堀之内館(城の平)
堀之内館(城の平)([小岩嶽城 周辺城郭])
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堀之内館(城の平)の口コミ情報
2025年08月15日 内記かずりヾ(・ε・。)
堀之内館(城平)は小岩嶽城の北北東約10.1km、高瀬川東岸(左岸)、町川東岸(左岸)、標高約658mの丘陵台地上平場に立地した居館です。該地の大字はずばり「池田堀の内」だ。
行き方はGoogleマップに位置登録されている「堀之内集落センター」を目標に設定して下さい。この集落センターの裏手、丘陵台地の突端部とその周辺が概ねの該地であり車も余裕で捨てられる。
築かれた年代は不明、お住まいになられていた方には堀之内氏が推測されている。同氏の詳細は殆ど不明だが仁科氏の分流である。
該地の堀之内は安曇郡矢原庄内池田郷に含まれる。「(蜷川)親元日記」、寛正六年(西暦1465年)五月十九日の条には、「仁科(持盛)方へ御状、野依主計奉之 御同名堀内七郎殿知行分矢原庄池田郷内堀内事、彼伯父若狭入道殿依押領、既流牢之由候、不可然候、事實者、速被返付之、知行無相違之様、御籌策可廻候、恐々、」とあり、同年五月十八日、仁科持盛宛の幕府奉書がそのままに書かれている。この書状は、御同名(仁科)堀内七郎の知行地、矢原庄池田郷内堀内が伯父の若狭入道に押領され、既に七郎が流牢している事に対して、事実ならば速やかに返付させるよう方策を廻らす事を持盛に求めるものであり、矢原庄池田郷内堀内が仁科氏の一族、堀内七郎の知行地であった事が判る。
「信府統記」には、「池田町ヨリ卯(東)の方五十間(約90.9m)ニアリ、本城ノ平南北三町三十六間(約392.5m)東西三町十間(約345.2m)今ハ畑ニナル、城主知レズ。」とあり、この堀之内が一村に及ぶと言っても決して過言ではない相当な広範囲であった事が判る。推測するに、居館地、各屋敷地、町屋等を内包した堀之内であろうか。
居館の現況は…田地、畑地、空地、一般住宅地等となっている。まず、堀之内の範囲が不明であり、該地の狭小な舌状台地の突端部に残る「城山」の小名が残る場所を中心にして探索の手を広げるしかない。但し、この城山が堀之内の何処の部分に当たるのかが判らない…個人的には南西隅に近い場所と判断したがどうなんだろう。城山の西側には「古屋」の屋号を持つ一般住宅が建っており或いは更に広がりがあるのかもしれない。堀之内の中心地は城山の北側後背地の台地上が推測されているが、後世、開墾された事により旧態を失い城郭遺構は完全消滅、往時を想像する手立てすら無くなっている。
城山からの展望がすこぶる良い。推測するに物見の場、櫓台でも置かれていたのであろうか。安曇野の美しい田園風景(夏場の時期がベストだ。)が一望出来る他、標高2857mの常念岳の前衛山稜、標高2268.3mの有明山が良く見える。
※堀之内館を応永年間(西暦1394年〜1428年)に築城されたと伝わる池田山城(伝承しか残らない。)に比定する向きもあるが…限り無く可能性は低いだろう。
※「親元日記」〜執筆者は蜷川親元、通称は新右衛門、幕府政所執事代を務めた。アニメの「一休さん」に登場する蜷川新右ェ門は親元の実父、親当がモデルである。ちなみに晩年に出家して智蘊と号した親当と一休宗純とに親交があったのは紛れも無い事実、「親元日記」にはその一端が書かれている。総じて文系な家系だと思われるが格闘家の武蔵は蜷川氏の後裔だ。
※写真⑦、背景に見える山稜が同じ小岩嶽城のリア攻めマップにある花岡城、堀之内氏の要害だと推測されている。口コミは位置に微妙な誤りがあって削除したが楽しめる山城だ。