中塔城(なかとうじょう)
中塔城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 長野県松本市梓川梓
旧国名
- 信濃国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 西牧氏
築城年
- 戦国時代?
主な改修者
- -
主な城主
- 西牧氏、二木氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、堀切
指定文化財
- -
再建造物
- -
周辺の城
-
小岩嶽城(長野県安曇野市)[12.9km]
平瀬城(長野県松本市)[13.0km]
井川城(長野県松本市)[13.6km]
松本城(長野県松本市)[13.8km]
武居城(長野県東筑摩郡)[15.0km]
林城(長野県松本市)[17.6km]
稲倉城(長野県松本市)[17.7km]
埴原城(長野県松本市)[18.9km]
桐原城(長野県松本市)[19.0km]
山家城(長野県松本市)[21.4km]
中塔城の口コミ情報
2025年09月11日 内記かずりヾ(・ε・。)
田多井古城下居館[中塔城 周辺城郭]
田多井古城下居館は中塔城の北東約5.9km、標高約598mの段丘台地上平場に立地した居館です。該地とその周辺一帯は烏川扇状地の扇端部に位置しており、水田地帯には明瞭な条里型地割が見られ、平安時代の中期以降には開発が始まっていたとも推測されている。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「田多井公民館」を目標に設定して下さい。この公民館に車を捨てたらリア攻めマップを参照して該地を特定しよう。
該地の田多井郷は、安曇郡内矢原庄を構成する一郷であった。長享仁(西暦1488年)戌申年七月吉日之写、「春秋之宮造宮之次第」に、「十八間 多田井(田多井)郷」とあるのが文書上の初見、田多井郷は「御瑞籬四拾三間之内」の十八間を負担している。明鷹十年(西暦1501年)辛酉二月十一日、「三宮穂高社御造宮定日記」に、「御柱一本 猪鹿牧、柷戸(神戸)、た々井三ヶ郷所役」とあり、田多井は、猪鹿牧、柷戸と共に御柱一本を負担している。天正六年(西暦1578年)戉寅二月七日の「下諏訪春宮造宮帳」には、「一 春宮瑞籬八間造宮領 矢原之庄内多田井(田多井)郷」として、「去壬申取所 合弐貫弐百文 田々井代官市右衛門 取手 諏方勘解由左衛門尉」とあり、武田氏時代の田多井郷の代官に市右衛門があった事が判る。又、天正七年(西暦1579年)己卯正月廿日の「下宮春宮造宮帳」には、「玉垣八間 田多井 正物 貳貫貳百文 執手 小井川勘解由 代官津嶋 此外七百 手師小祝」とあり、玉垣八間を他の矢原庄内の諸郷と共に負担している。此処での代官、津嶋とは前述した市右衛門の事であろうか。
築かれた年代は不明、お住まいになられていた方には田多井氏が推測されている。「信府統記」には、同じ中塔城のリア攻めマップにある田多井城の城主として田多井大隈の名が見られるが出自、事跡等が伝わらない。
天正七年(西暦1579年)己卯二月六日の「上諏訪造宮帳」には、「上野之郷 正物仁貫五百文 代官 田多井安右衛門尉 古屋又右衛門尉 此外百文 手師小祝分」とあり、諏訪社上社の大宮東方大鳥居を負担する(「西牧之内」)上野郷(安曇郡)の代官として田多井安右衛門尉の名が見られる。田多井郷を離れて西牧氏の本貫地の代官を務めていた経緯にあっては推測の域を出ないが、元来から西牧氏の影響下にあった田多井氏は、文明十二年(西暦1480年)十月、仁科氏、山家氏に同心して府中小笠原氏に叛した西牧氏の失敗によって田多井郷を逐われ、以降は同氏の被官として存続したのではないだろうか。
別に居館の主として可能性のある者を探せば、天正年間(西暦1573年〜1592年)に田多井郷の地頭となった青柳対馬守が挙げられるだろう。但し、同名は同年間中には失脚したらしく、堀金氏に預けられて堀金郷、南原の地に住していたらしい。
屋敷の現況は…田地、畑地、空地、一般住宅とその敷地等となっており、館域は長野県道25号、塩尻鍋割穂高線によって派手に分断されている。居館敷地範囲は明確ではなく、城郭遺構も完全消滅しているが、昭和六十三年(西暦1988年)には、三田地区県営圃場整備事業に伴う発掘調査が「田多井 古城下遺跡」として部分で行われており、複数の住居址、複数の土壙、溝址(薬研掘りの堀跡と結論されている。)等が検出され、溝址からは中津川産と思われる中世陶器片等が出土している。ちなみに該地は「殿畑(との畑)」地籍にあり、その西側には「城下」、南側には「わかさ垣内」、東方には、「庄司屋敷」、「本屋敷」の小名がかつて残っていた。
「吾妻鏡」、文治二年(西暦1186年)三月十二日庚寅の条、「関東御知行国々内乃貢未済庄々注文」の中には、貢税を未済する左馬寮領、信濃国二十八牧の内に多々利牧の名が見られるが、この「多々利」は「田多井」に比定されている。その位置は、深沢以南、後に小田多井村が成立した田多井原に置かれていたと考察されており、周辺にはその傍証の一つとも言える、「馬瀬口」、「まよみ田」等の牧に関係する小名が残っていた。田多井郷とは、牧経営が困難となった多々利牧の牧田等を基盤に耕地化が進められた郷村であったようだ。
※「城下」を含む、信濃のお城の神の館域の捉え方には誤りがあるように思う。
※多々利牧〜該地の西南西約0.3kmの山林には平安時代初期の創建と伝わる賀茂神社が鎮座する。京都府京都市の賀茂神社、特に上賀茂神社は競馬発祥の地として知られ、かつて宮中で行われていた競馬会の儀の神事が行われる事でも有名だ。馬に深い繋がりを持つ神社であり、田多井の賀茂神社でも「お練り馬の神事」が例大祭として行われている。
※「まよみ田」〜「馬斎田」、牧の守護神を祀るための費用を賄う祭田のあった場所を意味している。
2025年09月10日 内記かずりヾ(・ε・。)
小田多井の丸山氏屋敷(御東)[中塔城 周辺城郭]
小田多井の丸山氏屋敷(御東)は中塔城の北東約6.7km、標高約583mの段丘台地東縁上平場に立地した屋敷です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「ちいさいぱんや」を目標に設定して下さい。このパン屋さん、店舗併用住宅が正に該地である。但し、近傍の方に聞いたら、家主は松本の方へ引っ越して今は無住、お店の方も営業はしていないらしい。
「信濃の山城と館7、安曇・木曽編」に掲載があるが、神本の趣旨からは逸脱した物件、即ち、近世の屋敷跡である。
該地の小田多井は、江戸時代の初期に成立した謂わゆる新田村であり、寛永十六年(西暦1639年)、田尻村と田多井村、両村の入会原(田多井原)に「四ッ屋」が出来たのがその始まりである。その後、慶安元年(西暦1648年)、温堰末流にあった住吉神社を横断する御手洗堰を延長、戸数二十四戸の小田多井新田村が成立した。慶安五年(西暦1652年)の検地によればその石高は八十七石であった。
御手洗堰は水量が不安定であり、寛文十三年(西暦1673年)、新堰堀替願を藩に出したが認められず、以後、出願を繰り返し、延宝六年(西暦1678年)、ようやく分水口を上流の野沢に付け替えた小田多井堰の開削が実現した。これによって享保七年(西暦1722年)の村高は百四石に増加している。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは丸山氏です。同氏は仁科氏の分流であり、安曇郡吉野郷から村の芝切(開発者)として丸山杢右衛門が来住したんだそう。前述した「四ッ屋」の一軒なのかもしれない。近世の丸山家は小田多井村の庄屋を務め、後には岩原村の越庄屋を兼任している。江戸時代後期の当主、伝右衛門は、上堀金村の庄屋、平林儀右衛門、並びにその組頭、米倉彦三郎等と共に堀廻堰を開削した。
屋敷の現況は…田地、畑地、空地、一般住宅とその敷地等となっている。堀や土塁が巡っていたようだが、正直、屋敷跡と言ってよいのかも疑問なところであり、建物を除けば細部は別として往時と大して変化が無いように思う。城郭遺構?としては西南隅に土塁様の結構な土の高まりが確認出来る。又、西辺の窪みはかつての堀跡だろうか。
ある偉い先生の研究(「耕地の土壌学」)によると、土壌は正しく管理(稲わら、堆厩肥、苅敷等の投入…)されていると、より肥沃な土壌に変化するとされている。営農期間が長ければ長い程、土壌には好循環が発生する訳だ。米の等級、銘柄が無かったこの時代、その代わりの指標にもなっていたのが「田の等級」だ。堰の恩恵を受け易いより高地の上流地域に一等田が多いのは当然の事だが、各堰の末流に当たる新田に豊富に引水する事は、その開発、経営に欠かせない重要な課題でもあった。
その問題解決を在地で図ろうとしたのが各地の庄屋達だ。中世、戦国時代から続く安曇郡の在地土豪層は、天正十八年(西暦1590年)の小笠原氏の改易、転封に従う事を拒み郷士として留まり、後には帰農して庄屋となった者が数多く、その土地の諸事情に精通する彼等は、藩の役人以上の功績を挙げる事となる。堰の名称に庄屋等の名が付けられるのはその傍証にも成り得るだろう。
言い方を換えれば、庄屋等は、開発領主として先祖が行なってきた事業等を近世に立場を変えて引き継いでいた事になる。彼等の尽力無くして安曇野の美しい田園風景が今に伝わる事も無かったろう。偉大なる先人をリスペクト、観光客で賑わう当地を訪れてそんな感慨に耽ってみた…
灌漑だけに…(o゚Д゚)=◯)`3゜)∵グハァ
※安曇野市が発行する「安曇野の屋敷林」の内、「3-8小田多井 南北に連なる屋敷林」の項に掲載がある。ちなみにおいらはこの冊子が大好き。ネットでダウンロード出来るので興味があったら是非見てね。
※丸山氏〜同氏については腐る程語る場所があるんで別の機会にでも…来住元の安曇郡吉野郷には丸山氏が居したと推測される屋敷跡が2箇所に存在する。ちなみに安曇野市では最も多い姓、発祥の地、東筑摩郡生坂村では全人口の4%を占めている。現在の全人口、1843人だけどね…つまりは74人…
※写真①は小田多井郷倉跡の標柱を撮影した物っす。現在とは違い田地ではなかった事になる。刈り入れは終わったかなぁ…
※写真⑧は要るのか知らんけど南側の舗装道路から撮影した近景っす。
2025年09月09日 内記かずりヾ(・ε・。)
巾上の十郎右衛門屋敷(大巾・堀屋敷)[中塔城 周辺城郭]
巾上の十郎右衛門屋敷(大巾・堀屋敷)は中塔城の北東約9.2km、標高約560mの段丘台地東縁上平場に立地した屋敷です。「巾上」は松本駅のアルプス口西側の一帯にも見られる地名だが、此処では段丘台地上の一段高い場所を意味しているんだろう。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「SHOKUDO-CAFE ちゃぶだい」…を目標に設定して下さい。後はリア攻めマップを参照して該地を特定しよう。車は路肩に捨てられる。
該地の堀金郷は、明鷹十年(西暦1501年)辛酉二月十一日、「三宮穂高社御造宮定日記」に、「御鳥居一具他 堀金所役、五月祝奉行」とあるのが文書上の初見、天正六年(西暦1578年)戉寅二月七日の「下諏訪春宮造宮帳」には、「一 春宮瑞籬八間造宮領 矢原之庄内田多井郷」として、「同(去壬申取所) 合壱貫四百文 堀金代官(米倉)丹後守 同人(取手 諏方勘解由左衛門尉)」とあり、下社側では堀金を矢原之庄内田多井郷に属する一村とする認識がある。又、天正七年(西暦1579年)己卯正月廿日の「下宮春宮造宮帳」も同様の認識であり、「正物 壱貫四百文 代官堀金之(米倉)丹後 此外四百 手師小祝」とあり、玉垣八間を他の矢原庄内田多井郷の諸村と共に負担している。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは(黒岩)十郎右衛門です。ちなみに屋敷地は現在も黒岩家の所有であり、舗装道路を挟んだ東側の段丘崖縁には同家の墓所がある。
伊勢内宮御師、宇治久家が、天正九年(西暦1581年)に記した「信濃国道者之御祓くばり日記」の「にしなの分」には、「ほりかね殿出木(来)候ハ々にしなめうにして御座候、のし五十、ちゃ十 十郎(右)衛門殿しそく ちゃ五つ (米倉)中使たんこ(丹後)殿 ちゃ 三つ」とあり、「十郎衛門殿しそく」が、久家から茶五つの土産を配られている事が判る。父の十郎右衞門に配られなかった点が気になるが、土産の品目、量からすれば、黒岩氏は「ほりかね殿」の被官であったのだろう。
居館の現況は…田地、空地、雑木林、一般住宅とその敷地等となっている。改変著しく旧態は見ないが城郭遺構として土塁の残欠が数箇所に点在している。該地は「大巾」、もしくは「十郎右衞門屋敷」と呼ばれていた場所であり、南辺には「くね林」、「竹原」等の小名がかつて残っていた。又、屋敷地の南辺には、段丘崖下の「巾下」を灌漑する中沢が東流し、下堀金の「古町」の南側、中世には存在した「二日市場」を経て烏川入会山へと至る「烏川北山道」が東西に通っていた。道押さえとしても、水番所としても武士が居する場所の適地であり、事実、「天明元年(西暦1781年)下堀金村御用留書」によれば、(黒岩重右衛門の)屋敷地には水車(小)屋が建てられていた事が判っている。
堀金には、岩原の「内がいと」、「北海渡」、「源次郎がいと」、上堀金の「小林がいと」、下堀金の「内垣内」等に見られるように中世の屋敷跡等を示唆する小名が数多く残っている。概ねは百姓屋敷であったと推測されているが、該地の北北西約0.5kmに位置する、下堀金の「内垣内」は、更級郡平林村を発祥の地とする滋野姓平林氏が更級郡布施に移り住み、布施氏を称した後に当地に来住して居館した場所だと推測されている。
調べれば調べる程に沼に嵌る。楽しくもあるんだけど終わりが無いや…地方史は謎の連続であり、確実な史料が無い以上、はっきりとさせる事は常に難しいんだけど、その反面、特に地名等(小字、小名等)に関しては実に細かく伝えられている事が多い。数百年前に存在した城館等の場所が現在でもある程度は推定出来るのだ。日本の歴史て本当に深淵な世界だと思う。ヒントを与えてくれる名も無き故人等には感謝の気持ちしかない。
※安曇野市が発行する「安曇野の屋敷林」の内、「3-4下堀 河岸段丘上の屋敷林」の項に掲載がある。ちなみにおいらはこの冊子が大好き。ネットでダウンロード出来るので興味があったら是非見てね。
※「二日市場」〜「◯日市場」は全国何処にでも見られる地名だが、毎月◯の付く日に市場が開かれていた場所等を示唆する地名だ。
※南辺には「くね林」、「竹原」〜「くね」は竹等で編んだ生垣等を意味する。「竹原」は矢竹の群生地、もしくは「館原」の転化であろうか。伝えられた小名から生垣のあった場所まで判る。日本て凄い国だと改めて実感する。
2025年09月08日 内記かずりヾ(・ε・。)
堀金氏館(堀屋敷)[中塔城 周辺城郭]
さて、今回紹介する物件は7回目の訪問、別においらが変態だからとかそういう訳じゃなくて、どうしても突撃お宅訪問して遺構の確認をしておきたかったら。訪ねる度に留守でいつも泣きそうになってたんだけど、今夏、ようやく家人と接触する事に成功しやした。居館跡としては相当に立派な堀と土塁が健在する屋敷構え、敷地内の写真のアップは断固として断られたんだけどおいらは満足、この物件の探索に納得する形で区切りを付ける事が出来やした。
堀金氏館(堀屋敷)は中塔城の北東約7.8km、標高約572mの段丘台地上平場に立地した居館です。該地は小谷筋を進んで越後国頚城郡へと抜ける千国道(現在は長野県道57号、安曇野インター堀金線が通っている。)沿いにあり、居館地はこれを扼する一つである。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「米倉美容室」を目標に設定して下さい。車を何とかしたらリア攻めマップを参照して該地を特定しよう。ちなみに「米倉美容室」の「米倉」は、天正年間(西暦1573年〜1592年)に武田氏の蔵人地となった該地の堀金郷の代官の姓と同一だ。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは堀金氏です。同氏は「高白斎記」、天文廿年(西暦1551年)十月の条に、「…廿日甲戌、深志へ御着城、廿二日ホリカ子出仕、…」とあるのが文書上の初見、仁科氏の分流、古厩氏の一族が推測され、仁科氏が烏川を越えて古厩郷に進出した、大永年間(西暦1521年〜1527年)の前後が発祥の時期であろうと考察されている。
堀金氏は三代が数えられ、初代は安芸守盛公、その後は安芸守政氏(川中島で討死したと伝わる。)、平大夫盛広と相伝、武田氏時代には仁科衆を構成する一氏として重きを成していたようだ。
生島足島神社文書中、「堀金盛弘等連署起請文」には、渋田見源介政長、沢渡兵部助盛則、日岐盛次、穂高左京亮盛棟、等々力豊前守定厚、野口尾張守政親、関右近助政直、小宮山大蔵丞政知等と共に堀金平大夫盛広の名が見られ、盛広はその筆頭に置かれている。
伊勢内宮御師、宇治久家が、天正九年(西暦1581年)に記した「信濃国道者之御祓くばり日記」の「にしなの分」には、「ほりかね殿出木(来)候ハ々にしなめうにして御座候、のし五十、ちゃ十 十郎衛門殿しそく ちゃ五つ (米倉)中使たんこ(丹後)殿 ちゃ 三つ」とあり、「ほりかね殿」に関しては少し変わった書き方が為されている。大意としては、伊勢内宮の檀那となってくれるのであれば、熨斗五十本、茶十袋を土産として配る〜になるのだろうか。久家は微妙な時期に堀金郷を訪ねてしまったようだ。当主の盛広はこの頃に不届の由ありて在地領主として既に凋落していたとも伝わる。
居館の現況は…空地、一般住宅とその敷地等となっている。概ねで四十五間(約81.8m)四方の単郭方形の縄張、城郭遺構としては、東辺の約半分と南辺に堀、その外側と北辺の半分以上に土塁(北辺の土塁は殆ど削れている。)が残っている。居館地から県道を挟んだ東側には、構えに当たる土塁の残滓が残る別の屋敷跡、南側の空地には「大庭」の小名が、更にその南側には「丹後屋敷」の小名、西方には「曲戸(鉤の手)」を経て岩原等へと通じる「西小路」の小名が残っている。城下が形成されていたのであろう。
居館の主、堀金平大夫盛広は、天正九年頃に越中国利波(砺波)郡の浄土真宗の寺院、勝満寺を頼り仏門に帰依、順照と号した。後の天正十六年(西暦1588年)には、同郡内青島の地に、勝満寺の木造阿弥陀如来立像、親鸞上人の十字名号、蓮如上人の六字名号を譲り受けて勸帰寺を分寺創建した。その寺域は五町歩と伝わり、かつての寺地の四辺には堀と土塁を巡らせていたらしい。行きたい所がまた増えたぜ…
※勝満寺の木造阿弥陀如来立像〜鎌倉時代の作と伝わり富山県砺波市の指定史跡である。大切にされたのであろう。移動を考慮されて彫られた立像には少しの痛みも無いらしい。
※前述したとおり敷地内の写真は遠慮させて頂く。かずぽんが目当てにしていた遺構はこの屋敷林の下に隠れている。
※写真⑤、⑥が「大庭」の小名が残る場所を撮影した物っす。近世には郷倉が建てられていたので村落の中心地であった事に間違いは無い。
※写真⑧は「別の屋敷跡」を撮影した物っす。一族、もしくは被官衆が居していたのだろう。
2025年09月03日 内記かずりヾ(・ε・。)
青柳家の旧松本城大手門[中塔城 遺構・復元物]
さて、「日本最強の城スペシャル」で甲府城に対する的確なコメントが採用された事からも解るように、おいらをただの中世城館馬鹿野郎だと思っていたら大間違いだ。はっきり言っておきますけど、めぐら〜の中でおいら程、飯山城、上田城、小諸城、松代城、松本城を訪ねた人はいないだろう。飯山城ではおにぎりを食べながら温まったり涼んだりするし、上田城は夜中のホテルからの散歩にぴったりの距離だ。小諸城では蕎麦を食べた後にポニーに会いに行き、松代城では風に吹かれてお焼きを食べながら世界の平和を祈りまくり、松本城ではおでんを食べながら今日は何処へ行こうかなと思案を巡らせる。そう、近世城郭も十分イケる感じのめぐら〜なのだ。
その中でも松本城を訪ねた回数は群を抜いている。特に三の丸への出没率が極めて高い。意外に思われるかもしれないんだけど、間違い無く松本城博士の称号はおいらの物だ。松本城の事なら何でも知っている…気になっている。それを証明するかのようなレア物件を今から紹介するんで正座でもして待っているがいいさ。SHUT YOUR MOUTH, SIT BACK AND LISTEN!!! OK?
青柳家の旧松本城大手門は中塔城の北東約7.5km、標高約571mの平野部平場に立地する門です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は路駐で大丈夫やろ。
さぁ、松本城博士のおいらがこの門について説明しよう。
所有者の青柳家に伝わる、明治三十七年(西暦1904年)九月二十三日付の古文書の文面、更に建築様式、松本藩戸田家の家紋入瓦等から松本城大手門の薬医門であった可能性が相当に高い物件だ。かつて六十九町にあった東筑摩郡役所の門として再利用され、明治三十五年(西暦1902年)、役所が大名町へ移った際に青柳家に払い下げられたとされる。松本城の歴史を城外で今に伝える逸品だ。
…びっくりしたけど、現地の標柱にこれと殆ど同じ事が書かれていたわ…天才が纏め上げるとやっぱしパクりな文面になってしまうのかしらん。天賦の才、恐るべし…
松本城博士のおいらが上から目線で教えてあげるけど、同城の大門は三箇所が数えられている。本当に大手門だったのかが問題になる訳だけど、いとも簡単に答えを教えてあげて進ぜよう。大手門は城内最大級の門であった筈だ。この門を内側に取り込んだ櫓門だった可能性は十分に考えられるんだろうけどいかにも小さ過ぎる。そこで博士が導き出したこれに相応しいその場所とは…それは「あそこ」だ。もう「あそこ」以外には考えられない。大手門は三の丸への入口でもある最も厳重な造り。やっぱしどう考えてみても「あそこ」しかない。みんなも納得したでしょ。「なるへそ〜流石は松本城博士!」なんて思わず感じ入ってしまった筈だ。
門の現況は…たぶん、往時のまんまなんやろなぁ…余計な物を足さず、省かず、民家の表門として理想的な第三の人生を歩み続けている。よくぞ残してくれたと感謝の念しか湧いて来ない。長閑な田園風景の中に完全に埋没しているとはいえ、近くで見れば本物だけが持つ凄味みたいなものを感じ取れると思う。
この物件、あんましアナウンスされていないんだけど、やっぱし、松本城の大手門だったとする確実な史料や物証が得られないからなんだろう。気になるめぐら〜は現地を訪ねて自らの眼で確認するのがよい。100人が見に来たらその内の99人はガチもんだと判定する筈だ。
…近世城郭等で天守の無い事を悔やむ方が多いと思うが、個人的にはそれよりも総構えが失われている事を悔やんでいる。松本城公園から見る本丸はいかにも頼りがない。堀や城壁、櫓や門は、城内の貴重な物(人)を守るために本来存在する。それが殆ど失われているのだから頼りなく思えて当たり前だ。城=天守だと考えるのは個人の勝手だが、天守の建つ本丸に寄せ手の人数が入ったら城主は開城するか自刀するかの二択しか残されていないだろう。天守が無くとも城郭として成立するのは、本来なら存在した筈の総構え、縄張に城郭の持つ本質が求められていたからであろう。
※大手門の外枡形を構成する二ノ門(城外と接する。)であったとも伝わるらしい。絵図にも描かれているんだけどそれっぽい。
※ごく最近、大手門桝形の部分において発掘調査が行われているが、残念ながら門の建つ場所はスルーされている。
※ちなみに2年前に居館廻りの最中に偶然発見したw
※近世城郭も十分イケる〜信濃のお城ばかりだが高島城の現在の城内には入った記憶が無い。
2023年09月30日 らっちゃん
中塔城
先人、2021/05/06 07:29 ソウタニア様の投稿無しではたどり着く事は不可能だったと感じます。本当に感謝!追記として、先ず目指すは小室浄水場。車なら浄水場手前の梓川ふれあい公園の駐車場が便利。浄水場すぐ横の防獣ゲートを入り(ゲートは二つあるので要注意。左奥の車も入れる林道です)、橋を渡り、10分程歩くと先人ソウタニア氏の言うところの登り口あり。そこから縦堀を40分程登ると鉄塔に到着。鉄塔から再び縦堀を30程登るとアプリ地図上の本丸に。縦堀に沿ってがキーです。軍手持参をお勧めします。
2023年06月01日 ともっち♪因幡守
岩原城[中塔城 周辺城郭]
学術的には先人さんのをお読みください(๑•̀ㅁ•́๑)✧
今回、とりあえず熊さんには会いませんでしたが、罠とかかけてあります。情報収集してからお出掛けくださいませ
今年は春が早かったからか、お尻が黒っぽい気が強めなスズメバチさんが、主郭虎口にいて主郭に入れませんでした🐝ロックオン。はじめクマンバチかと思いましたので気をつけてくださいね!
侵入禁止ロープがはってあり全部見れなかったのは残念💦
あと、私体力的ですが、ここ降りないと行けんのかぁも、あったのでソロじゃないほうが良いかなぁとも思います
でもでも見れただけでも遺構は凄い良かったです🎶(о´∀`о)登りキツイけどw
2023/05時点
2022年10月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
隠れ小屋・殿様小屋ーC[中塔城 周辺城郭]
〜隠れ小屋・殿様小屋ーCについて〜
信濃のお城の神は隠れ小屋ーAと殿様小屋ーBの他に比定地としてCとDの2箇所の平場を位置図に載せている。今回辿り着けたのは比定地CとDの平場のみ。
比定地Cは栃沢西岸(右岸)の崖地上、標高1227mの平場に立地し、山塊山中の平場としてはかなりの面積を持つ。自然地形ではあるが4段の段付き、無数に点在する石積みや石の集積(炭焼き釜とは断定出来ないものが多数を占める。枡形も残ってた…)を見る事が出来る。栃沢沿いに設けられた領内郷民の逃げ込み城としては最良(複数の小屋掛けも余裕だ。)でしょう。今に見るものは後世の杣人が残した山番所や山中炭焼き場等(当該稲核村は大野川村、大野田村、島々村と共に「入り四か村」と呼ばれる御用杣村であった。松本藩では元伐奉行として徒士、山目付役に足軽、杣改役として小人等の藩役人が山方として勤仕していた。入り四か村は明治に入り安曇村として発展解消する。)の残滓なんだろうけど、平場としては往時の逃げ込み城の二次利用の可能性が高い。この平場を無視して後背に存する隠れ小屋、殿様小屋を成立させる事は出来ないだろう。
実際に現地を訪ねて思うに、平野部の稲作、耕作面積の少ない谷筋の領内において、在地領主は豊富な山林資源に活路を求めて栃沢沿いに進出、様々な林場を整備し、禍乱時にこれ等は逃げ込み城としての利用があったものなんじゃないかな。隠れ小屋、殿様小屋はあくまでその結果に過ぎないんじゃないかと…天正十年(西暦1582年)八月、西牧氏は府中を回復した小笠原氏によって滅亡しますが、隠れ小屋、殿様小屋はその終焉の地とも推測されています。少なくとも鎌倉時代の初期から梓川下流域に根付いた滋野姓の末裔達は歴史の表舞台から完全に消え去る事となりました。
※沢も近いし熊さんの餌が極めて豊富なお山です。痕跡のみならず明瞭な足跡、崖中には冬眠穴等が散見されます。
※体調、装備は万全に…携帯電話はほぼ圏外、山中での行動不能は人知れぬ死を意味する。又、登山系アプリは必須となる。
2022年10月18日 内記かずりヾ(・ε・。)
隠れ小屋・殿様小屋ーC[中塔城 周辺城郭]
〜隠れ小屋・殿様小屋ーC登城編〜
まず登城?に関する確かな情報が一つも無い。全くの手探りで偉大な先人の軌跡を追うしかない。著述には「…道も殆ど消えかけていて、危険な登山である。」とある。行けば誰でもびっくりするけど、かつてこの山塊山中には徳本峠道(上高地へ通じる。飛騨を追われた三木秀綱の妻がこの峠道を通って落命したとされる。松本市安曇資料館には夫人の小袖等が現存する。)に至る間道が通っていて単純にこの道筋を求めたいところだけど、実際は急峻な斜面(平均斜度45°位、場所によってはそれ以上、ザレ場、ガレ場が多いし藪漕ぎも覚悟しよう。)の横移動に終始する。悩ませてくれるのは斜面崩落の跡(実に見事な竪堀を形成している。急峻な斜面に付いた幅の広い竪堀って水平方向に越えられない事を体感出来ます。)で、これを避ける為に上下に100m位の縦移動を数回余儀無くされるかもしれない。かもしれないと言ったのは誰でも同じ道筋を進めるとは到底思えないからで、かつての杣人(そまびと、簡単に言えば林業に従事する人っす。)が残したと思しき踏み跡が山中には縦横に存在する。
最初の目的地は地図上に明記された「ドウドネキ(物が崩れた傍らの意味かな?)」の地名(沢の名称か。)、直線距離にして約3.0kmだけど、前述のとおり単純には進めず実質移動距離は倍近くになる。疲労困憊だが此処から栃沢に下りて沢を渡りCを目指す。ところが沢に至る斜面が立ち上がりで浸食崖を形成していて下りるポイントが見付からない。此処で相当な時間を費やす事に…結局はかなりの無理をして沢に下り、対岸のCにはなんとか辿り着く事が出来た。
Cから最終目標である隠れ小屋・殿様小屋を目指すのだが、此処で決断もしなくちゃならなくなってきた。朝の7時から登り始めたのだが既にこの時点で13時を過ぎており、距離的には近いけど、栃沢をもう一度渡り返した後、約250mの急登直登を経験しなければ辿り着けない。状況も判らないし城友さんと下した判断は陣払い…根性無しとか言わないでくれ、暗くなれば冗談抜きで遭難するかもしれないんだょ…1日での到達、帰還を目指すなら、あらゆる無駄、休憩、寄道を排して最短距離を進まなきゃならない事を此処で思い知らされる。
※写真は登城?中の光景、既に余裕無し。写真4〜6は比定地D、写真9は杣人が残した炭焼き釜っす。
2022年10月13日 内記かずりヾ(・ε・。)
隠れ小屋・殿様小屋ーC[中塔城 周辺城郭]
〜隠れ小屋・殿様小屋ーC紹介編〜
まさかの色物物件を3回に分けての御紹介〜
隠れ小屋・殿様小屋ーCは中塔城の南西約10..0km、栃沢西岸(右岸)、標高1227mの山塊崖地上平場に城域?が存すると比定されます。南東麓の梓川からの比高は440m位でしょか。謂わゆる穂高岳の前衛山峰に連なる山塊山中に立地し、一般的に城館?の位置する場所としては私達が持つ想像の範囲を遥かに超えます。
小屋って何ぞや?みたいに思われる方が殆どだと思いますが、これも城館における立派なジャンルの一つ、大抵は山深い山中に立地し、基本人を寄せ付けない以前に目立たない。騒乱時に在地武士や領内郷民等の逃げ込む先であるものが多数を占める。小土豪間の御近所争いに終始する事が多い信濃では一方の勢力が他勢力を併呑する事は稀で、争いに打ち負けてもこれ等に逃げ込み籠り、禍乱が過ぎ去るのを待ち、しぶとく旧領復帰までを生き延びるのを目的としたものなんて説明すると仰々しいかな。実際は山中で一族、一党がひっそりとするんだから惨めだった事でしょう。
築かれた年代は不明、各小屋…は立地から南東麓、稲核集落の安田沢(あんださわ)上に存した高見屋敷に関係するものと推測されています。「安田」は「安堵」に通じ、周辺の下々畑、三反二畝六歩(坪数に直すと966坪…すっ、少ねぃ…しかも畑地だ。)が某九郎右衛門に安堵された事から名付けられた地名とされており、九郎右衛門は西牧氏の一党と推測されます。
信濃の山城と館4、松本・塩尻・筑摩編に記載があり、隠れ小屋と殿様小屋は栃沢を登り詰めた標高約1450mの山塊山中崖地上平場に2本の沢を挟んで隣接しているそう。最初に断っておきますがこの目標には辿り着けていない。信濃のお城の神も殿様小屋の方は未踏査である。理由は時間が無かったからとしか思えない。
信濃のお城の神は2つの小屋(隠れ小屋ーAと殿様小屋ーB)以外にも栃沢沿いに「それ」と思しき比定地を探し出していてそれは2箇所(CとD)ある。今回辿り着けたのはCとDのみ、Dはスポット作成出来ないので割愛する。又、実際に現地を訪ねてみれば他にも「それ」と思しき平場は幾つか候補に挙がる。
※写真はスタート地点となる水殿ダムと登城路?入口(砦跡との見方もあるが石積みは後世のものかな。)付近、今年の8月に下見していた。
2022年05月24日 内記かずりヾ(・ε・。)
小倉城[中塔城 周辺城郭]
〜小倉城攻城編〜
築城年代、築城者は不明です。お城の存した小倉郷は小笠原長時時代の分限帳に、秋山与一、高百八貫文、軍役十騎との記述があります。時代は下って小笠原貞慶が府中を回復すると一族である小笠原但馬守貞政が小倉城に配され安曇郡における軍事行政を委任(安曇郡内において貞慶の嫡男、秀政と連名の給地宛行等の発給文書が複数残る。)されたそうです。この時期においては重要な拠点として位置付けられていた事は疑い無いでしょう。
お城はコンパクトですがしっかりと普請されています。城域内には長大過ぎる竪堀が2条設定されていますが、内1条は尾根上に設けらているので遮蔽された導線としての堀底道か後世の改変かと思います。又、主郭には腰郭までカバーする土塁が残る他、主郭からの北尾根と西尾根には堀切と竪堀を設定、これらは主郭北西切岸で隣接して結果として畝状竪堀を形成していたようです。ちなみに主郭には案内板も立ってました。
一体何の口コミなんだって書いてて疑問に思いますが、山城って自己責任で登る訳で陣払いも常に考えて挑戦しています(侮るなかれ、低山=山城には低登山としてのリスクがある。登山道が整備されていない事、情報が皆無に等しい事、携帯の電波が不安定な事、他人が山に入る理由が単に山頂を目指すためだけのものではない事=踏み跡が複数存在する。…直結するのは滑落と道迷い…道迷いから生じる無理な下山に伴う滑落だ。そして結果的に急峻な山稜を一気に登るていう事実を考えましょう。)。それでも誰でも今回の様なケースに至ってしまう可能性てあるかと思います。登山系アプリの発達で道迷いは格段に少なくなったとは思いますが、現地の状況は現地入りしないと判らないので今猛烈に反省中、不動様にリア攻めの無事を祈り倒しといてよかったぜ、山には必ず神様がいるのです。
※登城編の補足ですが、自分が帰りに使った東尾根からだと距離はあるけど危ない事にはならないのでこちらを推奨しときます。取り付きはGoogleマップに位置登録されている南麓の八幡宮から東方へ200m位進んだ場所に立地する墓地からですが、登り始めはほぼ急登直登、道形は比高を稼ぐまで不明瞭なので何れにせよ注意です。
2022年05月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
小倉城[中塔城 周辺城郭]
〜小倉城登城編〜
小倉城は中塔城の北東約3.7km、標高1163.6mの角蔵山山頂から南方へ延びる尾根上、標高約968mのピークの一つに主郭が存します。南麓の鳴沢からの比高は210m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている南中腹の穴不動明王を目標に設定して下さい。車は手前の駐車スペースに捨てる事になるでしょう、付近にはお城の標柱も立っています。穴不動明王までは参道が付いていますが、不動様から南尾根の弛みまでを直登します。後は道形に沿って登って行けば楽ちん♪登る比高は50m位、迷う事も無いでしょう。
久々に死ぬかと思いやした。不動様裏手を覗くと岩盤崩落跡と思しき平均斜度50°から60°の岩場の中の大きな竪堀様地形にピンクテープが上方へ向けて張ってある。当然これが道筋なんだと判断するじゃないすか(完全な間違いでしたわ…)、ところが一面は草木が殆ど生えていないガレ場を形成していてどうやってテープを張ったのか謎でしかない…大体これを使って入山(○○の留山でもある。)している事自体が驚愕だわ…登り始めたら二足歩行はまず無理だし、手を地面に付けると自落石で自分が危ない。何十個石を落とした事でしょう、ぼっちでよかったっす。小雨中でもありコンディションも悪かった。
20m位登った時点でこりゃあかんと思って岩場をよじ登る決心をしますが、岩盤は手を置いただけでぼろぼろ崩れる悲惨なガチのロッククライミングに…もう無理だと思って戻ろうとしたら逆に危な過ぎて下りれなくなってしまい結局意地と根性のみで南尾根の弛みまで登り切りました。最後は垂直の岩盤層、大規模な崩落は此処から始まってたみたい。岩場の切れ目から何とか無理矢理突破出来ましたが、この切れ目が無けりゃ進退極まってた事でしょう。慌てて登坂途中に今まで一回も使った事が無い墜落制止用器具を装着しましたが、そもそも論でランヤードを掛ける支点が不安過ぎるポイントしか無く、ブレークしたら支え切る事が出来たかどうかは甚だ疑問っす。余裕を完全に無くしてましたわ…この間の写真すら撮っていない。
続く…
※南麓の鳴沢は北アルプス山麓でもある安曇野を感じさせてくれる素敵な水流、癒されます。
※写真は城域までのものっす。
2022年05月21日 内記かずりヾ(・ε・。)
田多井城見張台[中塔城 周辺城郭]
田多井城見張台は中塔城の北東約5.4km、北東へ延びる山塊尾根上、標高約743mのピークの一つに主郭が存します。北東麓の賀茂神社からの比高は105m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている前述の賀茂神社を目標に設定して下さい。後はもう何て説明したらよいのでしょか、リア攻めマップで位置を確認した後、沢を渡って適当尾根稜線上まで直登して下さいとしか言えないわ…幸いネットで検索すれば行き方を拾えるのでそちらを参考にして下さいまし。
築城年代は不明、築城者は田多井氏なんでしょか。田多井氏については同じ中塔城のリア攻めマップにある田多井古城下居館を参照して下さい。名称のとおり同じ中塔城のリア攻めマップにある田多井古城、もしくは田多井城の物見台である事は確実です。
苦労対効果が凄まじく悪い…尾根の立ち上がりが大変厳しいです。一応消えかかった踏み跡が付いてますが別に楽な行き方があるのかしらん…ただ尾根筋に出ればそこから(小社が鎮座する。)は比較的楽だとは思います。
見張台の現況ですが、まず縄張図が薄過ぎる…簡単に言うと小郭程度の主郭、主郭南西側山側背後に堀切が1条、以上、韻を踏んでみたぜ、そう、リアルな山城のフィーリングをこもったビートに乗せたリリック語りながらディスる事も出来るドープなラッパーめぐら〜って訳さ。山城を感じろ、土塁にたまに感涙、食べるのは主に麺類、堀切で間仕切り、当然、レペゼン、でもビーフに発展は勘弁してくれよな…
…話は滅茶苦茶脱線したけど、要は豆粒程度の縄張図(よく見えないて方もいると思う。)で、姫路城の縄張図と比べたら微かな点でしかない…写真は複数枚挙げてますが、見張台の全てを1枚の写真に凝縮する事も可能です。ディスりまくりですけど個人的には堀切がちゃんと確認出来た事に満足、土橋も付いていました。又、主郭にはびっくりする事にぼろぼろですが標柱が立っています。が、これ標柱が古い訳では決してなく、クレオソートとシンナーの匂いを嗜好品とする熊さんの仕業…ね、行く気無くしたでしょ。
訪ねた日は山城3城目、何れも苦労対効果が悪いお城ばかり、前日の雨、そして小雨の中の登城となり、元々の腐葉土と相まって泥だらけに…二度と行かねぃ。
2022年03月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
田屋城(上野城)[中塔城 周辺城郭]
田屋城(上野城)は中塔城の南東約3.2km、標高1200mの山塊山頂から東南へ延びる尾根上、標高約1066mのピークの一つに主郭が存します。南麓の林道からの比高は260m位でしょか。
行き方はGoogleマップに位置登録されている南麓の穴沢秋葉社・山神社を目標に設定して下さい。この裏手にある竪堀様地形から取り付きます。人が入るお山ではありますが道は踏み跡程度、城域までは全て急登、手は使わないけど楽に登れるお城では決してありません。
築城年代は不明ですが、築城者は西牧氏です。西牧氏については同じ中塔城のリア攻めマップにある長坂上砦を参照して下さい。
お城は西牧氏初期の要害と推測されており、それに相応しい縄張を持っています。主郭は堀切で東側正面と西側山側背後を遮断し、主郭から派生する3つの尾根には無数の小郭が設けられ、各尾根の城域末端からは竪堀が落ち込んでいます。東尾根に長く延びる竪土塁は他では滅多に見られるものではないでしょう。又、少し異形のお城でもあります。
西牧氏関連の山城で悩まされるのが竪堀様地形の存在でして、縄張図外にも数多くそれが認められる事なんです。同じ施工主である北条城、鞠子山砦なんかもそうなんですが、城域外の登城路からも竪堀様地形が散見され、縄張図を確認しながら登ると「???」、はてなマークが浮かびまくり…特に田屋城の場合は南麓の林道通過時に既に1条の竪堀様地形、前述した登城路入口となる山神社の裏手には三重竪堀様地形…ところが誰もこの事実を疑問として語らない。持論ではありますが、山城は縄張図外であってもお山の取り付きから既に始まっていると常日頃から考えています(自分が築城者のつもりで考えましょう。)。お城ブームを経て様々な情報が溢れ返る今、世間一般に流布した多くの縄張図は再確認の時期に来ているのではないでしょか。
信濃のお城の神もこれが完全だと考える縄張図は一つも無いそうで更新していく事が常に必要だと述べています。信者は神の偉業を元にお山に入る訳ですが、疑問を胸に抱きながら、先人が辿ったその軌跡を確かめるてのが礼儀だと思います。
※留山です。付近住民とトラブルになりかけましたので季節限定で…先手を打って入山許可を得るのもよいでしょう。
※お山に入った時は晴れてたけど山頂で軽く吹雪に、写真が暗いのはそれが理由…
2022年02月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
波田の撞鐘久保[中塔城 周辺城郭]
波田の撞鐘久保は中塔城の南西約7.2km、梓川南岸(右岸)、標高1289.9mの山塊山頂から北西へ延びる尾根上、標高約890mのピークの一つに城域が存します。北麓の梓川からの比高は170m位でしょか。
行き方は…リア攻めマップを参照して下さいまし。こんなんマップコード以外で上手く説明出来ませんわ…該地は鍵掛峠と呼ばれる峠の周辺で、その昔は冬場の難所として知られていました。が、今は林道黒川線が通っているので車で行けます(冬期は基本的に閉鎖する。ゲートの鍵を波田のコンビニで貸出可能っす。ただねぇ…おいらは歩きました。)。
築城年代、築城者は不明、該地はあくまで地名と現況から推測された比定地なので知る訳もないって感じでしょう。
信濃のお城の神本(信濃の山城と館4、松本・塩尻・安曇編)に掲載されてるんですが、神も後究を待っているような代物です。それによると「鐘撞堂」の地名が狼煙台を示唆する地名で、日向岩と呼ばれる岩場の周辺に「撞鐘久保」の地名が残っている事からこの辺りがそうなんじゃないかなて感じです。よくこんなん訪ねる気になれたなと白い眼で見られるかもしれませんが、その先に用があって単独目標ではないので悪しからず…
比定地は東方から夏道(同じ中塔城のリア攻めマップにある夏路の砦を参照して下さい。)に並走、合流する林道黒川線が南東に大きくカーブを描く場所で、野麦街道夏道跡の説明板も立っている誰も行かない観光スポット?です。この説明板から西側の細尾根をやや下った所か、東側の細尾根を直登した所の何れかが推測される場所で、先人様のブログは前者(写真は1〜3枚目…)おいらは眺める景色から後者(写真は4〜6枚目…)推し、狼煙台は物見台でもあるべきかと思いますので参考までに…
鐘撞じゃなく撞鐘、細かい所は気にしないのでしょう。残念なジャンルかと思いますが、木曽氏は木曽谷の守りにおいて非正規戦を仕掛けるために合図の鐘を多用しました。天候不順の際は狼煙の替わりになるし、峡谷地形にはよく響いた事でしょう。鐘は流石に残ってません。
※帰る際に林道黒川線沿い、東京電力リニューアブルパワー竜島発電所付近で物見台と思しき遺構(写真7〜8枚目…)を発見したような気がします。自信無いけど2つの沢に挟まれた展望の効く絶妙な立地だしとりま此処に記録しときます。
2022年01月28日 内記かずりヾ(・ε・。)
波田山城[中塔城 周辺城郭]
波田山城(秋葉城)は中塔城の南東約6.5km、梓川南岸(右岸)、標高977mの山塊山頂に主郭が存します。北麓の登山道(若澤寺表参道)入口からの比高は210m位でしょか。
行き方は同じ中塔城のリア攻めマップにある若澤寺跡を参照して下さい。林道を車で進むと若澤寺跡の少し手前にお城への登城路となる遊歩道(若澤寺裏参道)の分岐にぶつかるのでこれを徒歩で登ります。分岐から5分位で城域に入れる(案内板、説明板有り。)でしょう。
築城年代は寛正三年(西暦1462年)、築城者は小笠原四天王の一氏、櫛木(櫛置)市正一俊、信濃守護小笠原持長の命によるものとされています。城主としては波田式部正勝、小笠原長時被官であった波田数馬の名が伝わります。武田氏時代に波田郷は古畑伯奢の持分でしたがこの際に廃城されたとも…ちなみにそれ以前の当地の歴史や関係各氏を体系的に説明するのは極めて複雑で理解困難、此処ではとても無理っす。気になりましたら「古代秦氏と大野牧」で検索して下さい。ネットでこれだけの資料が漁れるなら御の字でしょう。
お城はこの地域としては突出した縄張を持っており、松本平における飛騨口に当たる事から特に重要視されたと思います。改修と拡張が続けられた(お城を訪ねれば誰でもそう感じるはず…)と思われ、今に残る要害としては遺構の残存率も極めて良好です。本城、南城、北城の3つの郭を中心に無数の腰郭と要所に竪堀が設けられていますが、主郭である本城と南城、北城間を隔てる2条の大堀切と大竪堀がこのお城のハイライトでしょう。これらはこのお城における守りの要であり、竪堀本来の目的以上の導線でもあり、寄手はこの竪堀に誘導されて竪堀左右に配置された雛壇状の腰郭から終始阻害されます。主郭は土塁、井戸付きで腰郭の段々感も素晴らしい…「ふぁ〜(かずりの賛辞における最大級の感嘆詞…)」としか言葉が出ないや。
小笠原系城郭の一つとも言えるでしょうが、林城、桐原城、埴原城、山家城の本アプリ登録城だけではやっぱり勿体無い…山城ファンは絶対損していますわ…車を使えば登城は楽ですし、何気に歴史深い波田の地に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。
2021年07月20日 赤かぶ【】
波田山城[中塔城 周辺城郭]
波田山城(波多山城)は松本市波田にある山城で別名「秋葉城」とも呼ばれています。
行き方は先ず国道158号通称「野麦街道」から田村堂(阿弥陀堂)を目指して下さい。
こちらには駐車場とトイレがあります。トイレですが7月18日に訪れた際はカギが閉まっておりました。利用の際は注意が必要です!
田村堂から水沢林道を通って若澤寺跡へ向かう途中に登城口へ通じる道があります。
車で途中まで行けますが道は狭いです。すれ違いは厳しいかな!?道もよくないので車で行く際はご注意を!!
若澤寺跡に行く途中に はた「歴史の遊歩道」案内図の看板が見えて来たらわき道に入ります。
わき道をひたすら登って行きます、途中のこり100Mの案内板もあるので迷わず行けますよ!!
登城口には縄張図の載った説明板があります!
お城は遺構がとても良く遺っていて素晴らしいです♬︎
主郭には土塁・井戸跡・秋葉社が見れます、南北にはそれぞれ南城・北城があり主郭との間に深い堀切で分断されています♪
その他に竪堀や切岸・帯郭・腰郭・馬出しなどの遺構が目を楽しませてくれますよ♬︎
止め山に付き立ち入り禁止の案内がいたるところにあります、秋の茸シーズンの登城には注意が必要かと思います☀︎
① 主郭北東側の竪堀
② 登城口
③ 主郭と北城の間の堀切
④ 主郭切岸
⑤ 主郭
⑥ 主郭と南城の間の堀切
⑦ 南城の堀切
2021年05月06日 ソウタニア
中塔城
中塔城の攻め方【2021.5.4時点】
《はじめに》
道路および遺構に案内板は一切なく、道も未整備です。攻城は登城口から一時間ちょい(うち30分は相当な急斜面)、帰りは約30分で、往復二時間程度です。ほぼ道なき道を進むので、軍手や水分は用意した方が良いと思います。
《登城口まで》
梓川ふるさと公園から防獣フェンスを越えて、すぐに右手の橋を渡って林道に入ります。道なりに10分ほど進むと左手に土留コンクリートがあり、コンクリとコンクリの切れ目に竪堀らしき存在がみられ、そこが登城口と思われます(少なくとも私はそこから登れました)。
《鉄塔まで》
登城口から相当な急斜面を、竪堀(?)の中を進みます。落ち葉が積もり、倒木もあり、とても登りにくいです。途中から二重の竪堀(もしかすると正式な登城路か)になりますが、変わらず堀に沿って進みます。休憩を入れつつ40分くらいで、鉄塔に着きます。
《頂上まで》
鉄塔裏からうっすらと登城路が続くので、あとは道なりです。途中堀切や小規模な段曲輪(と覚しき)といった遺構があり、登城口近辺の植生と変わって白樺などもみられ、登りやすくなります。頂上に着いてもはっきりとした遺構はみられないので、少し不安になりますが…
《さいごに》
いつもはこどもと一緒に城攻めしますが、ここはこどもの足ではムリと思われます(連れてこなくて良かった)。また本当に登城口が分かりにくく、私は林道の行き止まりまで30分以上ムダに進んでしまいました。林道にある唯一のカーブミラーから少し進んだ土留コンクリートが目印です。少しでもみなさんのご参考になれば。
2020年12月06日 内記かずりヾ(・ε・。)
亀山城[中塔城 周辺城郭]
亀山城は中塔城の南東約3.3km、北条城の存する標高946mの通称城山から南へ延びる標高806mの尾根上端部に主郭が存します。南麓の金松寺からの比高は35m位でしょか。地形図を見れば亀の甲羅の様な山でしてきっとこれが名前の由来なんでしょう。
行き方はGoogleマップに位置登録されている南麓の金松寺(武田氏滅亡の際、旧領回復を目指す小笠原貞慶が旧臣を呼び寄せる為に陣を敷いたお寺らしいです。が、この時は信長に相手にされず失敗…京に帰る。)を目標に設定して下さい。駐車も余裕です。亀山城自体もGoogleマップに位置登録されているんですが、ピンは南東側に若干ずれています。金松寺の北側、道路を挟んで直ぐの場所に獣柵ゲートがあり、その背後の尾根上でお城は物好きな人を待ってます。
厳重過ぎる獣柵ゲートを開けて中に入るのは嫌なものですが、お城へは10分位で城域北端の食い違い堀切に辿り着きます。実はいきなりハイライトにぶつかります。お城は概ね南北に郭が三段連なっていて、削平面積はこの類いのものとしては相当な広さです。亀山城は北条城の大手筋にあるとされ、当然その前哨の役割を果たすものなんでしょうが、何だか別の目的もあるように感じました。又、お城の西麓から南麓へ沢が流れていますが、これを障壁として利用しない人はいないでしょう。
築城者は滋野氏の庶流、西牧氏で苗字に「牧」が入ってることからも解るように官制の牧場、「御牧」に関わる氏族だったようです。滋野氏の嫡流三家の一つ、望月氏は信濃十六御牧の筆頭とされる望月牧を支配し後に有力な武士団として成長しています。戦国時代に入ると西牧氏は小笠原氏に従っていましたが、塩尻峠の戦いで小笠原氏が惨敗すると武田氏に従属する事になります。元々小笠原氏との関係は過去の歴史的経緯から良好だったとはとても考えられず、後に小笠原貞慶が深志を奪還すると真っ先に血祭りに上げられました。
水路を整備し梓川流域の開墾、発展に貢献した西牧氏の領国経営は今も豊穣な果樹園に引き継がれている…梓川倭にあるほっとミルクの工場でソフトクリームを買おうとしたら定休日…思わず工場前でこんな感慨に耽ってしまいました。
2020年12月02日 内記かずりヾ(・ε・。)
岩原城[中塔城 周辺城郭]
岩原城は中塔城の北東約7.7km、標高約953mの古城山山頂に主郭が存します。東麓の堀金霊園からの比高は230m位でしょか。
築城年代は不明ですが、築城者は仁科氏の庶流、堀金氏でその持分でした。安曇野市立堀金小学校付近にあった堀金氏居館(現況は思いっきり民家ですが、空堀と土塁の一部が残存する。)の詰城の役割を担っていました。
行き方はGoogleマップに位置登録されている東麓の堀金霊園を目標に設定して下さい。駐車も余裕です。此処に到着する前に広めの段々地形が気になるかと思いますが、お城の東麓にはかつて大同寺と安楽寺が建ち、「構え」と呼ばれる防御施設の役割を果たしていたらしくどうやらその名残りのようです。ちなみに安楽寺は明治初頭、松本藩内の廃仏毀釈により廃寺(松本藩内のお寺は悉くやられたらしい。)となりました。安楽寺は臨済宗から曹洞宗に改宗したらしく、大同寺は臨済宗のお寺なので、ひょっとしたら同一のお寺だったのかもしれません。又、この寺跡には見事な石垣が残っていて往時を偲ばせてくれたりもします。話は逸れましたが、堀金霊園裏手に安楽寺跡があり、此処からの登城路が平成29年に完成しました。以前はほぼ直登の難城だったみたいなのでこれは嬉しい整備ですね!
登城の注意点は熊対策のみ…安曇野市では今年に入り63件(負傷1名)の目撃例が報告されていますが、その殆どが穂高牧周辺でお城の直近となります。麓は熊の檻罠や鳥獣駆除装置(初めて見ました。)、電流柵等が散見される場所なので細心の注意を払いましょう。
お城は素晴らしいっす。土豪の築くものとしては規模は大きい部類に入るでしょう。無数の段郭、よく切られた堀切と竪堀に興奮する事間違い無し!特に主郭南西側背後の堀切は主郭端部から堀切底部まで18mはありそうです。
この岩原城には「さるが城」と呼ばれる詰城?があるんですが、信濃のお城の神が二度と行きたくないと述懐するお城の代表例だと思います(猿とか鬼が名前に付く…険しい山中を意味する。そもそも存在さえ怪しいものが多いと思う…例えば落武者や盗賊の類いが隠れ住んだみたいな…)。遭難の危険を犯してまで行っても得るものは何も無いと思うのですが見てみたい気持ちもありますね。
2019年05月05日 城郭放浪記 東市正
中塔城
城域西端の堀切。竪堀になっているのは尾根路改良のためと思われる。
2011年03月28日 赤いRVR甲斐守@松本
中塔城
30年近く前に登城しましたが、登城の困難度は日岐大城と双璧、下り道を間違えて、遭難しかけました。麓にとんがり屋敷と云われる館跡があります。
中塔城の周辺スポット情報
青柳家の旧松本城大手門(遺構・復元物)
岩原城(周辺城郭)
亀山城(周辺城郭)
波田山城(周辺城郭)
波田の撞鐘久保(周辺城郭)
田屋城(上野城)(周辺城郭)
小倉城(周辺城郭)
田多井城見張台(周辺城郭)
隠れ小屋・殿様小屋ーC(周辺城郭)
隠れ小屋ーA(周辺城郭)
殿様小屋ーB(周辺城郭)
二木土佐屋敷(周辺城郭)
長尾城(周辺城郭)
岩岡氏館(周辺城郭)
上総屋敷(周辺城郭)
中村館(中村西牧氏居館)(周辺城郭)
荒海渡砦(新屋敷)(周辺城郭)
柳坂上砦(はば屋敷)(周辺城郭)
桜坂上砦(周辺城郭)
西林砦(周辺城郭)
城の上砦(周辺城郭)
於田屋館(周辺城郭)
尖屋敷(とんがり・岩岡佐渡屋敷)(周辺城郭)
淡路城(周辺城郭)
櫛木城(西光寺城・再興寺城)(周辺城郭)
夏路の砦(大野田小屋・大ぬた小屋)(周辺城郭)
かぎかけ山物見(周辺城郭)
鞠子山砦(周辺城郭)
城日影砦(周辺城郭)
長坂上砦(周辺城郭)
伊藤坂上砦(周辺城郭)
大妻氏館(堀屋敷)(周辺城郭)
北条城(西牧城)(周辺城郭)
瑠璃光寺堀屋敷(周辺城郭)
草間肥前屋敷(周辺城郭)
二木豊後屋敷(周辺城郭)
及木氏堀屋敷(B)(周辺城郭)
及木氏堀屋敷(A)(周辺城郭)
多田氏堀屋敷(周辺城郭)
中萱氏堀屋敷(内堀)(周辺城郭)
巾上の十郎右衛門屋敷(大巾・堀屋敷)(周辺城郭)
堀金氏館(堀屋敷)(周辺城郭)
小田多井の丸山氏屋敷(御東)(周辺城郭)
田多井古城(周辺城郭)
田多井城(周辺城郭)
さるが城(奥の城)(周辺城郭)
田多井古城下居館(周辺城郭)
若澤寺跡(寺社・史跡)