中村の殿田館
中村の殿田館([小岩嶽城 周辺城郭])
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中村の殿田館の口コミ情報
2026年05月28日 内記御手杵ヾ(・ε・。)
中村の殿田館は小岩嶽城の東北東約8.8km、犀川西岸(左岸)、標高約525mの段丘台地上平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「中村農業生活改善センター」を目標に設定して下さい。このコミュニティセンターの敷地が居館地の全てと推定されており駐車場も付いている。
築かれた年代、お住まいになられていた方は不明です。該地の安曇郡大穴村は、江戸時代には松本藩領池田組に属していたが、その名称のとおり中世には同郡大穴庄を構成する一村であった。但し、時代不明なるも後に三村に分村、中村の殿田館はこの内の中村内に立地する(現在は安曇野市明科南陸郷601-1番地となっている。)。同庄は「仁科之内」であり、築城者には、仁科氏の一族、もしくは被官衆が推測出来るが、時代における領主層の変遷を考慮する必要がある。
「明科町誌」には、「中村氏の館跡であろう。」としているが、中村氏については出自等も含めて一切が不明、史料に現れるのは唯一度だけである。
かつての大穴村は犀川の右岸地域にも村域が及んでおり広大である。未(元和五年〜西暦1619年)三月廿八日、(林)喜左衛門、(関)七郎左衛門、(板橋)兵左衛門、覚右衛門等連署制札には、「礼 大穴村より日岐山(筑摩郡)へ入候事、如前々不可有相違者也、」とあり、松本藩藩主、戸田康長は、大穴村の者に、郡を越えての日岐山への入会を制札を以て許している。入会のあり方については、中世〜戦国時代における所領等の帰属関係等が影響していると思われるが、この事を鑑みれば、中村氏とは、仁科氏の分流、丸山氏の一族、もしくは被官衆の一氏とも推測出来る。
伊勢内宮御師、宇治久家が、天正九年(西暦1581年)に記した「信濃国道者之御祓くばり日記」の「いくの々(生野)分」には、「…前略、中村殿 茶二つ…後略、」とあり、生野には地侍クラスの武士、中村殿があった事が判るが、同地は居館地の犀川対岸にある村である。中村氏は一族等が同川の両岸に散在していたのであろうか。
居館の現況は…前述したとおり、中村農業生活改善センターとその敷地等となっている。居館地は「殿田」の小名が残る場所であり、その形状は三日月状、縄張としては不足に感じ、実際の敷地範囲は東側に大きいのかもしれない。城郭遺構は完全消滅しているが西辺には半弧を描いて用水路が通っている。推測するに堀跡を踏襲したものであろうか。
南方には集落の辻を控え、北方には江戸時代の郷倉と大日堂が建っていた事から居館地が中村の中心地であった事に間違いは無い。ちなみに少し離れた犀川べりには、「岩城」、「狐幅(巾)」、「小丸山」の小名が残り、これ等には物見等の場が推測されている。
どんなファンレターにでも生真面目に手書きの返事を書くJr.アイドルである事でも有名なおいらなんだけど、そんな事を知ってしまうと否が応にでも小名の場所を確かめざるを得ない…従って犀川沿いを暫く彷徨う事に。南青山のタワマンの501階に住む美少年が休日にやる事としちゃなかなかだぞ…学習院初等科時代の同級生達はおいらのこんな姿を想像出来るんだろうか。結果としては、「岩城」、「小丸山」の場所は特定(たぶんだけどね…)出来たんだけど、「狐幅」の場所はとても無理…地籍図も無かったんでこりで良しとしよう。
※写真②、画面中央からやや右寄りの山稜には青柳城のリア攻めマップにある高峯物見が立地している筈だけど…何処だか判らん。









