二木土佐屋敷
二木土佐屋敷([中塔城 周辺城郭])
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二木土佐屋敷の口コミ情報
2026年06月29日 内記かずりヾ(・ε・。)
二木土佐屋敷は中塔城の東北東約6.6km、梓川北岸(左岸)、標高約605mの平野部平場に立地した屋敷です。屋敷地は安曇野市三郷明盛二木にあり、梓川と黒沢川が創造した複合扇状地の扇央部に当たる。用水に悩んだ土地であったようで堰の開削なしに開発は成り立たなかったとも。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「二木公民館」を目標に設定しよう。この公民館(郷倉跡)の西側の一帯が概ねの屋敷地だ。車も駐車場に捨てられる。訊ねれば誰でも此処がそれだと判る筈だ。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは二木土佐守です。同名は、同じ中塔城のリア攻めマップにある二木豊後守屋敷の主の一人と云われる二木重高の舎弟、政久の事である。二木氏については豊後屋敷の口コミも併せて参照して下さい。
二木氏は小笠原氏の分流を自称するが、多くの指摘があるように安曇郡住吉庄の開発領主であった西牧氏の分流が推測され、同庄内二ッ木郷を本貫地に梓川下流域の開発に従事した。永享十二年(西暦1440年)三月から続いた「結城合戦」における陣中警護の輪番を定めた「結城陣番帳」には、「十八番 永田殿 二木殿 竹田殿 熊蔵殿 西牧殿」とあり、並びからすれば小笠原氏の分流と称するには無理がある(全て住吉庄内の国衆であったと思われる。)。
「溝口家記」によれば、天文十七年(西暦1548年)七月の「塩尻峠の戦い」の際には、西牧四郎左衛門と三村駿河守が背いたとあるが二木氏の行動については書かれていない。肝心の「二木家記」によれば、西牧の衆、二木一門の者は、山辺(家)氏、三村氏が背いたために本道を退く事が出来ず、桜沢から奈良井へ出て、奈良井孫左衛門の所で飯米の合力を受けて御嶽(鉢盛山)越えをしてようやく西牧へ帰ったとしている。戦ったのかも判らずなかなかにグレーな表現だ。その後、小笠原長時が府中から退去すると共にアプリの登録城、中塔城に籠城したそうだが、城に入ったのは二木氏のみであったと個人的には考えている。
天文廿三年(西暦1554年)十月廿五日、大日方上総助宛、武田晴信朱印状には、「任其方詫言、二木豊後守(重高)一類還住之事、令赦免者也、仍如件、」とあり、武田晴信は、大日方上総助の詫言によって二木豊後守を赦免し、一族の還住を許している。二木氏は結局、武田氏に出仕した訳だ。家記によれば、翌年の三村入道(長親)の逆心の際には深志に入城、城代であった馬場美濃守(当時は民部少輔信房だ。)の先手を務め、村井、栗原、郷原(何れも筑摩郡)の間において「三村の者共」を打ち捕らえたとされる。
武田氏の滅亡後には木曽氏に赦されてこれに出仕し、信長の横死後には上杉氏の後ろ盾を得た小笠原洞雪斎(長時の舎弟だ。)に従うも後には徳川氏を後ろ盾とした小笠原貞慶を支持、以降、同名を援けて忠節を尽くし、府中、安筑両郡の回復に多大な貢献をした。
屋敷の現況は…今も二木さんがお住まいであり、正にお大尽様の御屋敷となっている。思わず固定資産税が心配になるんだけど、当人達にとっては些細な事なんだろう。屋敷地の一角には標柱が建ち、西辺を南北に流れる温堰(荒堰)の暗渠の上には「城戸口」の案内板も立っている。江戸時代に入ると一族は一帯にそれぞれ屋敷を構えて集住したと思われるが、現在も二木さんが二木の地に住まうのは、小笠原氏の移封の際に同道しなかった、土佐守の三男、藤左衛門(孫四郎)が該地の「堀之内」に居残って帰農したからである。
おいらが二木氏に感動を覚えるのは、在地土豪の一氏でありながら、武家としては豊前国小倉藩の重臣となり、袂を分かった別の系統が先祖以来の本貫地において富農として存続し得たていう点にある。一族は600年近くの長きに亘って二木の地にあるのだ。こり以上の成功例を求めたらバチが当たるレベルだて考える。出自云々の話は、むしろ小笠原氏によって族滅した西牧氏の一党とした方が遥かにありがたみがあるて思うんだけど…
※二木氏の嫡流は豊後守の系統だが、土佐守の系統も小笠原氏の下で重臣として存続している事から別家を立てていたようだ。
※意地を貫いたり時勢に従ったりと、本来の武士が持つ泥臭いまでの逞しさを二木氏に見る事が出来る。近世に入ると武家の在地土豪層は次第に消滅していくが、武士の有様が途端に面白くなくなるのも江戸時代に入ってからだ。









