北条城(西牧城)
北条城(西牧城)([中塔城 周辺城郭])
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北条城(西牧城)の口コミ情報
2026年01月21日 上総介赤備えヾ(・ε・。)
さて、アプリ的に松本平の山城て言えば、桐原城、埴原城、林城、山家城なんかに集約さりてしまうて思うんだけど、これ等、謂わゆる小笠原氏系城郭だけがその全てではない。安曇郡や筑摩郡には小笠原氏が根を下ろす以前から多くの在地根本勢力が割拠しており、同氏にとっての「故敵、当敵」、西牧氏なんかはその代表各だ。今回、紹介する物件は、そんな同氏の本城と推測される素晴らしき要害、小笠原氏系城郭とはまた違った趣きをこれでもかと堪能出来る。
北条城(西牧城)は中塔城の南東約2.8km、梓川北岸(左岸)、標高946mの城山(所有者の方は亀山て言っていた。)山頂部を中心に立地する要害です。南麓の曹洞宗の寺院、万年山金松寺からの比高は175m位でしょか。
行き方は前述した、Googleマップに位置登録されている「金松寺」を目標に設定して下さい。このお寺さんに車を捨てたら、舗装道路を挟んだ北側の獣柵ゲートを開けて林道に入り、同じ中塔城のリア攻めマップにある亀山城の堀切から尾根に取り付く。道は不明瞭な部分もあるが一本尾根なので迷う事は無いだろう。
登城は信濃の山城としては楽な方だと思うんだけど、この辺のお山に入るのには勇気が必要だ。該当山稜は北アルプスの最前衛山塊を構成しており野生動物の楽園でもある。熊さん対策だけはしっかりしておこう。ちなみに稀に猟師さん達が金松寺に車を捨てて入山していたりもする。猟場は城山より更に奥山かと思われるんだけど狩られないでくり。
築城年代は不明、築城者は前述したとおり西牧氏です。同氏は滋野姓であり、その来住は古代にまで遡るらしく、梓川左岸地域に展開した寄進系荘園である安曇郡住吉荘の開発領主であった。中世以降に顕著となる松本平の発展に大きく寄与、庄野堰、長尾堰等を開削し、未開田の地を切り拓いていった同氏やその一族等の功績は計り知れないものがある。西牧氏の詳細については語る場所が腐る程あるので小出しにして別の機会に譲る。
4回目の訪問だ。城友さんをアテンドした事もあるぐらいのお気に入り。廃城からそのまま時を経たようであり、後世の改変も殆ど見られず、松本平を代表する一城として多くの方に知ってもらいたいて常々思っている。登る度に違う景色を見せてくれるんじゃないかて期待させてくれる山城はそう多くないだろう。
縄張図を見ると、山頂部に4郭で構成されており、別に帯郭状の幾つかの腰郭、山頂からの北尾根、北東尾根、北西尾根に執拗なまでの段郭を設けている。主郭は削平も見事な全周土塁囲み、此処からの展望は無いに等しいが、西牧氏の本城に相応しい面積もある。素晴らしいのは各郭間を隔てる3条の堀切だ。特に片側で竪堀としての落とし込みも見られる、主郭と縄張図における通称4郭とを隔てる1条には誰でも唖然とさせられるだろう。高さのある主郭の切岸の角度が立ち過ぎておりその落差が凄まじく今でも登り下りが困難だ(ちなみに主郭へのアクセスポイントが今も1箇所しかない。)。全体的には要害としての形状がほぼ完存、縄張図の全てを確認するのには城域内の移動が大変な面もあるが、多くの方に納得して頂けるであろう希少な存在だ。
前述した金松寺は西牧氏によって祈願寺として開基されたらしく、最初は真言宗、夢窓疎石によって臨済宗に改められ、後に曹洞宗へと改宗された。帰り際に同寺の過去帳がないかと住職の奥さんに突撃したんだけど、明治維新期に松本藩領内に吹き荒れた廃仏毀釈によって全て焼かれてしまったらしい。ちなみにこのお寺さん、天正十年(西暦1582年)二月から始まった甲州征伐の際に、府中回復を企図する小笠原貞慶が旧臣等を呼び集めるために入ったんだけど、肝心の信長にガン無視されてしまい大失敗、結局は失意の内に京に帰っている。迷惑掛けたのを反省したのか知らんけど、信長の横死後、貞慶による府中の回復後には寺領を寄進してこれに報いている。
※中塔城はこの北条城の詰めの城だと推測されている。
※山頂からの南尾根に数条の凄く立派な竪堀様地形が確認出来るが城郭遺構である可能性が極めて低い。この内の最も大きなものはそうかなとも思えるのだが…
※寄進系荘園〜平安時代以降、開発領主等が国司への貢税(重い負担だった。)から免れるために、不輸、不入の特権を持つ貴族等に進んで下地を寄進する事によって成立した荘園の事である。
※寺領を寄進〜天正十年壬午九月二日、金松寺宛、小笠原貞慶寄進状案には、「西牧北條之内、定納五拾貫之所進置候、尚以兎川寺主馬介、(草間)肥前守可申上者也、仍如件、」とあり、小笠原貞慶は、金松寺に、寺領としては破格の五拾貫を寄進している。ちなみに貞慶は、兎川寺主馬介、(草間)肥前守の言上を受けて寄進したようだ。









