隠れ小屋・殿様小屋ーC

隠れ小屋・殿様小屋ーC([中塔城  周辺城郭])

中塔城 に投稿された周辺スポット(カテゴリー:周辺城郭)、「隠れ小屋・殿様小屋ーC」の地図・口コミがご覧頂けます。

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隠れ小屋・殿様小屋ーCの口コミ情報

2022年10月19日 内記かずりヾ(・ε・。)


〜隠れ小屋・殿様小屋ーCについて〜

信濃のお城の神は隠れ小屋ーAと殿様小屋ーBの他に比定地としてCとDの2箇所の平場を位置図に載せている。今回辿り着けたのは比定地CとDの平場のみ。

比定地Cは栃沢西岸(右岸)の崖地上、標高1227mの平場に立地し、山塊山中の平場としてはかなりの面積を持つ。自然地形ではあるが4段の段付き、無数に点在する石積みや石の集積(炭焼き釜とは断定出来ないものが多数を占める。枡形も残ってた…)を見る事が出来る。栃沢沿いに設けられた領内郷民の逃げ込み城としては最良(複数の小屋掛けも余裕だ。)でしょう。今に見るものは後世の杣人が残した山番所や山中炭焼き場等(当該稲核村は大野川村、大野田村、島々村と共に「入り四か村」と呼ばれる御用杣村であった。松本藩では元伐奉行として徒士、山目付役に足軽、杣改役として小人等の藩役人が山方として勤仕していた。入り四か村は明治に入り安曇村として発展解消する。)の残滓なんだろうけど、平場としては往時の逃げ込み城の二次利用の可能性が高い。この平場を無視して後背に存する隠れ小屋、殿様小屋を成立させる事は出来ないだろう。

実際に現地を訪ねて思うに、平野部の稲作、耕作面積の少ない谷筋の領内において、在地領主は豊富な山林資源に活路を求めて栃沢沿いに進出、様々な林場を整備し、禍乱時にこれ等は逃げ込み城としての利用があったものなんじゃないかな。隠れ小屋、殿様小屋はあくまでその結果に過ぎないんじゃないかと…天正十年(西暦1582年)八月、西牧氏は府中を回復した小笠原氏によって滅亡しますが、隠れ小屋、殿様小屋はその終焉の地とも推測されています。少なくとも鎌倉時代の初期から梓川下流域に根付いた滋野姓の末裔達は歴史の表舞台から完全に消え去る事となりました。

※沢も近いし熊さんの餌が極めて豊富なお山です。痕跡のみならず明瞭な足跡、崖中には冬眠穴等が散見されます。

※体調、装備は万全に…携帯電話はほぼ圏外、山中での行動不能は人知れぬ死を意味する。又、登山系アプリは必須となる。

2022年10月18日 内記かずりヾ(・ε・。)


〜隠れ小屋・殿様小屋ーC登城編〜

まず登城?に関する確かな情報が一つも無い。全くの手探りで偉大な先人の軌跡を追うしかない。著述には「…道も殆ど消えかけていて、危険な登山である。」とある。行けば誰でもびっくりするけど、かつてこの山塊山中には徳本峠道(上高地へ通じる。飛騨を追われた三木秀綱の妻がこの峠道を通って落命したとされる。松本市安曇資料館には夫人の小袖等が現存する。)に至る間道が通っていて単純にこの道筋を求めたいところだけど、実際は急峻な斜面(平均斜度45°位、場所によってはそれ以上、ザレ場、ガレ場が多いし藪漕ぎも覚悟しよう。)の横移動に終始する。悩ませてくれるのは斜面崩落の跡(実に見事な竪堀を形成している。急峻な斜面に付いた幅の広い竪堀って水平方向に越えられない事を体感出来ます。)で、これを避ける為に上下に100m位の縦移動を数回余儀無くされるかもしれない。かもしれないと言ったのは誰でも同じ道筋を進めるとは到底思えないからで、かつての杣人(そまびと、簡単に言えば林業に従事する人っす。)が残したと思しき踏み跡が山中には縦横に存在する。

最初の目的地は地図上に明記された「ドウドネキ(物が崩れた傍らの意味かな?)」の地名(沢の名称か。)、直線距離にして約3.0kmだけど、前述のとおり単純には進めず実質移動距離は倍近くになる。疲労困憊だが此処から栃沢に下りて沢を渡りCを目指す。ところが沢に至る斜面が立ち上がりで浸食崖を形成していて下りるポイントが見付からない。此処で相当な時間を費やす事に…結局はかなりの無理をして沢に下り、対岸のCにはなんとか辿り着く事が出来た。

Cから最終目標である隠れ小屋・殿様小屋を目指すのだが、此処で決断もしなくちゃならなくなってきた。朝の7時から登り始めたのだが既にこの時点で13時を過ぎており、距離的には近いけど、栃沢をもう一度渡り返した後、約250mの急登直登を経験しなければ辿り着けない。状況も判らないし城友さんと下した判断は陣払い…根性無しとか言わないでくれ、暗くなれば冗談抜きで遭難するかもしれないんだょ…1日での到達、帰還を目指すなら、あらゆる無駄、休憩、寄道を排して最短距離を進まなきゃならない事を此処で思い知らされる。

※写真は登城?中の光景、既に余裕無し。写真4〜6は比定地D、写真9は杣人が残した炭焼き釜っす。

2022年10月13日 内記かずりヾ(・ε・。)


〜隠れ小屋・殿様小屋ーC紹介編〜

まさかの色物物件を3回に分けての御紹介〜

隠れ小屋・殿様小屋ーCは中塔城の南西約10..0km、栃沢西岸(右岸)、標高1227mの山塊崖地上平場に城域?が存すると比定されます。南東麓の梓川からの比高は440m位でしょか。謂わゆる穂高岳の前衛山峰に連なる山塊山中に立地し、一般的に城館?の位置する場所としては私達が持つ想像の範囲を遥かに超えます。

小屋って何ぞや?みたいに思われる方が殆どだと思いますが、これも城館における立派なジャンルの一つ、大抵は山深い山中に立地し、基本人を寄せ付けない以前に目立たない。騒乱時に在地武士や領内郷民等の逃げ込む先であるものが多数を占める。小土豪間の御近所争いに終始する事が多い信濃では一方の勢力が他勢力を併呑する事は稀で、争いに打ち負けてもこれ等に逃げ込み籠り、禍乱が過ぎ去るのを待ち、しぶとく旧領復帰までを生き延びるのを目的としたものなんて説明すると仰々しいかな。実際は山中で一族、一党がひっそりとするんだから惨めだった事でしょう。

築かれた年代は不明、各小屋…は立地から南東麓、稲核集落の安田沢(あんださわ)上に存した高見屋敷に関係するものと推測されています。「安田」は「安堵」に通じ、周辺の下々畑、三反二畝六歩(坪数に直すと966坪…すっ、少ねぃ…しかも畑地だ。)が某九郎右衛門に安堵された事から名付けられた地名とされており、九郎右衛門は西牧氏の一党と推測されます。

信濃の山城と館4、松本・塩尻・筑摩編に記載があり、隠れ小屋と殿様小屋は栃沢を登り詰めた標高約1450mの山塊山中崖地上平場に2本の沢を挟んで隣接しているそう。最初に断っておきますがこの目標には辿り着けていない。信濃のお城の神も殿様小屋の方は未踏査である。理由は時間が無かったからとしか思えない。

信濃のお城の神は2つの小屋(隠れ小屋ーAと殿様小屋ーB)以外にも栃沢沿いに「それ」と思しき比定地を探し出していてそれは2箇所(CとD)ある。今回辿り着けたのはCとDのみ、Dはスポット作成出来ないので割愛する。又、実際に現地を訪ねてみれば他にも「それ」と思しき平場は幾つか候補に挙がる。

※写真はスタート地点となる水殿ダムと登城路?入口(砦跡との見方もあるが石積みは後世のものかな。)付近、今年の8月に下見していた。

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