南熊井城
南熊井城([埴原城 周辺城郭])
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南熊井城の口コミ情報
2023年09月04日 RED副将軍
三方に空堀が巡る北熊井城の出城🏯
オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎
築城年代等の詳細不詳。小笠原氏の南方を押さえる拠点であった北熊井城の出城と考えられています。
1546年に武田氏の侵攻により北熊井城とともに落城したと云われます。
その後は武田氏の支配となり、1552年の府中攻めに際して拠点となり改修された様です。
見所
松林寺背後の台地先端部に築かれた単郭方形の出城です。周囲は農作地となっており副郭が存在していた可能性もあります。
西側を除く三方に空堀が巡ります。北側は土塁付きの空堀であり、東から南側にかけては幅15mの空堀がよく残っています。
主郭内部は耕作地となっていました。
2022年02月16日 内記かずりヾ(・ε・。)
南熊井城は埴原城の南西約8.3km、標高約714.mの平野部台地西端部上平場に主郭が存します。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。西側直下に建つ松林寺に駐車も出来ます。
築城年代、築城者は不明です。名称や今に残る遺構から同じ埴原城のリア攻めマップにある北熊井城の出城との見方が有力でしたがどうにも違うらしい…宝徳三年(西暦1452年)、信濃守護小笠原持長によって諏訪社下社に熊井郷他十数郷が寄進されていますが、宝徳元年(西暦1449年)の諏訪大社上社と下社の内乱の際に上社の圧迫に耐えかねた下社の社人等は府中小笠原氏を頼り、その代表各であった大和織部正に熊井郷を守らせ居館城として築かれたとする説がそれっぽいです。又、太平洋戦争終結後まで片丘村(廃村)に残存していた旗塚60基の配置は北東の北熊井城に対するもので、これも出城説を否定するものの一つと言えるんでしょう。
お城は西辺の崖地を除く、三辺に空堀を巡らせた単郭方形、居館城の縄張なんですが、これが塩尻市郊外にありながら実によく残っている。北辺には空堀に付随する立派な土塁もちゃんと残っていて虎口まで開口していますし、その土塁の西端部延長線上には櫓台ぐらいは付いていたでしょう。又、東辺の空堀には現況側溝による水路が堀底に付いていたりしますが、これが逆に遺構の保存度を上げているように思います。
実は2回目の訪城、前回は真夏の直射日光に曝されて写真が壊滅、全部削除しちゃったんすけど、今回は積雪も相まって遺構がはっきり確認出来て思わず見直しちゃったぜ〜季節によってこんなにも印象が変わるものなのかなって感じです。同様の事は周辺の北熊井城にも言えるので積雪の残る冬場の時期がお勧め♪埴原城に来る事がありましたら皆様も是非訪ねてみて下さいまし。又、北熊井城との関係性を否定するような説明になってしまいましたが、遺構は正しくミニ北熊井城の趣き…北熊井城が武田氏によって拡張改修された際に出城として改修されたと考えても飛躍ではないと思います。