鳴雷城
鳴雷城([武居城 周辺城郭])
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鳴雷城の口コミ情報
2026年01月14日 上総介赤備えヾ(・ε・。)
鳴雷城は武居城の東南東約5.8km、標高1093.5mの鳴雷山山頂部を中心に立地する砦です。北麓の鳴雷山登山道入口からの比高は305m位でしょか。山名は、激しい雷雨の直前に風雲を巻き起こし雷鳴を轟かせた事に由来するらしいが、実際は山頂部に鎮座する鳴雷神社に由来するものであろう。ちなみに明治時代の初頭には雷神山て呼ばれていたようだ。
行き方は…登山系アプリ等で鳴雷山の登山記録を参照して下さい。北麓の登山道入口の場所さえ判っていれば迷う事もない。但し、北向きの斜面に付く道であり、陽が殆ど当たらず展望も最悪レベル、登っていて一つも楽しくない。はっきり言ってだるいよ。
登城の留意点は熊さん対策に尽きる。出来る事は全て準備しておこう。誰でもお山に一人で入るのは怖いものだ。おいらは基本的にソロめぐら〜なんだけど、やはり複数人での行動に勝るものはないと思う。
築城年代は不明だが、「長野県町村誌」、「宗賀村」の管轄沿革を見ると、「永正元年(西暦1504年)より大永二年(西暦1522年)まで島立氏領之。同三年(西暦1523年)より天文二年(西暦1533年)まで水上宗浮領之。同三年(西暦1534年)より二十二年(西暦1553年)まで小笠原氏領之。…後略、」とあり、築城者はこの何れかであろうか。但し、島立氏は筑摩郡島立の地頭職にして小笠原氏の一族、後の島立右近貞永は深志城の築城者でもある。水上氏も小笠原氏の一族であり、その家紋は三階菱、天正十年(西暦1582年)九月五日、徳川家康は、水上六郎兵衛(利光)に、本領と言上(自己申告)のあった、「甲州中條之内貳百貫文、信州小松(筑摩郡)貳百貫文事」を安堵しているが、六郎兵衛とはこの水上氏の者であろうか。基本的に往時の筑摩郡宗賀郷は小笠原氏の知行地であったと考えられ、島立氏、水上宗浮、何れも代官等として在地していた…等と考えた方が自然かもしれない。
2回目の訪問だ。今回のメインは同じ武居城のリア攻めマップにある松台烽火台だったんだけど、流石に通過点上に位置する鳴雷城を無視する訳にもいかんやろ…標高が1100mに近い高所の砦なんだけど、しっかりと普請されており色物感は全く無いので安心してつかぁさい。
縄張は山頂部に段付きの単郭、別に結構立派な腰郭が各所に付いている。鳴雷神社の建立による改変もあるのかもしれないが、基本的な形状自体に変わりはないだろう。城郭遺構としては堀切が3条、その内の1条は切り通しかと見紛うぐらいに立派なものだ。ちなみに主郭は結構な面積があり、この点においては砦の規模を遥かに逸脱している。但し、水の手が見当たらない。
塩尻市観光ガイド、「時めぐり」で鳴雷山の項を見ると、「鳴雷山は展望はないが山頂にほこらがあり、夏の火祭りでは床尾神社の広場で松明の火で畑の虫の魂をよりつけ山頂に送り込む行事が地元住民で行われている。…後略、」とある。かつては地域住民にとっての雨乞いの山でもあり、水神、稲作の神としても知られる鳴雷神が祀られているのも頷けられる。但し、帰り道に出会ったジモティーのお話しによれば、「みんな年寄りになっちゃったし、亡くなった人も多いんで最近じゃやっていないんだわ。田んぼも少なくなったしなぁ。」との事、こうして日本の良き伝統行事がまた一つ失われていく訳だ。
※鳴雷〜書き忘れたけど「なるかみ」て読ませる。
※筑摩郡宗賀郷〜史料が無く裏付けが不可能だが、室町時代初頭に幕府から小笠原氏に還付された、府中春近領を構成していた一郷ではなかったろうか。
※写真①は堀切の手前に建つ砥石地蔵、かつては生活道でもあった訳だ。









