細萱氏居館(殿村館・城内・内ぼり)
細萱氏居館(殿村館・城内・内ぼり)([小岩嶽城 周辺城郭])
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細萱氏居館(殿村館・城内・内ぼり)の口コミ情報
2024年07月19日 内記かずりヾ(・ε・。)
細萱氏居館(殿村館・城内・内ぼり)は小岩嶽城の南東約7.7km、万水川南岸(右岸)、標高約533mの平野部平場に立地した居館です。
行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車は隣接する殿村公民館に捨てられる。ちなみに「殿村」は小字であり、文字通り殿が住した村を表す。信濃ではよく見られる地名だ。
築かれた年代は不明、お住まいになられていた方は細萱氏です。該地の細萱は矢原庄に属するが、時代不明なるも同庄の在地荘官(庄司)と推測されているのが大伴氏流の同氏である。細萱氏は信濃十六牧の一つ、猪鹿牧(いがまき)の別当でもあったらしい。又、安曇氏の衰退後には、有名な穂高神社の大旦那を引き継いだとされる。
細萱氏は、天明十五年(西暦1483年)二月三日、「三宮穂高社御造営日記」に、「大旦那盛知(細萱)、政所矢口通、執事長光寺覚朝」とあるのが文書上の初見、続いて、長享三年(西暦1493年)二月一日、大伴盛知(細萱治部少輔盛知)が、穂高神社式年造宮課役を安曇郡の諸郷に充てている。中世には仁科氏の被官化が決定的だが、同名に含まれる「盛」の通字に注意されたい。
武田氏時代においても仁科氏被官衆の一氏であり、天正八年(西暦1580年)八月朔日、等々力次右衛門宛、仁科盛信書状には、「一細萱河内守(長知)、同心、被官召連、十九ニ当府へ参着尤候、」とあり、仁科盛信は、細萱河内守長知に、同心、被官を召し連れて八月十九日に当府(大町)へ参着するよう指図している。長知が仁科家中において同心を従える身分であった事に注意されたい。
武田氏の滅亡後には、府中を回復した小笠原貞慶に従っている。天正十四年(西暦1586年)九月十八日、榛葉但馬守宛、小笠原貞慶書状には、「今度、越府へ指立候衆、上下共ニ、榛葉但馬守、細河(細萱河内守)両人指図次第、可走廻候、少も如在之輩ハ、両人加成敗候共、下知候間、不可有異儀者也、」とあり、小笠原貞慶は、榛葉但馬守、細萱河内守長知に、越府(春日山)へ出立する人数は上下共に両人の指図次第である事を確認させ、従わない輩を両人が成敗しても、この間においては異議を差し挟まない旨を伝えている。小笠原氏時代の長知が、外地へ人数を纏めて引率出来る身分であった事に注意されたい。
細萱氏は、小笠原氏時代、その跡を受けて松本を領した石川氏の時代にも様々な足跡を各地に残している。天正一三年(西暦1585年)二月十日には、細萱河内守長知が、安曇郡内、満願寺に同郡、牧の地(現安曇野市穂高牧)の阿弥陀地を寄進、天正十九年(西暦1591年)八月十三日には、河内守長知が、安曇郡青木郷の課役を定めている。又、慶長元年(西暦1596年)七月一日には、河内守長知が、安曇郡内、仁科神明の式年造宮を行い、是日、遷宮を行なっている。この際の仁科神明宮所蔵の木造棟札には、「本願河内守大伴朝臣長知」とその名が見える。
小笠原氏時代には郡奉行に相当する身分にあり、同氏の関東移封後には在地に留まり、松本を領した石川氏に出仕、引き続き郡奉行の立場にあったものと推測される。しかし後にはその役割を次第に石川氏の家臣、青木氏や渡辺氏に譲ったとされ、当初は連名だった文書等にはその名が見られなくなる。又、度重なる松本藩藩主の交代により在地勢力である細萱氏は必然的に凋落、単なる郷士格の身分から最終的には帰農した。
居館の現況は白眉だろう。よくぞ残っていてくれたと誰もが思う筈…当然、後世の改変もある訳だが、居館地を囲む空堀が北西隅を除いて健在、一部に土塁の残欠も確認出来る。大手筋は西側で、「構え」、「西番場」等の地名が残り、居館地の四囲は方一町の範囲で小路を形成、「西小路」、「南小路」は、一族、被官衆等の屋敷地であった。又、堀は万水川から引水されていたとも。ちなみに小笠原氏家臣、岩岡織部が記した「岩岡家記」には、天正壬午の乱の際に数十人が籠ったとする記述があるんだそう。
最近まで豊科町の指定史跡であったようだが、該地には一族の後裔の方が今もお住まい。希望により現在は(安曇野市の)指定史跡を解除されている。訪ねる際には所有者と必ず接触する事、気持ちよく対応して頂けるので無用のトラブルだけは避けるようにしよう。
※無名とはいえ細萱氏は比較的に史料に恵まれた氏族である。調べていて楽しい。ちなみに猪鹿牧の別当であった事が事実ならば、相当に古い時代から安曇郡に住していた事になる。
※写真⑦は要るのか知らんけど北方から撮影した近景っす。安曇野市ではよく見られる屋敷林だ。
※写真⑧はお花分野への進出を念頭に撮影したそこら辺に咲いていたなんちゃら花っす。