押野城(高田城)

押野城(高田城)([小岩嶽城  周辺城郭])

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押野城(高田城)の口コミ情報

2025年11月18日 内記かずりヾ(・ε・。)


押野城(高田城)は小岩嶽城の東方約7.8km、犀川西岸(左岸)、高瀬川東岸(左岸)、両川の合流点へ向けて南方へ伸びる、謂わゆる安曇野の中山の山塊を構成する一山、標高694..9mの押野山から南東へ伸びる尾根端部上、標高約623mの小ピーク上平場を中心に立地する要害です。南麓の犀川からの比高は110m位でしょか。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。林道を使えば城域に車で横付けが可能、駐車出来るスペースもある。但し、この林道、よく崩落して通行不能となるので事前の確認が必要だ。

該地の安曇野市明科七貴下押野は、中世の安曇郡内矢原庄を構成する一郷、押野郷に含まれる地域であり「仁科之内」である。近世に入ると「押野渡」と称する、犀川を渡る北国西脇往還支道の経路上に私渡場が設けられており、渡船一艘が運航していた。

築城年代、築城者は不明、時代的な変遷を考慮する必要があるが、中世の仁科氏に関係する要害であったと推測出来る。伊勢内宮御師、宇治久家が、天正九年(西暦1581年)に記した「信濃国道者之御祓くばり日記」の「にしなの分」には、「おしの(押野)々新左衛門殿 茶三つ」とあるが、当地は、武田氏時代の同時期、日向大和守の後を受けて仁科氏から水上宗浮が城代(?何処の城なのかは不明…)として入部し差配したとも伝わっている。推測するに新左衛門はこの宗浮の代官等であろうか。何れにせよ、配られた土産の品目、量からすれば、地侍クラスの身分の低い武士であった事に間違いは無いだろう。

「長野県町村誌」には「押野城墟」として、「本村(七貴村)の亥子(北北西)に方り十二町(約1.3km)を隔て方十間(約18.2m)の平あり、其西に連り遺濠あり、夫れより子の方へ二町(約218m)隔てたる馬場と称する所東西一町(約109m)、南北二町、方今畑に變換たり。築廃年號、干支不詳。」とある。

「寛政元年(西暦1789年)池田組村々明細帳」によれば、城主であったのは川久保右近である。又、伝承によれば、高田大和守繁晴の持城と言い、丸山主膳の居城とも伝わる。ちなみに今は無住となったが、南東麓には高田氏の居館跡と呼ばれる場所があり、ごく最近まで高田さんがお住まいであった。

縄張は殆ど単郭、主郭周りには雛壇状の腰郭を設けている。城郭遺構としては西辺を形成する中土塁付きの二重横堀(1条は後世に用水路となったらしく水堀となっている。)、主郭には僅かながらの土塁の残滓が確認出来る。現在、主郭は立ち入りが禁じられている(後で気付いたわ…)が、押野城跡を示す立派な石柱と、前述した高田家の先祖神を祀る小祠が建っている。ちなみに城地西側の一帯は「城が平」と呼ばれる水源地を含む広大な平坦地、城番衆の根小屋等であろうか。

城跡は平成の末年頃に安曇野市の森林整備事業によって大きく破壊された(行政の瑕疵、文化財保護法違反である。通常なら罰金刑か懲役刑…)。主郭まで重機が直乗り、主郭からの南側尾根に残っていたとされる堀切1条が完全消滅した…何やっちゃってくれてんだよ…横の繋がりが希薄な行政にはありがちな重大なミスだけど謝って済む話じゃないだろう…自治体が残すべき真の遺産がいとも簡単に傷付けられた訳だ。

※元々二重横堀は舗装林道によって分断されていたが、安曇野市内では良好に遺構が残存していたお城である。先人の足跡を蔑ろにする行為、失ったものは永遠に取り戻せない。

※写真⑧は文中にある「城が平」を撮影した物っす。

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