西牧氏については同じ中塔城のリア攻めマップにある長坂上砦を参照して下さい。
砦はコンパクトで薄い印象です。縄張図なんかを見ると期待感MAXなんですが、主郭西側山側背後の堀切が埋まり気味なのが最大の原因でしょう。ただ砦としての雰囲気は充分だと思います。
この砦最大の問題点は西端郭を過ぎた所にあります。此処は城域最西端でもあるんですが、もの凄い竪堀様地形が3条確認出来るんです。信濃のお城の神は遺構かどうか懐疑的で、文中には「南北斜面にアレとなって沢底まで達している。」と身も蓋も無い説明が…これについて神は尾根上が堀切られていない事から採伐木を落とすための溝か雨裂かとの推測を提起しています。が、尾根上を起点とする竪堀によって形成された土橋は有事には落とす事も可能じゃなかったっけ…採伐木を落とすためのものなら曲げる必要は無いし、極狭い痩せ尾根上(土橋程度…)をその作業場とするのは不自然、雨裂が尾根上から発生するのも不自然、尾根の左右に溝が落ちるのも極めて不自然、答えは永遠に出ないと思いますが自分は遺構だと素直に感じました。皆様は写真から厳しい眼で御判断願います。
懐疑的になるのはこの薄い砦に相応しくない程の強烈な竪堀様地形である事、主郭にはかつて鞠子明神と呼ばれた小社が建っていた事がその理由だと思います。実は同様の事が同じ中塔城のリア攻めマップにある西牧氏初期の要害、田屋城(こっちは普通に山城だが…)にも言えたりします。少なくとも明らかに人為的な代物(縄張図外ですが登城路脇にも数条確認出来る。)ですので、中塔城に来る事がありましたら皆様も是非確認してみて下さいまし。
2022年03月21日 内記かずりヾ(・ε・。)
城日影砦[中塔城 周辺城郭]
城日影砦は中塔城の南方約5.0km、梓川北岸(左岸)、標高1642mの大明神山から東方へ延びる尾根上、標高893.6mの通称八景山(やけやま)山頂に主郭が存します。南麓の長野県道278号線、大野田梓橋停車場線からの比高は200m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。取り付きは東尾根末端からで、東京電力高瀬川線のNo.93鉄塔北側からお願いしやす。山の立ち上がりは厳しいのですが最初だけなので諦めずに…
築城年代は不明ですが、築城者は西牧氏です。西牧氏については同じ中塔城のリア攻めマップにある長坂上砦を参照して下さい。
西牧氏は領内に数多くの城砦を築きましたが、その中でも飛騨口に当たる最西、最南端に立地する砦となります。砦の直下に木曽、飛騨方面へ抜ける冬道(夏季は梓川南岸の夏道を通る。冬季に難所となる夏道の他に梓川の渇水期を活用した冬道が整備されていた。)が走り、砦はこれを監視下に置くものだったのでしょう。
砦はほぼ単郭、主郭は段付き、そして主郭東側正面と西側山側背後に二連続堀切が設けられています。主郭西側山側背後の堀切を越えると土橋を形成しつつ南側斜面に落ちる幅広の、一部が岩盤切削された竪堀なんかを見る事が出来ます。砦なんでコンパクトではありますが苦労して登った分のお釣りぐらいは返ってくると思います。
最西端、最南端とか書きましたが、これ以西、以南に存する西牧氏関連の城砦?としては、城日影砦から西南約7.7kmに位置する水殿ダム北方、標高約1500mの山中にそれぞれ殿様小屋、隠れ小屋(少なくとも信濃のお城の神以外に辿り着いた者はいない。)と称する色物物件が二つ存します(西牧氏終焉の地とも。)。ソロだと恐いし寂しいし、遭難確実の帰って来れない感じなので遠州の城友さん、援軍お願いしやすw
2022年03月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
長坂上砦[中塔城 周辺城郭]
長坂上砦は中塔城の南東約4.2km、梓川が創造した扇状地、梓川の流入と地殻変動による地盤の隆起により形成された標高約752mの河岸段丘東南辺最上段端部上平場に築かれた砦です。この地域一帯を支配下に置いていた西牧氏はこの段丘端に沿って多くの砦を築いており、現在確認されているだけでも6つあります。自らの支配領域の東南辺の守りを固めていたという事なんでしょかね。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。駐車場所以前の話ですが、リア攻めしても捨てた車から5m離れる事はないでしょう。路駐でOK♪っす。
築城年代は不明ですが、築城者は西牧氏です。西牧氏は滋野氏の一族とされています。天文十五年(西暦1546年)、滋野(西牧)讃岐守貞兼によって中興された真光寺の阿弥陀如来像内銘に記された滋野兼忠を祖とするらしいのですが、当地に入部の経緯は詳細が不明、住吉庄の開発主体とされています。梓川南岸(右岸)の官牧、大野牧を開いた秦氏は一族が梓川北岸(左岸)にも進出、古幡牧を開き開田を行いますが、信濃国国司、信濃国牧監としての滋野氏がその支配と経営を中信に及ぼす過程において梓川北岸(左岸)に一族を進出させたと考えるのが最も自然だと思います(西牧氏は松本平における有力な国人領主ですが、系譜も含めて意外にも詳細が伝わらない。)。
砦の現況は果樹園です。リア攻めの際は李下に冠を正さずの格言を思い出しましょう。ただ果樹園に入ってもどうしようもないので舗装路から眺めるだけに留めるのが吉だと思います。段丘端の角っちょに連続する台地上を空堀で分断しただけの縄張らしいっす。既に空堀は消滅していますが、延長線上の竪堀が崖地にはっきり残っているのが確認出来たりなんかします。
こんな砦ですが、実は2回目の訪問、当然単独目標ではなくその先の山ん中に用事がありました。そしておいらはこのリア攻め数分後に付近住民と留山バトル?を繰り広げる事になります。
2022年03月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
竹田城(秋葉城)[中塔城 周辺城郭]
竹田城(秋葉城)は中塔城の南東約8.8km、標高約829mの山塊山頂に主郭が存します。東麓の農道からの比高は125m位でしょか。
行き方はGoogle マップに位置登録されている北東麓の四ッ谷西山公園を目標に設定して下さい。城域まで道が付いてますが、西方へ巻いて尾根稜線上まで登り、そこから南方へ進んで城域に入ります。
築城年代は不明、築城者は竹田氏でしょか。同氏は小笠原氏の最も古くからの被官衆、櫛木氏の末流と推測され、永享十二年(西暦1440年)、結城合戦における結城陣番帳(幕府方となった信濃守護、小笠原政康が陣中奉行となり、陣中警護、矢倉の番として昼夜で交替、信濃の国人衆を三十番組まで編成した。往時の信濃における国人衆とその勢力関係が窺える。)の十八番には「永田殿、二木殿、竹田殿、熊蔵殿、西牧殿」とあり、近隣諸氏と共にその名が見られます。時代は下って城主の一人として伝えられる竹田軍兵衛は小笠原長時に五騎持ちで従い、後に塩尻峠の戦いにおいて討死したとも。又、竹田金兵衛なる者が五騎持ちで長時の子、貞慶の旗本に名を連ねていて、この金兵衛は軍兵衛の子であったかもしれないです。
お城はほぼ単郭で、縄張図を見ると主郭北西側正面を二連続堀切と片側三重竪堀、主郭北側には逆L字形で帯郭状の腰郭が付いてます。堀切や竪堀は埋まり気味、藪も相まって不明瞭なんですが、素敵なのは主郭をほぼ全周する土塁と土塁付きの腰郭でして、何れも低目で写真は難しいけど現地でははっきりと確認出来ます。
竹田城は天空の城だけじゃないのれすっ!信濃にも立派な竹田城があるのれすっ!たぶん築城時期はほぼ一緒かと思うのですが、随分と差を付けられたもんだぜ〜ちなみに雲海には浮かばないと思います。
2022年02月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
かぎかけ山物見[中塔城 周辺城郭]
かぎかけ山物見は中塔城の南西約7.1km、梓川南岸(右岸)、黒川北岸(右岸)、標高1289.9mの山塊山頂から北西へ延びる尾根上、標高約828mのピークの一つに主郭が存します。北麓の梓川からの比高は110m位でしょか。
行き方は…同じ中塔城のリア攻めマップにある波田の撞鐘久保を参照して下さい。林道黒川線上の鍵掛峠に着いたら夏道を使って橋場方面へ下りて行けば辿り着きます。西麓の雑炊橋付近から夏道を登るルートを使えば直ぐなんですが派手な崩落のため現在封鎖されています。
築城年代、築城者は不明です。該地は黒川が梓川に流れ込む合流点に向けて下る尾根筋で要害地形、島々(地名っす。)を眼下に収め、夏道の西端に当たる事から物見台か関門の役を担っていたと推測出来ます。
天正十年(西暦1582年)、天正壬午の乱の際に安筑両郡から引き揚げる木曽氏は、西牧、古畑等に在地諸氏の人質を預けて夏道に籠らせると、これを奪還する衆(青木、飯田、岩岡、岩波、二木等)と合戦に及びました。岩岡家記には、著者である岩岡織部が砦に乗り付け父の岩岡佐渡を奪い取り、更に雑炊橋(かぎかけ山物見の西麓直下に掛かる。)にて木曽の者一人を打ち取ったとの記述があります。木曽勢が籠ったとされる夏道は夏路の砦からかぎかけ山物見までの山中と考えて間違いは無いでしょう。
物見の現況は稲荷社の境内となっています。周囲より一段高い削平地に建つ稲荷社の周囲には土塁が巡っていたと推測され、西側の土塁は夏道に沿う形で長く延長されています。後世の改変とも思えないので、夏道の監視や番所として機能していたと考えるのは自然でしょう。
物見を下りて橋場へ出て稲核を過ぎて野麦峠(峠自体が難所、江戸時代にはお助け小屋と緊急避難用の岩室が建てられ、後には日本最高所の一等水準点971号が設置される。標高1672.4739m…)を目指す飛騨道、野麦街道、かつては鎌倉街道の一つでもありました。物見から飛騨高山までの距離は直線で約50km、厳冬期の北アルプスを越えて故郷に帰省する製糸工場の幼い女工達を思うと胸を鷲掴みにされた様な気持ちに襲われます。物見よりも別な意味で感慨深いリア攻めとなりました。おいらは此処で引き返すよ。
2022年02月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
波田の撞鐘久保[中塔城 周辺城郭]
波田の撞鐘久保は中塔城の南西約7.2km、梓川南岸(右岸)、標高1289.9mの山塊山頂から北西へ延びる尾根上、標高約890mのピークの一つに城域が存します。北麓の梓川からの比高は170m位でしょか。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…該地は鍵掛峠と呼ばれる峠の周辺で、その昔は冬場の難所として知られていました。が、今は林道黒川線が通っているので車で行けます(冬期は基本的に閉鎖する。ゲートの鍵を波田のコンビニで貸出可能っす。ただねぇ…おいらは歩きました。)。
築城年代、築城者は不明、該地はあくまで地名と現況から推測された比定地なので知る訳もないって感じでしょう。
信濃のお城の神本(信濃の山城と館4、松本・塩尻・安曇編)に掲載されてるんですが、神も後究を待っているような代物です。それによると「鐘撞堂」の地名が狼煙台を示唆する地名で、日向岩と呼ばれる岩場の周辺に「撞鐘久保」の地名が残っている事からこの辺りがそうなんじゃないかなて感じです。よくこんなん訪ねる気になれたなと白い眼で見られるかもしれませんが、その先に用があって単独目標ではないので悪しからず…
比定地は東方から夏道(同じ中塔城のリア攻めマップにある夏路の砦を参照して下さい。)に並走、合流する林道黒川線が南東に大きくカーブを描く場所で、野麦街道夏道跡の説明板も立っている誰も行かない観光スポット?です。この説明板から西側の細尾根をやや下った所か、東側の細尾根を直登した所の何れかが推測される場所で、先人様のブログは前者(写真は1〜3枚目…)おいらは眺める景色から後者(写真は4〜6枚目…)推し、狼煙台は物見台でもあるべきかと思いますので参考までに…
鐘撞じゃなく撞鐘、細かい所は気にしないのでしょう。残念なジャンルかと思いますが、木曽氏は木曽谷の守りにおいて非正規戦を仕掛けるために合図の鐘を多用しました。天候不順の際は狼煙の替わりになるし、峡谷地形にはよく響いた事でしょう。鐘は流石に残ってません。
※帰る際に林道黒川線沿い、東京電力リニューアブルパワー竜島発電所付近で物見台と思しき遺構(写真7〜8枚目…)を発見したような気がします。自信無いけど2つの沢に挟まれた展望の効く絶妙な立地だしとりま此処に記録しときます。
2022年02月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
夏路の砦(大野田小屋・大ぬた小屋)[中塔城 周辺城郭]
夏路の砦(大野田小屋・大ぬた小屋)は中塔城の南西約6.6km、梓川南岸(右岸)、鷺沢と前俣沢に挟まれた標高約830mの山塊北縁部緩斜面上平場に城域が存します。別称で入小屋とも。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…
築城年代は天正九年(西暦1581年)、もしくはその翌年、築城者は木曽氏になると思います。
中世以降、近世に至るまで松本平から飛騨高山へ抜けるルートは飛騨道と呼ばれ、冬季は前淵に大野田に渡る仮橋を掛けて梓川左岸を通り雑炊橋を渡って橋場に至る冬道、夏季は赤松から梓川右岸を通り鍵掛峠を越えて橋場に至る夏道が使われ、橋場から稲核へ出て野麦峠を越えて飛騨高山へ向かう道と、黒川を抜けて木曽福島へ向かう道とに別れます。何れも橋場までの区間は僅かな距離ですが、冬場の鍵掛峠が難所であった事から梓川の渇水期を利用して冬道が整備されていました。飛騨道は「あゝ野麦峠」で有名な近世以降の野麦街道です。
天正九年(西暦1581年)、木曽氏の叛意が明らかになると深志城代の馬場昌房は飛騨口を押さえるため西牧又兵衛、畑五郎左衛門、古畑伊賀(伯奢)をいねこき(稲核)口(夏道、橋場)に送り込みました。ところが、これらは逆に木曽氏に通じ、近郷の者と共に夏道に籠り武田氏に備えます。又、天正十年(西暦1582年)、天正壬午の乱の際に安筑両郡から引き揚げる木曽氏は、西牧、古畑等に在地諸氏の人質を預けて夏道に籠らせると、これを奪還する衆(青木、飯田、岩岡、岩波、二木等)と合戦に及びました。
砦の現況は…まず信濃のお城の神本(信濃の山城と館4、松本・塩尻・安曇編)の縄張図と松本市遺跡地図では城域の範囲に相違がありますが、自分は現況から松本市遺跡地図を推します。が、沢で東西を区画された削平地て以外には何も…石列とかも残ってましたが何とも言えない。まぁ夏道を内に取り込んだ急造の砦だったのでしょう…
野麦街道は明治に入ると高山から松本、岡谷の製糸工場に働きに出る多くの少女達が通った道で、その悲劇や苦労は小説に書かれているとおり…遭難の主な原因は帰省を盆と正月にのみ許した事で、厳冬期に峠を越える必然が生まれました。明治期、政府による富国強兵政策を陰で支えた少女達、自分はその街道の入口を少し歩いただけでした。
2022年01月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
波田山城[中塔城 周辺城郭]
波田山城(秋葉城)は中塔城の南東約6.5km、梓川南岸(右岸)、標高977mの山塊山頂に主郭が存します。北麓の登山道(若澤寺表参道)入口からの比高は210m位でしょか。
行き方は同じ中塔城のリア攻めマップにある若澤寺跡を参照して下さい。林道を車で進むと若澤寺跡の少し手前にお城への登城路となる遊歩道(若澤寺裏参道)の分岐にぶつかるのでこれを徒歩で登ります。分岐から5分位で城域に入れる(案内板、説明板有り。)でしょう。
築城年代は寛正三年(西暦1462年)、築城者は小笠原四天王の一氏、櫛木(櫛置)市正一俊、信濃守護小笠原持長の命によるものとされています。城主としては波田式部正勝、小笠原長時被官であった波田数馬の名が伝わります。武田氏時代に波田郷は古畑伯奢の持分でしたがこの際に廃城されたとも…ちなみにそれ以前の当地の歴史や関係各氏を体系的に説明するのは極めて複雑で理解困難、此処ではとても無理っす。気になりましたら「古代秦氏と大野牧」で検索して下さい。ネットでこれだけの資料が漁れるなら御の字でしょう。
お城はこの地域としては突出した縄張を持っており、松本平における飛騨口に当たる事から特に重要視されたと思います。改修と拡張が続けられた(お城を訪ねれば誰でもそう感じるはず…)と思われ、今に残る要害としては遺構の残存率も極めて良好です。本城、南城、北城の3つの郭を中心に無数の腰郭と要所に竪堀が設けられていますが、主郭である本城と南城、北城間を隔てる2条の大堀切と大竪堀がこのお城のハイライトでしょう。これらはこのお城における守りの要であり、竪堀本来の目的以上の導線でもあり、寄手はこの竪堀に誘導されて竪堀左右に配置された雛壇状の腰郭から終始阻害されます。主郭は土塁、井戸付きで腰郭の段々感も素晴らしい…「ふぁ〜(かずりの賛辞における最大級の感嘆詞…)」としか言葉が出ないや。
小笠原系城郭の一つとも言えるでしょうが、林城、桐原城、埴原城、山家城の本アプリ登録城だけではやっぱり勿体無い…山城ファンは絶対損していますわ…車を使えば登城は楽ですし、何気に歴史深い波田の地に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。
2022年01月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
若澤寺跡[中塔城 寺社・史跡]
若澤寺跡(にゃくたくじあと)は中塔城の南東約6.7km、標高約943mの水沢山山腹平場に建てられた寺院跡です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。沢筋を登る奥山に立地する山岳寺院跡ですが、林道を使えば跡地直下まで車で登れます。積雪の残る冬場でも四駆なら気合い入れれば結構頑張れますが、限界を感じたらさっさと車を捨てましょう。登れても下りて来れない場合てあると思います。
創建年代は天平勝宝年間(西暦749年〜757年)、開基は行基、中興は坂上田村麻呂とされていますが何れも伝承です。山号は慈眼山もしくは水沢山、真言宗の寺院でした。
さてさて、令和二年冬から今日に至るまで65日位松本市に通い詰めている自分ですが、松本市街地で美味しい物を食べようと探しまくっていて気付いちゃった事を一つ…それは街に重厚感が無いっ!現存天守の松本城があるじゃん!城下町じゃん!とか突っ込まれるのは覚悟していますが、何でかな?と考えた末の結論は街中に古いお寺さんが皆無な事なんです。松本市街地は比較的新しい建物が立ち並ぶ魅力的な街ですが、城下町としては違和感を感じないでしょか。
これには理由があります。大政奉還後の慶応四年(西暦1868年)の太政官布告(通称、神仏分離令、神仏判然令とも。)、および明治三年(西暦1870年)に出された詔書、大教宣布に基づく廃仏毀釈が松本藩内で徹底された事が原因で、藩内の寺院は悉くその影響を受けました。ただ新政府の目指すところはあくまで神仏分離であって、廃仏毀釈自体は民衆による拡大解釈が遠因(松本藩内では別の理由、藩主戸田光則が様々な理由で熱心だったようだ…阿保が…)のようです。
若澤寺もその影響を受け、明治四年(西暦1871年)九月、無檀帰俗のため廃寺となりました。かつては信濃日光と呼ばれる壮麗な山岳寺院でしたが、今は石垣にその痕跡を残すのみとなっています。お寺さんには全く興味を持てない自分ですが写真見て一目惚れ、波田山城(直近に存する。)を訪ねる際には必ず行こうと思っていました。凄く感慨深かったけど、当日は風雪で石垣が埋もれてしまい魅力が半減したのも事実…廃寺マニア(同じ中塔城のリア攻めマップにある岩原城東麓に残る安楽寺跡も必見す。)は当然だけど山城マニアも楽しめるかな、御朱印は当然ありまてん…
2022年01月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
櫛木城(西光寺城・再興寺城)[中塔城 周辺城郭]
櫛木城(西光寺城・再興寺城)は中塔城の南東約5.8km、梓川南岸(右岸)、梓川が創造した扇状地、梓川の流入と地殻変動による地盤の隆起により形成された標高約735mの河岸段丘台地北辺端部上平場(崖端とも言う…)に城域が存します。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。
築城年代は不明、築城者も不明としますが、建武の新政により信濃守護に補任された小笠原氏が、安曇郡西牧郷の西牧氏等に備えるために梓川谷の入口に当たる上波田の光明山に波田山城(大変素晴らしい!)を再興し、その根古屋(内城)として当城を築いたのではないかと推測されています。城主としては小笠原氏の有力な被官であった櫛木氏(櫛置氏)とされ、櫛木正盛(政盛)の名が伝わります。
お城の現況は耕作地、果樹園、墓地、一般住宅地となっています。旧態は想像が難しいのですが、郭間を隔てていた堀切+竪堀が1条、良好に残っています。この堀切+竪堀は崖下とを結ぶ通路として使われていたらしいけど、藪が生い茂っているので使われなくなって久しいようです。
史跡碑と説明板が立っています。これが無けりゃ此処がお城だったなんて誰も気付かないでしょう。付近には国の重要文化財である田村堂(同じ中塔城のリア攻めマップにある若澤寺跡、若澤寺の本尊を収める厨子の一つ。)なんてのが残されていますので、こちらに来る事がありましたら皆様もついでに訪ねてみて下さいまし。
2022年01月25日 内記かずりヾ(・ε・。)
淡路城[中塔城 周辺城郭]
淡路城は中塔城の南東約5.7km、梓川南岸(右岸)、梓川が創造した扇状地、梓川の流入と地殻変動による地盤の隆起により形成された標高約720mの河岸段丘台地北辺端部上平場(崖端とも言う…)に城域が存します。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。
築城年代は慶長十九年(西暦1614年)!?築城者は一応不明としますが、古老の伝承によると天正年間(西暦1573年〜1593年)、この地に居していた小笠原忠真の臣、春日淡路守直次(信次とも。)の名が伝わります。淡路守の春日氏は滋野三家の一つ、禰津氏の庶流、春日氏の分流で、宗家の信濃国佐久郡春日郷とは別に信濃国小川庄を基盤に発展していきました。淡路守は天正壬午の乱の際に小笠原氏に降り、最終的には同氏に家老として仕えます。領内の慶長検地に手腕を発揮した他、元和元年(西暦1615年)、大阪夏の陣において藩主秀政に従い、天王寺口の戦いで秀政が戦傷により死去、嫡男忠脩が討死するとその処理を取り計っています。淡路守のその後ですが、第二代松本藩主、小笠原忠真が播州明石に加増移封されるとこれに従い、まもなくして父子共々生害しました(理由は不明っす。)。
築城年代が正確なら居館として築かれた事でしょう。が、小笠原氏は貞慶(この人の家臣団はあらゆる意味で相当苦労したと思う。)の代、天正壬午の乱の際に中信を回復、その後貞慶ミスって改易、嫡男秀政は徳川氏に従い下総国古河に所領を得て、後に大名として信州飯田藩主、更に信州松本藩主として加増再封された経緯があります。想像に過ぎませんが、天正年間に居館城として築かれ、慶長十四年に屋敷として再普請されたのではないでしょか。カムバックって感じです。
お城の現況は耕作地、一般住宅地等となっています。明治二年(西暦1865年)まで縄張が残っていたようですが今は旧態を想像出来ません。出丸や馬場が付いていたようだけど…ただ諦めずに城域を探し廻ると竪堀や横堀と思しき堀形が確認出来たりします。が、慶長十四年に屋敷に竪堀掘る阿保もいないとは思います。
結構立派な城趾碑が立っています。これが無けりゃ此処がお城だったなんて誰も気付かないでしょう。遺構の乏しいお城には滅茶苦茶立派な石碑でも大歓迎です。
2021年07月20日 赤かぶ【】
波田山城[中塔城 周辺城郭]
波田山城(波多山城)は松本市波田にある山城で別名「秋葉城」とも呼ばれています。
行き方は先ず国道158号通称「野麦街道」から田村堂(阿弥陀堂)を目指して下さい。
こちらには駐車場とトイレがあります。トイレですが7月18日に訪れた際はカギが閉まっておりました。利用の際は注意が必要です!
田村堂から水沢林道を通って若澤寺跡へ向かう途中に登城口へ通じる道があります。
車で途中まで行けますが道は狭いです。すれ違いは厳しいかな!?道もよくないので車で行く際はご注意を!!
若澤寺跡に行く途中に はた「歴史の遊歩道」案内図の看板が見えて来たらわき道に入ります。
わき道をひたすら登って行きます、途中のこり100Mの案内板もあるので迷わず行けますよ!!
登城口には縄張図の載った説明板があります!
お城は遺構がとても良く遺っていて素晴らしいです♬︎
主郭には土塁・井戸跡・秋葉社が見れます、南北にはそれぞれ南城・北城があり主郭との間に深い堀切で分断されています♪
その他に竪堀や切岸・帯郭・腰郭・馬出しなどの遺構が目を楽しませてくれますよ♬︎
止め山に付き立ち入り禁止の案内がいたるところにあります、秋の茸シーズンの登城には注意が必要かと思います☀︎
① 主郭北東側の竪堀
② 登城口
③ 主郭と北城の間の堀切
④ 主郭切岸
⑤ 主郭
⑥ 主郭と南城の間の堀切
⑦ 南城の堀切
2021年05月06日 ソウタニア
中塔城
中塔城の攻め方【2021.5.4時点】
《はじめに》
道路および遺構に案内板は一切なく、道も未整備です。攻城は登城口から一時間ちょい(うち30分は相当な急斜面)、帰りは約30分で、往復二時間程度です。ほぼ道なき道を進むので、軍手や水分は用意した方が良いと思います。
《登城口まで》
梓川ふるさと公園から防獣フェンスを越えて、すぐに右手の橋を渡って林道に入ります。道なりに10分ほど進むと左手に土留コンクリートがあり、コンクリとコンクリの切れ目に竪堀らしき存在がみられ、そこが登城口と思われます(少なくとも私はそこから登れました)。
《鉄塔まで》
登城口から相当な急斜面を、竪堀(?)の中を進みます。落ち葉が積もり、倒木もあり、とても登りにくいです。途中から二重の竪堀(もしかすると正式な登城路か)になりますが、変わらず堀に沿って進みます。休憩を入れつつ40分くらいで、鉄塔に着きます。
《頂上まで》
鉄塔裏からうっすらと登城路が続くので、あとは道なりです。途中堀切や小規模な段曲輪(と覚しき)といった遺構があり、登城口近辺の植生と変わって白樺などもみられ、登りやすくなります。頂上に着いてもはっきりとした遺構はみられないので、少し不安になりますが…
《さいごに》
いつもはこどもと一緒に城攻めしますが、ここはこどもの足ではムリと思われます(連れてこなくて良かった)。また本当に登城口が分かりにくく、私は林道の行き止まりまで30分以上ムダに進んでしまいました。林道にある唯一のカーブミラーから少し進んだ土留コンクリートが目印です。少しでもみなさんのご参考になれば。
2020年12月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
北条城[中塔城 周辺城郭]
北条城は中塔城の東南約2.8km、標高約946mの通称城山山頂に主郭が存します。東麓からの比高は210m位でしょか。
行き方は同じ中塔城のリア攻めマップにある亀山城から北方へ向かって尾根をひたすら登って下さいまし。踏み跡程度の道なら付いてます。
実は城めぐ的に有名?な中塔城はこの北条城の詰城の役割を担うものとして西牧氏によって築かれたとされています。室町時代後期、小笠原氏が信濃守護として比較的安定していた頃に中塔城はその家臣の二木氏に与えられました。小笠原長時が武田晴信によって府中から駆逐されるとこの中塔城に一時籠って抵抗を試みたらしい(後年編纂された二木家記では中塔城に籠る前に野々宮合戦なる戦で武田勢に勝利した事の記述があるそうですが、他にこの合戦の資料がろくに見られないので真相は闇の中…)です。
北条城はこの際に改修を受けたらしく、確かに他の信濃のお城とは雰囲気が違います。大抵の信濃の山城は山側を大胆に堀切ってフェードアウトするんですが、北条城は主郭部を中心とした北西尾根、北尾根、北東尾根に無数の段郭を連ねています。つまりは中塔城方向を意識したものになっているんです。少なくとも元の主人が籠る中塔城が脅威だった事は間違い無いようですね。
お城は素晴らしいです。主郭周辺の堀切、城域に数多く見られる竪堀に興奮する事間違い無し!竪堀は縄張図に無いものを見つける事もあるでしょう。凄いのは主郭北東側背後の大堀切でして、主郭の急角度切岸と相まって実に見事です。この大堀切を下りるのは今でも相当難儀(滑り落ちました…)します。
西牧氏は小笠原氏とは大塔合戦の旧敵、そして武田氏には重用されなかったらしいです。巧みに大勢力間を泳いで渡ってきましたが、信長横死後に旧領を回復した小笠原氏によって滅ぼされました。マイナーですがしかし梓川梓の歴史を語る上で避けて通れぬ氏族です。乱世を生き延びれなかった西牧氏の無念を是非このお城から感じ取って下さいまし。
2020年12月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
西林砦[中塔城 周辺城郭]
あんまし面白くない砦口コミその1〜
西林砦は中塔城の東南約4.3km、梓川が創造した扇状地、梓川の流入と地殻変動による地盤の隆起により形成された標高約690mの河岸段丘東南辺最上段端部上平場に築かれた砦です。この地域一帯を支配下に置いていた西牧氏はこの段丘端に沿って多くの砦を築いており、現在確認されているだけでも6つあります。自らの支配領域の東南辺の守りを固めていたという事なんでしょかね。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は路駐でOK♪レベルです。
築城年代は不明ですが、築城者は西牧氏です。西牧氏については同じ中塔城のリア攻めマップにある長坂上砦を参照して下さい。
6つの砦の現況は土地の改変によってどの砦も往時を偲ばせてくれるものは殆どありません。この西林砦は辛うじて崖地部分に何かあるかなぁ…といった感じのぎりぎりの砦です。
砦は何となく2条の竪堀らしきものの間に、農道から一段下がった所に空堀の様なものがあるかなぁ…という感じ。当然改変かもしれませんが、この時の自分は自分を殺しに来た相手でも「気にすんな。」と微笑んで許してしまうような慈悲深さに満ち溢れていたので、たぶんこれは遺構だと考えてもよいと今でも思っています。
西牧氏関連の山城を訪ねる際には6つの砦の内、その何れかの前を必ず通る事になると思います。気付いたら宜しくお願いしますって感じですかね。マニア向け。
2020年12月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
亀山城[中塔城 周辺城郭]
亀山城は中塔城の南東約3.3km、北条城の存する標高946mの通称城山から南へ延びる標高806mの尾根上端部に主郭が存します。南麓の金松寺からの比高は35m位でしょか。地形図を見れば亀の甲羅の様な山でしてきっとこれが名前の由来なんでしょう。
行き方はGoogleマップに位置登録されている南麓の金松寺(武田氏滅亡の際、旧領回復を目指す小笠原貞慶が旧臣を呼び寄せる為に陣を敷いたお寺らしいです。が、この時は信長に相手にされず失敗…京に帰る。)を目標に設定して下さい。駐車も余裕です。亀山城自体もGoogleマップに位置登録されているんですが、ピンは南東側に若干ずれています。金松寺の北側、道路を挟んで直ぐの場所に獣柵ゲートがあり、その背後の尾根上でお城は物好きな人を待ってます。
厳重過ぎる獣柵ゲートを開けて中に入るのは嫌なものですが、お城へは10分位で城域北端の食い違い堀切に辿り着きます。実はいきなりハイライトにぶつかります。お城は概ね南北に郭が三段連なっていて、削平面積はこの類いのものとしては相当な広さです。亀山城は北条城の大手筋にあるとされ、当然その前哨の役割を果たすものなんでしょうが、何だか別の目的もあるように感じました。又、お城の西麓から南麓へ沢が流れていますが、これを障壁として利用しない人はいないでしょう。
築城者は滋野氏の庶流、西牧氏で苗字に「牧」が入ってることからも解るように官制の牧場、「御牧」に関わる氏族だったようです。滋野氏の嫡流三家の一つ、望月氏は信濃十六御牧の筆頭とされる望月牧を支配し後に有力な武士団として成長しています。戦国時代に入ると西牧氏は小笠原氏に従っていましたが、塩尻峠の戦いで小笠原氏が惨敗すると武田氏に従属する事になります。元々小笠原氏との関係は過去の歴史的経緯から良好だったとはとても考えられず、後に小笠原貞慶が深志を奪還すると真っ先に血祭りに上げられました。
水路を整備し梓川流域の開墾、発展に貢献した西牧氏の領国経営は今も豊穣な果樹園に引き継がれている…梓川倭にあるほっとミルクの工場でソフトクリームを買おうとしたら定休日…思わず工場前でこんな感慨に耽ってしまいました。
2020年12月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
岩原城[中塔城 周辺城郭]
岩原城は中塔城の北東約7.7km、標高約953mの古城山山頂に主郭が存します。東麓の堀金霊園からの比高は230m位でしょか。
築城年代は不明ですが、築城者は仁科氏の庶流、堀金氏でその持分でした。安曇野市立堀金小学校付近にあった堀金氏居館(現況は思いっきり民家ですが、空堀と土塁の一部が残存する。)の詰城の役割を担っていました。
行き方はGoogleマップに位置登録されている東麓の堀金霊園を目標に設定して下さい。駐車も余裕です。此処に到着する前に広めの段々地形が気になるかと思いますが、お城の東麓にはかつて大同寺と安楽寺が建ち、「構え」と呼ばれる防御施設の役割を果たしていたらしくどうやらその名残りのようです。ちなみに安楽寺は明治初頭、松本藩内の廃仏毀釈により廃寺(松本藩内のお寺は悉くやられたらしい。)となりました。安楽寺は臨済宗から曹洞宗に改宗したらしく、大同寺は臨済宗のお寺なので、ひょっとしたら同一のお寺だったのかもしれません。又、この寺跡には見事な石垣が残っていて往時を偲ばせてくれたりもします。話は逸れましたが、堀金霊園裏手に安楽寺跡があり、此処からの登城路が平成29年に完成しました。以前はほぼ直登の難城だったみたいなのでこれは嬉しい整備ですね!
登城の注意点は熊対策のみ…安曇野市では今年に入り63件(負傷1名)の目撃例が報告されていますが、その殆どが穂高牧周辺でお城の直近となります。麓は熊の檻罠や鳥獣駆除装置(初めて見ました。)、電流柵等が散見される場所なので細心の注意を払いましょう。
お城は素晴らしいっす。土豪の築くものとしては規模は大きい部類に入るでしょう。無数の段郭、よく切られた堀切と竪堀に興奮する事間違い無し!特に主郭南西側背後の堀切は主郭端部から堀切底部まで18mはありそうです。
この岩原城には「さるが城」と呼ばれる詰城?があるんですが、信濃のお城の神が二度と行きたくないと述懐するお城の代表例だと思います(猿とか鬼が名前に付く…険しい山中を意味する。そもそも存在さえ怪しいものが多いと思う…例えば落武者や盗賊の類いが隠れ住んだみたいな…)。遭難の危険を犯してまで行っても得るものは何も無いと思うのですが見てみたい気持ちもありますね。
2019年05月05日 城郭放浪記 大宰大弐
中塔城
城域西端の堀切。竪堀になっているのは尾根路改良のためと思われる。
2011年03月28日 赤いRVR甲斐守@松本
中塔城
30年近く前に登城しましたが、登城の困難度は日岐大城と双璧、下り道を間違えて、遭難しかけました。麓にとんがり屋敷と云われる館跡があります。
中塔城の周辺スポット情報
岩原城(周辺城郭)
亀山城(周辺城郭)
北条城(周辺城郭)
西林砦(周辺城郭)
波田山城(周辺城郭)
淡路城(周辺城郭)
櫛木城(西光寺城・再興寺城)(周辺城郭)
かぎかけ山物見(周辺城郭)
波田の撞鐘久保(周辺城郭)
夏路の砦(大野田小屋・大ぬた小屋)(周辺城郭)
城日影砦(周辺城郭)
鞠子山砦(周辺城郭)
田屋城(上野城)(周辺城郭)
長坂上砦(周辺城郭)
竹田城(秋葉城)(周辺城郭)
田多井古城下居館(周辺城郭)
田多井古城(周辺城郭)
田多井城(周辺城郭)
小倉城(周辺城郭)
小田多井の丸山氏屋敷(御東)(周辺城郭)
田多井城見張台(周辺城郭)
多田氏堀屋敷(周辺城郭)
隠れ小屋・殿様小屋ーC(周辺城郭)
隠れ小屋ーA(周辺城郭)
殿様小屋ーB(周辺城郭)
若澤寺跡(寺社・史跡)