仙石雅楽助館
仙石雅楽助館([埴原城 周辺城郭])
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仙石雅楽助館の口コミ情報
2024年04月02日 よっこいしょーいち
千石雅楽助(せんごく うたのすけ)は仙石帯刀左衛門雅楽助、別名 政国といい天文17年8月20日(塩尻峠の戦いの1ヶ月後)に亡くなったらしい。
しかし、天文17年10月13日に武田晴信(信玄)から帯刀左衛門宛に中山埴原の胡桃沢に50貫文の土地を与える宛行状が出される。翌14日には同じく晴信より千石帯刀左衛門尉宛に20貫文の土地をそのまま所領してよい、という安堵状が出されている。(息子が父の名をそのまま継いだのだろうか?)
武田統治下の永禄7年(1564)6月には信玄より筑摩郡の百瀬某を佐渡守に任ず、という文書も出されていて、どうやら千石氏は武田統治時代に千石(仙石)姓から百瀬姓に改姓したのかもしれない。
武田氏滅亡後に府中、松本を回復した小笠原貞慶からは天正10年(1582)9月24日に百瀬雅楽助等に所領 筑摩郡埴原等の地を宛がう、という宛行状が出されている。
千石氏はその後、この地に帰農する者、諏訪藩に出仕する者などに分かれ、安堵状や宛行状は、この諏訪に移った千石家に残っているらしい。
館跡とされるこの場所も千石姓の家が何軒もあるみたいです。