小田多井の丸山氏屋敷(御東)
小田多井の丸山氏屋敷(御東)([中塔城 周辺城郭])
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小田多井の丸山氏屋敷(御東)の口コミ情報
2025年09月10日 内記かずりヾ(・ε・。)
小田多井の丸山氏屋敷(御東)は中塔城の北東約6.7km、標高約583mの段丘台地東縁上平場に立地した屋敷です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「ちいさいぱんや」を目標に設定して下さい。このパン屋さん、店舗併用住宅が正に該地である。但し、近傍の方に聞いたら、家主は松本の方へ引っ越して今は無住、お店の方も営業はしていないらしい。
「信濃の山城と館7、安曇・木曽編」に掲載があるが、神本の趣旨からは逸脱した物件、即ち、近世の屋敷跡である。
該地の小田多井は、江戸時代の初期に成立した謂わゆる新田村であり、寛永十六年(西暦1639年)、田尻村と田多井村、両村の入会原(田多井原)に「四ッ屋」が出来たのがその始まりである。その後、慶安元年(西暦1648年)、温堰末流にあった住吉神社を横断する御手洗堰を延長、戸数二十四戸の小田多井新田村が成立した。慶安五年(西暦1652年)の検地によればその石高は八十七石であった。
御手洗堰は水量が不安定であり、寛文十三年(西暦1673年)、新堰堀替願を藩に出したが認められず、以後、出願を繰り返し、延宝六年(西暦1678年)、ようやく分水口を上流の野沢に付け替えた小田多井堰の開削が実現した。これによって享保七年(西暦1722年)の村高は百四石に増加している。
築かれた年代は不明、お住まいになられていたのは丸山氏です。同氏は仁科氏の分流であり、安曇郡吉野郷から村の芝切(開発者)として丸山杢右衛門が来住したんだそう。前述した「四ッ屋」の一軒なのかもしれない。近世の丸山家は小田多井村の庄屋を務め、後には岩原村の越庄屋を兼任している。江戸時代後期の当主、伝右衛門は、上堀金村の庄屋、平林儀右衛門、並びにその組頭、米倉彦三郎等と共に堀廻堰を開削した。
屋敷の現況は…田地、畑地、空地、一般住宅とその敷地等となっている。堀や土塁が巡っていたようだが、正直、屋敷跡と言ってよいのかも疑問なところであり、建物を除けば細部は別として往時と大して変化が無いように思う。城郭遺構?としては西南隅に土塁様の結構な土の高まりが確認出来る。又、西辺の窪みはかつての堀跡だろうか。
ある偉い先生の研究(「耕地の土壌学」)によると、土壌は正しく管理(稲わら、堆厩肥、苅敷等の投入…)されていると、より肥沃な土壌に変化するとされている。営農期間が長ければ長い程、土壌には好循環が発生する訳だ。米の等級、銘柄が無かったこの時代、その代わりの指標にもなっていたのが「田の等級」だ。堰の恩恵を受け易いより高地の上流地域に一等田が多いのは当然の事だが、各堰の末流に当たる新田に豊富に引水する事は、その開発、経営に欠かせない重要な課題でもあった。
その問題解決を在地で図ろうとしたのが各地の庄屋達だ。中世、戦国時代から続く安曇郡の在地土豪層は、天正十八年(西暦1590年)の小笠原氏の改易、転封に従う事を拒み郷士として留まり、後には帰農して庄屋となった者が数多く、その土地の諸事情に精通する彼等は、藩の役人以上の功績を挙げる事となる。堰の名称に庄屋等の名が付けられるのはその傍証にも成り得るだろう。
言い方を換えれば、庄屋等は、開発領主として先祖が行なってきた事業等を近世に立場を変えて引き継いでいた事になる。彼等の尽力無くして安曇野の美しい田園風景が今に伝わる事も無かったろう。偉大なる先人をリスペクト、観光客で賑わう当地を訪れてそんな感慨に耽ってみた…
灌漑だけに…(o゚Д゚)=◯)`3゜)∵グハァ
※安曇野市が発行する「安曇野の屋敷林」の内、「3-8小田多井 南北に連なる屋敷林」の項に掲載がある。ちなみにおいらはこの冊子が大好き。ネットでダウンロード出来るので興味があったら是非見てね。
※丸山氏〜同氏については腐る程語る場所があるんで別の機会にでも…来住元の安曇郡吉野郷には丸山氏が居したと推測される屋敷跡が2箇所に存在する。ちなみに安曇野市では最も多い姓、発祥の地、東筑摩郡生坂村では全人口の4%を占めている。現在の全人口、1843人だけどね…つまりは74人…
※写真①は小田多井郷倉跡の標柱を撮影した物っす。現在とは違い田地ではなかった事になる。刈り入れは終わったかなぁ…
※写真⑧は要るのか知らんけど南側の舗装道路から撮影した近景っす。